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50.エピローグ2――藍
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「随分遅かったじゃん。探しに来ちゃったよ」
僕の右隣には相変わらず子供っぽい口ぶりで文句を垂れる奴がいた。Tシャツにデニムといったごくシンプルな服装だった。変装用にメガネとキャップをしている。
「うん、ちょっとね」
「ちょっとなに?」
細い身体にロングヘアーのこいつは詰問口調になる。
「懐かしい店を見つけたんで少し飲んできた」
「えー!」
「ふっ」
「なんでだよ? ずるくない? あたしを置いて? 一人で? どこに!」
「だから懐かしい店だ」
「……」
「なんだ?」
「あたしも飲みに行きたい」
「は? もう帰って寝るぞ 明日のリサイタルどうすんだよ」
「明日は明日の風が吹くのっ。それに奏輔一人にいい思いさせるなんて、なんだか悔しいじゃん」
「……しょうがないなあ、じゃあどっか行くか」
「やった」
「ただし飲みすぎ厳禁だからな」
「ふふっ、あたしの酒の強さ知ってるくせに。奏輔なんか足元にも及ばないよ」
「そういって何度人事不省に陥ったと思ってるんだ。油断大敵だぞ」
「へいへい」
僕たちは桜が咲くまでの短い同棲生活ののち帰郷し、それぞれの自宅に帰った。突然帰宅した僕に家族は目を剥き、嵐のように猛然と小言と説教を浴びせてきた。特に母親が。しかも僕の右手の傷を見せると、卒倒せんばかりの母親の取り乱しようといったら滑稽なほどだった。しかし、この放浪の旅において人生で最も大切なものを手に入れた僕にとってはどうということはない。
藍もおじさまから相当心配されていたようだが「うん、まあどってことなかったよ」とメッセージが来ただけだった。
その年の冬、藍は僕が通う武蔵川音大に難なく合格。僕は復学し二年からやり直すことになった。
大学に入った藍は豹変する。僕が尻を叩くまでもなく練習に精を出すようになっていた。精を出すどころではない、練習の虫と言っていい。その甲斐もあって藍はみるみるうちに驚くほど高いテクニックを身に着けていく。その上達ぶりは目を見張るもの以上だった。
なんでそこまで練習に打ち込むようになったか訊いてみた事がある。すると「努力はピアノの基礎中の基礎だ」と僕から言われたことが大きかったと言った。それにその努力によって新しい山々を見たいとも言う。それに「上手く弾けるようになると楽しいもんね」とも話してくれた。
僕は藍が演奏家として大成する条件を揃えつつあると感じた。
「何考えてるの」
僕たちは二人ですっかり宵闇に閉ざされた函館の街を歩いていた。
「うん、思い出していた。色々」
「色々あったねえ……」
年寄りのようにしみじみと言う藍がおかしくて苦笑いをする。
「そうだな」
「それで、ねえどこ行くの」
「飲み屋街を探して、まだやってるお店があったらそこに行ってみようか」
「うんっ」
藍は僕の腕に腕を絡めてくる。
今の僕は満ち足りていた。あの時の僕の選択は間違っていなかった。藍は今や高名なピアニストとして名を馳せている。妙子さんも苦しみを乗り越え今では幸せな日々を送っていた。僕だってこの若さでひとかどの作曲家としてそれなりにやっている。僕はもう五本の指にも三本の指にも入ろうとは思わなくなっていた。一番大切なものは何か、ようやくそれが分かったような気がする。よかった。本当によかった。
「奏輔?」
「なんだ?」
「ううん、なんだか嬉しそうな顔してる」
「また色々思い出していたんだ。ここでのこと」
「へえ、どんな?」
「藍が熱を出して僕が看病してた時、すっごい甘えてきたなあって」
「えっ」
「それと花火した時のこと」
「えっえっえっ」
「くすっ」
「もう、やめろよ、あの時の話はさ」
「いいややめない、あの時の藍の顔といったら」
「元はといえばおまえが悪いんだからなっ、もうっ!」
「いてっ」
藍は僕のふくらはぎを蹴る。
