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第Ⅹ章
振り向かずに突っ走れ
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通り一つを隔てた所で、シンイチロウはスティードを停めた。キーもエンジンに付けたままにしておく。脱いだヘルメットもそのままぶら下げた。どうせ時間を掛けることは出来ないのだ。掛かり過ぎれば、それは二度とこいつに乗れないことを意味する。
小さな紙切れを取り出した。湖までの地図。使いたくはない。自分で小夜子を連れて行くのだ。だからそんな紙切れは必要はない。
しかし、万が一のために持っておくことにしよう。それが必要になるのはきっと、文字通り一万回に一度の事だろう。今日はそれの第一回目というだけのことなのだ。紙切れをポケットにしまうと、シンイチロウは腹に呑んだドスを確かめて、走り出した。
流石に警戒は厳重だった。しかし、ついこの前まで自分が警護していた家だ。勝手は分かっている。月夜はやや雲に隠れている。多少は好都合だ。
外の警護が交代した。その隙に塀に取り付いた。それ程の高さではない。攀じ登って中を見た。すぐに飛び降りた。竹を植えた築山になっている。姿は隠せる。
暫く待った。内側の警戒も甘くはないようだ。しかし、気が付かれてはいない。大軍が押し寄せることはみな警戒しているようだったが、特殊部隊が来ようとは誰も思っていないようだった。音を立てずに動いた。身を隠せるギリギリまで近づいた。
外から伺う限りでは、明かりの様子から、小夜子はどうやら部屋にいるようだった。
しかし、これ以上見つからずに近寄ることは、もう無理だろう。シンイチロウは待った。人の臭いが流れるのを待った。その鋭い嗅覚が臭いを嗅ぎつけ、耳が気配を察するのを待った。
待った甲斐はあった。
シンイチロウはニヤリと笑うと、人差し指を口にあてた。躾通り吠えることもなく、大五郎は寄ってきた。頭をさすると、嬉しそうに押し付けて来た。シンイチロウは大五郎の顔を両手で優しく包み込み、しっかりと眼を見た。そして小夜子の部屋を指さした。
大五郎はもう一度頭をシンイチロウに擦り付けると、くるりと背を向けて小夜子の部屋の前まで歩いて行った。そして三度吠えた。
「チャン、チャン、チャン。」
相変わらず変な声だった。
小夜子が出てきた。警備の男も一緒についてきた。
大五郎が男に向けて、低い唸り声をあげた。
いつものことなのか、気味悪がった警備の男は、辺りを見回すとそのまま部屋に戻って行った。小夜子も大五郎の頭を軽くなでると、同じように部屋に戻ろうとした。
ダメか。ダメならもう出ていくしかなかった。大五郎はよくやってくれた。
シンイチロウが諦めかけて、飛び出そうとした瞬間、大五郎がもう一声小さく吠えて、振り返った。その視線を追う小夜子の眼が、シンイチロウを捕らえた。
何事もなかったかのようにシンイチロウから視線を外すと、小夜子は一度廊下の向こうに消えた。するとすぐに、スニーカーを持って戻ってきた。縁側に腰を下ろし、スニーカーを履く。警備の組員が寄ってきた。そばで大五郎が睨みつけて、唸った。
「ちょっと散歩したらすぐに戻ります。この子も緊張しているみたいなので。」
組員はチラッと大五郎を見ると、肩を竦めて離れて行った。
散歩のようにゆっくりと、小夜子と大五郎は近づいてきた。
よし、とシンイチロウは思った。もう少しだ。その時間がやたらと長く感じられた。もう少しの我慢だ。頭では理解していた。身体が我慢しきれなかった。
「さぁ、早く!」
シンイチロウは身を乗り出して叫んだ。
シンイチロウの姿をみると、迷わず小夜子は走り出した。ただ、ほんの少し走り出すのが早すぎた。
組員が怒鳴った。大五郎が吼えた。シンイチロウも叫んだ。小夜子の手を握った。そのまま走った。走りながら紙切れをその手にねじ込んだ。塀に駆け寄り、その身体を押し上げた。組員たちが追ってくるのが、その足音で分かった。小夜子が乗り越えた。叫んだ。
「左だ。」
シンイチロウは振り返った。銃口が眼に入った。ドスでは遠すぎた。紙切れを持ってきた自分を誉めてやろうと思った。
何かが横から飛びついたのが見えた。大五郎だ。銃声はあらぬ方向へ響いた。頭を撫でてやりたかった。すぐに諦めた。
シンイチロウは壁に飛びつき、そのまま道へと身体ごと落ちた。小夜子は既に走り出していた。すぐさまシンイチロウも後を追った。その先には痺れを切らしたスティードが待っていた。
小夜子が跨るのが見えた。
そうだ、その乗り方を教えたのは俺だ。間違いはない。そう思うとシンイチロウはなにか誇らしかった。後部シートか、それも悪くないだろう。しっかりと小夜子の腰を掴んでやろう。その腰はもうすぐだ。
ふくらはぎが焼けた。気が付くと眼の前にアスファルトが見えた。立とうと思った。転んだ。初めて撃たれたとわかった。小夜子が振りむいて、シンイチロウに気が付いた。
「行け!」
