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43.涙
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早朝に藍からメッセージが飛んできて僕は飛び起きた。その内容は僕のしでかしたことやそれについての謝罪について直接の言及はなく、かつなんだか藍らしくないシンプル過ぎるものだった。
「今日の午後空いてたら五稜郭タワー前で待ってて」
いつもなら顔文字などなくとも画面から元気が飛び出してくるような文章なのに。やはり昨夜僕がしたことのせいだろうか。僕は胃が重くなるような罪悪感に苛まれながらもやはりシンプルに「わかった」とだけ返信した。この間雪華コンクールの結果発表が出たばかりなのにもかかわらずやけに淡泊な内容だ。まだまだもっとはしゃいでいてもおかしくないはずなのに、僕のしたことがよほどショックだったんだろう。僕はバイトをしている最中も何か不穏なもの、腹の底にずしりと落ちる重たい異物感のようなものを感じていた。なんだろう、何か嫌な予感がする。
この季節にしては信じられないほどひどい雪だった。僕はその雪に降られながら指定された時間に五稜郭タワーに行く。果たしてそこの入り口には藍が待っていた。こんな藍の表情はこれまで見たことがない。意図の読み取れない曖昧で静かな笑みを見せて静かに僕に文句を言う。
「もお、『待ってて』っていったじゃん。あたしを待たせてどうすんの」
遅刻魔の藍が定刻に来るのは初めてのことかもしれない。僕はとっさに言い訳をした。
「す、すまん。バイト長引いて」
「まいいや、行こ?」
「ああ」
藍の様子は明らかにおかしい。僕を目の前にしたときのいつもの弾けるような明るさがまるでない。一階のアトリウムでは地元の交響楽団がシベリウスの交響詩、トウォネラの白鳥Op.22-2を演奏していた。その沈鬱とした響きが僕には気持ちをさらに重たくさせた。僕たちはこの演奏を無視して無言でエレベーターに乗りタワーの最上階を目指す。
夕刻も迫りつつあるそこから見える景色は白とも灰色ともつかぬ色だった。季節外れの粉雪が風にあおられ吹き荒れている。天気予報によるとこの季節としては観測以来記録的な降雪と強風が見込まれると言う。鈍色の雲は低く垂れこめ、鬱鬱とした風景にさらに暗い印象を与える。眼下に広がる城址とその周辺ではライトアップがされているものの、斜めに降りしきって逆巻く雪のせいで小さく頼りなげな灯りがぽつぽつ灯って見えるばかりとなっていた。街灯りも雪にかき消され、まるでここだけが人の住む世界であるかのような錯覚を覚える。観光客もほとんどなく一様に表情が暗い。
「なんか暗いね」
苦笑する藍。
「うん」
僕らは灰色の街と吹きすさぶ雪とお城の弱々しいライトアップを眺めながら呟いた。二人とも黙って外を眺める。しばしの沈黙ののち僕の方からまず口を開いた。
「すまなかった」
「え?」
藍は少し驚いたような顔をした。
「何が?」
今度は少し責める様な顔になる。
「あ、その、不意打ちで …………キス、したこと」
ぶっきらぼうに答える藍。
「なんで謝んだよ」
「いや、その、傷ついたと思って」
「謝られる方がずっと傷つくんだよ」
「えっ」
藍のその考え方はよく分からなかった。藍は怒った顔で言う。
「あたしはちょっと驚いただけだから」
「ちょっと?」
「うるさい。あれでちょっとなの」
顔を逸らし下を向く。そして何か口ごもる。
「だって……」
しばらく間をおいてぽつりと呟くように口を開く。
「初めてだったし……」
「あっ……」
僕もだった。今になって藍の唇の感触を思い出し顔が熱くなる。
「ぼ、僕もだ……」
「そうなんだ」
藍は無表情に窓の向こうの真っ暗な景色を眺めながら感情のない声を出す。
「奏輔さ」
「うん」
「ほかに女がいるんじゃないかと思ってたからさ」
僕はぎょっとした。
「……なんでそう思うんだ」
「結構あたしを避けてどこか飲みに行ってるみたいだったから」
その通りだ。僕は藍に知られぬように冨久屋へ通っていた。妙子さんに会うために。
「あと、あたしに触られるの嫌がってたからね。それに奏輔の部屋急にきれいになって冷蔵庫の中も充実したり、まあ色々……」
