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誤算(1)
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早翔は自分が立てた計画通りの年に、公認会計士2次試験に合格した。
「会社の会計部門の席を一つ開けた。実務経験を積むにはなかなかいい環境だぞ」
向井は、早翔に合否の結果を伝えに来いと仕事部屋に呼びつけておいて、その実、勝手に合否を調べて、勤務先まで用意していた。
「監査法人に入ろうと思ってるけど」
「どうせ長く勤務するなら早く入った方がいいだろう。それに監査法人はうちの会社に入ってからでも行かせてやる。」
「長く勤務って… 俺が蘭子さんの会社に?」
合格後の進路に関して、今まで話題にしたことはなかった。なのに既定路線のように、当然の選択として堂々と話す向井に、早翔が言葉を失う。混乱する頭を何とか働かせ、返す言葉を探す。
「お前の片割れはダメだったようだな」
突然、話を変えられ早翔の思考が止まる。
「直は、プライベートで大変だったから…」
草壁は、父親が脳梗塞で倒れて、しばらくは資格試験どころではなかった。
「まあ、逆に都合がいい。一度に二つの席は難しいが、来年ならあいつの分も用意できる」
いきなり草壁の進路にまで話が及び、その予想外の先走った言葉に慌てた。
「向井さん、性急すぎる。直も自分の考えがあるだろうし…」
「お前は、うちの会社に何か不満でもあるのか」
畳みかけるように話す向井に、「不満があるわけじゃ…」と返すと、またそれを遮る。
「蘭子も了承している」
「蘭子さんが?」
「自分で確認するか? ベッドの上で…」
向井がニヤけながら言う。
早翔がようやく気を取り直し、フンと鼻を鳴らして視線を逸らした。
「全然、連絡ないし、忙しいんじゃないの」
向井が「まあな…」と頷いて苦笑する。
「もう、自分のことのように喜んでたぞ。蘭子の満面の笑顔を見たのは初めてだ。むしろ笑うことができることに驚いた。いつもしかめっ面の女が笑うと、恐怖を感じる」
「何、言ってるんだよ。まさか蘭子さんは終始しかめっ面で笑わないとでも?」
呆れ顔で笑うと、「違うのか?」と返ってくる。
「ベッドの上でも、しかめっ面してお前をいたぶってるんじゃないのか… どこ触られても無反応で」
唇をゆがめ茶化す向井の顔を、ため息交じりに半目で眺める。
「蘭子さんに報告しておくよ。俺が入社したとしても、向井さん、クビだね。残念だ」
冷めた口調で言い放つ早翔を、向井が押し倒す。
「悪党め。今夜は帰さんから、覚悟しろ」
向井が眼鏡を外すと、早翔の唇を乱暴にふさいだ。
早翔は、しばらくは達成感と開放感に包まれた気分で過ごしていた。多少、浮かれ過ぎているような気もしたが、たまには自分を甘やかすのも悪くないと開き直る。そして、それまでの、常に何かから追われるような生活にはなかった、心の余裕というものを初めて感じていた。
セブンジョーへ行くと、京極は目を潤ませて喜んでくれたが、唇を少し噛んで、複雑な表情を見せる。
「合格おめでとう… でも、合格すると、いよいよ早翔とのお別れが近いってことだよね」
「そんなに慌てて追い出さないで下さいよ。監査法人に入るまでは、しっかり仕事させてもらいますから」
早翔がことさら軽い口調で言うと、そうだねと京極が目を瞬かせる。
セブンジョーに入った頃は、一刻も早くこんなところは出て行ってやると思っていた。
高校を卒業して6年、ここから出て行くことに寂しさや切なさを感じる日が訪れるとは思ってもいなかった。
早翔にとってセブンジョーは、一つの通過点に過ぎず、そこには何の感慨もないはずだった。
それでも日々、緊張感を保ちながら仕事に臨み、その時々で自分のでき得る限りのことをしようと心掛けて来た。
「早翔にはなるべく酒を飲ませないように、うまくやってあげて」
京極が同僚ホストにそう指示し、ホスト達の間ではそれが重要連絡事項のように、新人には必ず引き継がれるようになった。
「早翔さんは俺たちの給料計算、全部やってるんだから間違われたら困るし」
「早翔さん、会計の資格取る勉強してるらしい。会計するにも資格があったんすねぇ」
「京極さんが早翔さんに任せとけば、税務調査も怖くないって言ってたっすからね」
理解の度合いは違っても、皆、それぞれ理解を示して協力してくれていた。
気が付けば、単なる止まり木ではない確かな場所、大切な仕事仲間、貴重な時間となって早翔の胸に刻まれていた。
「俺、会計士よりこの仕事のほうが向いてるような気がしますよ。ここにずっと残ろうかな」
そう呟くと、京極は目を丸くして眉をひそめる。
「何言ってるの。早翔は、本来ならこんなところで働いてる人間じゃないんだから。いい? 感情に流されて自分を見失わないで。君は、そういうところがあるから、時々不安になるんだよ」
早翔は言葉に詰まり、京極を黙って見つめていた。
「何、その鳩が豆鉄砲を食らったような驚いた顔。俺だって長年この仕事してるんだから、人を見る目はあるつもりだけど」
「すみません。失礼な態度をとって…」