叫んだ。
銃声は聞こえない。
なるほど、射程に小夜子が入っているのだ。やたらと撃つことは出来ない。そう思いながら、よろけるように立ち上がった。
「行け!」
もう一度叫んだ。
小夜子は握りしめた紙切れを見つめると、スロットルを思い切りふかした。
「振り返らずに突っ走れ。」
次の瞬間、バイクは猛スピードで走り去った。
小夜子とはサヨナラだ。その向こうに待つはずのものともサヨナラだ。走れ、何処までも。決して止まらずに、その向こうまで、振り向かずに突っ走るのだ。
柄を握った。振り向きざまに引き抜いた。背中でスティードがサヨナラといっているようだった。「あばよ。」という代わりに、シンイチロウは叫びながら男たちの中に突っ込んでいった。
挨拶は銃声だった。「こんにちわ」とは聞こえなかった。ただ、身体のどこかが焼けるのが分かった。そこまでだった。
ブラックホールが見えないのは何故か?それはブラックホールの崩壊した質量が、巨大な引力となって、光を離さないからだ。光のスピードをもってしても、そこから逃れることは出来ない。光は決して、光のスピードを超えることは出来ないからだ。
『ヒデキとレオナか。』
一人、ハンタロウは考えていた。逃げたければ、逃げたいだけ逃げればいい。ただし、そのためには、逃げ足は速くなければならないだろう。速くなりたければ、速くなりたいだけなればいい。しかし、所詮、無限に速くなることなどできはしない。そろそろそれに気が付く頃だろう。逃げれば逃げるほど、加速すれば加速するほど、それが重たくのしかかる事だろう。重さは速さと比例して増大することだろう。重さは着実に無限大となるまで増大するのだ。それが分かった時、もがく光がブラックホールから抜け出せないように、二人は戻ってくるはずだ。それまで待っても遅くはない。
ハンタロウには待つ余裕があった。嘗てはヒデキが切り札であり、レオナも別な意味での切り札だった。しかし、それはその時だけ使える、手札としてのエースだ。そしてそのエースは、場に晒すことに意味があり、一度晒せば、再び手元に戻す必要のない手札だった。
元々、関が死のうが死ぬまいが、ハンタロウにとってはあまり意味のない話だった。たとえしくじったとしても、狙われたというその事実自体が口実となる。関と平賀と、その何れに非があろうと、責められるべきは世代だった。終わろうとする世代だった。一つの時代の責任を負うのは、その時代に生きた世代であり、その時代を終わらすのは、その次の時代に生きるものの役目なのだ。そして、次の時代を生きる世代には、ビジネスという後ろ盾が付いている。それを理解させるのが一回目のゲームだ。
次は、二回目のゲームにアンティを払おう。今度はもっと面白いゲームになるだろう。勿論、二回目のゲームに勝つためには、一回目で晒したカードは使えない。既にディーラーはカードをシャッフルし、新しいカードを配ろうとしているのだ。使い古したカードは捨てて、新しいカードを待つのがルールだ。
しかしそれでも、ハンタロウにはまだ余裕があった。何故なら二回目のゲームにも通用する切り札を握っていたからだ。どんなカードが配られようと、その切り札がハンタロウの手にある限り、ゲームには勝ったのも同然だった。
小夜子というエース。
電話が鳴った。コードレスの「通話」を押す指は、相変わらず落ち着いていた。
会話は短かった。カードが一枚足りなくなったと言っていた。そのカードはエースだった。
再び、「通話」を押した指は、僅かながら震えていた。ハンタロウは余裕を一瞬で使い果たしたことを理解した。理性がコードレスを窓に叩きつけるのを抑制した。その理性が、二回目のゲームを終わらせろと命じていた。そのためには手段を選ぶ余裕もないことも、ハンタロウは理解した。
小夜子は随分と走った気がした。既に紙切れを五回ほど見返した。こんな山にこんな道があることを、小夜子は初めて知った。山の自然が、こんなにも複雑な物とは思ってもいなかった。小さな街の自然が、意外に大きいことに感心していた。少なくとも小夜子にとっては、これまで生きていた場所が小さく感じられた。
もう一度紙切れを確かめるために、スティードを止めた。確かめようとしたが、殴り書きの紙片は、すでにどちらを上にすればいいのか、分からなくなっていた。しかし、焦りはしなかった。暗くて鬱蒼としていたが、山は小夜子の気持ちを落ち着かせた。この山のどこかにあるその場所は、決して遠くはない。
スティードを道の脇から、藪の中へ押し入れた。周りの小枝を集めて、その上に横になった。木々の間から星が見えた。一つ一つの星が、父のようで、ハンタロウのようで、今まで出会った人たちのようであった。
あの時、大五郎が見えた。「チャン」と鳴いて、小夜子の身体をシンイチロウの方へ突き飛ばしたのだ。
その後を小夜子は知らなかった。
