親愛なる風の騎士様へ

筺 柚人

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14 夢の中でなら

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 夢の中で、ミランは一葉の舟だった。海に浮かべるには木の葉みたいで頼りない。けれど凪いだ水面はぷかぷかとその舟を受け入れていた。

 しかし目を離したすきに、急に嵐がやってくる。

 雷がごろごろ不穏な音を立て、風がしぶきをまきあげる。分厚い雲で暗くなった嵐の中で、大きな波で舟はぐらりと揺れ、転覆を今か今かと待っているようだ。

 その小舟のそばには大きな船が一隻、まるで先導するように波を進んでいた。



 船は帆にたっぷり風をうけ、ぐんぐんと前にいく。その速さは、海に住むという伝説の人魚が後ろから後押ししているようだ。

 みるみる間に遠ざかる船に、小舟は追い付けない。

 行ってほしくない。手を伸ばすように、ミランは祈る。

 待って。行かないで。見える範囲に、手が届く場所に、どうか居てほしい。



 祈れば叶う。そう信じれば、嵐はやがて去ってゆき、射した光の中、いつの間にか小舟に立っていたミランは、船にいる人影に気が付く。

 それは焦がれたあの人だ。

 緑の服をかっちり着こんで、剣を腰に下げながらもすっくと立っている。その人は両手を掲げ、まるで宝物を空から受け取るみたいに手を広げている。

 ミランは一歩踏み出す――直後、海に足を取られ、そのまま沈んでいった。



 苦しい。比喩ではなく溺れてしまう。鼻から口から耳から水が入り、体じゅう隙間なくその脅威が襲う。

 水面に突き出た手を取る人は誰もいない。

 手を伸ばしても届かないんじゃない。伸ばした手をとってもらえないだけだ。

 ミランはそのまま海に沈んでいく。







 **







 ぱちりと目を開いたその瞬間、ミランは息を吞んだ。背中がぐっしょり汗で濡れていて不愉快だ。全力で走った後のように心臓が軋んで息が荒い。

 いやな夢を見たはずなのに、かんじんの中身をちっとも思い出せなかった。最近こんなのばかりだ。

 身体を起こして目を伏せた折に、ベッドサイドに置いてある魔法具が目に付く。

 それが声を届けなくなってから、少しの時間が経っていた。



 暦は春になっていた。少しずつ街はそれまでの景色を取り戻す。

 色とりどりの花に、瑞々しい緑、どこからか聞こえる小鳥のさえずり。日が伸びて、人々は少しずつ起きる時間を早めていく。

 裏の民家では牛を飼っており、その牛も心なしか声が元気そうだ。間延びした鳴き声がそれまでより長く響く気がする。



 息と身支度を整えると、ミランは鳴き声に誘われるように外に出た。



 ちょうど隣の住人が窓を拭いていたところで、ミランは会釈しながら、玄関を掃き清める。

 この区画は日当たりがよく、日陰に残った雪は別として、だいぶ春らしくなっていた。

 大通りの噴水もやっと凍るのをやめ、街の風景の一つになっているだろう。



「ミラン、朝食だよ」

「はーい」



 呼びに来た母に返事をすると、ミランは家に入っていった。



「今日のパンはトリシャちゃんのレシピで作ってみたよ」

「へえ、美味しそうだ。角のパン屋は常連を一人なくしちまったな」

「あれはまた別さ。でも自分で作るってのもいいもんだねえ。パンを捏ねてると腹が立つことも忘れちまうよ」



 食卓のかごにパンが山盛り入っていた。ふっくらときつね色をしたパンは美味しそうに湯気を立てている。

 一つ取って割ってみると、中からむうっと湯気がたち、麦の香りが鼻孔をくすぐる。干したぶどうが巻き込んであるようで、甘酸っぱいような匂いが食欲を刺激した。



 母は最近、トリシャの料理教室に通い始めた。どういうツテがあったのか、マルティンにもアデルにも会っていないミランにはわからない。

