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三章 暗躍
十七.前門の虎、後門の狼
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千春は物陰に身を隠しながら、鬼火をつけていた。
鬼火は気づく様子もなく、足早に歩いていく。
商家の主のような風体だが、その足捌きはなかなかのものであった。
江戸の街には、いたるところに水路が巡らされている。
その中にある、緩やかな弧を描いた橋を、鬼火は足音も立てずに進む。
提灯の明かりが橋を渡りきったのを見計らい、千春は静かに橋を渡る。
「お侍様……」
突如後ろから話しかけられ、千春は叫びそうになるのを必死に堪えた。
背中には、尖ったものの感触が伝わっている。
「四谷から、私をずっとつけておられましたが、何か御用ですかな」
背後から匕首を突きつけていたのは、鬼火であった。
目を凝らしてみると、橋を渡った先にある松の木に提灯がぶら下がっている。
渡ったと見せかけて、いつの間にか千春の背後に回っていたらしい。
「何も……。たまたま……」
「嘘はいけませんよ、お侍様。あなた、賭場にいなさりましたねえ……。偶然にしちゃ出来すぎだ。しかも……」
鬼火はさっと左手を回し、千春の胸元に触れる。
「ふふ、やはり。装いは改めても、匂いは隠せねえ。あんた、女だね」
「無礼な!」
千春は素早く身を翻し、刀に手をかけて鬼火を睨みつけた。
「おお、怖い怖い。女武者に目をつけられるような真似はしておりませんがねえ」
鬼火は全く動じず、懐から小袋を取り出して千春の顔に投げつける。
素早く振り払ったが、小袋から飛び散った液体が千春の頬についた。
手の甲で拭き取ると、妙なヌメリがあり、酸っぱい匂いが漂う。
「何を……! うっ……」
その匂いを嗅いだ千春が、ぐらりと体をふらつかせる。
鬼火はゆっくりと間を取りながら、にやりと笑う。
「ふふふ……。これはね、即効性の媚薬でして。お硬い武家女でも、効果はてきめんですなあ」
「これしきのことで……」
千春は必死に意識を保ちながら、すらりと太刀を抜いた。
「おおっと、これはいけませんな。あとは先生にお任せいたしましょう」
「なにっ……!」
鬼火は素早く後ろに飛び跳ねる。
それを追おうとした千春の背後に、烈風のような殺気が叩きつけられた。
「くっ!」
「ほぅ、止めたか。女だてらに、やるではないか」
かろうじて刃を受け止めた千春に、笹月恒九郎の冷たい眼差しが向けられる。
「先生。殺すのは無しですよ。なかなかの上玉だ。ひっ捕らえて使ってやりましょう」
「承知……。ふんっ!」
千春の姿勢を崩した恒九郎は、上段から真っ直ぐに刀を振り下ろした。
避けることもできず、斬り殺されることを覚悟した千春であったが、体のどこにも痛みは無い。
恒九郎の刃は、千春の肌には一筋の傷もつけず、小袖と晒をまとめて縦に斬り裂いていた。
「くぅっ……卑怯な……」
押さえるものが無くなり、あらわになった胸元を千春は左手で押さえる。
その瞬間、雲が流れて満月が顔を出し、辺りを明るく照らし出した。
「なるほど、これは上玉だ」
もはや敵ではないと侮り、恒九郎は刀を肩に担いでいた。
絶体絶命の千春は、動きの邪魔になる小袖を諸肌脱ぎにする。
月明かりの下で、真っ白な肌が神々しく輝いた。
「ほう、これは良き眺めじゃな」
千春の姿をじっくり眺めながら、恒九郎が口元を釣り上げる。
端から見ている鬼火も、感嘆の息を漏らしていた。