シンイチロウが、「行け!」と叫ぶのが聞こえた。振り向かずに突っ走れ、と背中で叫んでいた。命を賭けているのが、見えてもいないのに手に取るようにわかった。身体が勝手に動いて、気が付いたらバイクを発進させていた。無心でバイクを飛ばした。言われた通り、一度も振り返らなかった。
だから、その後を小夜子は知らなかった。
知りたかった。
思えば多くのことが、ある瞬間から知りえないものへと変わっていった。
レオナはどうしているのだろう、と小夜子は思った。
「ある」ことも「ない」ことも、それは結局分からない、とレオナは言った。でも、それは「ある」のだから、怖がる必要はない、とも言った。
その通りだ。どこにいるのか、何をしているのか、そんなことは分からなくても、それが「ある」ことは確かだ。だから怖くはなかった。
でも、会いたかった。
夜は寒くはなかった。徐々に朝へと向かっていた。
やはり会いたかった。
もう何年も会っていない気がする。いや、正確に言えば、二人で会ったと言えるのは一度きりなのだ。
眼を閉じた。そして何度も何度も思い出したように、小夜子は再び、あのラブラドールの夜を思い出した。
椅子とベッドが浮かんできた。ルームライトと夜景が見えた。扉が見えた。その扉を開けたのは、小夜子自身だった。スーツが見えた。チンピラっぽく、オープンシャツを外に出していた。シャツからのぞく素肌を眼で辿った。のどぼとけが大きかった。そして、、、
何故か顔が浮かんでくるのに時間が掛かった。まるで、どんな顔をしようかと迷っているかのように。
やがて、緊張した面持ちのヒデキの顔が浮かんできた。しかし、その表情はすぐに綻んだ。何度も何度も思い出したから、もう既に二人は他人行儀ではないのだ。何度も何度も瞼に浮かべたから、眼を見れば何を考えているのか、すぐにわかるのだ。
しかし、浮かぶのはそこまでだ。その眼は、そこから何も語ってはくれないのだ。だからいつも涙が出てくるのだ。
しかし、その涙は何時もの涙とは違って温かかった。ここはもう山なのだ。その場所はもうすぐそばなのだ。止まってしまった二人の瞬間は、また再びその場所から始まるのだ。それは必ず始まるだろう。きっとこの仮説は証明されるだろう。
今しばらく信じるのだ。それが信じる意思など必要のない事実となるのは、遠い未来の話ではない。もうすぐそこだ。
夜が明けようとしていた。もう少しだけ目を閉じていようと小夜子は思った。忙しい街とは違って、穏やかに流れる山の時間が、ゆっくりと過ぎて行った。
夢のようだった。
しかし、それは夢ではなかった。身体の痛みが、現実を証明していた。眼を閉じたままシンイチロウは思い出そうとした。小夜子、昔の仲間、銃声、ふくらはぎ、肩、太腿、覚えているのはそこまでだった。
呻いた。物凄く熱かった。身体中が沸騰して、今にも蒸発してしまいそうだった。右のふくらはぎ、右の肩、右の太腿、全部右だ。そうと考えられるくらい、意識ははっきりしていた。
助かった。どうやら死ななかったらしい。笑おうとしたが、呻くことしかできなかった。
ゆっくりと眼を開けた。
知っている空間だった。ぼんやりと眼に映るものが懐かしかった。何時見たのだろうか、と考えた。考えていると、少しは熱さを忘れることが出来た。何か、遠い昔に来たことがあるように思えた。起きようとしたが無理だった。どうやらマットレスに寝かされているようだった。仕方なく頭を横に寝かせた。向こうの壁が見えた。弾けたコンクリートはまだそのままだった。
二日前。たった二日で全てが変わった。
再び眼を閉じた。
閉じると、二日前が見えてきた。この倉庫で、ヒデキと拳銃の練習をしていた。的に当てたヒデキが嬉しそうに振り返った。シンイチロウは、笑って肩を竦めた。
ドアが開いた。ハンタロウが立っていた。ヒデキもシンイチロウもその顔を見るのが嬉しかった。それから、ハンタロウが何か難しい説明をした。理屈は分かったようで分からなかったが、何故か楽しかった。そしてハンタロウが言った言葉だけが、何故か耳に残った。
「アインシュタイン。」
そうだ、銃を撃つ時にはこいつを言わなきゃ始まらない。
ヒデキもきっと言ったことだろう。奴らはきっと言わなかったのだろう。ヒデキは関を殺り、奴らは、
『俺を殺れなかったのだから。』
ドアが開く音が聞こえた。
あの時と同じように、ハンタロウが立っているのが見えた。ただその顔を見ても、何も嬉しくはなかった。
ハンタロウは何も言わず近づいた。転がっている眼も、何も言わずこちらを見上げていた。そのまま近づき、その眼を見降ろした。そして、口を開いた。
「久しぶりだな、シンイチロウ。」
口は開かず、眼だけが見つめていた。血だらけになった身体で、眼だけが生き生きとしていた。
何がこいつの眼をそうさせるのか。それがこいつのロマンという奴か。
「挨拶はするもんだ。」
つま先で肩を小突いた。
押し殺した呻き声が返ってきた。しかし、視線は外れなかった。
ハンタロウも外さなかった。ロマンだと、笑わせるな。そんなもののため、生まれてこようとする時代を台無しにさせるわけにはいかない。そんなもので世界など変えられるわけなどない。ましてや、時の流れを逆行させることなど出来はしない。
