棘-とげ-  

ひろり

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狂った時間

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「俺、お前にまだ謝ってない。何も言わずに逃げたこと… いや、捨てたんだよな、お前を」
 柳田が視線を合わせずに言うと、薫はふふっと笑いを漏らす。

「謝る必要ない… 付き合ってた女が実は元ヤクザの娘だったんだから仕方ないよ。あのまま付き合ってたら、アンタまで辞めなきゃなんない… 当たり前のことをしただけ。逃げたとも捨てられたとも思ってない。それどころか二人の関係を、誰にも秘密にしてて良かったって思った」
 薫から笑みが消え、「由美にはバレてたけどね」と付け加える。

「小堺由美か… 押収した薬物を持ち出してあっさり転落したな」
「また捕まったの? で、ここで薬物買ったとか言ってる?」
 柳田がうんとうなずく。
「私、どこまで嫌われてるんだか… アンタと結婚したわけでもないのにね」
 薫が諦めたように苦笑する。

「俺もバチがあたった。勧められるがままに結婚した嫁はとんだ食わせ物だった」
「何よ… 急に」
「お前のお袋さんは立派だよ。自分に正直に好きな相手を追いかけて」
「何よ… なんかあったの?」
 薫が怪訝けげんな表情で柳田を覗き込む。

 柳田は薫と別れた後、ほどなく警察OBから政治家になった金銅かねどう幸三こうぞうの娘、清香せいかと結婚し一女をもうけていた。

 柳田はふうと息を一つ吐くと、棚に並んだ酒瓶を指さす。
「酒… そろそろ飲むかな」
「ぬるめの燗ね」
 すかさず薫が返すと、「いや、冷でいい」と言う。
 薫が猪口を二つ手に持って小首を傾げ、「私も… いい?」と口角を上げると、柳田は「当たり前だろう」とニヤついた笑みで返す。

 徳利を持つ薫の長い指と、ふっくらと丸みのある形の良い爪が、柳田の心をくすぐる。
「人は失って初めてその価値に気付くんだよな」
 柳田は自身を嘲笑うように片頬を上げ、猪口に口を付けた。

かみさん、俺と結婚する前に、他の男と付き合ってたらしい。子供が生まれて、お袋が月足らずで生まれたのに大きすぎるって言ってね。女の勘は鋭いね。お袋が俺に黙って調べたら父親の確率は0%だった」
 薫は一瞬言葉に詰まったが、薄く笑いながら猪口を口にする柳田を見て、ふふんと笑みを浮かべる。
「そんなの、よくある話じゃない。太古の昔から、子供の本当の父親は母親しか知らないものよ」

 薫が柳田の猪口に酒を注ぎ足しながら、
「お母さんは余計なことしたね」と軽い口調で返す。
「俺もね、娘が俺のことをお父さん大好きって慕ってるし、そのまま穏やかに暮らしていこうと思った。何より、お前を不幸にしたから、少なくとも今ある家族は守りたいと思ってね」

 薫が手にしていた猪口の酒をぐいッと飲み干した。
「不幸にされたなんて思ってないけどね。それなりに普通に幸せに暮らしてきたつもり… アンタもそうだと思ってたけど?」
「それなりに幸せだったよ。人生なんて1年の行事の積み重ねだろ。ひな祭りに七五三、クリスマスに正月、誕生日、入学式、運動会、卒業式… そこそこ楽しい時を過ごしてきたよ」

 柳田が大きなため息をつく。
「アイツがまだ男と切れてなかったとわかるまではね」
「何よ、辛気臭くてアンタらしくないわ。ちゃんと奥さんと喧嘩して、話し合ってケリ付ければいいだけの話でしょ」

「そうだな…」と、柳田が苦い顔で返す。
「金銅幸三からは警察辞めてカバン持ちしろと言われるし、それ拒否したら組織犯罪対策部に回されて… まあ、こうしてお前に会えたし悪くはないけどね」
 クックと笑いながら、煮たまごを口の中に放り込む。

「アンタさあ、十数年ぶりに会った昔の女に、結局、何が言いたいの?」
 確かにそうだと思いながら、柳田はもぐもぐと口の中でもたつくたまごで間を持たせる。パサついた口の中に酒を流し込んで、ふうと浅く息を吐いた。
「まあ、あれからおおむね飄々ひょうひょうと平穏な日々を過ごしてきたけど、時々、ほんの少しだけ俺の人生って何なんだって思う瞬間がある。嫁に裏切られ舅に振り回されて… ほんの一瞬な」

「そんな泣き言… 結婚した時は美味おいしい結婚だって思ったんでしょ。政治家転身の下心だってあったはずよ。小耳に挟んだ私だって、やった!てガッツポーズしたわよ… ま、気持ちはわるけど」
 薫に軽口を叩かれ、柳田はほっとしたように笑う。

「来てよかった…」と言いかけた時、薫のスマホにバイブレーションの音が入る。
「ちょっとゴメン」と、スマホを見た薫の目がほんの少し泳いだ。
 柳田に背を向け小声で、「今はね… ちょっとね…」と言う声が聞こえる。
 すぐに電話を切って振り向くと「ごめんね」と笑顔に戻る。

「彼氏?」
「えっ」と再び目を泳がせる。
「まあね… そんなとこかな」と視線を逸らす。
「そうだよな。あれからずいぶん経つから、恋人の一人や二人いてもおかしくないわな」
「一人や二人って雑な言い方ね」
 薫が落ち着きを取り戻したように微笑む。

「また来ていいか」
 帰り際、ほろ酔い機嫌が柳田に軽く言わせた。が、対照的に薫の顔が曇る。
「ここはアンタが頻繁に来る場所じゃない。もうとっくの昔に私たちは終わったでしょ。懐かしむことも何もないはずよ」
 薫は冷たく言い放つとニヤリと微笑む。
「どうせアンタに刺さったトゲとか言われてるんでしょ」
「何だよ、それ」

「昔、言ってたじゃない。別れた女がトゲのように胸の奥に刺さってるって。私もその中の一つでいいから… もう忘れて」
「忘れられないからトゲになるんだけどな」
 柳田が細めた目に未練を残し、片頬で笑う。
「とにかく、おでん屋だから拒否はできないけど、もう来ないで。私の中では喉に刺さってた魚の骨は、とっくの昔に溶けて消え去ったんだから」
 薫は小首を傾げ、にっこりと柔らかな笑顔を見せた。
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