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45.妙子と藍
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その翌日、藍が散々引っ掻き回したおかげで僕は常連さんへの釈明に必死だった。妙子さんはカウンターで黙ってそれを聞いていた。冨久屋が引けてから二人で僕の部屋に行き、そこで事情を説明した。きっとわかってくれたと思う。
更に一日が過ぎ、一昨日の騒動が過ぎた今日、妙子さんは先に僕のアパートに行き、僕は冨久屋の後片付けの手伝いをして帰ることになった。
最近の僕は冨久屋の手伝いも頻繁にするようになっていた。長さんへのせめてもの感謝の気持ちだ。僕はさっきまで座っていた客席からカウンター裏に居場所を変えエプロンをかける。
「しかしまあ」
長さんが相変わらずの無愛想な声で言う。
「すっかり夫婦になっちまって」
「あはは……」
苦笑いをするしかない僕。
「一昨日は色々とお騒がせしました」
「いえ。それよりも早く片付けなくていいんですか。一昨日のことまだ色々話すこともあるんでしょう」
「ああ…… そうですね。急いでやります」
僕が急いで冨久屋を出た時分には、月のきれいな夜更けになっていた。
僕のアパートについて異変に気付く。
明かりがついていない。急いで鍵を開けてドアを開ける。室内は真っ暗で冷え冷えとしてだれもいる気配がない。
妙子さんに何かがあった。
そう思い僕は急いで冨久屋方面に向かって走る。僕は全速力以上を出して駆けずり回る。誰かが、何かの目的で妙子さんを連れ出した。僕にはある程度のあたりはついていた。そして最悪の事態にならないことを心の底から祈っていた。「人生潰すくらいの怪我でもしてね」と言った藍の酷薄な微笑が僕の脳裏から離れなかった。させるわけにはいかない。妙子さんに傷をつけさせるわけにはいかない。そして藍を犯罪者にするわけにはいかない。僕のせいだ。これはみんな僕のせいだ。だから僕の身をもってしてでも彼女を止めなくては。
小さな公園の前を走り抜けようとした時、女性の声がするのが聞こえた。僕がそこをのぞき込むと果たして二人の女性が向かい合わせで立っていた。
「あんたじゃあいつを幸せになんかできないって言ってるの。わかる? 音楽は知らないし、バツイチだし五歳差だし釣り合うわけないじゃん。これからのあいつの作曲活動の邪魔にしかなんないの。ねえ、あいつまだ学生だよ。世界は違うは負担掛けるわで、それでいいと思ってる?」
燃えるような激しい目つきで妙子さんを睨む仁王立ちの藍。あいつ、また余計なことをして。
「あの人は、奏輔さんは、それでもいいと言ってくれると信じています。世界が違っていてもかまわないと」
唇を噛んで藍をじっと見つめる妙子さん。
「やだやだ! なにそれ教科書みたいな回答! つまんないなあ! きっと教科書みたいなつまんない人生送ってきたんだね。そういうやつ大っ嫌い……」
「それでも私はそのようなつまらない回答しかできません」
「あたし、そんなつまんない奴に奏輔を渡すわけにはいかないの」
「私だってあなたなんかに奏輔さんを渡すなんてできません」
「偉そうにっ!」
藍が妙子さんに平手を張る。妙子さんは避けもしなかった。
今度は妙子さんが藍に平手を張る。体格の差か藍は少し体勢を崩した。
「年増ッ!」
「ッ!」
藍は妙子さんを罵りながら、妙子さんは無言で平手を打ち合う。僕は二人の姿に呆然としていた。
藍が凄みのある声で言う。
「とにかくさ、責任取んなよ」
「責任……?」
「ああそうだよ奏輔の手えだめにしてあいつの人生壊した責任取れってんだよ!」
吠える藍の声を聞き雷に打たれたように立ち尽くす妙子さん。
藍の平手で姿勢を崩し倒れる。
藍が屈み込んで妙子さんの胸ぐらをつかんで揺する。
「あんたがあいつの周りをうろついたばっかりにあいつはしなくていい怪我しちまったんだよ。なあ、責任取れんのか? 取れないだろ? ああそうだよ、あんた取り返しのつかないことしちゃったんだよ! わかってんのかよ!」