「見上げたもんじゃねぇか。三発食らっても生きているとはよ。」
眼は相変わらず見つめていた。
憎しみなら憎しみで、哀願なら哀願で、それはそれでいいだろう。しかし、その眼はそれら何れでもなかった。ハンタロウには、それが許せなかった。
ゆっくりと見つめ返しながら、ハンタロウは思った。生みの苦しみは、女だろうとヤクザだろうと同じだ。新しい時代を生むためには、犠牲は避けることはできない。その犠牲が、ヒデキであり、レオナであるはずだった。それは私利でも私欲でもなければ、偽善などでもなかった。変わろうとする時代の狭間に生きた者たちの宿命なのだ。そしてその宿命こそが、この世に生を受けた無数の生命体の中で、選ばれたことを自覚できる少数者の特権なのだ。
だからこそ、犠牲の果てにやってくる新しい時代の苦難を、ハンタロウが一人で背負うことができるのだ。それは高揚もせず動揺もしない、平和の時代の苦難なのだ。その苦難こそが最も耐え難く、最も退屈で、そして最も重要な苦難なのだ。
誰がそれを理解することだろう。愛するものを振り切り、信じるものを捨て去り、黙々と新しい時代を築くのだ。英雄的でもなく、劇的でもない、ただの日常を築くのだ。それを築こうとすることこそ、真の勇気が必要とされることなのだ。
「さぁ、本題に入ろうか。」
眼はそれでも泳がなかった。
そんな眼をしなくても、俺はお前が十分に羨ましい、そういってやりたかった。そうやって、時代のために恥ずかしげもなく英雄的な行為を行えることが羨ましかった。自ら選びもせずに、歴史にその名を残せることが、羨ましかった。
「小夜子はどこだ?」
本題に入った。
眼は見続けることを止めず、答えは返ってこなかった。その眼は、まさかハンタロウが答えを聞けるとは思っていない、という確信を諦めてはいなかった。
もう一度聞いた。
「小夜子はどこだ?」
答えはなかった。
諦めたくはなかった。ロマンに負けるなど、信じたくはなかった。もう一つだけ聞いた。
「何がお前をそうさせるんだ。」
初めて、シンイチロウが答えた。
「ア・イ・ン・シュ・タ・イ・ン」
諦めた、あるいは諦めさせられた。どちらでもいいことだ。
心の中で呟いた。呟かざるにはいられなかった。
『サヨナラだ、シンイチロウ。時代は変わったんだ。』
ハンタロウはホルスターからワルサーを取り出すと、狙いも定めずに引き金を引いた。
狙いもしないのに、心臓に穴が開いた、眼があらぬ方向を向いた。
その眼は、ハンタロウを見つめるのは止めても、それ以外の何かを見つめているようだった。
羨ましかった。すぐさま、その感情を消し去った。
長かった夜が、ようやく明けた。
すがすがしい朝の空気の中を、清掃車が移動していた。街の中心部、繁華街のごみは前日の夜に出される。清掃員は朝早くからそれらを回収した後、住宅街へと向かうのだ。従って、それよりも早ければ、人通りのない繁華街には、ごみだけがいる。
清掃車は停まり、男がごみを集め始めた。
「コラ、あっちへ行け。」
カラスを追い払いながら、男はごみを清掃車へと放り込んでいた。
舌打ちしながら男が言った。
「まただ。」
相方の若造はすぐにさぼりやがる。最近の若いのには根性がない。ゴミを集めるのにも、根性は必要だ。そんな時代なのだ。
「オーイ、何やってんだ、コラ。」
男は相方を探して、車道の方に回った。その若造は立っていた.
「早くしねぇか、全く。ちっとは仕事しろ。」
若造は振り返り、そして見ていた方向を顎でしゃくった。その眼は怯えていた。
男は、その方向を眼で追った。いつも見かける広場だ。
それほど広くない、街のテーマパーク。中央には今度建設される道路を記念した、オブジェが立っている。
視線の先に、そのオブジェが眼に入った。意味の分からない現代美術、今朝はその意味がもっとわからなくなっていた。眼を凝らした。オブジェの天辺に不自然にぶら下がっているものが見えた。
近づいた。こいつは美術なのか、新しいオブジェなのか。オブジェといえば言えなくもなかった。人の形をしたオブジェ。胸の部分が天辺に突き刺さっている、オブジェ。眼を見開いたままのオブジェ。
「ウ、ウ、ウァ、ウ、ワ。」
言葉にならない言葉を吐くと、男は既に走り出していた。
男が駆け出して、三十分もしないうちに、報道は開始された。
「本日、未明、暴力団平賀組系構成員とみられる射殺死体が発見されました。警察は、孝和会系関一家との抗争に絡むものとして捜査を進めております。また、警察は孝和会系関一家、関孝和が既に一昨日の夜に射殺された事件の発表にも踏み切りました。これは、人質の安否を考慮したため、これまでの公表を控えていたものであります。
人質として安否が気遣われているのは、香坂レオナさん、三十一歳で、道路建設による利権争いによる、平賀、関両暴力団の抗争に巻き込まれた模様。現在も警察による必死の捜索が続いております。
繰り返しお伝えします、・・・」
