月と影――ジムノペディと夜想曲

永倉圭夏

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34.狙われた藍

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「今夜お店終わったらあたしんち来てよ」

 サンシーロでブレザー姿の唯が何の気なしといった感じで言う。僕は今日も唯の「唯ちゃんのスペシャルVIP割引券」を餌に釣り出され、こうしてサンシーロのVIPルームに来ていた。

「やだ。明日早いんだ」

 僕はにべもなく断る。どうせまた飲みたいんだろう。唯のわがままを聞いていたら身体がいくつあっても足りない。

「なんでー? コンクールの選曲してよう」

「ああ、うーん、確かにそろそろ決めないとなあ」

「でしょっ。じゃ、アフターってことでよろしく」

「言ってる意味が分からない」

「いいじゃんいいじゃん。外で待っててね」

「今日くそ寒いんだけど」

 結局サンシーロの営業が終わってから僕は店の出入り口から少し離れた冷たい路上で二十分以上も立ち尽くして待っていた。寒くてたまらない。
 すると、僕から離れたところに一人の男性が立っている。確か僕とは別に唯が接客していた40代くらいの客だ。よく覚えている。大きな声でずっと何か楽しそうにわめき散らしていたっけ。それを思い出して僕は少し嫌な気分になった。

 ようやく藍がお店から出てくる。今までも何度かあったがこの出迎える瞬間は秘密の待ち合わせをしているようでドキドキする。藍は僕を見つけると笑顔でこちらに向かって小走りに駆け寄ってくる。
 ところが藍の前をふさぐようにさっきの男が立ちはだかった。二人はたちまち激しい口論となった。僕もその場に駆け寄る。

「いいからこの後来いよ!」

「やだよ! こっちは先約あんだよ!」

 男の怒鳴り声に合わせて藍もすっかり素に戻って怒鳴る。同時にスマホをかけようとした。店に連絡しようとしたのか。

「ふざけんな!」

 男は藍のスマホを払い落とす、スマホは道路上の雪の中に落ちたが駄目になったかもしれない。藍の目が怒りで燃え上がる。
 ようやく二人のいるところにたどり着いた僕は、男と藍の間に立ちはだかった。僕は喧嘩慣れしていない。心臓が高鳴る。緊張は最高潮に達した。

「どけよこのガキ」

 僕は黙ってそいつをにらみつける。本当は声も出せなかった。ただ、藍を傷つけさせるわけにはいかなかった。藍は絶対に僕が守る。
 男が手を振り上げる。いよいよ殴られるかな。と、殴り返し方もよけ方も知らない僕は観念した。すがちゃんの前夫に組み付いた時みたいに、この腕につかみかかれればいいのかもしれないが恐怖で身体が動かない。
 すると僕の陰に隠れて男の後ろに回り込んだ藍が飛びかかってそいつの腕を思い切りねじり上げる。

「いててててっ!」

 叫ぶ男に対して藍がどすの利いた声でつぶやく。こんなおっかない藍の声は初めて聞いた。

「こいつに手え出すんじゃねえよ。まじで腕折るぞ。いいかっ、脅しじゃねえからなっ」

 その気迫に負けた男は痛みに顔をゆがめ、すっかり威勢を失くす。

「いててっ、わかったわかった! わかったから! 痛い痛いっ! 折れる折れる! マジで折れる!」

「尻尾巻いてとっととおうち帰んなおっさん」

「覚えてろよ唯! ただじゃ済まさねえからな!」

「どうせあんたもう出禁だから関係ないね」

「警察呼ぶぞっ」

「どうぞどうぞ、あんたが出待ちしてあたしになにしようとしてたかもちゃんと警察に言うんだぞ。強要? それとも暴行?」

 男が舌打ちをして文字通り尻尾巻いて逃げ帰った後、藍が心配そうな顔をしてこっちを向く。

「大丈夫? 怪我してない?」

「藍の方こそ大丈夫か?」

「ん、余裕。あいつヘタレで助かったよ」

「こういうことよくあるのか」

「あるわけないじゃん。結構大ごとだよ」

 くるっと百八十度回転して僕に背中を見せる藍。

「あーあ、あたしもうここ追い出されちゃうのかなあ。いい稼ぎだったんだけど」

「でもとにかく藍が無事でよかった」

「奏輔の方こそ何もなくてよかった。ほんとよかったよ」

 藍はまたくるんと百八十度回転してこっちを向くなり僕の胸にストンと収まった。僕は藍の背中を抱く。藍の背中は微かに震えているようだった。僕が藍の頭を撫でると、藍は少しだけ力を入れて僕に抱きついた。
 藍に守られた不甲斐なさが、藍を守りたい気持ちに変わっていく。僕は藍に必要とされる人間になりたい、そう強く思う。
 藍のスマートフォンは積もったばかりの雪がクッションになっていて無事だった。

 サンシーロから藍のアパートの部屋に帰ってきたはいいものの、僕たちはどこか上の空で選曲どころではなかった。結局話題はさっきの騒動についてのものになる。僕は隣の藍に詫びた。

「その…… なんの役にも立たなくてごめん」

「えっ? そんないいって。別に期待なんてしてなかったしさ」

「そう言われるとキツいな……」

「あははは……」

 両手を頭の後ろにやって天井を見ながら僕はぼんやりと口にする。

「僕は藍にとっていらない人間なのかもな」

「えっ」

 藍は驚いた顔をした。

「んっ? いやだってほら僕はいっつも藍に引っ張られてばかりの気もするし、なんていうかこう、『おまけ』みたいな気がしてさ」

「そんなわけないよ」

「えっ」

 強い口調の藍の言葉に今度は僕の方が驚いて藍を見る。藍は怒った顔をしていた。

「奏輔は『おまけ』なんかじゃない。あたしにとって誰よりも必要な人間だよ」

「そ、そうか」

「そうだよ」

 ふてくされたような顔をして言葉を吐き出す藍。だけど、僕には今一つ信じられなかった。
 そのあと藍は何か言いたそうにしていたが、ふいっと立ち上がって台所に行く。そして機嫌の悪そうな顔で安酒の大きな酒瓶とグラス二つを持って戻ってきた。

「どうするんだ」

「飲むの」

「おいおい、選曲はどうするんだ」

「明日は明日の風が吹く」

「明日のことよりまずは今日のことを考えろよ」

「今日はもう酒盛りの気分」

「話が違うだろ」

「その話は飲みながら。氷持って来る」

 たっぷりと注がれたウィスキーのロックで乾杯する。

「大体、奏輔が変なこと言うからだよ」

「変なこと言ったか? 僕」

「そうだよ。『僕はいらない人間だ』とか『おまけ』だとかさ」

「そんなに変なことだったか」

「すっごい変」

「すまん」

「もう二度とそんなこと言わないで」

「ああ、わかった」

「あたしにとってあんたは……」

「なんだって?」

「なんでもないっ、ほらもっと飲みなっ」

「あ、ああ」

 そうして注がれるままに僕はウイスキーを飲み、大いに酔った。挙句酔いつぶれた僕は藍の部屋で一夜を明かす。
 真っ暗な部屋の中で横になった僕に藍が毛布を掛けてくれた。その時、意識もうろうとした僕の耳元で藍が何事かささやいたが僕はそれを聞き取ることができなかった。

◆次回
35.コンクール
2022年5月5日 21:00 公開予定
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