「おっ、ねえ、ここ入んない?」
「ここ、昔来たことあるな」
「ほんとに?」
僕たちは以前来たことのある居酒屋に入る。コンクール後に藍が深酒をした店だ。
「全然覚えてないんだもんな」
小さい二人掛けのテーブルに座ると僕は言った。
「何を?」
「ここで飲んだ後、藍が部屋で僕にキスしようとして吐いたこと」
「嘘だあ」
「ほんとほんと」
三年生になった藍は、誰にも相談せず一人で世界最高権威を誇るフランチシェク国際ピアノコンクールに応募しようとする。これには二人を除いて皆が仰天した。その二人とは、僕と満石教授だ。満石教授は藍から相談を受け、反政府的言動をしたかどで自宅軟禁中のジュラフスキーから、どうにかこうにかコンクールの推薦状を取り寄せる。それはちょっとしたスパイ小説さながらだった。僕たちは藍の挑戦を面白がった。そして必ずファイナリストとして、さらにはその上位者としてその名を連ねるだろうと確信していた。僕は教授の特命を受け休学し全力で藍のサポートに回る。
最終的に藍はファイナルで堂々二位の成績を収めることができた(一位該当者なし)。
「この季節になると思い出すよ」
「え? 何かあったっけ」
「フランチシェクコンクールの後、藍がいなくなったって、おじさまから大慌てで連絡があった時」
「ああ」
藍は少しばつの悪そうな顔をした。
見た目も言動も印象的な上、国内では現役音大生が入賞したことが人目を引いたのか、藍は引っ張りだこになった。学校でも、TVでも、ラジオでも…… 根っからの自由人である藍はたちまち心と体のバランスを崩し、失踪する。学校でもそれ以外でも大騒ぎとなったが僕は慌てなかった。藍が僕を必要となればまた必ずここに戻ってくる。まだ戻ってこないのは藍の苦しみが癒えていないからだ、と。それよりも僕では藍の苦しみを癒せなかったことが申し訳なく無念でならなかった。僕は長い目で藍を待つことにした。それは無論辛くもあったが、藍を受け入れるための準備を進めるのは悪くはなかった。
一年半後、藍は戻ってくる。ひょうひょうとしたいつもの様子で。僕らは抱き合った。そして僕も作曲家として成功しつつあることを藍に示した。さらに防音室とピアノ付きの家を藍に見せる。そして指輪も。僕は藍に求婚した。藍はそっと僕にしがみ付いて少し泣くと、長い指に指輪をはめ、いつも通りの藍に戻った。その三か月後、僕たちは二人だけの結婚式をひっそりと挙げた。
酒を酌み交わしつつそんな昔話を二人で語り合い、夜は更けていった。さすがにもう帰らないと、とホテルに帰るよう促すと、珍しく藍はおとなしく応じ、店を出る。
外に出ると気持ちいい夜風が僕たちの頬を撫でる。月がきれいだ。
「少し飲み過ぎたんじゃないか」
「そんなことないって。平常運転平常運転」
「ほんとかなあ……」
ほろ酔い加減の僕たちはひと気の少ない通りを並んで歩く。藍がふと空を見上げ感嘆の声をあげる。
「あ」
「なんだ?」
「月がきれい」
藍の声に僕も月を見つめる。
「本当だ、きれいだな」
月明かりに照らされた僕たちは立ち止まって月を見上げる。そういえばあの頃、このようにして僕と妙子さんも月を見上げていた。その記憶に僕の右手の傷が数年ぶりに疼いた。
「聞こえてくる」
「何が」
「奏輔の『月光』」
「下手くそだったろ」
月の光を浴びて目を閉じる藍。
「ううん、そんなことない。すごく良かった…… あれを聞いたからあたし……」
「ん?」
「いや、なんでもない」
ほほ笑んだ藍はそっぽを向いた。
「なんだよはっきりしないなあ」
「はっきりしなくていいんだよ。これはあたしだけの秘密」
「ふうん」
藍の腕が僕の腕にきつく絡みつく。
「……僕も」
「え?」
「僕もあのショパンの夜想曲第19番を聴いた時にきっと」
「きっと何?」
「おっと、ここから先は僕だけの秘密だ」
「えー、何それずるくない?」
「ははっ、おあいこだ」
「もう」
「いてっ」
僕たちは子供のようにじゃれ合いながら月明かりに照らされ大通りを歩んでいた。
― 了 ―
◆次回
51.番外編・咲苗