僕は藍の観察眼に改めて驚いた。
「ねえ、どうなの?」
藍は詰め寄るでもなく責めるでもない口調だった。手すりを掴み、今度はどんよりとした夕暮れのライトアップを見下ろす。
「女」。妙子さんは、僕とそう言った関係なのだろうか。僕の「女」だと言うような存在なのだろうか。僕にはそう言う気にはなれなかった。
「そこまでの関係ではないと思う」
僕が喉から声を絞り出すと、藍は何でもないように窓の外を眺めながら言う。
「ふうん」
長い沈黙が流れる。僕にとってはいたたまれない時間だった。
「じゃ、どうすんの?」
「あ、うん……」
僕の頭は混乱していた。あのコンクールの演奏で幻を見て以来僕の心は藍に強く惹かれつつある。だがここまで献身的に僕を支えてくれた妙子さんを捨てるなど僕にできようはずもない。
「わからない…… わからないんだ…… 考えても考えても答えが出ないんだ……」
本音とは言え僕は最低最悪の泣き言を口にしてしまった。
「藍、僕はどうすればいい。僕はもう僕のわがままで誰かを傷つけたくないんだ」
藍は呆れたような苦笑いをする。
「正直だね……」
しばらく沈黙が続く。また藍の方から口を開いた。
「じゃ、奏輔さ……」
「うん?」
「こないだも話したことだけど、復学して卒業したらどうすんの?」
藍が手すりに肘をかけ小さい声で言う。いよいよこれが本題か。
「できるならまたここに戻って来るつもりだ」
「ここにはどれぐらいいるつもり? ずっと?」
「それはまだ決めてない」
「あのさ、あたしモスクワ行くじゃない」
「そうだな」
「ここの空港で十二日の最終便チケット買った」
「そうなんだ」
そうか、やはり藍はモスクワへ、僕には決して手の届かぬ世界へ旅立っていくのか。そう思うと僕はまたひどく寂しい感情が湧き上がってきた。藍には僕の手の届く世界にいて欲しかった。救い難い我がままだ。
「うん。そうなの。でさ……」
一瞬息を止める藍。一気に息を吐き出すように言う。
「あたしと一緒に来ない?」
意外な提案だった。僕はよく呑み込めない。
「僕が? モスクワに? 藍と?」
「そう。奏輔が、モスクワに、あたしと」
全く表情をあらわにせず、吹雪を眺めながらこともなげに言う藍。
「どう?」
「どうって……」
僕が、藍と暮らす。生きていく。それは理想的に思えた。同じく音楽と関わる生き方。片や演奏家として、片や作曲家として。
だが僕の右手が鈍く疼く。もうピアノを弾けなくなった僕は藍のピアノを聞くだけで、彼女の人並外れた演奏を聴くだけで胸が張り裂けそうになる。もう永久にピアノが弾けない自分と藍を比較し僕は絶望する。彼女と生きていくということは、その苦痛と絶望を常に胸に抱き続けないといけないことを意味している。果たして僕はそれに耐えられるだろうか。
それだけではない。僕の脳裏に妙子さんの顔が浮かぶ。手を怪我した僕の拙い演奏に心から感激と感謝をしてくれる人。それは温かく、そして優しい。妙子さんと会ってももう僕の右手の傷が疼くことももうない。それだけじゃない。長さんや竹田さんや田中さんや、色々な人の顔が浮かぶ。これらの人々との心安らぐ繋がりが今の僕を支えてくれている。そしてまた妙子さんの穏やかで優しい表情が浮かんだ。
「どう?」
藍が再び問う。顔はこちらに向けずに。高くきれいな鼻の横顔。相変わらず何を考えているのか全く分からない。
「それは……」
僕は目を閉じ、想いをまとめる。そして目を開く。
「それは?」
「それはすっごく魅力的な提案だ」
「えっ?」
ずっと僕から視線を外して灰色の景色を見ていた藍は、意外そうな顔をしてはじめてこちらを見る。
「だけどそれはできない。できないんだ……」
気が付くと僕は手すりを力一杯握り締めていた。
「なんだ、答え出てんじゃん。そか、まあそりゃそだよね。分かった」
顔を窓に戻し無表情に近い顔でぼそりと呟く藍。僕は何かひどく悪いことを言ってしまったような気がして罪悪感に囚われる。
確かに藍が言った通り答えは出ていたんだ。だけど、なんだろう、この途轍もない喪失感と違和感は。まるで僕自身が失われていくような喪失感は。
「すまん」
すまない。それでもやっぱり僕は妙子さんを裏切れない。
「べっ、別にすまなくなんかないよ」