「取ります……」
「ああ?」
「あの人が私のせいで人生を潰されたのなら、私が、私が自分の人生の全てを捧げることで贖います!」
「わけわかんないこと言ってんじゃねえよ!」
藍が渾身の力で平手を張る。そしてわななきながら呻く。
「じゃああんたあいつにもう一度ピアノを弾かせることができるのかよ…… 今まで通りにピアノを弾かせることができるのかってんだよ…… 誰にだって弾けないようなあいつだけのピアノをもう一度あいつに弾かせてやることができるのかよ…… あたしと最後に弾いたシューベルトの幻想曲のようなさ…… そんなのできるわけねえだろ! あいつの手はもう元に戻りゃしねえんだよ! あんただって判ってんだろ! もう元通りになんかなんねえんだ! どうしてくれんだ! ほんとに何て事してくれたんだよ!」
藍は掴んだ妙子さんの胸倉をがくがく揺らしながら涙をぼろぼろ流していた。そして藍に首根っこを掴まれたまま妙子さんはゆっくり立ち上がる。
「私は、ピアノのことはわかりません。音楽のことはわかりません。奏輔さんの奏でるジムノペディが苦しくてきれいな曲で、亜麻色の髪の乙女はどこか寂しげな音がするくらいしかわかりません。音階だって全然知りません。だから、だから私は私のできることで償っていくんです。それしかできないんです! 出来ないことをいくら叫んだって何も変わらないんです! あなたみたいに、叫んで奏輔さんの手が元通りになるって言うのなら! 私喉から血を吐いて、この喉が潰れて声を失うまで叫びます!」
藍のセーターの襟首を両手で掴んで引き寄せる妙子さん。
「ぐっ、なんだと……」
「今の奏輔さんは新しい道を見つけてそこを進もうとしています。だのにあなたは! おんなじところをぐるぐる回って泣き喚くばっかりで!」
藍の襟首をつかんで激しく揺さぶる妙子さん。彼女がこんなに激しい感情を表すのは初めて見る。僕は妙子さんと藍の勢いに飲まれ完全に気圧されてしまって身動きもできない。
「うっせえ! お前になんか何がわかる! あたしが失ったものの大きさ! 奏輔の手、奏輔の旋律、奏輔への恋! 何もかも、何もかも何もかもなくなって!」
「それでも前を向いて歩かなくちゃいけないの!」
「前……」
「奏輔さんは以前自分は音楽から逃げていたと言っていました。でも今は演奏から作曲と方向を変え音楽と向き合っています。あなただって、あなただってそうじゃないんですか!」
意表を突かれた藍は一瞬言葉を失い、呆然と誰に言うでもなく言葉を吐き出す。
「……! あたし、奏輔に決まり事から逃げてるって言われた…… だから練習を一からやり直した。それでコンテストで金賞獲れた……」
「私はDVをする夫から逃げていました。結局離婚することになりましたが、今はあの人のために生きようとして新しい生活があります」
「ちっ」
「悔しいことだと思いますが奏輔さんの手はもう治りません。あなただって今言っていたじゃないですか」
「よくぬけぬけとそんなこと言えるな。お前のせいだろ!」
「誰のせいだろうとその事実を乗り越えないとみんな苦しいままです。奏輔さんだって平気な顔をしていますが、一番つらいのは奏輔さん自身だと思います。あなた以上に。だって当の本人なんですから」
「あたしより、つらい?」
「その奏輔さんが耐えているのに、あなたが冷静さを失ってどうするんですか」
藍の眼が冷たい怒りをたたえる。
「そんなに人間出来ていないんでね。やっぱり痛い目見させないと気がすまなくなってきた」
「そんな聞き分けのないことを言って奏輔さんを困らせる人は許しません。私だって」
二人は互いに手を離し向き合う二人とも熱く燃え上がった瞳でお互いを睨んでいる。二人ほぼ同時に右手を振りかぶった。このままではいけない。僕はようやく我に返り二人の間に割って入る。
「まてっ待て待て待って!」
「あっ」
「奏輔さん」
僕は妙子さんと藍の間に割って入る。背後には妙子さん、正面には藍がいる。
「じゃま」
凄みのある顔で僕に迫る藍。僕なんかひと睨みで殺せそうな勢いだ。