朝はいつも通りやってきた。新しい夜明けだった。その夜明けは等しく平等に分け与えられるべきものだ。貧富の差もなければ、老いも若きもない。誰もがその権利を持っていた。
ただ、一人、シンイチロウを除いて。
小さな紙切れを取り出した。湖までの地図。使いたくはない。自分で小夜子を連れて行くのだ。だからそんな紙切れは必要はない。
しかし、万が一のために持っておくことにしよう。それが必要になるのはきっと、文字通り一万回に一度の事だろう。今日はそれの第一回目というだけのことなのだ。紙切れをポケットにしまうと、シンイチロウは腹に呑んだドスを確かめて、走り出した。
流石に警戒は厳重だった。しかし、ついこの前まで自分が警護していた家だ。勝手は分かっている。月夜はやや雲に隠れている。多少は好都合だ。
外の警護が交代した。その隙に塀に取り付いた。それ程の高さではない。攀じ登って中を見た。すぐに飛び降りた。竹を植えた築山になっている。姿は隠せる。
暫く待った。内側の警戒も甘くはないようだ。しかし、気が付かれてはいない。大軍が押し寄せることはみな警戒しているようだったが、特殊部隊が来ようとは誰も思っていないようだった。音を立てずに動いた。身を隠せるギリギリまで近づいた。
外から伺う限りでは、明かりの様子から、小夜子はどうやら部屋にいるようだった。
しかし、これ以上見つからずに近寄ることは、もう無理だろう。シンイチロウは待った。人の臭いが流れるのを待った。その鋭い嗅覚が臭いを嗅ぎつけ、耳が気配を察するのを待った。
待った甲斐はあった。
シンイチロウはニヤリと笑うと、人差し指を口にあてた。躾通り吠えることもなく、大五郎は寄ってきた。頭をさすると、嬉しそうに押し付けて来た。シンイチロウは大五郎の顔を両手で優しく包み込み、しっかりと眼を見た。そして小夜子の部屋を指さした。
大五郎はもう一度頭をシンイチロウに擦り付けると、くるりと背を向けて小夜子の部屋の前まで歩いて行った。そして三度吠えた。
「チャン、チャン、チャン。」
相変わらず変な声だった。
小夜子が出てきた。警備の男も一緒についてきた。
大五郎が男に向けて、低い唸り声をあげた。
いつものことなのか、気味悪がった警備の男は、辺りを見回すとそのまま部屋に戻って行った。小夜子も大五郎の頭を軽くなでると、同じように部屋に戻ろうとした。
ダメか。ダメならもう出ていくしかなかった。大五郎はよくやってくれた。
シンイチロウが諦めかけて、飛び出そうとした瞬間、大五郎がもう一声小さく吠えて、振り返った。その視線を追う小夜子の眼が、シンイチロウを捕らえた。
何事もなかったかのようにシンイチロウから視線を外すと、小夜子は一度廊下の向こうに消えた。するとすぐに、スニーカーを持って戻ってきた。縁側に腰を下ろし、スニーカーを履く。警備の組員が寄ってきた。そばで大五郎が睨みつけて、唸った。
「ちょっと散歩したらすぐに戻ります。この子も緊張しているみたいなので。」
組員はチラッと大五郎を見ると、肩を竦めて離れて行った。
散歩のようにゆっくりと、小夜子と大五郎は近づいてきた。
よし、とシンイチロウは思った。もう少しだ。その時間がやたらと長く感じられた。もう少しの我慢だ。頭では理解していた。身体が我慢しきれなかった。
「さぁ、早く!」
シンイチロウは身を乗り出して叫んだ。
シンイチロウの姿をみると、迷わず小夜子は走り出した。ただ、ほんの少し走り出すのが早すぎた。
組員が怒鳴った。大五郎が吼えた。シンイチロウも叫んだ。小夜子の手を握った。そのまま走った。走りながら紙切れをその手にねじ込んだ。塀に駆け寄り、その身体を押し上げた。組員たちが追ってくるのが、その足音で分かった。小夜子が乗り越えた。叫んだ。
「左だ。」
シンイチロウは振り返った。銃口が眼に入った。ドスでは遠すぎた。紙切れを持ってきた自分を誉めてやろうと思った。
何かが横から飛びついたのが見えた。大五郎だ。銃声はあらぬ方向へ響いた。頭を撫でてやりたかった。すぐに諦めた。
シンイチロウは壁に飛びつき、そのまま道へと身体ごと落ちた。小夜子は既に走り出していた。すぐさまシンイチロウも後を追った。その先には痺れを切らしたスティードが待っていた。
小夜子が跨るのが見えた。
そうだ、その乗り方を教えたのは俺だ。間違いはない。そう思うとシンイチロウはなにか誇らしかった。後部シートか、それも悪くないだろう。しっかりと小夜子の腰を掴んでやろう。その腰はもうすぐだ。
ふくらはぎが焼けた。気が付くと眼の前にアスファルトが見えた。立とうと思った。転んだ。初めて撃たれたとわかった。小夜子が振りむいて、シンイチロウに気が付いた。
「行け!」
叫んだ。
銃声は聞こえない。
なるほど、射程に小夜子が入っているのだ。やたらと撃つことは出来ない。そう思いながら、よろけるように立ち上がった。
「行け!」
もう一度叫んだ。
小夜子は握りしめた紙切れを見つめると、スロットルを思い切りふかした。
「振り返らずに突っ走れ。」