あらわになった素肌を隠すことなく、千春はキッと恒九郎を見据える。
「女と侮っていたが、なかなかの覚悟じゃ。こちらも本気で相手をしてやろう」
殺さぬよう言われているため、恒九郎は刀の峰を返し、正眼に構えて千春と相対する。
千春の素肌に好色な眼差しは向けているものの、剣に込められた殺気は尋常ではない。
「来ぬのか……。ではこちらから行くぞっ!」
一歩踏み出した恒九郎が、神速の突きを千春の首筋に叩き込もうとした。
その瞬間、千春の刀が渦を描くように恒九郎の太刀に絡みつき、甲高い金属音を立てて跳ね上げた。
大萩道場で総二郎が千春に見せた、あの技である。
「むっ……!」
「たあぁぁっ!」
その隙を逃さず、千春の刀が振り下ろされる。
恒九郎はかろうじて身を逸らしたが、袖の端を斬り裂かれた。
「女ぁ……小癪な真似を……」
「せやぁぁっ! はぁっ!」
立て続けに閃く刃を躱しながら、恒九郎がシュッと刀を横に振る。
すると、今度は袴の腰紐と下帯が裂かれ、千春は無垢な体を全てさらされてしまった。
そして、返す刀で太刀を高々と跳ね上げられてしまう。
「くっ……」
刀を失った千春は、両手で体を隠しながら、橋の欄干に身を寄せた。
激しく動いたことで媚薬の効果も強まり、千春は息を荒げながら悔しげに唇を噛みしめる。
「ふふふ、その姿ではどうにもなるまい。覚悟することだな」
恒九郎が刀を振り上げた瞬間、その手に闇の中から飛来した小柄が突き刺さる。
「ぬっ!? 何奴っ!」
それは一瞬のことであった。
恒九郎が小柄を引き抜いている間に、黒い疾風のように駆け寄ってきた覆面の男が、千春を抱いて川に飛び込む。
「しまった! くそぅ……」
恒九郎が橋の上から覗き込むが、二人の姿はもうどこにも見えなかった。
残された千春の着物を鬼火が探るも、手がかりになるような持ち物は残されていない。
二人は歯噛みをしつつ、着物を川に放り投げてその場を立ち去っていった。
鬼火は気づく様子もなく、足早に歩いていく。
商家の主のような風体だが、その足捌きはなかなかのものであった。
江戸の街には、いたるところに水路が巡らされている。
その中にある、緩やかな弧を描いた橋を、鬼火は足音も立てずに進む。
提灯の明かりが橋を渡りきったのを見計らい、千春は静かに橋を渡る。
「お侍様……」
突如後ろから話しかけられ、千春は叫びそうになるのを必死に堪えた。
背中には、尖ったものの感触が伝わっている。
「四谷から、私をずっとつけておられましたが、何か御用ですかな」
背後から匕首を突きつけていたのは、鬼火であった。
目を凝らしてみると、橋を渡った先にある松の木に提灯がぶら下がっている。
渡ったと見せかけて、いつの間にか千春の背後に回っていたらしい。
「何も……。たまたま……」
「嘘はいけませんよ、お侍様。あなた、賭場にいなさりましたねえ……。偶然にしちゃ出来すぎだ。しかも……」
鬼火はさっと左手を回し、千春の胸元に触れる。
「ふふ、やはり。装いは改めても、匂いは隠せねえ。あんた、女だね」
「無礼な!」
千春は素早く身を翻し、刀に手をかけて鬼火を睨みつけた。
「おお、怖い怖い。女武者に目をつけられるような真似はしておりませんがねえ」
鬼火は全く動じず、懐から小袋を取り出して千春の顔に投げつける。
素早く振り払ったが、小袋から飛び散った液体が千春の頬についた。
手の甲で拭き取ると、妙なヌメリがあり、酸っぱい匂いが漂う。
「何を……! うっ……」
その匂いを嗅いだ千春が、ぐらりと体をふらつかせる。
鬼火はゆっくりと間を取りながら、にやりと笑う。