藍は少し口を尖らせて鈍色の下界を眺めている。
「まあ、そう言うとは思っていたからさ」
「……」
胸が空洞になったような気がする。僕は何も考えられず、藍に何と言葉をかければいいか分からなくなってしまった。しばしの沈黙が流れる。
「あたし……」
「うん」
「その女に会ってみたいな」
僕はぎょっとした。そんなことをしたら藍が妙子さん相手に大立ち回りをしてしまうのが目に見えている。
「それは……」
「じゃどんな女?」
「飲み屋の従業員で五つ上のバツイチ」
「……なにそれ。ありえない。全然想像がつかないんだけど」
「自分でも不思議だ」
「あたしの方がずっといいと思うんだけどな」
ぽつりとつぶやく藍。その声はひどく寂しそうだった。
「それについては済まない。誤解を招くような真似をした」
「そうだね」
藍の目がキラッと光る。藍の顔から微かに表情らしいものが浮かぶ。
「知ってたんでしょ…… あたしの気持ち」
藍は身体を起こしこちらを向く。さっきまでの無表情とは違って泣きそうな、それでいて怒っているような顔を見せる。
「ねえ、知ってたんだよね、あたし、奏輔が好きだってっ」
藍の大声が展望フロアに響き渡る。藍は真っ赤な顔をして僕に食って掛かる。僕に詰め寄る。怒る時でも藍は距離が近い。
「あたしだってべたべたしたのは悪かった。悪いやり方だったと思う。でもだからって…… だからってさ! それって結構ひどいよねっ! ずっと黙って他の女ともよろしくやってたんだよね! 挙句あたしにキスしてきてさ! なに? 二股狙ってたとか? 天秤にかけてたとか?」
「違う、違うんだそういうつもりは全然なかったんだ。でもそう思われても仕方ない。すまん」
「分かってる、分かってるよ。あたしってもの分かりいいから! 奏輔がそんな奴じゃないことくらい知ってる! 単に決断力のない優柔不断なふにゃふにゃしたやつなんだって分かってるよ。あたしにキスしたのだって気の迷いだって分かってる! でもさ、だったらどうすればあたしのこの気持ちは収まるんだよ…… ねえ、これどうしてくれんだよ!」
僕は今にも泣き出しそうな藍をふと抱き締めそうになったが、そんなことをしたら余計に藍を傷つけるだけだ。そうしていいのは妙子さんを捨てて藍を選ぶと決めた時だけだ。そしてそんな安易に宗旨替えをするようでは僕には誰も愛する資格はない。
「そもそもおかしいじゃん五つも上のバツイチってさ。あり得ないじゃん。マジかよ。騙されてんじゃないのかよ」
「あの人はそういう人じゃない」
「はい定番のセリフ。そういう奴じゃない証拠ってあんの」
「僕が手を怪我した時、本当に親身になってくれた」
「怪我……? 怪我って…… あっ……」
何かに気付いた藍が髪をかき上げながら震えた声を出す。
「まさか、まさかさ…… その手の怪我って、前の夫に刺されそうになった『妻』を庇ってって言ってたよね…… ねえ…… じゃあそれって……」
「ああ、その時の『妻』だ」
藍は突如爆発した。
「馬鹿野郎! 自分の人生台無しにした当事者となによろしくできちゃってんだよ! それこそおかしいだろ! お前なんとも思わないのかよっ! 悔しくないのかよっ!」
怒りで尋常じゃなく目をぎらつかせた藍の大声は最高潮に達しもはや絶叫に近かった。数人の観光客が僕たちの喧嘩、と言うか僕が一方的になじられているのを眺めことの成り行きを見守っている。
僕は激発する藍を目の前にしてむしろ逆に冷静さを取り戻した。
「あの人に罪はない」
「信じられない。どんだけお人好しなのあんた? それともガチで馬鹿なの?」
「両方だと思う」
「それにいくら証拠証拠って言ったってさ、結局そんなのわかんないじゃん。その女だって奏輔みたいな男手ぐすね引いて待ってたんじゃないの? 新しい男が欲しくて。そこに五つも年下でこんな騙されやすくて優しいだけが取り柄の奏輔がのこのこ現れたもんだから――」
「彼女のことを悪く言うな!」
さっきまでの冷静さはどこに行ったのか突如怒りが僕の頭の中で煮えたぎる。初めて藍に見せる怒りの表情。藍は一瞬たじろいだ。
「僕のことはいくらでも言っていい。それは僕自身の問題だから甘んじて受ける。だがあの人のことは悪く言うな。お前にその権利はない」