次の瞬間、バイクは猛スピードで走り去った。
小夜子とはサヨナラだ。その向こうに待つはずのものともサヨナラだ。走れ、何処までも。決して止まらずに、その向こうまで、振り向かずに突っ走るのだ。
柄を握った。振り向きざまに引き抜いた。背中でスティードがサヨナラといっているようだった。「あばよ。」という代わりに、シンイチロウは叫びながら男たちの中に突っ込んでいった。
挨拶は銃声だった。「こんにちわ」とは聞こえなかった。ただ、身体のどこかが焼けるのが分かった。そこまでだった。
ブラックホールが見えないのは何故か?それはブラックホールの崩壊した質量が、巨大な引力となって、光を離さないからだ。光のスピードをもってしても、そこから逃れることは出来ない。光は決して、光のスピードを超えることは出来ないからだ。
『ヒデキとレオナか。』
一人、ハンタロウは考えていた。逃げたければ、逃げたいだけ逃げればいい。ただし、そのためには、逃げ足は速くなければならないだろう。速くなりたければ、速くなりたいだけなればいい。しかし、所詮、無限に速くなることなどできはしない。そろそろそれに気が付く頃だろう。逃げれば逃げるほど、加速すれば加速するほど、それが重たくのしかかる事だろう。重さは速さと比例して増大することだろう。重さは着実に無限大となるまで増大するのだ。それが分かった時、もがく光がブラックホールから抜け出せないように、二人は戻ってくるはずだ。それまで待っても遅くはない。
ハンタロウには待つ余裕があった。嘗てはヒデキが切り札であり、レオナも別な意味での切り札だった。しかし、それはその時だけ使える、手札としてのエースだ。そしてそのエースは、場に晒すことに意味があり、一度晒せば、再び手元に戻す必要のない手札だった。
元々、関が死のうが死ぬまいが、ハンタロウにとってはあまり意味のない話だった。たとえしくじったとしても、狙われたというその事実自体が口実となる。関と平賀と、その何れに非があろうと、責められるべきは世代だった。終わろうとする世代だった。一つの時代の責任を負うのは、その時代に生きた世代であり、その時代を終わらすのは、その次の時代に生きるものの役目なのだ。そして、次の時代を生きる世代には、ビジネスという後ろ盾が付いている。それを理解させるのが一回目のゲームだ。
次は、二回目のゲームにアンティを払おう。今度はもっと面白いゲームになるだろう。勿論、二回目のゲームに勝つためには、一回目で晒したカードは使えない。既にディーラーはカードをシャッフルし、新しいカードを配ろうとしているのだ。使い古したカードは捨てて、新しいカードを待つのがルールだ。
しかしそれでも、ハンタロウにはまだ余裕があった。何故なら二回目のゲームにも通用する切り札を握っていたからだ。どんなカードが配られようと、その切り札がハンタロウの手にある限り、ゲームには勝ったのも同然だった。
小夜子というエース。
電話が鳴った。コードレスの「通話」を押す指は、相変わらず落ち着いていた。
会話は短かった。カードが一枚足りなくなったと言っていた。そのカードはエースだった。
再び、「通話」を押した指は、僅かながら震えていた。ハンタロウは余裕を一瞬で使い果たしたことを理解した。理性がコードレスを窓に叩きつけるのを抑制した。その理性が、二回目のゲームを終わらせろと命じていた。そのためには手段を選ぶ余裕もないことも、ハンタロウは理解した。
小夜子は随分と走った気がした。既に紙切れを五回ほど見返した。こんな山にこんな道があることを、小夜子は初めて知った。山の自然が、こんなにも複雑な物とは思ってもいなかった。小さな街の自然が、意外に大きいことに感心していた。少なくとも小夜子にとっては、これまで生きていた場所が小さく感じられた。
もう一度紙切れを確かめるために、スティードを止めた。確かめようとしたが、殴り書きの紙片は、すでにどちらを上にすればいいのか、分からなくなっていた。しかし、焦りはしなかった。暗くて鬱蒼としていたが、山は小夜子の気持ちを落ち着かせた。この山のどこかにあるその場所は、決して遠くはない。
スティードを道の脇から、藪の中へ押し入れた。周りの小枝を集めて、その上に横になった。木々の間から星が見えた。一つ一つの星が、父のようで、ハンタロウのようで、今まで出会った人たちのようであった。
あの時、大五郎が見えた。「チャン」と鳴いて、小夜子の身体をシンイチロウの方へ突き飛ばしたのだ。
その後を小夜子は知らなかった。
シンイチロウが、「行け!」と叫ぶのが聞こえた。振り向かずに突っ走れ、と背中で叫んでいた。命を賭けているのが、見えてもいないのに手に取るようにわかった。身体が勝手に動いて、気が付いたらバイクを発進させていた。無心でバイクを飛ばした。言われた通り、一度も振り返らなかった。
だから、その後を小夜子は知らなかった。
知りたかった。
思えば多くのことが、ある瞬間から知りえないものへと変わっていった。
レオナはどうしているのだろう、と小夜子は思った。
