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十一
王子の到来
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「そうだ。デスクにパソコンがなかったでしょ? 調子が悪くて、IT担当者に見てもらっていたの。もう直っているはずだから、アカウントの設定をしてもらってちょうだい」
三田さんが指示をする。
午後は仕事ができそうだと、私はホッとした。
オフィスに着くと、早速パソコンが届けられ、IT担当者とアカウントの設定をする。
雑用も色々頼まれたりと、忙しく過ごし、あっと言う間に帰る時間になった。
「行きましょ。近くに皆でよく行く居酒屋があるの」
鞄を腕に下げ、帰る準備を整えた三田さんが私を誘う。
私は先輩達とオフィスを後にした。
「あの王子、今日も来ていると思う?」
エレベーターを待っていると、佐藤さんが呟く。
「賭けない? 私はいないに千円」
小林さんが言うと、
「じゃあ、私はいるに千円」
と三田さんが続く。
「私はいない」、「いる」と、皆次々と賭けていく。
「七瀬さんは?」
三田さんが聞いた。
「王子って何のことですか?」
話についていけず、私は聞く。
「ああ、七瀬さんは今日が初日だから知らなかったわね。王子というのは、一週間前から帰宅時になると、会社の前の道路でアストンマーティンを止めて、誰かを待っている男のことよ。ルックスが良い上に、車がアストンマーチンだから、王子と呼んでいるの」
エレベーターに乗りながら、三田さんが説明する。
アストンマーティン? 彼の車もそういう名前だったような?
車に疎い私は、彼の車の名前もうろ覚えだった。
「残業した人の情報と合わせると、だいたい定時から二時間くらいは待ってるそうよ。でも誰も乗せずに帰っちゃうの」
「誰かを探しているんじゃないかって、皆で推測しているんだけど――」
「その誰かってやっぱり恋人よね。別れて連絡先も失ったけど、ここに勤めているのは分かっていて、彼女のことが忘れられず探している、とか。妄想が広がっちゃう」
「幸せ者ね、王子にそんなにも探し求められて。羨ましすぎる。どんな女性だろ?」
王子の話題に盛り上がりながら、エレベーターを降りる。
「いるいる。私の勝ちね」
会社の入り口に差し掛かると、小林さんがドア越しに見えるシルバーの車を指して叫ぶ。
彼の車に似ている。似ているけど、まさか――
「ね、誰を探しているんですかって、聞いてみない? 案外知っている人かもよ」
佐藤さんが興奮気味に言う。
「それいいわね。毎日待っているんだもの。もしかしたら、会社を辞めた人かもしれないし」
外に出ると、三田さんが率先して、アストンマーティンに向かった。
それに気がついたのか、車のドアを開けて、中から誰かが出てくる。
その姿を見て、私の息が止まった。
これは現実? まさか、あの忙しい彼が本当に――?
「コウセイ……」
アストンマーティンの前に立ったのは、紛れもなく藤原晃成だった。
彼の視線は、真っ直ぐ私に注がれている。
三田さんが彼の視線をたどって、私を振り向いた。
「もしかして、七瀬さんの婚約者って……」
皆が私と彼を交互に見守る中、私は頷いた。
「充希」
彼が近づいてくる。
彼に道を譲るように、皆が私から退いた。
「やっと見つけた」
私の前で、彼が立ち止まる。
彼以外、何もかもがボヤけて見えなくなった。
「どうして……?」
まだ衝撃から立ち直れない。
「謝りたかったんだ。あの夜のことを」
「あの夜のことは、私が悪かったの。謝るのは私の方――」
「謝らなくていい。君の想いを推し量るような真似をして、自業自得だ。君と佐倉の関係を信じられなかったわけではないんだ。君の中で佐倉の存在が、俺以上に大きいことに嫉妬していたんだ」
彼の瞳が私だけを見つめていた。
「俺達はまだ付き合いが短い。俺の存在がまだ小さくて当たり前だ。なのに、俺は焦っていたんだ。俺達はこれからだというのに……すまない」
彼が私の左手を取る。
ポケットから何かを取り出すと、彼がソレを私に差し出した。
「これを受け取ってくれるか?」
婚約指輪……私が彼に突き返した……
私は彼を見上げた。
彼はあの時と同じ表情をしていた。
温泉旅行の時と同じ……
あの時は彼がどういう気持ちでいるのか分からず、不安になったけど、今なら分かる。
彼が緊張しているということが。
私は小さく頷いた。
彼の表情が緩む。
私の左手を握る彼の手から、熱が伝わった。
指輪が私の左手の薬指にはめられる。
瞬間、ドッと拍手が沸いた。
「おめでとっ」という声に、ボヤやけていた周囲が突然はっきりする。
背後で、先輩達が私と彼を祝福していた。
ずっと先輩達に見守られていたなんて!