「権利なんてそんなの知らない! 奏輔ってばいいようにあしらわれてるだけだって! 騙されてんだよ! 欲求不満の年よりにもてあそば――」
気が付くと僕の手が勝手に藍の頬を叩いていた。小さくて乾いた音がフロアに響く。頬を押さえ真っ赤になって悔しそうな表情を見せる藍。右の目から一筋の涙が零れ落ちる。初めてはっきりと見る藍の涙に僕は驚いた。
「お、お前…………」
しかたないことを口にする僕をしり目に藍は全速力でエレベーターに乗り込み僕にあっかんべーをしてドアを閉じた。
もう一台のエレベーターに乗って地上に降りても藍はどこにもいなかった。藍のアパートにも行ってみたがいない。藍のアパートでこれ以上は凍え死にしそうになるまで待っていたが藍は帰ってこなかった。結局冨久屋に行って身体を温めてから帰ることにする。
「いらっしゃいませ。今日はなんだか随分吹雪いてますね」
すがちゃんの温かい声が暖かい店内に響く。
「すがちゃん、燗酒とお新香お願いします」
「はあい」
僕とすがちゃんの目が合う。その瞳の光は温かく、人をだますような瞳じゃないことは誰にだってわかるだろう。きっと藍にだって。
すがちゃんの温かい目と、悔しそうな顔をして涙を浮かべていた藍の目が僕の中でずっと浮かんだり消えたりしていた。僕の選択は間違いない。間違いないはずなんだ。なのにどうしてこの二人の目を思うと胸が騒ぐのだろう。僕は何か決定的な過ちを犯している気がしてならない。そのいやな感覚を僕は燗酒で洗い流そうとした。
しかし、これで終わりではなかった。
◆次回
44.藍の想い・奏輔の当惑
2022年5月14日 21:00 公開予定
「今日の午後空いてたら五稜郭タワー前で待ってて」
いつもなら顔文字などなくとも画面から元気が飛び出してくるような文章なのに。やはり昨夜僕がしたことのせいだろうか。僕は胃が重くなるような罪悪感に苛まれながらもやはりシンプルに「わかった」とだけ返信した。この間雪華コンクールの結果発表が出たばかりなのにもかかわらずやけに淡泊な内容だ。まだまだもっとはしゃいでいてもおかしくないはずなのに、僕のしたことがよほどショックだったんだろう。僕はバイトをしている最中も何か不穏なもの、腹の底にずしりと落ちる重たい異物感のようなものを感じていた。なんだろう、何か嫌な予感がする。
この季節にしては信じられないほどひどい雪だった。僕はその雪に降られながら指定された時間に五稜郭タワーに行く。果たしてそこの入り口には藍が待っていた。こんな藍の表情はこれまで見たことがない。意図の読み取れない曖昧で静かな笑みを見せて静かに僕に文句を言う。
「もお、『待ってて』っていったじゃん。あたしを待たせてどうすんの」
遅刻魔の藍が定刻に来るのは初めてのことかもしれない。僕はとっさに言い訳をした。
「す、すまん。バイト長引いて」
「まいいや、行こ?」
「ああ」
藍の様子は明らかにおかしい。僕を目の前にしたときのいつもの弾けるような明るさがまるでない。一階のアトリウムでは地元の交響楽団がシベリウスの交響詩、トウォネラの白鳥Op.22-2を演奏していた。その沈鬱とした響きが僕には気持ちをさらに重たくさせた。僕たちはこの演奏を無視して無言でエレベーターに乗りタワーの最上階を目指す。
夕刻も迫りつつあるそこから見える景色は白とも灰色ともつかぬ色だった。季節外れの粉雪が風にあおられ吹き荒れている。天気予報によるとこの季節としては観測以来記録的な降雪と強風が見込まれると言う。鈍色の雲は低く垂れこめ、鬱鬱とした風景にさらに暗い印象を与える。眼下に広がる城址とその周辺ではライトアップがされているものの、斜めに降りしきって逆巻く雪のせいで小さく頼りなげな灯りがぽつぽつ灯って見えるばかりとなっていた。街灯りも雪にかき消され、まるでここだけが人の住む世界であるかのような錯覚を覚える。観光客もほとんどなく一様に表情が暗い。
「なんか暗いね」
苦笑する藍。
「うん」
僕らは灰色の街と吹きすさぶ雪とお城の弱々しいライトアップを眺めながら呟いた。二人とも黙って外を眺める。しばしの沈黙ののち僕の方からまず口を開いた。
「すまなかった」
「え?」
藍は少し驚いたような顔をした。
「何が?」
今度は少し責める様な顔になる。
「あ、その、不意打ちで …………キス、したこと」