2022年5月21日 21:00 公開予定
僕の右隣には相変わらず子供っぽい口ぶりで文句を垂れる奴がいた。Tシャツにデニムといったごくシンプルな服装だった。変装用にメガネとキャップをしている。
「うん、ちょっとね」
「ちょっとなに?」
細い身体にロングヘアーのこいつは詰問口調になる。
「懐かしい店を見つけたんで少し飲んできた」
「えー!」
「ふっ」
「なんでだよ? ずるくない? あたしを置いて? 一人で? どこに!」
「だから懐かしい店だ」
「……」
「なんだ?」
「あたしも飲みに行きたい」
「は? もう帰って寝るぞ 明日のリサイタルどうすんだよ」
「明日は明日の風が吹くのっ。それに奏輔一人にいい思いさせるなんて、なんだか悔しいじゃん」
「……しょうがないなあ、じゃあどっか行くか」
「やった」
「ただし飲みすぎ厳禁だからな」
「ふふっ、あたしの酒の強さ知ってるくせに。奏輔なんか足元にも及ばないよ」
「そういって何度人事不省に陥ったと思ってるんだ。油断大敵だぞ」
「へいへい」
僕たちは桜が咲くまでの短い同棲生活ののち帰郷し、それぞれの自宅に帰った。突然帰宅した僕に家族は目を剥き、嵐のように猛然と小言と説教を浴びせてきた。特に母親が。しかも僕の右手の傷を見せると、卒倒せんばかりの母親の取り乱しようといったら滑稽なほどだった。しかし、この放浪の旅において人生で最も大切なものを手に入れた僕にとってはどうということはない。
藍もおじさまから相当心配されていたようだが「うん、まあどってことなかったよ」とメッセージが来ただけだった。
その年の冬、藍は僕が通う武蔵川音大に難なく合格。僕は復学し二年からやり直すことになった。
大学に入った藍は豹変する。僕が尻を叩くまでもなく練習に精を出すようになっていた。精を出すどころではない、練習の虫と言っていい。その甲斐もあって藍はみるみるうちに驚くほど高いテクニックを身に着けていく。その上達ぶりは目を見張るもの以上だった。
なんでそこまで練習に打ち込むようになったか訊いてみた事がある。すると「努力はピアノの基礎中の基礎だ」と僕から言われたことが大きかったと言った。それにその努力によって新しい山々を見たいとも言う。それに「上手く弾けるようになると楽しいもんね」とも話してくれた。
僕は藍が演奏家として大成する条件を揃えつつあると感じた。
「何考えてるの」
僕たちは二人ですっかり宵闇に閉ざされた函館の街を歩いていた。
「うん、思い出していた。色々」
「色々あったねえ……」
年寄りのようにしみじみと言う藍がおかしくて苦笑いをする。
「そうだな」
「それで、ねえどこ行くの」
「飲み屋街を探して、まだやってるお店があったらそこに行ってみようか」
「うんっ」
藍は僕の腕に腕を絡めてくる。
今の僕は満ち足りていた。あの時の僕の選択は間違っていなかった。藍は今や高名なピアニストとして名を馳せている。妙子さんも苦しみを乗り越え今では幸せな日々を送っていた。僕だってこの若さでひとかどの作曲家としてそれなりにやっている。僕はもう五本の指にも三本の指にも入ろうとは思わなくなっていた。一番大切なものは何か、ようやくそれが分かったような気がする。よかった。本当によかった。
「奏輔?」
「なんだ?」
「ううん、なんだか嬉しそうな顔してる」
「また色々思い出していたんだ。ここでのこと」
「へえ、どんな?」
「藍が熱を出して僕が看病してた時、すっごい甘えてきたなあって」
「えっ」
「それと花火した時のこと」
「えっえっえっ」
「くすっ」
「もう、やめろよ、あの時の話はさ」
「いいややめない、あの時の藍の顔といったら」
「元はといえばおまえが悪いんだからなっ、もうっ!」
「いてっ」
藍は僕のふくらはぎを蹴る。
「おっ、ねえ、ここ入んない?」
「ここ、昔来たことあるな」
「ほんとに?」
僕たちは以前来たことのある居酒屋に入る。コンクール後に藍が深酒をした店だ。
「全然覚えてないんだもんな」
小さい二人掛けのテーブルに座ると僕は言った。
