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 過去(流奈編)

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 私が彼と出会う前ーー幼稚園児の時から、もう両親の仲は悪かった。
 お父さんは典型的なサラリーマンで、お母さんは専業主婦だった。お母さんが子供っぽく、すぐヒステリックになるのに対して、お父さんが大人らしくドライに対応ーー大抵の喧嘩の構図はこんな感じだった。因みに火種は些細なことが殆どだったと記憶している。
 当時の私はそんな2人を見て、いつも部屋の隅に引っ込んでいた。そしてそのためか、幼稚園でも他の人と関わるのが怖くて、引っ込み思案だった。

 ある日、お父さんが実家に帰って、家には戻らなくなった。お母さんに愛想を尽かしたようだった。私を置いて行った理由は今でもよく分かってない。
 お母さんはお父さんが出て行って、焦っていた。毎月送られる私への養育費で生活しなければならなかったからだ。
 お母さんは特別勉強が出来る訳でも、特別な才能がある訳でもなかった。ただ、給料のいい仕事には就きたかったようで、医療関係の仕事に就くためにお薬の勉強を始めた。
 貧乏な生活が続いた。私はいつもお腹を空かせていた。でもお母さんの方がお腹は空かせていたと思う。いつも私に自分のご飯を分けていたからだ。お母さんはそんな中、パートの仕事も掛け持ちしつつ勉強し、目に見えてやつれていった。

 お薬の資格も取れず、パートと勉強だけの毎日に、限界が訪れたのか、お父さんが出て行って1年程したある日ーー
「いつもいつも黙ってこっちを見て!家事くらい手伝いなさいよ!あなたを見ると、あの人を思い出して嫌になるわ!ーー何よ、こっち見ないでよ!あの人と一緒であなた何考えてるのか分かんないのよ!」
 お母さんは仕事先でトラブルを起こし、それがきっかけで精神科のある病院にかかると、解離性障害(ヒステリー)と診断された。病院からお父さんに連絡が行き、これが原因で別居状態だった2人はいよいよ離婚した。そして今のお母さんには養育能力がないと判断されたのか、私はお父さんの実家に引き取られることになった。

 お父さんの実家にはお父さんの他に、おじいちゃんとおばあちゃんがいた。私はおじいちゃんとおばあちゃんによく可愛がられて育った。そのお陰で小学生に上がる頃には、私の対人恐怖も薄れつつあった。

 そして小学1年生の春、彼と出会った。教室での座席が五十音順になっていて、笹原の「さ」と白崎の「し」で、彼が前、私が後ろだったのが仲良くなったきっかけだった。周りに知っている同じ幼稚園の子がいなかったのもあって、不安だった私は小学校に上がってから始めての友達に嬉しくなったーーけど同時に、恐怖もあった。

「いつもいつも黙ってこっちを見て!ーーあの人と一緒であなた何考えてるのか分かんないのよ!」

 最後にお母さんに言われた事がいつも脳裏によぎった。
 私は、彼に見放されないように、彼の前ではいつも笑顔でいることにした。それは小学3年生の時におじいちゃんが急逝した時もだった。本当は悲しくて泣きたかったけど、彼の前ではそんな素振りも見せず、ずっとにこにこ笑っていた。
 けどそんな折、一方の彼はだんだんと表情に影がさすようになっていった。「何かあったの?」と訊いても「いや、別に」の一点張りで、理由は何も話してもらえなかった。私は彼のことが心配になったーーと同時に、私とも話さなくなるんじゃないか、また見放されるんじゃないか、と不安になった。
 私はますます笑顔でいようと努めるようになった。

 何年か過ぎ、私たちは中学生になった。その頃には、彼と居るのが心の底から楽しくなって、笑顔も出すものではなく、純粋に楽しいから出るものになった。けど、彼はその頃から目を合わせてくれなくなった。その時はいよいよ心配になって問い詰めたけど、彼は「何でもない、何でもないから」と言い続けるだけだった。
 その頃、私はおばあちゃんを亡くしていたけど、彼にはそれも含めてお母さんのことも打ち明けてはいなかった。それが原因で距離をとられるとは彼の性格からして思わなかったけど、何より彼との関係がギクシャクするのが嫌だったーー彼が話してくれないのも、もしかしたらそうなのかもしれない、と思った。
 私はいつか彼が打ち明けてくれるのを信じて、待つことにした。

 けど、高校3年生の4月末。
「お父さん、急な仕事の都合で別のところに越すことになったから、引っ越しの準備をしなさい」
 お父さんから事務的に、唐突に切り出された。
 おじいちゃんやおばあちゃんがいればこの街に残ることも出来たかもしれないけど、現実には2人はもういない。だから私はここに残ることが出来なかったーーいや、言えばお父さんも一人暮らしを許したかもしれない。今では家の家事は私が殆どしているし。
 ……でも私はここに引き取られてから今まで、お父さんとろくに心を開いて話したことがなかったーー何より、お父さんに見放された過去が、私にその事を話させるのを怖気付かせた。そして話せなかったのは彼に対してもだった。
 転居の前日になって、いよいよあとがなくなって、私はようやく彼に転校する旨を伝えた。彼は大学生になったらまた会おう、と約束してくれた。その言葉は今しか見てなかった私の視野を広くさせるひと言だったーー心に寂しさや離れたくないという気持ちがあるのは変わらないけど、それらだけじゃなくなった。
 私は、彼と会える日を糧に、これからを懸命に生きようと思った。
 彼がいなくてもうまくやろうと思った。