「私たち今大事なお話をしているんです」
後ろにいる妙子さんの声も緊張感に満ちている。
「いやいや、どう見てもお話なんかじゃなかったぞ、手を下ろして、穏便に穏便に、なっ」
「それがそうもいかなくてさ。あたしそいつシメないともう気が済まないんだよね」
「私だって降りかかってきた火の粉をそのままにするような人間ではありませんので」
「僕に免じて手を引いてくれないか」
「やだね」
藍が僕を睨む。ぞっとするような眼だ。
「じゃあ代わりに僕を殴れ」
「奏輔さん!」
「は? 何言ってんの?」
僕は藍を前にして両手を広げた。
「何もかも僕のせいだ。だから殴るなら僕にしてくれ。頼む」
僕と藍はしばらくにらみ合う。いったいどれほどにらみあっていただろう。すると藍が突然小さなため息を吐いて頭をかいた。眼から憎悪に満ちた輝きが失せる。
「あーあ、まあそうだよね。なんかさ、あたし一人で悪もんになっちゃったな。ちぇっ、つまんないの」
藍は頭をかいて苦笑する。雪の上に堕ちていたニット帽を拾ってはたき、土を落としてかぶる。悲し気で真剣な顔をしてふざけた口調でしゃべる。
「乱暴なことしてすいませんでしたあ。まあ、せいぜい二人で幸せになってください。ほいじゃ」
そう言い捨てた藍。安物のロングコートをひるがえして回れ右するとひらひらと右手を振って公園から出ていこうとする。その肩は確かに震えていた。
「あ――」
僕が藍を呼び止めようと一歩踏み出すと、妙子さんが僕の腕を掴んで止めた。僕が妙子さんを見ると妙子さんは悲しげな顔でゆっくり頭を横に振る。
「呼び止めたら余計に辛いから」
「でも……」
「呼び止めてなんて言うつもり?」
僕には言葉がなかった。
藍は雪混じりのアスファルトに涙をこぼしながらあの寒々とした小さな部屋に帰り、一人泣きながら朝までまんじりともせずにいるのだろう。それを思うと本当にやるせなかった。僕まで涙が浮かんできそうになる。必死に頭を振ってごまかす。
前にも思ったようにやはり僕は決定的な過ちを犯そうとしているのだろうか。それともこれは越えなくてはならない試練なのだろうか。うつむいて物思いに耽る。
そんな僕の横顔を妙子さんは深刻な眼で見つめていた。
◆次回
46.別れのリサイタル
2022年5月16日 21:00 公開予定
更に一日が過ぎ、一昨日の騒動が過ぎた今日、妙子さんは先に僕のアパートに行き、僕は冨久屋の後片付けの手伝いをして帰ることになった。
最近の僕は冨久屋の手伝いも頻繁にするようになっていた。長さんへのせめてもの感謝の気持ちだ。僕はさっきまで座っていた客席からカウンター裏に居場所を変えエプロンをかける。
「しかしまあ」
長さんが相変わらずの無愛想な声で言う。
「すっかり夫婦になっちまって」
「あはは……」
苦笑いをするしかない僕。
「一昨日は色々とお騒がせしました」
「いえ。それよりも早く片付けなくていいんですか。一昨日のことまだ色々話すこともあるんでしょう」
「ああ…… そうですね。急いでやります」
僕が急いで冨久屋を出た時分には、月のきれいな夜更けになっていた。
僕のアパートについて異変に気付く。
明かりがついていない。急いで鍵を開けてドアを開ける。室内は真っ暗で冷え冷えとしてだれもいる気配がない。
妙子さんに何かがあった。
そう思い僕は急いで冨久屋方面に向かって走る。僕は全速力以上を出して駆けずり回る。誰かが、何かの目的で妙子さんを連れ出した。僕にはある程度のあたりはついていた。そして最悪の事態にならないことを心の底から祈っていた。「人生潰すくらいの怪我でもしてね」と言った藍の酷薄な微笑が僕の脳裏から離れなかった。させるわけにはいかない。妙子さんに傷をつけさせるわけにはいかない。そして藍を犯罪者にするわけにはいかない。僕のせいだ。これはみんな僕のせいだ。だから僕の身をもってしてでも彼女を止めなくては。
小さな公園の前を走り抜けようとした時、女性の声がするのが聞こえた。僕がそこをのぞき込むと果たして二人の女性が向かい合わせで立っていた。