 ただ、最近ミランがアデルの話をしなくなったことと、祖父が約束していたはずのチェスの練習をやめたことから、何かつながっているんだろうとは思う。

 気づいただけで何も聞かない。ミランはいま、日常を送るだけで精一杯だ。



 実は甘いもの好きな父が目を輝かせてパンを食べていたが、ふとミランに顔を向けた。



「もうそろそろすれば雪もなくなる。お前も一緒に隣町の仕入れに行こうか」

「俺も? いいの?」

「お前がいつまで経ってもちいちゃいもんだから忘れてたけど、立派な大人だからな。任せられることは任せていこうと思ってな」

「……そんなに子どもじゃないんだけど」

「だっはっは。俺の身長に届いてから言え」



 身長が止まって久しいミランは呆れ返った。無理なことを言う父の方が子どもっぽいというものだ。



「ああそうだ。お前には言い忘れてたけど、ヴィオレット料理教室の野菜をうちでも卸すことになったんだ」

「えっ、マルティンさんのところの野菜を? そんなに沢山作ってるの?」

「農園を見てきたが、思ってた倍は広かったぞ。あれは確かに自家消費だけじゃ厳しいだろうよ。よくよく聞けば、魔法で管理してるから季節が関係ないらしいんだ。あそこは最先端だな、魔石の値段が下がったら、農家もああいう風になるのかもしれない」



 水やりは水と風の魔石、気温の維持は火の魔石、土壌を良くするのに土の魔石を使っているらしい。日照は光の魔石で過不足なく行ない、育ちすぎを時の魔法で止めているというから、ほとんどの属性が使われていることがわかる。

 騎士団にそれだけ魔法使いが多い証拠だ。マルティンのあの気安さなら顔が広いだろうから、技術料をかけずにそのあたりの工面をしていそうだ。

 魔石は一度買えば十年はその効果を維持するが、それだけ長持ちするぶん、安価では買えない。手が届かず、昔ながらの生活を行っている家もあるくらいだ。

 例に漏れず、クラウゼ道具店でもそうだった。火は暖炉だし、水は井戸水だ。洗濯は裏庭の木に干している。



 おそらくこの家で一番高価なものは、金庫の防犯用の魔石と、アデルから貰ったマフラー、そして魔法具だろう。

 それほどに、魔法は珍しくないとはいえ、まだ希少価値が高いと言える。



「そうだ。昨日、あんたが酒場の仕事に行ってる時にレノアが駆け込んできて、薬を買っていったんだよ。なんでもミアが体調を崩しているらしくてさ」

「それは心配だね。見舞いに行こうかな」

「季節の変わり目で体調も崩すじゃろ。小さい子がかわいそうになあ」 

「ハーブティーを持って行けよ、風邪に効くのを仕入れたばかりだ」



 今日の仕事は午後からだ。

 ミランが起きる時間はいつもと変わらないけれど、酒場の翌日は、母が午前の店番をすることが多かった。気を遣ってくれているのだと思う。



 朝食の片付けを終えた後、父の勧めに従って、ハーブティーをいくつか詰めた袋と、ついでに母が焼いたばかりのパンを持ったミランはミアの家に向かった。

 首元には風よけとして例のマフラーをつけている。ミランはあの日からずっと、これが手放せないでいた。



 これから向かう区画は、子どもと暮らす一人親が多い。

 国は一人親に補助金を出している。この場所も施策の一環で、ミランは詳しくは知らないが、高いとはいえない針子の給料でも暮らしていける程度には助けになっているのだろう。



 子どもたちがはしゃいで遊んでいる公園を通り過ぎ、とある集合住宅の一階で、ミランは扉を叩いた。



「クラウゼ道具屋のミランです。ミアのお見舞いにきました」



 少しして、レノアは髪を下ろしたまま現れた。いつもは三つ編みなので、髪が腰まで伸びていると気が付かなかった。ずいぶんと長い。

 レノアは寝不足らしく、目が疲れたように落ちていた。そんなにミアは悪いのだろうか?