 けど現実は、そうはいかなかった。
 私は思った以上に彼に依存していて、彼がいたからこそこれまでの私がいたんだと痛感させられた。
 最初は何人かのクラスメイトとそこそこ仲良くやっていたーーちょっとおバカさんアピールで、テストの点とかを話題にしたら、皆笑ってくれるし、親近感を持って接してくれるーー彼にもLINEで『友達もできたしなんとかうまくやってるよー!』と送ったほどだ。
 しかし日を追うごとに、以前のような社交的で明るい性格を表に出せなくなり、彼が居なくて暗くなる時がたまに出て、しだいに交友関係は狭くなっていった。気付いたら一緒に居る友達は杏香という女の子1人になった。
 杏香は彼を女の子にしたような子で、他の人とのコミュニケーションが苦手で、いつも目を逸らしがちで、よく読書をしていた。彼女は暗くなりがちになった私から距離を置く訳でもなく、自分から干渉する訳でもなく、私にとっても丁度いい距離感に居てくれた。彼女の中に彼を見ていた私としても、彼女とよく一緒に居るようになった。

 引越しする前からそうだったけど、家ではいつも独りだった。お父さんは、平日は朝早くに出て夜遅くに帰るし、休日も自分の部屋に籠るので、私とお父さんが家に一緒に居る事は殆どなかったし、居たとしても顔を合わせることは全く言っていい程なかった。食事も洗濯もそれぞれがやっていたーーシェアハウスみたいなものだ。

 そんな学校と家の生活にーー慣れたとは言えないかもだけどーー慣れてきた頃、学校から授業のコース希望のプリントが配られた。この学校は比較的新学校だから、この時期の3年生は毎年、自分の希望の授業コースを選択し、プリントを提出、その頃にある夏休み前の最後のテストの結果を元に先生が生徒のコースを改めて現実的に選択し、授業を受けるらしい。目に見える形で、本格的に自分たちは受験生なのだと自覚し始めたクラスメイトたちはこの頃から何やらピリピリし始めた。休み時間にはどの大学に行くとか、コース選択はどうするとか、今回のテスト範囲はどこまでだろうとか、そういう話題ーー情報収集といった方が正確かもしれないけどーーがひっきりなしに上がった。
 私は、優希くんはどの大学に行くんだろう、と思いつつ、彼は頭がいいから私が行けないレベルの大学に行くんだろうな、と思ったーーと。
 そこで私はふと思い当たった。
「杏香ちゃんはどの大学行くとか決めてる?」
 彼とタイプが似ていて、恐らく、勉強も同じくらい出来る彼女なら、彼が行く大学の見当をつけられるかもしれないと考えたのだーー今振り返ると、そんな事しなくてもLINEで彼に直接訊けばいいのに何故こんな回りくどい事をしたのか分からないけどーーとにかく私は彼女に訊いた。
「……わ、私は●●大学だけど……受かればいいなぁ、程度だよ……?」
 その大学は優希くんの家からでも通えるくらいの距離の、レベルのそこそこ高い大学だった。
「へ~!でも目標にできるだけすごいよ!私だったら目指そうとすら思わない!絶対ムリ!」
 私は笑いながらテンション高めに返す。
 彼の性格からして、家から通えて自分のレベルに見合った大学というのは視野に入れてる可能性が高い。つまり彼がこの大学を目標にしてる可能性は充分にあり得るのだ。
 そう思ったら少し気分が下がった。私も出来れば、学部学科は違っても、せめて彼と同じ大学に進みたいーーそんな事を考えていると、私の笑いに暗い雰囲気が少し漂ったのが分かったのか、彼女が
「る、流奈ちゃんも行ける!……と、思う!……よ?……この間の試験前日にやったテスト勉強で地頭がいいのは分かってるし……。も、もしよかったら私と一緒に、この大学受け……ませんか?」
「え……マジ?」
 突然のことで口調までおかしくなった。
「い、いやごめんなさい!失礼だったよね⁉︎忘れて!」
 怒ったと勘違いしたのか、彼女がペコペコと謝ってくる。
「いやいや失礼じゃないよ⁉︎びっくりしただけ!杏香ちゃんが誘ってくれるとは思ってなかったから」
 願ってもない申し出だった。
 彼が狙ってる大学が本当にこの大学かは分からないけど、彼のことだから実家から通える範囲の大学にはしてるはず。だったら私がこの大学に行けば彼に会いやすくなるだろうしーー大学生になったらお父さんだって独り暮らしは許してくれるだろう。
「杏香ちゃん……勉強、教えてもらっていい?」
「わ、私で良ければ……もちろんっ!」
 その日から彼女による、私の受験勉強介護が始まった。