「あんたじゃあいつを幸せになんかできないって言ってるの。わかる? 音楽は知らないし、バツイチだし五歳差だし釣り合うわけないじゃん。これからのあいつの作曲活動の邪魔にしかなんないの。ねえ、あいつまだ学生だよ。世界は違うは負担掛けるわで、それでいいと思ってる?」
燃えるような激しい目つきで妙子さんを睨む仁王立ちの藍。あいつ、また余計なことをして。
「あの人は、奏輔さんは、それでもいいと言ってくれると信じています。世界が違っていてもかまわないと」
唇を噛んで藍をじっと見つめる妙子さん。
「やだやだ! なにそれ教科書みたいな回答! つまんないなあ! きっと教科書みたいなつまんない人生送ってきたんだね。そういうやつ大っ嫌い……」
「それでも私はそのようなつまらない回答しかできません」
「あたし、そんなつまんない奴に奏輔を渡すわけにはいかないの」
「私だってあなたなんかに奏輔さんを渡すなんてできません」
「偉そうにっ!」
藍が妙子さんに平手を張る。妙子さんは避けもしなかった。
今度は妙子さんが藍に平手を張る。体格の差か藍は少し体勢を崩した。
「年増ッ!」
「ッ!」
藍は妙子さんを罵りながら、妙子さんは無言で平手を打ち合う。僕は二人の姿に呆然としていた。
藍が凄みのある声で言う。
「とにかくさ、責任取んなよ」
「責任……?」
「ああそうだよ奏輔の手えだめにしてあいつの人生壊した責任取れってんだよ!」
吠える藍の声を聞き雷に打たれたように立ち尽くす妙子さん。
藍の平手で姿勢を崩し倒れる。
藍が屈み込んで妙子さんの胸ぐらをつかんで揺する。
「あんたがあいつの周りをうろついたばっかりにあいつはしなくていい怪我しちまったんだよ。なあ、責任取れんのか? 取れないだろ? ああそうだよ、あんた取り返しのつかないことしちゃったんだよ! わかってんのかよ!」
「取ります……」
「ああ?」
「あの人が私のせいで人生を潰されたのなら、私が、私が自分の人生の全てを捧げることで贖います!」
「わけわかんないこと言ってんじゃねえよ!」
藍が渾身の力で平手を張る。そしてわななきながら呻く。
「じゃああんたあいつにもう一度ピアノを弾かせることができるのかよ…… 今まで通りにピアノを弾かせることができるのかってんだよ…… 誰にだって弾けないようなあいつだけのピアノをもう一度あいつに弾かせてやることができるのかよ…… あたしと最後に弾いたシューベルトの幻想曲のようなさ…… そんなのできるわけねえだろ! あいつの手はもう元に戻りゃしねえんだよ! あんただって判ってんだろ! もう元通りになんかなんねえんだ! どうしてくれんだ! ほんとに何て事してくれたんだよ!」
藍は掴んだ妙子さんの胸倉をがくがく揺らしながら涙をぼろぼろ流していた。そして藍に首根っこを掴まれたまま妙子さんはゆっくり立ち上がる。
「私は、ピアノのことはわかりません。音楽のことはわかりません。奏輔さんの奏でるジムノペディが苦しくてきれいな曲で、亜麻色の髪の乙女はどこか寂しげな音がするくらいしかわかりません。音階だって全然知りません。だから、だから私は私のできることで償っていくんです。それしかできないんです! 出来ないことをいくら叫んだって何も変わらないんです! あなたみたいに、叫んで奏輔さんの手が元通りになるって言うのなら! 私喉から血を吐いて、この喉が潰れて声を失うまで叫びます!」
藍のセーターの襟首を両手で掴んで引き寄せる妙子さん。
「ぐっ、なんだと……」
「今の奏輔さんは新しい道を見つけてそこを進もうとしています。だのにあなたは! おんなじところをぐるぐる回って泣き喚くばっかりで!」
藍の襟首をつかんで激しく揺さぶる妙子さん。彼女がこんなに激しい感情を表すのは初めて見る。僕は妙子さんと藍の勢いに飲まれ完全に気圧されてしまって身動きもできない。
「うっせえ! お前になんか何がわかる! あたしが失ったものの大きさ! 奏輔の手、奏輔の旋律、奏輔への恋! 何もかも、何もかも何もかもなくなって!」
「それでも前を向いて歩かなくちゃいけないの!」
「前……」