頭からつま先まで、血が沸騰するように熱くなる。
「悪いっ。君に逃げられやしないかとそればかりで、周りが見えなくなっていた」
彼が不味ったというように、額に手を当てる。
「この場は帰るべきとも思ったんだけど、折角じゃない? 気配を消して、見させてもらったわ」
小林さんが茶化すと、
「恋愛するってやっぱりいいなって、思わされた」
と佐藤さんが感想を言う。
「私も触発されちゃった。佐倉課長ばかり追ってないで、私も婚活してみようかな。明日、どこの結婚相談所で知り合ったか教えてね。歓迎会は後々ってことで、私達は退散するから」
三田さんがその場をまとめ駅の方へ歩き始めると、皆も私に手を振って後に続く。
恥ずかしさを克服できないまま、彼とその後ろ姿を呆然と見送った。
婚約指輪がはめられた左手を、彼に握られながら――
三田さんが指示をする。
午後は仕事ができそうだと、私はホッとした。
オフィスに着くと、早速パソコンが届けられ、IT担当者とアカウントの設定をする。
雑用も色々頼まれたりと、忙しく過ごし、あっと言う間に帰る時間になった。
「行きましょ。近くに皆でよく行く居酒屋があるの」
鞄を腕に下げ、帰る準備を整えた三田さんが私を誘う。
私は先輩達とオフィスを後にした。
「あの王子、今日も来ていると思う?」
エレベーターを待っていると、佐藤さんが呟く。
「賭けない? 私はいないに千円」
小林さんが言うと、
「じゃあ、私はいるに千円」
と三田さんが続く。
「私はいない」、「いる」と、皆次々と賭けていく。
「七瀬さんは?」
三田さんが聞いた。
「王子って何のことですか?」
話についていけず、私は聞く。
「ああ、七瀬さんは今日が初日だから知らなかったわね。王子というのは、一週間前から帰宅時になると、会社の前の道路でアストンマーティンを止めて、誰かを待っている男のことよ。ルックスが良い上に、車がアストンマーチンだから、王子と呼んでいるの」
エレベーターに乗りながら、三田さんが説明する。
アストンマーティン? 彼の車もそういう名前だったような?
車に疎い私は、彼の車の名前もうろ覚えだった。
「残業した人の情報と合わせると、だいたい定時から二時間くらいは待ってるそうよ。でも誰も乗せずに帰っちゃうの」
「誰かを探しているんじゃないかって、皆で推測しているんだけど――」
「その誰かってやっぱり恋人よね。別れて連絡先も失ったけど、ここに勤めているのは分かっていて、彼女のことが忘れられず探している、とか。妄想が広がっちゃう」
「幸せ者ね、王子にそんなにも探し求められて。羨ましすぎる。どんな女性だろ?」
王子の話題に盛り上がりながら、エレベーターを降りる。
「いるいる。私の勝ちね」
会社の入り口に差し掛かると、小林さんがドア越しに見えるシルバーの車を指して叫ぶ。
彼の車に似ている。似ているけど、まさか――
「ね、誰を探しているんですかって、聞いてみない? 案外知っている人かもよ」
佐藤さんが興奮気味に言う。
「それいいわね。毎日待っているんだもの。もしかしたら、会社を辞めた人かもしれないし」
外に出ると、三田さんが率先して、アストンマーティンに向かった。
それに気がついたのか、車のドアを開けて、中から誰かが出てくる。
その姿を見て、私の息が止まった。
これは現実? まさか、あの忙しい彼が本当に――?
「コウセイ……」
アストンマーティンの前に立ったのは、紛れもなく藤原晃成だった。
彼の視線は、真っ直ぐ私に注がれている。
三田さんが彼の視線をたどって、私を振り向いた。
「もしかして、七瀬さんの婚約者って……」
皆が私と彼を交互に見守る中、私は頷いた。
「充希」
彼が近づいてくる。
彼に道を譲るように、皆が私から退いた。
「やっと見つけた」
私の前で、彼が立ち止まる。
彼以外、何もかもがボヤけて見えなくなった。
「どうして……?」
まだ衝撃から立ち直れない。
「謝りたかったんだ。あの夜のことを」
「あの夜のことは、私が悪かったの。謝るのは私の方――」
「謝らなくていい。君の想いを推し量るような真似をして、自業自得だ。君と佐倉の関係を信じられなかったわけではないんだ。君の中で佐倉の存在が、俺以上に大きいことに嫉妬していたんだ」
彼の瞳が私だけを見つめていた。
「俺達はまだ付き合いが短い。俺の存在がまだ小さくて当たり前だ。なのに、俺は焦っていたんだ。俺達はこれからだというのに……すまない」
彼が私の左手を取る。
ポケットから何かを取り出すと、彼がソレを私に差し出した。
「これを受け取ってくれるか?」
婚約指輪……私が彼に突き返した……
私は彼を見上げた。
彼はあの時と同じ表情をしていた。
温泉旅行の時と同じ……
あの時は彼がどういう気持ちでいるのか分からず、不安になったけど、今なら分かる。
彼が緊張しているということが。
私は小さく頷いた。
彼の表情が緩む。
私の左手を握る彼の手から、熱が伝わった。
指輪が私の左手の薬指にはめられる。
瞬間、ドッと拍手が沸いた。
「おめでとっ」という声に、ボヤやけていた周囲が突然はっきりする。
背後で、先輩達が私と彼を祝福していた。
ずっと先輩達に見守られていたなんて!
頭からつま先まで、血が沸騰するように熱くなる。
「悪いっ。君に逃げられやしないかとそればかりで、周りが見えなくなっていた」
彼が不味ったというように、額に手を当てる。
「この場は帰るべきとも思ったんだけど、折角じゃない? 気配を消して、見させてもらったわ」
小林さんが茶化すと、
「恋愛するってやっぱりいいなって、思わされた」
と佐藤さんが感想を言う。
「私も触発されちゃった。佐倉課長ばかり追ってないで、私も婚活してみようかな。明日、どこの結婚相談所で知り合ったか教えてね。歓迎会は後々ってことで、私達は退散するから」
三田さんがその場をまとめ駅の方へ歩き始めると、皆も私に手を振って後に続く。
恥ずかしさを克服できないまま、彼とその後ろ姿を呆然と見送った。
婚約指輪がはめられた左手を、彼に握られながら――
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