「ふふふ……。これはね、即効性の媚薬でして。お硬い武家女でも、効果はてきめんですなあ」
「これしきのことで……」
千春は必死に意識を保ちながら、すらりと太刀を抜いた。
「おおっと、これはいけませんな。あとは先生にお任せいたしましょう」
「なにっ……!」
鬼火は素早く後ろに飛び跳ねる。
それを追おうとした千春の背後に、烈風のような殺気が叩きつけられた。
「くっ!」
「ほぅ、止めたか。女だてらに、やるではないか」
かろうじて刃を受け止めた千春に、笹月恒九郎の冷たい眼差しが向けられる。
「先生。殺すのは無しですよ。なかなかの上玉だ。ひっ捕らえて使ってやりましょう」
「承知……。ふんっ!」
千春の姿勢を崩した恒九郎は、上段から真っ直ぐに刀を振り下ろした。
避けることもできず、斬り殺されることを覚悟した千春であったが、体のどこにも痛みは無い。
恒九郎の刃は、千春の肌には一筋の傷もつけず、小袖と晒をまとめて縦に斬り裂いていた。
「くぅっ……卑怯な……」
押さえるものが無くなり、あらわになった胸元を千春は左手で押さえる。
その瞬間、雲が流れて満月が顔を出し、辺りを明るく照らし出した。
「なるほど、これは上玉だ」
もはや敵ではないと侮り、恒九郎は刀を肩に担いでいた。
絶体絶命の千春は、動きの邪魔になる小袖を諸肌脱ぎにする。
月明かりの下で、真っ白な肌が神々しく輝いた。
「ほう、これは良き眺めじゃな」
千春の姿をじっくり眺めながら、恒九郎が口元を釣り上げる。
端から見ている鬼火も、感嘆の息を漏らしていた。
あらわになった素肌を隠すことなく、千春はキッと恒九郎を見据える。
「女と侮っていたが、なかなかの覚悟じゃ。こちらも本気で相手をしてやろう」
殺さぬよう言われているため、恒九郎は刀の峰を返し、正眼に構えて千春と相対する。
千春の素肌に好色な眼差しは向けているものの、剣に込められた殺気は尋常ではない。
「来ぬのか……。ではこちらから行くぞっ!」
一歩踏み出した恒九郎が、神速の突きを千春の首筋に叩き込もうとした。
その瞬間、千春の刀が渦を描くように恒九郎の太刀に絡みつき、甲高い金属音を立てて跳ね上げた。
大萩道場で総二郎が千春に見せた、あの技である。
「むっ……!」
「たあぁぁっ!」
その隙を逃さず、千春の刀が振り下ろされる。
恒九郎はかろうじて身を逸らしたが、袖の端を斬り裂かれた。
「女ぁ……小癪な真似を……」
「せやぁぁっ! はぁっ!」
立て続けに閃く刃を躱しながら、恒九郎がシュッと刀を横に振る。
すると、今度は袴の腰紐と下帯が裂かれ、千春は無垢な体を全てさらされてしまった。
そして、返す刀で太刀を高々と跳ね上げられてしまう。
「くっ……」
刀を失った千春は、両手で体を隠しながら、橋の欄干に身を寄せた。
激しく動いたことで媚薬の効果も強まり、千春は息を荒げながら悔しげに唇を噛みしめる。
「ふふふ、その姿ではどうにもなるまい。覚悟することだな」
恒九郎が刀を振り上げた瞬間、その手に闇の中から飛来した小柄が突き刺さる。
「ぬっ!? 何奴っ!」
それは一瞬のことであった。
恒九郎が小柄を引き抜いている間に、黒い疾風のように駆け寄ってきた覆面の男が、千春を抱いて川に飛び込む。
「しまった! くそぅ……」
恒九郎が橋の上から覗き込むが、二人の姿はもうどこにも見えなかった。
残された千春の着物を鬼火が探るも、手がかりになるような持ち物は残されていない。
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