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決別(2)
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しばらくたったある日、店に来る予定の蘭子から、マンションまで迎えに来て欲しいという連絡が入った。
蘭子のもとを訪れると、玄関で早翔を出迎えたのは凪子だった。
「このところずっとお元気がなくて、夜もあまりよくお眠りになってらっしゃらないようなんです。お食事もあまりお召し上がりになってないようだし…」
薄っすら眉間に皺を寄せ、おろおろと落ち着かない様子で話す。
早翔が優しく微笑んで、凪子の肩に手を置く。
「心配しないで大丈夫だよ。いつも蘭子さんを見守ってくれてありがとう。凪子さんはもう帰って下さい」
凪子はほっとしたように頬を緩め、口元をほころばせた。
いつものリビングに入ると、白いソファに身を預ける蘭子の背中が目に入った。
早翔が傍らまで近づいても、その虚ろな目線は前方に向けられたままである。
すぐにでも出かけられるように、光沢のある青紫色のドレスに身を包み、足を組んでいる。テーブルの灰皿には、一、二口、吸っただけの煙草が潰されていた。
無言で隣に座ると、蘭子が早翔の肩にしなだれかかる。
しばらく沈黙が続く。
「どうして何も言わないの?」
消え入りそうな小さな声で訊く。
「大丈夫か… なんて俺の口から軽く言えないよ」
「嫌な子ね」
蘭子はフッと弱々しい息を漏らした。
「律儀に外部の弁護士を通して、離婚して欲しいと言ってきたわ。ご丁寧に慰謝料まで請求して…」
「直接会って話し合わないの?」
再び、フッと息を漏らす。
「そんな勇気ない… 会ったらきっと、泣いてすがって、別れないで欲しいって言っちゃうかも…」
「なんかもう、俺みたいなガキには理解できないよ」
口ではそう言ったが、二十近くも年下の早翔を一度も見下すことなく、誠実に心の内を明かしてくれた庸一郎の姿を思い出すと、蘭子の気持ちが少しばかりわかるような気がした。
「私にも理解できないもの…」
蘭子がぽつんと呟く。
不意に、アハハと弱い笑い声を漏らした。
「慰謝料の請求額5千万だって。笑っちゃった。私を怒らせたいなら、10億くらい請求してくれないと…」
「10億なら怒って、嫌いになれる?」
蘭子の笑顔が固まり、自嘲の笑みへと変わる。
「…なれない、嫌いになんて… 本当、わかってないのよ。無駄なことして… 可愛いヤツなのよね… 本当に… 昔から…」
独り言のように呟く声が震えていた。
「ごめん… 俺が余計なこと言ったから…」
「本当にね… ガキに言われてようやく重い腰を上げるなんてね… アイツもバカよね……… 私もね…」
「何か飲む?」
早翔に視線を向ける蘭子の瞳は、赤く潤んでいた。
「寝不足みないな瞳だね」
蘭子がうつむき目を何度か瞬かせた。
「色々なことを思い出すの。昔々の色々なこと… ベッドで目を閉じると、ありとあらゆることが、昨日のことのように思い出されて眠れなくなるの… もう若くないってことかしら… 困ったものね」
そう言って、投げやりな笑いを漏らす。
早翔は蘭子を立たせ、バーカウンターまで連れて行く。スツールに座らせ、自身はカウンターの中に入ると、満面の笑みで蘭子を見つめた。
「なんだか新鮮だね」
「何が?」
「ここで、蘭子さんがちゃんとした服を着てる」
思ってもいなかった言葉を返され、蘭子がアハハと声を上げて笑った。
「リクエストある?」
蘭子は少し上のほうに目線を上げ、遠い目で宙を見る。何度か瞬きを繰り返し、ゆっくりと唇をほころばせた。
「ウェディングベル・ドライ…」
「ウェディングベル!」
早翔が大げさにビックリしたような声を上げ、フンと鼻で笑う。
「未練がましいな。ここはギムレットでお別れっていうならわかるのに」
「結婚式の夜に、ホテルのバーテンダーが作ってくれたの。庸一郎に… どうにもコントロールできない自分の感情に… 周囲の期待に… 私を取り巻く全てに、私が負けを認めた夜。その夜の味よ」
早翔が片頬をゆがめて苦笑し、カクテルを作り始めた。
その姿をうっとりと眺めている蘭子の前に、シェイカーから美しい黄色のカクテルがグラスに注がれる。
一口、口に含むと、ニヤッと笑って半目で早翔を睨み付けた。
「何、これ… 注文と違いますけど、バーテンさん」
「同じオレンジビターを使った勝利の味。敗北の味は蘭子さんには似合わない」
蘭子から、はにかむような明るい笑みがこぼれる。
「ドライで悪くないわ」
「ナイン・ピックって言うんだ。ビリヤードの9番を落とす、勝利を意味する」
「ナイン・ピック…」
もう一口、口に含んで、美味しいと呟く。
「今日はこれで閉店。寝不足にはキツいでしょ」
「あら、あなたみたいなお子様と一緒にしないで。他のを作りなさい。あなたのカクテルを作る姿が見たいんだから…」
早翔が呆れたように蘭子を一瞥して、リキュールを選ぶ。
「あと一杯だけだよ。そのカクテルさ、別の説もあるんだ。ナインティーン・トゥエンティ・ピック・ミー・アップからソーダを抜いてできたカクテルって説。面白いよね、カクテルって」
言いながら視線を戻すと、蘭子はカウンターに突っ伏して眠っていた。