ぶっきらぼうに答える藍。
「なんで謝んだよ」
「いや、その、傷ついたと思って」
「謝られる方がずっと傷つくんだよ」
「えっ」
藍のその考え方はよく分からなかった。藍は怒った顔で言う。
「あたしはちょっと驚いただけだから」
「ちょっと?」
「うるさい。あれでちょっとなの」
顔を逸らし下を向く。そして何か口ごもる。
「だって……」
しばらく間をおいてぽつりと呟くように口を開く。
「初めてだったし……」
「あっ……」
僕もだった。今になって藍の唇の感触を思い出し顔が熱くなる。
「ぼ、僕もだ……」
「そうなんだ」
藍は無表情に窓の向こうの真っ暗な景色を眺めながら感情のない声を出す。
「奏輔さ」
「うん」
「ほかに女がいるんじゃないかと思ってたからさ」
僕はぎょっとした。
「……なんでそう思うんだ」
「結構あたしを避けてどこか飲みに行ってるみたいだったから」
その通りだ。僕は藍に知られぬように冨久屋へ通っていた。妙子さんに会うために。
「あと、あたしに触られるの嫌がってたからね。それに奏輔の部屋急にきれいになって冷蔵庫の中も充実したり、まあ色々……」
僕は藍の観察眼に改めて驚いた。
「ねえ、どうなの?」
藍は詰め寄るでもなく責めるでもない口調だった。手すりを掴み、今度はどんよりとした夕暮れのライトアップを見下ろす。
「女」。妙子さんは、僕とそう言った関係なのだろうか。僕の「女」だと言うような存在なのだろうか。僕にはそう言う気にはなれなかった。
「そこまでの関係ではないと思う」
僕が喉から声を絞り出すと、藍は何でもないように窓の外を眺めながら言う。
「ふうん」
長い沈黙が流れる。僕にとってはいたたまれない時間だった。
「じゃ、どうすんの?」
「あ、うん……」
僕の頭は混乱していた。あのコンクールの演奏で幻を見て以来僕の心は藍に強く惹かれつつある。だがここまで献身的に僕を支えてくれた妙子さんを捨てるなど僕にできようはずもない。
「わからない…… わからないんだ…… 考えても考えても答えが出ないんだ……」
本音とは言え僕は最低最悪の泣き言を口にしてしまった。
「藍、僕はどうすればいい。僕はもう僕のわがままで誰かを傷つけたくないんだ」
藍は呆れたような苦笑いをする。
「正直だね……」
しばらく沈黙が続く。また藍の方から口を開いた。
「じゃ、奏輔さ……」
「うん?」
「こないだも話したことだけど、復学して卒業したらどうすんの?」
藍が手すりに肘をかけ小さい声で言う。いよいよこれが本題か。
「できるならまたここに戻って来るつもりだ」
「ここにはどれぐらいいるつもり? ずっと?」
「それはまだ決めてない」
「あのさ、あたしモスクワ行くじゃない」
「そうだな」
「ここの空港で十二日の最終便チケット買った」
「そうなんだ」
そうか、やはり藍はモスクワへ、僕には決して手の届かぬ世界へ旅立っていくのか。そう思うと僕はまたひどく寂しい感情が湧き上がってきた。藍には僕の手の届く世界にいて欲しかった。救い難い我がままだ。
「うん。そうなの。でさ……」
一瞬息を止める藍。一気に息を吐き出すように言う。
「あたしと一緒に来ない?」
意外な提案だった。僕はよく呑み込めない。
「僕が? モスクワに? 藍と?」
「そう。奏輔が、モスクワに、あたしと」
全く表情をあらわにせず、吹雪を眺めながらこともなげに言う藍。
「どう?」
「どうって……」
僕が、藍と暮らす。生きていく。それは理想的に思えた。同じく音楽と関わる生き方。片や演奏家として、片や作曲家として。
だが僕の右手が鈍く疼く。もうピアノを弾けなくなった僕は藍のピアノを聞くだけで、彼女の人並外れた演奏を聴くだけで胸が張り裂けそうになる。もう永久にピアノが弾けない自分と藍を比較し僕は絶望する。彼女と生きていくということは、その苦痛と絶望を常に胸に抱き続けないといけないことを意味している。果たして僕はそれに耐えられるだろうか。
それだけではない。僕の脳裏に妙子さんの顔が浮かぶ。手を怪我した僕の拙い演奏に心から感激と感謝をしてくれる人。それは温かく、そして優しい。妙子さんと会ってももう僕の右手の傷が疼くことももうない。それだけじゃない。長さんや竹田さんや田中さんや、色々な人の顔が浮かぶ。これらの人々との心安らぐ繋がりが今の僕を支えてくれている。そしてまた妙子さんの穏やかで優しい表情が浮かんだ。