「わざわざすみません。こんな格好で失礼します」

「こちらこそ、突然申し訳ないです。ミアは大丈夫ですか?」

「熱が下がらなくて病院に行こうと思っていたところです。薬を飲ませても吐いてしまうので……」

「それは大変ですね。良かったら送っていきましょうか?」

「いえ、お手を煩わせるわけには……」

「ミラン……?」



 か細い声が聞こえたと思ったらミアだった。いつものよく通る声ではなく、荒れてがさついてしまっている。話すだけで喉が痛むことだろう。

 何枚も布団を引きずりながら、寝ているように言ったレノアを無視して、ミアは玄関までやってきた。



「ミラン、それなあに?」

「ハーブティーとパンだけど……」

「ちがう。首の。なんだかあったかいかんじがする」

「……これ?」



 マフラーをとって持たせてやると、ミアはほうと熱っぽいため息をついて、それに頬ずりをした。



「寒くないわ」

「確かにこれは、風を防ぐ糸が織られてるらしいけど……」



 常に隙間風に吹かれているならまだしも、この部屋はそんなに寒いとは思えなかった。現にミランの眼鏡は、中の熱気で一瞬だけ曇っていたくらいだ。



「駄目よミア、お返しして」

「いや! これ、あったかいもの!」

「そんな高価なもの、何かあったら困るでしょう!」

「いや! いや! いやなの!」



 マフラーを守るみたいに手を交差させて、ミアはしゃがみこんでしまった。ぼたぼた涙を流す姿が痛ましく映る。癇癪を起しているミアは、ある意味では年相応に見えた。

 困り果てるレノアに向かい、ミランは首を振った。



「きっと今のミアには必要なものなんですよ。お貸しします」

「まあ……、すみませんけどお借りします。ミア、ちゃんと返すのよ」



 ミアはすんすん鼻を鳴らして、傍らのレノアに寄りかかった。返事もなく、息が荒い。

 様子のおかしさにレノアはすぐ気が付いた。顔色を変えると、ミアの身体を抱きかかえようとする。

 ミランはその手を制した。



「かかりつけはありますか」



 レノアの目は迷っていたが、ミアが優先と判断したのだろう。



「大通りに向かって二本先で、このあたりの子はたいていそこに通ってます」

「先に受付を済ませてます。レノアさんは準備ができたら来てください」

「……ありがとうございます!」



 ミランはミアを抱えて走り出した。日当たりが良い区画が割り当てられているからか、道はだいぶ走りやすい。

 意識を失った子どもの身体は重く、十分もない距離とはいえ腕が重い。

 けれど、アデルに言われたストレッチはちゃんとしていたから、体は以前より軽かった。



 病院に駆け込むと、異常を察した職員によって迎えられた。緊急対応が必要と判断されたらしく、他の人に割り込む形での診察になるようだ。

 けしていい顔はされなかったけれど、ミアの苦しそうな様子に事情はわかってもらえたらしい。周囲の子連れの親に文句を言う人はいなかった。



「お父様ですか?」

「いえ、ただの知り合いです。母が後から来ます……レノアさん、こっちです!」



 レノアは真っ青な顔をしていた。着替える余裕もなくそのままの格好で、走ってきたらしく髪はぼさぼさだ。

 すぐに診察をするという職員と、周囲の親子にむかい何度も頭を下げている。

 ミランはミアを指示されたベッドに寝かせた。そのまま部屋を出ようとしたが、いつの間にかミアに服の裾を掴まれている。



 医師は恰幅の良い女性で、「あらあら」と笑って、ミランをそのままに診察を始めてしまった。

 ミランは仕方なしにベッドの隣で棒立ちだ。



 レノアに問診をしながら、その合間に聴診器でミアの身体の音を聴く。

 診断はすぐに出た。



「魔力酔いね。力が強い子だと、体がそれに耐えられなくなるのよ。この子は偉大な魔法使いになるわ」

「え?」

「風邪に見えるけれど、体が魔力に抵抗して炎症を起こしているだけでそれとは違うわ。すぐにできる具体的な対策は、相性の良い魔法具を身に着けて体内の力を散らしてやることなんだけど……」



 医師は首にかけていた眼鏡をかけると、ミアの首に巻いてあるマフラーを調べて、「やっぱり」と言った。



「この眼鏡は魔法が可視化できる特別な眼鏡よ。このマフラーには風の魔法が織り込まれてるわね。これを離さないってことは、この子は光の魔法を持っているってことだわ。風と光は相性が良いの。これはどうやって?」

「……俺が、知り合いから貰ったものです」

「なるほどね。小さい子が持つにはちょっと高額すぎるものね」



 それからミランを見て、「あらやだ」と目を丸くする。



「あなたは魔法使いじゃないわよね? 魔力器官が見えないもの」

「魔力器官……?」

「魔法使いって、先天的に魔力器官と呼ばれる臓器を一つ、心臓の近くに宿して生まれてくるのよ。ふつうの人間も魔力はあれど、魔法という現象を起こすまでの力はないの。だからそれがあるかないか、丈夫かどうかが魔法の強さに繋がるの」