「そういう律儀さが、早翔はずっと変わらない。もったいないよ。こんなところで止まっているのは」
早翔が首を左右に振ると、京極が早翔の髪をくしゃくしゃと撫で、寂しそうに笑った。
「会社の会計部門の席を一つ開けた。実務経験を積むにはなかなかいい環境だぞ」
向井は、早翔に合否の結果を伝えに来いと仕事部屋に呼びつけておいて、その実、勝手に合否を調べて、勤務先まで用意していた。
「監査法人に入ろうと思ってるけど」
「どうせ長く勤務するなら早く入った方がいいだろう。それに監査法人はうちの会社に入ってからでも行かせてやる。」
「長く勤務って… 俺が蘭子さんの会社に?」
合格後の進路に関して、今まで話題にしたことはなかった。なのに既定路線のように、当然の選択として堂々と話す向井に、早翔が言葉を失う。混乱する頭を何とか働かせ、返す言葉を探す。
「お前の片割れはダメだったようだな」
突然、話を変えられ早翔の思考が止まる。
「直は、プライベートで大変だったから…」
草壁は、父親が脳梗塞で倒れて、しばらくは資格試験どころではなかった。
「まあ、逆に都合がいい。一度に二つの席は難しいが、来年ならあいつの分も用意できる」
いきなり草壁の進路にまで話が及び、その予想外の先走った言葉に慌てた。
「向井さん、性急すぎる。直も自分の考えがあるだろうし…」
「お前は、うちの会社に何か不満でもあるのか」
畳みかけるように話す向井に、「不満があるわけじゃ…」と返すと、またそれを遮る。
「蘭子も了承している」
「蘭子さんが?」
「自分で確認するか? ベッドの上で…」
向井がニヤけながら言う。
早翔がようやく気を取り直し、フンと鼻を鳴らして視線を逸らした。
「全然、連絡ないし、忙しいんじゃないの」
向井が「まあな…」と頷いて苦笑する。
「もう、自分のことのように喜んでたぞ。蘭子の満面の笑顔を見たのは初めてだ。むしろ笑うことができることに驚いた。いつもしかめっ面の女が笑うと、恐怖を感じる」
「何、言ってるんだよ。まさか蘭子さんは終始しかめっ面で笑わないとでも?」
呆れ顔で笑うと、「違うのか?」と返ってくる。
「ベッドの上でも、しかめっ面してお前をいたぶってるんじゃないのか… どこ触られても無反応で」
唇をゆがめ茶化す向井の顔を、ため息交じりに半目で眺める。
「蘭子さんに報告しておくよ。俺が入社したとしても、向井さん、クビだね。残念だ」
冷めた口調で言い放つ早翔を、向井が押し倒す。
「悪党め。今夜は帰さんから、覚悟しろ」
向井が眼鏡を外すと、早翔の唇を乱暴にふさいだ。
早翔は、しばらくは達成感と開放感に包まれた気分で過ごしていた。多少、浮かれ過ぎているような気もしたが、たまには自分を甘やかすのも悪くないと開き直る。そして、それまでの、常に何かから追われるような生活にはなかった、心の余裕というものを初めて感じていた。
セブンジョーへ行くと、京極は目を潤ませて喜んでくれたが、唇を少し噛んで、複雑な表情を見せる。
「合格おめでとう… でも、合格すると、いよいよ早翔とのお別れが近いってことだよね」
「そんなに慌てて追い出さないで下さいよ。監査法人に入るまでは、しっかり仕事させてもらいますから」
早翔がことさら軽い口調で言うと、そうだねと京極が目を瞬かせる。
セブンジョーに入った頃は、一刻も早くこんなところは出て行ってやると思っていた。
高校を卒業して6年、ここから出て行くことに寂しさや切なさを感じる日が訪れるとは思ってもいなかった。
早翔にとってセブンジョーは、一つの通過点に過ぎず、そこには何の感慨もないはずだった。
それでも日々、緊張感を保ちながら仕事に臨み、その時々で自分のでき得る限りのことをしようと心掛けて来た。
「早翔にはなるべく酒を飲ませないように、うまくやってあげて」
京極が同僚ホストにそう指示し、ホスト達の間ではそれが重要連絡事項のように、新人には必ず引き継がれるようになった。
「早翔さんは俺たちの給料計算、全部やってるんだから間違われたら困るし」
「早翔さん、会計の資格取る勉強してるらしい。会計するにも資格があったんすねぇ」
「京極さんが早翔さんに任せとけば、税務調査も怖くないって言ってたっすからね」
理解の度合いは違っても、皆、それぞれ理解を示して協力してくれていた。
気が付けば、単なる止まり木ではない確かな場所、大切な仕事仲間、貴重な時間となって早翔の胸に刻まれていた。
「俺、会計士よりこの仕事のほうが向いてるような気がしますよ。ここにずっと残ろうかな」
そう呟くと、京極は目を丸くして眉をひそめる。
「何言ってるの。早翔は、本来ならこんなところで働いてる人間じゃないんだから。いい? 感情に流されて自分を見失わないで。君は、そういうところがあるから、時々不安になるんだよ」
早翔は言葉に詰まり、京極を黙って見つめていた。
「何、その鳩が豆鉄砲を食らったような驚いた顔。俺だって長年この仕事してるんだから、人を見る目はあるつもりだけど」
「すみません。失礼な態度をとって…」
「そういう律儀さが、早翔はずっと変わらない。もったいないよ。こんなところで止まっているのは」
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