「ある」ことも「ない」ことも、それは結局分からない、とレオナは言った。でも、それは「ある」のだから、怖がる必要はない、とも言った。
その通りだ。どこにいるのか、何をしているのか、そんなことは分からなくても、それが「ある」ことは確かだ。だから怖くはなかった。
でも、会いたかった。
夜は寒くはなかった。徐々に朝へと向かっていた。
やはり会いたかった。
もう何年も会っていない気がする。いや、正確に言えば、二人で会ったと言えるのは一度きりなのだ。
眼を閉じた。そして何度も何度も思い出したように、小夜子は再び、あのラブラドールの夜を思い出した。
椅子とベッドが浮かんできた。ルームライトと夜景が見えた。扉が見えた。その扉を開けたのは、小夜子自身だった。スーツが見えた。チンピラっぽく、オープンシャツを外に出していた。シャツからのぞく素肌を眼で辿った。のどぼとけが大きかった。そして、、、
何故か顔が浮かんでくるのに時間が掛かった。まるで、どんな顔をしようかと迷っているかのように。
やがて、緊張した面持ちのヒデキの顔が浮かんできた。しかし、その表情はすぐに綻んだ。何度も何度も思い出したから、もう既に二人は他人行儀ではないのだ。何度も何度も瞼に浮かべたから、眼を見れば何を考えているのか、すぐにわかるのだ。
しかし、浮かぶのはそこまでだ。その眼は、そこから何も語ってはくれないのだ。だからいつも涙が出てくるのだ。
しかし、その涙は何時もの涙とは違って温かかった。ここはもう山なのだ。その場所はもうすぐそばなのだ。止まってしまった二人の瞬間は、また再びその場所から始まるのだ。それは必ず始まるだろう。きっとこの仮説は証明されるだろう。
今しばらく信じるのだ。それが信じる意思など必要のない事実となるのは、遠い未来の話ではない。もうすぐそこだ。
夜が明けようとしていた。もう少しだけ目を閉じていようと小夜子は思った。忙しい街とは違って、穏やかに流れる山の時間が、ゆっくりと過ぎて行った。
夢のようだった。
しかし、それは夢ではなかった。身体の痛みが、現実を証明していた。眼を閉じたままシンイチロウは思い出そうとした。小夜子、昔の仲間、銃声、ふくらはぎ、肩、太腿、覚えているのはそこまでだった。
呻いた。物凄く熱かった。身体中が沸騰して、今にも蒸発してしまいそうだった。右のふくらはぎ、右の肩、右の太腿、全部右だ。そうと考えられるくらい、意識ははっきりしていた。
助かった。どうやら死ななかったらしい。笑おうとしたが、呻くことしかできなかった。
ゆっくりと眼を開けた。
知っている空間だった。ぼんやりと眼に映るものが懐かしかった。何時見たのだろうか、と考えた。考えていると、少しは熱さを忘れることが出来た。何か、遠い昔に来たことがあるように思えた。起きようとしたが無理だった。どうやらマットレスに寝かされているようだった。仕方なく頭を横に寝かせた。向こうの壁が見えた。弾けたコンクリートはまだそのままだった。
二日前。たった二日で全てが変わった。
再び眼を閉じた。
閉じると、二日前が見えてきた。この倉庫で、ヒデキと拳銃の練習をしていた。的に当てたヒデキが嬉しそうに振り返った。シンイチロウは、笑って肩を竦めた。
ドアが開いた。ハンタロウが立っていた。ヒデキもシンイチロウもその顔を見るのが嬉しかった。それから、ハンタロウが何か難しい説明をした。理屈は分かったようで分からなかったが、何故か楽しかった。そしてハンタロウが言った言葉だけが、何故か耳に残った。
「アインシュタイン。」
そうだ、銃を撃つ時にはこいつを言わなきゃ始まらない。
ヒデキもきっと言ったことだろう。奴らはきっと言わなかったのだろう。ヒデキは関を殺り、奴らは、
『俺を殺れなかったのだから。』
ドアが開く音が聞こえた。
あの時と同じように、ハンタロウが立っているのが見えた。ただその顔を見ても、何も嬉しくはなかった。
ハンタロウは何も言わず近づいた。転がっている眼も、何も言わずこちらを見上げていた。そのまま近づき、その眼を見降ろした。そして、口を開いた。
「久しぶりだな、シンイチロウ。」
口は開かず、眼だけが見つめていた。血だらけになった身体で、眼だけが生き生きとしていた。
何がこいつの眼をそうさせるのか。それがこいつのロマンという奴か。
「挨拶はするもんだ。」
つま先で肩を小突いた。
押し殺した呻き声が返ってきた。しかし、視線は外れなかった。
ハンタロウも外さなかった。ロマンだと、笑わせるな。そんなもののため、生まれてこようとする時代を台無しにさせるわけにはいかない。そんなもので世界など変えられるわけなどない。ましてや、時の流れを逆行させることなど出来はしない。
「見上げたもんじゃねぇか。三発食らっても生きているとはよ。」
眼は相変わらず見つめていた。
憎しみなら憎しみで、哀願なら哀願で、それはそれでいいだろう。しかし、その眼はそれら何れでもなかった。ハンタロウには、それが許せなかった。