「やった!杏香ちゃん!私Aコースに入ってた!」
「やったね流奈ちゃん!私も!」
 LHRで担任の先生から個別にもらった、決定したコースを報告するプリントを片手に、放課後、私たちはすぐにお互いのコース選択の結果を報告していた。
 彼女の私への勉強介護は至れり尽せりだったーーお陰で私は試金石となるテストで過去最高に良い点を弾き出し、彼女と目標にした大学に見合った、希望通りのコースに入ることが出来た。
「杏香ちゃんのお陰だよ~!」
 私は嬉しさの余り彼女に抱きつく。
「そ、そんな……流奈ちゃんが頑張ったからだよ……」
 あわあわしながら、そんな事を言う杏香ちゃん。照れつつも嬉しそうだーーそんな彼女を見て、私もいっそう、嬉しくなる。

「え~?白崎さん、A入れたんだ~」

 ーーその声は、私に向けられたものではない、ひとり言みたいに小さい声だったけど、騒がしかった教室の中、何故かよく響いた。
 声の方に目を向けると、つり目でロング、制服を少し着崩した女子が、他のクラスメイトとこちらを見ながらひそひそやっていたーーこのクラスのトップカーストに属する子だ。
「あーしも今回のテストは頑張ってA狙ってたのにな~」
「白崎さんって前回のテスト、響子の成績とそんな変わらなかったよね?」
「だよね~。どんな魔法使ったしー……っていうのは冗談にしても、この短期間であの成績からA行けるってマジ?って感じだよね?」
「それw授業中も答えられない時あったし、絶対なんかあるよね~」
 そんな会話が繰り広げられる。
 それを聞いたクラスメイトの雰囲気がガラッと変わったのが分かった。
 皆の視線がーークラスの雰囲気が疑惑めいたものになる。
「数学あんな壊滅的だったのにAなんか入れるか?」
「もしかしたら最初のうちはあたしらを油断させるためにあんな点取ったのかも」
「てゆーか、そもそも転校してきた時期からしておかしかったよね?」
「家が特殊とか?」
「そう言えば俺ら、あいつの家のことなんも知らなくね?」
「もしかしたら家と学校で裏でなんかあるんじゃ……」
 このクラスは皆そこそこ頭が良くって、Aコースを志望していた人も多かったんだと思う。だからバカだと思ってた私がAコースに選ばれたと聞いて疑心に駆られたのと同時にーー選ばれなかった人たちも多そうだったから、嫉妬心から私を批判しようとしたんだろう。
「る、流奈ちゃん……教室出よう?」
「……そうだね」
 私は、怒っていた。
 努力して勝ち取ったのに、一度貼られた(私自身がネタにしてたから貼ったとも言えるけど)『白崎流奈は頭が悪い』というレッテル以外は認めず、自身のプライドを守るためにこっちの努力を認めない彼ら彼女らに、はらわたが煮え繰り返りそうだった。そしてそれ以上に、私の勉強を看てくれた彼女に失礼だと思ったーー私は声を大にして否と答えたかった。でも一方で私にはそんな度胸はなかったし、彼女もそれを望んではいないようだった。
 私たちはそそくさと教室を出て行った。
 私は、悔しかった。

 それから私はクラスメイトから嫌な視線を向けられるようになった。表立って虐められたり、暴言を吐かれるような事はなかったけど、陰口を叩かれたり、私のいるところでひそひそとあらぬ噂をされたり、話しかけても無視されたりしたーーこれならまだ、表立って暴力を振るわれたりした方が良かったかもしれない。先生に相談しようにも証拠がないし、問題が表沙汰にならないからこちらも対処のしようがなかった。
 そしてその矛先が私だけならまだ良かったんだけど、遂には杏香ちゃんにまで及び出した。テスト週間のみならず、いつも私と一緒にいて仲が良いから、テストの時に答えをハンドサインか何かで教えたんじゃないかーーみたいな考えるのもバカバカしいふざけた噂が立ったのだ。
 その内、批難は私よりも彼女がメインになり、遂には学校を休むようになったーーそうなると、やっぱり噂は本当で、罪の意識と批難に耐えかねて学校を休み始めたのだという論がクラスの総意になっていった。そしてまた、批難対象がいなくなった事で、再び私に矛先が向き始めた。
「なんであいつも学校休まねーのかな?カンニングしたのに図太すぎじゃね?」
「相方も居なくなって独りで寂しそうだけどなwもう意地なんじゃない?」
 お父さんは仕事で疲れてるから後にしてくれ、と相談に乗ってくれそうにない。杏香ちゃんは傷付いてしまって学校に来ない。先生には白崎の気のせいじゃないかと言われる。

 私はもう、限界だった。
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