「どう?」
藍が再び問う。顔はこちらに向けずに。高くきれいな鼻の横顔。相変わらず何を考えているのか全く分からない。
「それは……」
僕は目を閉じ、想いをまとめる。そして目を開く。
「それは?」
「それはすっごく魅力的な提案だ」
「えっ?」
ずっと僕から視線を外して灰色の景色を見ていた藍は、意外そうな顔をしてはじめてこちらを見る。
「だけどそれはできない。できないんだ……」
気が付くと僕は手すりを力一杯握り締めていた。
「なんだ、答え出てんじゃん。そか、まあそりゃそだよね。分かった」
顔を窓に戻し無表情に近い顔でぼそりと呟く藍。僕は何かひどく悪いことを言ってしまったような気がして罪悪感に囚われる。
確かに藍が言った通り答えは出ていたんだ。だけど、なんだろう、この途轍もない喪失感と違和感は。まるで僕自身が失われていくような喪失感は。
「すまん」
すまない。それでもやっぱり僕は妙子さんを裏切れない。
「べっ、別にすまなくなんかないよ」
藍は少し口を尖らせて鈍色の下界を眺めている。
「まあ、そう言うとは思っていたからさ」
「……」
胸が空洞になったような気がする。僕は何も考えられず、藍に何と言葉をかければいいか分からなくなってしまった。しばしの沈黙が流れる。
「あたし……」
「うん」
「その女に会ってみたいな」
僕はぎょっとした。そんなことをしたら藍が妙子さん相手に大立ち回りをしてしまうのが目に見えている。
「それは……」
「じゃどんな女?」
「飲み屋の従業員で五つ上のバツイチ」
「……なにそれ。ありえない。全然想像がつかないんだけど」
「自分でも不思議だ」
「あたしの方がずっといいと思うんだけどな」
ぽつりとつぶやく藍。その声はひどく寂しそうだった。
「それについては済まない。誤解を招くような真似をした」
「そうだね」
藍の目がキラッと光る。藍の顔から微かに表情らしいものが浮かぶ。
「知ってたんでしょ…… あたしの気持ち」
藍は身体を起こしこちらを向く。さっきまでの無表情とは違って泣きそうな、それでいて怒っているような顔を見せる。
「ねえ、知ってたんだよね、あたし、奏輔が好きだってっ」
藍の大声が展望フロアに響き渡る。藍は真っ赤な顔をして僕に食って掛かる。僕に詰め寄る。怒る時でも藍は距離が近い。
「あたしだってべたべたしたのは悪かった。悪いやり方だったと思う。でもだからって…… だからってさ! それって結構ひどいよねっ! ずっと黙って他の女ともよろしくやってたんだよね! 挙句あたしにキスしてきてさ! なに? 二股狙ってたとか? 天秤にかけてたとか?」
「違う、違うんだそういうつもりは全然なかったんだ。でもそう思われても仕方ない。すまん」
「分かってる、分かってるよ。あたしってもの分かりいいから! 奏輔がそんな奴じゃないことくらい知ってる! 単に決断力のない優柔不断なふにゃふにゃしたやつなんだって分かってるよ。あたしにキスしたのだって気の迷いだって分かってる! でもさ、だったらどうすればあたしのこの気持ちは収まるんだよ…… ねえ、これどうしてくれんだよ!」
僕は今にも泣き出しそうな藍をふと抱き締めそうになったが、そんなことをしたら余計に藍を傷つけるだけだ。そうしていいのは妙子さんを捨てて藍を選ぶと決めた時だけだ。そしてそんな安易に宗旨替えをするようでは僕には誰も愛する資格はない。
「そもそもおかしいじゃん五つも上のバツイチってさ。あり得ないじゃん。マジかよ。騙されてんじゃないのかよ」
「あの人はそういう人じゃない」
「はい定番のセリフ。そういう奴じゃない証拠ってあんの」
「僕が手を怪我した時、本当に親身になってくれた」
「怪我……? 怪我って…… あっ……」
何かに気付いた藍が髪をかき上げながら震えた声を出す。
「まさか、まさかさ…… その手の怪我って、前の夫に刺されそうになった『妻』を庇ってって言ってたよね…… ねえ…… じゃあそれって……」
「ああ、その時の『妻』だ」
藍は突如爆発した。
「馬鹿野郎! 自分の人生台無しにした当事者となによろしくできちゃってんだよ! それこそおかしいだろ! お前なんとも思わないのかよっ! 悔しくないのかよっ!」