 初めて聞く話に、ミランもレノアも顔を見合わせた。つまりミアも、この魔力器官を持っているということなのだろう。

 けれど、どうしてミランにそんな質問をするのだろうか。訝しく思っていると、その医師はにやりと笑って続けた。



「あなたは器官がないのに風の魔法を身にまとってる。恋人かしら? すごい執着よ。この子があなたを離さないのもそのせいね、あなたのそばは居心地がいいんだわ」

「……」



 誇張抜きで、息が止まった。良ければ見て見る? と眼鏡を貸され、ミランは震える指でそれを付け替える。

 職員が運んできた鏡には見慣れた自分の姿が映っていた。

 平均よりもやや低い背、長い黒髪。今は前髪を避けているせいで、鏡越しに眼鏡をかけた自分の顔がよく見える。

 けれど見慣れないのは、緑色のもやみたいな帯が、自分の身体に纏わりついていることだった。まるでさなぎを守る繭のように、その帯が身体を包んでいる。



「……どうして」

「え?」

「……なんで……守れないって言ったのに……」



 知らなかった。自分はこんなにも彼に守られていた。こうしてここで話を聞かなければ、ミランはずっと気が付かなかっただろう。

 こんなに思ってくれているのに、ミランはまた何もせずに終わろうとしていた。

 相手の言葉を受け入れるふりで、自分の心を押しつぶし。相手の言葉の裏面を受け取ることができなかった。



 守れないと言った言葉は真実だったろう。けれど、守りたいと思った感情もまた、アデルにとって事実なのだ。

 この世のすべてから守りたいという言葉が、ミランの耳に蘇る。



「……ミラン……? どうしたの……? 泣いてるの……?」



 目を覚ましたミアが、ミランにそう囁きかけた。



「だいじょうぶ、ミアがまもってあげる。ミアは魔法使いになるんだから……」

「……うん」

「泣かないで、ミラン……」



 ミランはどうにか医師に眼鏡を返すと、ミアを抱きしめてわんわん泣いた。

 小さな手がミランの身体をそっと撫でるのが、無性に切なかった。







 **







 結局、ミランはミアにマフラーをあげることにした。これから夏になるにつれて暑くなるが、糸を解いても効果は消えないらしく、子どもが使うには長いそれを、レノアが解いてなにか別のものにするらしい。

 ミランには風の加護がついている。そう思うと、アデルも可愛がっているミアにそれをあげるのは、けして悪いことではないと思った。



 号泣してしまった手前、レノアと話すのは気まずかったが、レノアのほうも高価なものをいただいたという申し訳なさで、二人して同じようにぺこぺこ頭を下げてばかりだった。ミアがいちばんどんと構えていて、すっかり体調がよくなった今では「もうおしまい!」とこましゃくれた仲裁をしてくれた。



 あれからミランは、散歩に行くことが増えた。見回り先でアデルと鉢合わせないか探すためである。

 また、酒場で働く回数も増えた。事情を知っているマルティンが、頑なになっているアデルに直接会いに行くのは逆効果ということで、家に行くのは控えている。



「あいつ、今は誘っても来ないから酒場で会うのは難しいかもしれないけど、騎士団の用事で使うことがあるかもしれないからさ。回りくどいけど、そうしてよ」



 店に並べる野菜を取りに行ったその日、非番のマルティンが待っていてくれた。

 彼は最近、やたらとアデルのしごきがきつくなったと怯える隊員への対処で忙しいらしい。

 世間は雪解けを迎えたのに、アデルは凍てつく氷山よろしく態度が冷えているようだ。

 笑わなくなり、訓練でかけていた容赦が減った。他の隊に比べればまだ優しいらしいが、それまでの落差のせいで、皆慣れないということだ。

 そのかわりに美貌は冴え、隊員のあいだではおかしな層のファンが増えて、マルティンはその対応にも難儀しているという。



「あいつは子どものまま止まってるんだよ。家族を亡くした時みたいに、大切なものは自分から全部遠のくと思ってる。だから恋人も作らず、自分は誰かの人生の黒子でいいって態度をしていたんだ」

