月と影――ジムノペディと夜想曲

永倉圭夏

文字の大きさ
50 / 55

50.エピローグ2――藍

しおりを挟む
「随分遅かったじゃん。探しに来ちゃったよ」

 僕の右隣には相変わらず子供っぽい口ぶりで文句を垂れる奴がいた。Tシャツにデニムといったごくシンプルな服装だった。変装用にメガネとキャップをしている。


「うん、ちょっとね」

「ちょっとなに?」

 細い身体にロングヘアーのこいつは詰問口調になる。

「懐かしい店を見つけたんで少し飲んできた」

「えー!」

「ふっ」

「なんでだよ? ずるくない? あたしを置いて? 一人で? どこに!」

「だから懐かしい店だ」

「……」

「なんだ?」

「あたしも飲みに行きたい」

「は? もう帰って寝るぞ 明日のリサイタルどうすんだよ」

「明日は明日の風が吹くのっ。それに奏輔一人にいい思いさせるなんて、なんだか悔しいじゃん」

「……しょうがないなあ、じゃあどっか行くか」

「やった」

「ただし飲みすぎ厳禁だからな」

「ふふっ、あたしの酒の強さ知ってるくせに。奏輔なんか足元にも及ばないよ」

「そういって何度人事不省じんじふせいに陥ったと思ってるんだ。油断大敵だぞ」

「へいへい」

 僕たちは桜が咲くまでの短い同棲生活ののち帰郷し、それぞれの自宅に帰った。突然帰宅した僕に家族は目をき、嵐のように猛然と小言と説教を浴びせてきた。特に母親が。しかも僕の右手の傷を見せると、卒倒せんばかりの母親の取り乱しようといったら滑稽こっけいなほどだった。しかし、この放浪の旅において人生で最も大切なものを手に入れた僕にとってはどうということはない。
 藍もおじさまから相当心配されていたようだが「うん、まあどってことなかったよ」とメッセージが来ただけだった。
 その年の冬、藍は僕が通う武蔵川音大に難なく合格。僕は復学し二年からやり直すことになった。
 大学に入った藍は豹変する。僕が尻を叩くまでもなく練習に精を出すようになっていた。精を出すどころではない、練習の虫と言っていい。その甲斐もあって藍はみるみるうちに驚くほど高いテクニックを身に着けていく。その上達ぶりは目を見張るもの以上だった。
 なんでそこまで練習に打ち込むようになったか訊いてみた事がある。すると「努力はピアノの基礎中の基礎だ」と僕から言われたことが大きかったと言った。それにその努力によって新しい山々を見たいとも言う。それに「上手く弾けるようになると楽しいもんね」とも話してくれた。
 僕は藍が演奏家として大成する条件を揃えつつあると感じた。

「何考えてるの」

 僕たちは二人ですっかり宵闇に閉ざされた函館の街を歩いていた。

「うん、思い出していた。色々」

「色々あったねえ……」

 年寄りのようにしみじみと言う藍がおかしくて苦笑いをする。

「そうだな」

「それで、ねえどこ行くの」

「飲み屋街を探して、まだやってるお店があったらそこに行ってみようか」

「うんっ」

 藍は僕の腕に腕を絡めてくる。

 今の僕は満ち足りていた。あの時の僕の選択は間違っていなかった。藍は今や高名なピアニストとして名を馳せている。妙子さんも苦しみを乗り越え今では幸せな日々を送っていた。僕だってこの若さでひとかどの作曲家としてそれなりにやっている。僕はもう五本の指にも三本の指にも入ろうとは思わなくなっていた。一番大切なものは何か、ようやくそれが分かったような気がする。よかった。本当によかった。