ゆっくりと見つめ返しながら、ハンタロウは思った。生みの苦しみは、女だろうとヤクザだろうと同じだ。新しい時代を生むためには、犠牲は避けることはできない。その犠牲が、ヒデキであり、レオナであるはずだった。それは私利でも私欲でもなければ、偽善などでもなかった。変わろうとする時代の狭間に生きた者たちの宿命なのだ。そしてその宿命こそが、この世に生を受けた無数の生命体の中で、選ばれたことを自覚できる少数者の特権なのだ。
だからこそ、犠牲の果てにやってくる新しい時代の苦難を、ハンタロウが一人で背負うことができるのだ。それは高揚もせず動揺もしない、平和の時代の苦難なのだ。その苦難こそが最も耐え難く、最も退屈で、そして最も重要な苦難なのだ。
誰がそれを理解することだろう。愛するものを振り切り、信じるものを捨て去り、黙々と新しい時代を築くのだ。英雄的でもなく、劇的でもない、ただの日常を築くのだ。それを築こうとすることこそ、真の勇気が必要とされることなのだ。
「さぁ、本題に入ろうか。」
眼はそれでも泳がなかった。
そんな眼をしなくても、俺はお前が十分に羨ましい、そういってやりたかった。そうやって、時代のために恥ずかしげもなく英雄的な行為を行えることが羨ましかった。自ら選びもせずに、歴史にその名を残せることが、羨ましかった。
「小夜子はどこだ?」
本題に入った。
眼は見続けることを止めず、答えは返ってこなかった。その眼は、まさかハンタロウが答えを聞けるとは思っていない、という確信を諦めてはいなかった。
もう一度聞いた。
「小夜子はどこだ?」
答えはなかった。
諦めたくはなかった。ロマンに負けるなど、信じたくはなかった。もう一つだけ聞いた。
「何がお前をそうさせるんだ。」
初めて、シンイチロウが答えた。
「ア・イ・ン・シュ・タ・イ・ン」
諦めた、あるいは諦めさせられた。どちらでもいいことだ。
心の中で呟いた。呟かざるにはいられなかった。
『サヨナラだ、シンイチロウ。時代は変わったんだ。』
ハンタロウはホルスターからワルサーを取り出すと、狙いも定めずに引き金を引いた。
狙いもしないのに、心臓に穴が開いた、眼があらぬ方向を向いた。
その眼は、ハンタロウを見つめるのは止めても、それ以外の何かを見つめているようだった。
羨ましかった。すぐさま、その感情を消し去った。
長かった夜が、ようやく明けた。
すがすがしい朝の空気の中を、清掃車が移動していた。街の中心部、繁華街のごみは前日の夜に出される。清掃員は朝早くからそれらを回収した後、住宅街へと向かうのだ。従って、それよりも早ければ、人通りのない繁華街には、ごみだけがいる。
清掃車は停まり、男がごみを集め始めた。
「コラ、あっちへ行け。」
カラスを追い払いながら、男はごみを清掃車へと放り込んでいた。
舌打ちしながら男が言った。
「まただ。」
相方の若造はすぐにさぼりやがる。最近の若いのには根性がない。ゴミを集めるのにも、根性は必要だ。そんな時代なのだ。
「オーイ、何やってんだ、コラ。」
男は相方を探して、車道の方に回った。その若造は立っていた.
「早くしねぇか、全く。ちっとは仕事しろ。」
若造は振り返り、そして見ていた方向を顎でしゃくった。その眼は怯えていた。
男は、その方向を眼で追った。いつも見かける広場だ。
それほど広くない、街のテーマパーク。中央には今度建設される道路を記念した、オブジェが立っている。
視線の先に、そのオブジェが眼に入った。意味の分からない現代美術、今朝はその意味がもっとわからなくなっていた。眼を凝らした。オブジェの天辺に不自然にぶら下がっているものが見えた。
近づいた。こいつは美術なのか、新しいオブジェなのか。オブジェといえば言えなくもなかった。人の形をしたオブジェ。胸の部分が天辺に突き刺さっている、オブジェ。眼を見開いたままのオブジェ。
「ウ、ウ、ウァ、ウ、ワ。」
言葉にならない言葉を吐くと、男は既に走り出していた。
男が駆け出して、三十分もしないうちに、報道は開始された。
「本日、未明、暴力団平賀組系構成員とみられる射殺死体が発見されました。警察は、孝和会系関一家との抗争に絡むものとして捜査を進めております。また、警察は孝和会系関一家、関孝和が既に一昨日の夜に射殺された事件の発表にも踏み切りました。これは、人質の安否を考慮したため、これまでの公表を控えていたものであります。
人質として安否が気遣われているのは、香坂レオナさん、三十一歳で、道路建設による利権争いによる、平賀、関両暴力団の抗争に巻き込まれた模様。現在も警察による必死の捜索が続いております。
繰り返しお伝えします、・・・」
朝はいつも通りやってきた。新しい夜明けだった。その夜明けは等しく平等に分け与えられるべきものだ。貧富の差もなければ、老いも若きもない。誰もがその権利を持っていた。
ただ、一人、シンイチロウを除いて。
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