「黒子……。アデル様ってそんなに生やさしい存在感じゃないですよね」

「そう、その通り! あれはどう見ても主人公みたいな奴だろ。顔が良くて、背が高くて、声が良くて、剣の腕も立つ」

「外見ばっかりじゃないですか」

「わざとだよ。……あいつ、その自覚はあるんだよ。でも内面の自覚はまるでない」



 優しくて、でも少し臆病で。勇敢なのに傷つきやすくて、大切な人を守れないくらいなら手放してしまえという潔癖さもある。



「面倒な奴だろ?」

「……俺もそうなので、お似合いだと思います」

「お、言うようになったね」



 マルティンは喉の奥で唸るみたいに、低く笑いながら言った。



 台車に乗せるのは彼が丹精こめて作った野菜たち。春野菜の収穫には少し早いけれど、いくつか先取りでそれを卸してくれた。

 春なのだ。もう冬ではない。それをアデルも知るべきだとミランは思う。



「アデル様って、縁があったらってよく言うじゃないですか」

「そうだね」

「あの言葉って不思議だなって思ってましたけど、アデル様は今まで諦めることが多かったからその言葉が出るのかなって思うようになりました」



 物事のはじめと終わりは決まっていて、自分は結果にいたるまでの過程を選んだだけ。

 潔いとも言えよう。同時に、諦めているとも言える。



「俺は嫌なことがあると、なんで自分はこんな風なんだって思います。言ってしまえば、俺がもう少し何かしていたら結果は変わっていたんじゃないかと信じてるってことだと思うんです。もちろん、うまくいくことばかりじゃないけれど……。俺は諦めが悪いんです」

「……いいと思うよ。それくらいしぶとくなきゃ、あいつの相手は務まらないよ」



 マルティンはふと、自分のこめかみをこつりと叩いた。



「眼鏡、やめたんだね」

「はい。今度は髪も切りますよ。あの人にちょっとでも気にしてもらえるならなんだってします」

「うん、その調子であいつ好みになってくれ。フリューゲルにとってのフライアみたいにさ」

「そういえば、その話ってなんだったんですか?」



 尋ねると、マルティンは唸りながら中空を見つめた。



「……ま、ミランを放っておくあいつが悪いか。これはね、作者が書いた、いわゆるもしもの話なんだけど」



 フリューゲル騎士物語が児童書に位置づけられるのはミランも知っての通りだ。しかし、一部のファンは恋愛物語としてそれを見ている。

 それを知った作者は、ある一冊だけ、著者の名前を変えて大人向けの話を書いた。それは官能小説の一種とみなされ、すぐに回収されたらしかったが。



「親から虐待されてたフレイアを攫って、自分の正体を知らせずに、自分好みの女に育てるって話なんだよ。その世界観ではフリューゲルは騎士王になってて、美しく器量よしに育ったフレイアは王に嫁入りすることになる。フリューゲルを愛したフレイアが他の男に暴かれるなんてって自害しようとしたところを、実は騎士王でしたーって正体ばらして、おいしく頂いちゃうの」

「……それは確かに児童書では書けませんね」

「だろ? 美談といえばそうかもしれないけど、やってたことは人さらいに監禁だからさ。まっとうな騎士のフリューゲルがそれじゃあいかんだろうってことで、批判の嵐よ。ミランがまだ字も読めないような小さいころの話だろうから、知らなくても不思議じゃないよ」



 もしもとはいえ、作者が考えたフリューゲルにそんな未来があったと思うと、ちょっとびっくりしてしまう。

 品行方正、騎士道精神に乗っ取った、けれど女癖の悪さが玉にきずの風の騎士。

 完璧ではないのだ。物語の中にあるからといって、フリューゲルは全て正しいわけじゃない。本当に、フリューゲルとアデルは似ている。



 ミランはマルティンに礼を言って辞すると、台車を引きながらゆっくりと歩き出した。

 いつかアデルが歌っていた鼻唄を、ミランはなぞりながら歩いた。

 音階は曖昧なので合っているかはわからないけれど、それでもいいのだ。



「完璧じゃないから人は頑張るんだもんな」



 見上げた空は高く、すっきりと晴れ渡っている。

 この空の下のどこか、アデルに届くように、ミランは唄を歌い続けた。
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