「奏輔さんは以前自分は音楽から逃げていたと言っていました。でも今は演奏から作曲と方向を変え音楽と向き合っています。あなただって、あなただってそうじゃないんですか!」
意表を突かれた藍は一瞬言葉を失い、呆然と誰に言うでもなく言葉を吐き出す。
「……! あたし、奏輔に決まり事から逃げてるって言われた…… だから練習を一からやり直した。それでコンテストで金賞獲れた……」
「私はDVをする夫から逃げていました。結局離婚することになりましたが、今はあの人のために生きようとして新しい生活があります」
「ちっ」
「悔しいことだと思いますが奏輔さんの手はもう治りません。あなただって今言っていたじゃないですか」
「よくぬけぬけとそんなこと言えるな。お前のせいだろ!」
「誰のせいだろうとその事実を乗り越えないとみんな苦しいままです。奏輔さんだって平気な顔をしていますが、一番つらいのは奏輔さん自身だと思います。あなた以上に。だって当の本人なんですから」
「あたしより、つらい?」
「その奏輔さんが耐えているのに、あなたが冷静さを失ってどうするんですか」
藍の眼が冷たい怒りをたたえる。
「そんなに人間出来ていないんでね。やっぱり痛い目見させないと気がすまなくなってきた」
「そんな聞き分けのないことを言って奏輔さんを困らせる人は許しません。私だって」
二人は互いに手を離し向き合う二人とも熱く燃え上がった瞳でお互いを睨んでいる。二人ほぼ同時に右手を振りかぶった。このままではいけない。僕はようやく我に返り二人の間に割って入る。
「まてっ待て待て待って!」
「あっ」
「奏輔さん」
僕は妙子さんと藍の間に割って入る。背後には妙子さん、正面には藍がいる。
「じゃま」
凄みのある顔で僕に迫る藍。僕なんかひと睨みで殺せそうな勢いだ。
「私たち今大事なお話をしているんです」
後ろにいる妙子さんの声も緊張感に満ちている。
「いやいや、どう見てもお話なんかじゃなかったぞ、手を下ろして、穏便に穏便に、なっ」
「それがそうもいかなくてさ。あたしそいつシメないともう気が済まないんだよね」
「私だって降りかかってきた火の粉をそのままにするような人間ではありませんので」
「僕に免じて手を引いてくれないか」
「やだね」
藍が僕を睨む。ぞっとするような眼だ。
「じゃあ代わりに僕を殴れ」
「奏輔さん!」
「は? 何言ってんの?」
僕は藍を前にして両手を広げた。
「何もかも僕のせいだ。だから殴るなら僕にしてくれ。頼む」
僕と藍はしばらくにらみ合う。いったいどれほどにらみあっていただろう。すると藍が突然小さなため息を吐いて頭をかいた。眼から憎悪に満ちた輝きが失せる。
「あーあ、まあそうだよね。なんかさ、あたし一人で悪もんになっちゃったな。ちぇっ、つまんないの」
藍は頭をかいて苦笑する。雪の上に堕ちていたニット帽を拾ってはたき、土を落としてかぶる。悲し気で真剣な顔をしてふざけた口調でしゃべる。
「乱暴なことしてすいませんでしたあ。まあ、せいぜい二人で幸せになってください。ほいじゃ」
そう言い捨てた藍。安物のロングコートをひるがえして回れ右するとひらひらと右手を振って公園から出ていこうとする。その肩は確かに震えていた。
「あ――」
僕が藍を呼び止めようと一歩踏み出すと、妙子さんが僕の腕を掴んで止めた。僕が妙子さんを見ると妙子さんは悲しげな顔でゆっくり頭を横に振る。
「呼び止めたら余計に辛いから」
「でも……」
「呼び止めてなんて言うつもり?」
僕には言葉がなかった。
藍は雪混じりのアスファルトに涙をこぼしながらあの寒々とした小さな部屋に帰り、一人泣きながら朝までまんじりともせずにいるのだろう。それを思うと本当にやるせなかった。僕まで涙が浮かんできそうになる。必死に頭を振ってごまかす。
前にも思ったようにやはり僕は決定的な過ちを犯そうとしているのだろうか。それともこれは越えなくてはならない試練なのだろうか。うつむいて物思いに耽る。
そんな僕の横顔を妙子さんは深刻な眼で見つめていた。
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