怒りで尋常じゃなく目をぎらつかせた藍の大声は最高潮に達しもはや絶叫に近かった。数人の観光客が僕たちの喧嘩、と言うか僕が一方的になじられているのを眺めことの成り行きを見守っている。
僕は激発する藍を目の前にしてむしろ逆に冷静さを取り戻した。
「あの人に罪はない」
「信じられない。どんだけお人好しなのあんた? それともガチで馬鹿なの?」
「両方だと思う」
「それにいくら証拠証拠って言ったってさ、結局そんなのわかんないじゃん。その女だって奏輔みたいな男手ぐすね引いて待ってたんじゃないの? 新しい男が欲しくて。そこに五つも年下でこんな騙されやすくて優しいだけが取り柄の奏輔がのこのこ現れたもんだから――」
「彼女のことを悪く言うな!」
さっきまでの冷静さはどこに行ったのか突如怒りが僕の頭の中で煮えたぎる。初めて藍に見せる怒りの表情。藍は一瞬たじろいだ。
「僕のことはいくらでも言っていい。それは僕自身の問題だから甘んじて受ける。だがあの人のことは悪く言うな。お前にその権利はない」
「権利なんてそんなの知らない! 奏輔ってばいいようにあしらわれてるだけだって! 騙されてんだよ! 欲求不満の年よりにもてあそば――」
気が付くと僕の手が勝手に藍の頬を叩いていた。小さくて乾いた音がフロアに響く。頬を押さえ真っ赤になって悔しそうな表情を見せる藍。右の目から一筋の涙が零れ落ちる。初めてはっきりと見る藍の涙に僕は驚いた。
「お、お前…………」
しかたないことを口にする僕をしり目に藍は全速力でエレベーターに乗り込み僕にあっかんべーをしてドアを閉じた。
もう一台のエレベーターに乗って地上に降りても藍はどこにもいなかった。藍のアパートにも行ってみたがいない。藍のアパートでこれ以上は凍え死にしそうになるまで待っていたが藍は帰ってこなかった。結局冨久屋に行って身体を温めてから帰ることにする。
「いらっしゃいませ。今日はなんだか随分吹雪いてますね」
すがちゃんの温かい声が暖かい店内に響く。
「すがちゃん、燗酒とお新香お願いします」
「はあい」
僕とすがちゃんの目が合う。その瞳の光は温かく、人をだますような瞳じゃないことは誰にだってわかるだろう。きっと藍にだって。
すがちゃんの温かい目と、悔しそうな顔をして涙を浮かべていた藍の目が僕の中でずっと浮かんだり消えたりしていた。僕の選択は間違いない。間違いないはずなんだ。なのにどうしてこの二人の目を思うと胸が騒ぐのだろう。僕は何か決定的な過ちを犯している気がしてならない。そのいやな感覚を僕は燗酒で洗い流そうとした。
しかし、これで終わりではなかった。
◆次回
44.藍の想い・奏輔の当惑
2022年5月14日 21:00 公開予定
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佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。
新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。
「せめて回復魔法とかが良かった……」
戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。
「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」
家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。
「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」
そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。
絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。
これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。
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