「奏輔?」

「なんだ?」

「ううん、なんだか嬉しそうな顔してる」

「また色々思い出していたんだ。ここでのこと」

「へえ、どんな?」

「藍が熱を出して僕が看病してた時、すっごい甘えてきたなあって」

「えっ」

「それと花火した時のこと」

「えっえっえっ」

「くすっ」

「もう、やめろよ、あの時の話はさ」

「いいややめない、あの時の藍の顔といったら」

「元はといえばおまえが悪いんだからなっ、もうっ!」

「いてっ」

 藍は僕のふくらはぎを蹴る。

「おっ、ねえ、ここ入んない?」

「ここ、昔来たことあるな」

「ほんとに?」

 僕たちは以前来たことのある居酒屋に入る。コンクール後に藍が深酒をした店だ。

「全然覚えてないんだもんな」

 小さい二人掛けのテーブルに座ると僕は言った。

「何を?」

「ここで飲んだ後、藍が部屋で僕にキスしようとして吐いたこと」

「嘘だあ」

「ほんとほんと」

 三年生になった藍は、誰にも相談せず一人で世界最高権威を誇るフランチシェク国際ピアノコンクールに応募しようとする。これには二人を除いて皆が仰天した。その二人とは、僕と満石教授だ。満石教授は藍から相談を受け、反政府的言動をしたかどで自宅軟禁中のジュラフスキーから、どうにかこうにかコンクールの推薦状を取り寄せる。それはちょっとしたスパイ小説さながらだった。僕たちは藍の挑戦を面白がった。そして必ずファイナリストとして、さらにはその上位者としてその名を連ねるだろうと確信していた。僕は教授の特命を受け休学し全力で藍のサポートに回る。
最終的に藍はファイナルで堂々二位の成績を収めることができた(一位該当者なし)。

「この季節になると思い出すよ」

「え? 何かあったっけ」

「フランチシェクコンクールの後、藍がいなくなったって、おじさまから大慌てで連絡があった時」

「ああ」

 藍は少しばつの悪そうな顔をした。
 見た目も言動も印象的な上、国内では現役音大生が入賞したことが人目を引いたのか、藍は引っ張りだこになった。学校でも、TVでも、ラジオでも…… 根っからの自由人である藍はたちまち心と体のバランスを崩し、失踪する。学校でもそれ以外でも大騒ぎとなったが僕は慌てなかった。藍が僕を必要となればまた必ずここに戻ってくる。まだ戻ってこないのは藍の苦しみが癒えていないからだ、と。それよりも僕では藍の苦しみを癒せなかったことが申し訳なく無念でならなかった。僕は長い目で藍を待つことにした。それは無論辛くもあったが、藍を受け入れるための準備を進めるのは悪くはなかった。
 一年半後、藍は戻ってくる。ひょうひょうとしたいつもの様子で。僕らは抱き合った。そして僕も作曲家として成功しつつあることを藍に示した。さらに防音室とピアノ付きの家を藍に見せる。そして指輪も。僕は藍に求婚した。藍はそっと僕にしがみ付いて少し泣くと、長い指に指輪をはめ、いつも通りの藍に戻った。その三か月後、僕たちは二人だけの結婚式をひっそりと挙げた。
 酒を酌み交わしつつそんな昔話を二人で語り合い、夜は更けていった。さすがにもう帰らないと、とホテルに帰るよう促すと、珍しく藍はおとなしく応じ、店を出る。
 外に出ると気持ちいい夜風が僕たちの頬を撫でる。月がきれいだ。

「少し飲み過ぎたんじゃないか」

「そんなことないって。平常運転平常運転」

「ほんとかなあ……」

 ほろ酔い加減の僕たちはひと気の少ない通りを並んで歩く。藍がふと空を見上げ感嘆の声をあげる。

「あ」

「なんだ?」

「月がきれい」

 藍の声に僕も月を見つめる。

「本当だ、きれいだな」

 月明かりに照らされた僕たちは立ち止まって月を見上げる。そういえばあの頃、このようにして僕と妙子さんも月を見上げていた。その記憶に僕の右手の傷が数年ぶりに疼いた。

「聞こえてくる」

「何が」

「奏輔の『月光』」

「下手くそだったろ」

 月の光を浴びて目を閉じる藍。

「ううん、そんなことない。すごく良かった…… あれを聞いたからあたし……」

「ん?」

「いや、なんでもない」

 ほほ笑んだ藍はそっぽを向いた。

「なんだよはっきりしないなあ」

「はっきりしなくていいんだよ。これはあたしだけの秘密」

「ふうん」

 藍の腕が僕の腕にきつく絡みつく。

「……僕も」

「え?」

「僕もあのショパンの夜想曲第19番を聴いた時にきっと」

「きっと何?」

「おっと、ここから先は僕だけの秘密だ」

「えー、何それずるくない?」

「ははっ、おあいこだ」

「もう」

「いてっ」

 僕たちは子供のようにじゃれ合いながら月明かりに照らされ大通りを歩んでいた。
                                  ― 了 ―

◆次回
51.番外編・咲苗
2022年5月21日 21:00 公開予定 
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?

旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】 佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。 新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。 「せめて回復魔法とかが良かった……」 戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。 「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」 家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。 「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」 そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。 絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。 これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

処理中です...