早翔は蘭子を優しく抱き上げ、ベッドまで運んだ。
ドレスを脱がせても起きる気配もなく、あどけない寝顔を見せている。
「おやすみなさい、蘭子さん… 良い夢を…」
早翔は優しく耳元で囁き、ベッドルームを後にした。
蘭子のもとを訪れると、玄関で早翔を出迎えたのは凪子だった。
「このところずっとお元気がなくて、夜もあまりよくお眠りになってらっしゃらないようなんです。お食事もあまりお召し上がりになってないようだし…」
薄っすら眉間に皺を寄せ、おろおろと落ち着かない様子で話す。
早翔が優しく微笑んで、凪子の肩に手を置く。
「心配しないで大丈夫だよ。いつも蘭子さんを見守ってくれてありがとう。凪子さんはもう帰って下さい」
凪子はほっとしたように頬を緩め、口元をほころばせた。
いつものリビングに入ると、白いソファに身を預ける蘭子の背中が目に入った。
早翔が傍らまで近づいても、その虚ろな目線は前方に向けられたままである。
すぐにでも出かけられるように、光沢のある青紫色のドレスに身を包み、足を組んでいる。テーブルの灰皿には、一、二口、吸っただけの煙草が潰されていた。
無言で隣に座ると、蘭子が早翔の肩にしなだれかかる。
しばらく沈黙が続く。
「どうして何も言わないの?」
消え入りそうな小さな声で訊く。
「大丈夫か… なんて俺の口から軽く言えないよ」
「嫌な子ね」
蘭子はフッと弱々しい息を漏らした。
「律儀に外部の弁護士を通して、離婚して欲しいと言ってきたわ。ご丁寧に慰謝料まで請求して…」
「直接会って話し合わないの?」
再び、フッと息を漏らす。
「そんな勇気ない… 会ったらきっと、泣いてすがって、別れないで欲しいって言っちゃうかも…」
「なんかもう、俺みたいなガキには理解できないよ」
口ではそう言ったが、二十近くも年下の早翔を一度も見下すことなく、誠実に心の内を明かしてくれた庸一郎の姿を思い出すと、蘭子の気持ちが少しばかりわかるような気がした。
「私にも理解できないもの…」
蘭子がぽつんと呟く。
不意に、アハハと弱い笑い声を漏らした。
「慰謝料の請求額5千万だって。笑っちゃった。私を怒らせたいなら、10億くらい請求してくれないと…」
「10億なら怒って、嫌いになれる?」
蘭子の笑顔が固まり、自嘲の笑みへと変わる。
「…なれない、嫌いになんて… 本当、わかってないのよ。無駄なことして… 可愛いヤツなのよね… 本当に… 昔から…」
独り言のように呟く声が震えていた。
「ごめん… 俺が余計なこと言ったから…」
「本当にね… ガキに言われてようやく重い腰を上げるなんてね… アイツもバカよね……… 私もね…」
「何か飲む?」
早翔に視線を向ける蘭子の瞳は、赤く潤んでいた。
「寝不足みないな瞳だね」
蘭子がうつむき目を何度か瞬かせた。
「色々なことを思い出すの。昔々の色々なこと… ベッドで目を閉じると、ありとあらゆることが、昨日のことのように思い出されて眠れなくなるの… もう若くないってことかしら… 困ったものね」
そう言って、投げやりな笑いを漏らす。
早翔は蘭子を立たせ、バーカウンターまで連れて行く。スツールに座らせ、自身はカウンターの中に入ると、満面の笑みで蘭子を見つめた。
「なんだか新鮮だね」
「何が?」
「ここで、蘭子さんがちゃんとした服を着てる」
思ってもいなかった言葉を返され、蘭子がアハハと声を上げて笑った。
「リクエストある?」
蘭子は少し上のほうに目線を上げ、遠い目で宙を見る。何度か瞬きを繰り返し、ゆっくりと唇をほころばせた。
「ウェディングベル・ドライ…」
「ウェディングベル!」
早翔が大げさにビックリしたような声を上げ、フンと鼻で笑う。
「未練がましいな。ここはギムレットでお別れっていうならわかるのに」
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早翔が片頬をゆがめて苦笑し、カクテルを作り始めた。
その姿をうっとりと眺めている蘭子の前に、シェイカーから美しい黄色のカクテルがグラスに注がれる。
一口、口に含むと、ニヤッと笑って半目で早翔を睨み付けた。
「何、これ… 注文と違いますけど、バーテンさん」
「同じオレンジビターを使った勝利の味。敗北の味は蘭子さんには似合わない」
蘭子から、はにかむような明るい笑みがこぼれる。
「ドライで悪くないわ」
「ナイン・ピックって言うんだ。ビリヤードの9番を落とす、勝利を意味する」
「ナイン・ピック…」
もう一口、口に含んで、美味しいと呟く。
「今日はこれで閉店。寝不足にはキツいでしょ」
「あら、あなたみたいなお子様と一緒にしないで。他のを作りなさい。あなたのカクテルを作る姿が見たいんだから…」
早翔が呆れたように蘭子を一瞥して、リキュールを選ぶ。
「あと一杯だけだよ。そのカクテルさ、別の説もあるんだ。ナインティーン・トゥエンティ・ピック・ミー・アップからソーダを抜いてできたカクテルって説。面白いよね、カクテルって」
言いながら視線を戻すと、蘭子はカウンターに突っ伏して眠っていた。
早翔は蘭子を優しく抱き上げ、ベッドまで運んだ。
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