「何を?」
「ここで飲んだ後、藍が部屋で僕にキスしようとして吐いたこと」
「嘘だあ」
「ほんとほんと」
三年生になった藍は、誰にも相談せず一人で世界最高権威を誇るフランチシェク国際ピアノコンクールに応募しようとする。これには二人を除いて皆が仰天した。その二人とは、僕と満石教授だ。満石教授は藍から相談を受け、反政府的言動をしたかどで自宅軟禁中のジュラフスキーから、どうにかこうにかコンクールの推薦状を取り寄せる。それはちょっとしたスパイ小説さながらだった。僕たちは藍の挑戦を面白がった。そして必ずファイナリストとして、さらにはその上位者としてその名を連ねるだろうと確信していた。僕は教授の特命を受け休学し全力で藍のサポートに回る。
最終的に藍はファイナルで堂々二位の成績を収めることができた(一位該当者なし)。
「この季節になると思い出すよ」
「え? 何かあったっけ」
「フランチシェクコンクールの後、藍がいなくなったって、おじさまから大慌てで連絡があった時」
「ああ」
藍は少しばつの悪そうな顔をした。
見た目も言動も印象的な上、国内では現役音大生が入賞したことが人目を引いたのか、藍は引っ張りだこになった。学校でも、TVでも、ラジオでも…… 根っからの自由人である藍はたちまち心と体のバランスを崩し、失踪する。学校でもそれ以外でも大騒ぎとなったが僕は慌てなかった。藍が僕を必要となればまた必ずここに戻ってくる。まだ戻ってこないのは藍の苦しみが癒えていないからだ、と。それよりも僕では藍の苦しみを癒せなかったことが申し訳なく無念でならなかった。僕は長い目で藍を待つことにした。それは無論辛くもあったが、藍を受け入れるための準備を進めるのは悪くはなかった。
一年半後、藍は戻ってくる。ひょうひょうとしたいつもの様子で。僕らは抱き合った。そして僕も作曲家として成功しつつあることを藍に示した。さらに防音室とピアノ付きの家を藍に見せる。そして指輪も。僕は藍に求婚した。藍はそっと僕にしがみ付いて少し泣くと、長い指に指輪をはめ、いつも通りの藍に戻った。その三か月後、僕たちは二人だけの結婚式をひっそりと挙げた。
酒を酌み交わしつつそんな昔話を二人で語り合い、夜は更けていった。さすがにもう帰らないと、とホテルに帰るよう促すと、珍しく藍はおとなしく応じ、店を出る。
外に出ると気持ちいい夜風が僕たちの頬を撫でる。月がきれいだ。
「少し飲み過ぎたんじゃないか」
「そんなことないって。平常運転平常運転」
「ほんとかなあ……」
ほろ酔い加減の僕たちはひと気の少ない通りを並んで歩く。藍がふと空を見上げ感嘆の声をあげる。
「あ」
「なんだ?」
「月がきれい」
藍の声に僕も月を見つめる。
「本当だ、きれいだな」
月明かりに照らされた僕たちは立ち止まって月を見上げる。そういえばあの頃、このようにして僕と妙子さんも月を見上げていた。その記憶に僕の右手の傷が数年ぶりに疼いた。
「聞こえてくる」
「何が」
「奏輔の『月光』」
「下手くそだったろ」
月の光を浴びて目を閉じる藍。
「ううん、そんなことない。すごく良かった…… あれを聞いたからあたし……」
「ん?」
「いや、なんでもない」
ほほ笑んだ藍はそっぽを向いた。
「なんだよはっきりしないなあ」
「はっきりしなくていいんだよ。これはあたしだけの秘密」
「ふうん」
藍の腕が僕の腕にきつく絡みつく。
「……僕も」
「え?」
「僕もあのショパンの夜想曲第19番を聴いた時にきっと」
「きっと何?」
「おっと、ここから先は僕だけの秘密だ」
「えー、何それずるくない?」
「ははっ、おあいこだ」
「もう」
「いてっ」
僕たちは子供のようにじゃれ合いながら月明かりに照らされ大通りを歩んでいた。
― 了 ―
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2022年5月21日 21:00 公開予定
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