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水面に映る声
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春のはじめ、川沿いの土手に草の芽が顔を出すころ、藤原紗良はいつものように言葉を胸の奥に閉じ込めて歩いていた。教室で誰かに話しかけられても、喉はからからに乾き、声はどうしても音にならなかった。先生から「はい、藤原」と指名されても、ただ立ち上がって俯き、震える唇からは一音たりとも出てこない。周りの視線が、針のように肌に突き刺さる。――ああ、まただ。心の中では何度も「ここにいます」と叫んでいるのに。
家に帰る途中の川べりは、唯一、紗良が息をつける場所だった。川面に映る夕焼けに向かって、心の中でだけ声を出す。誰にも聞こえない声は、水の上で波紋のように広がっていくような気がした。彼女はそこにだけ、かろうじて「生きている自分」を感じ取ることができた。
学校では「無口な子」として処理されている。けれどそれは無口ではなく、声を発することができないという事実にすぎない。言葉はある。心には、きらめきも怒りもある。だがそれを音に変える回路が、彼女の中では何かに塞がれてしまっているのだ。小学校低学年の頃、音読を失敗して笑われた記憶が、いまだに胸を締めつける。――その日以来、声は頑なに彼女を裏切った。
クラスでただ一人、彼女に何度も話しかけてくる男子がいた。村井透。快活という言葉から少しはみ出した、不器用な明るさをもった少年だ。彼はいつも少し大きな声で「よお、藤原!」と呼びかける。紗良は返事ができないから、曖昧に微笑むしかない。その笑みが相手に伝わるのかどうかはわからなかったが、透は気にするふうもなく隣に座ってきたり、給食でパンを半分渡してきたりする。
――どうして、そんなふうにできるのだろう。
紗良は、彼の存在を不思議に思いながらも、少しずつ心がほどけていくのを感じていた。
ある日、放課後の教室で、透が突然声をかけてきた。
「なあ、藤原。川のとこでさ、お前よく一人で立ってるよな。何してんの?」
胸が跳ねた。見られていたのか。紗良はとっさに視線を逸らす。言葉を返そうとしたが、やはり声は出なかった。透は肩をすくめ、「別に変じゃないよ。俺もあそこ好きだし」と続けた。その一言に、なぜだか涙がこみ上げそうになった。――変じゃない。そう言われたのは初めてだった。
数日後、川辺でノートを広げていると、透が隣に座った。
「お、勉強中? ……って、違うな。これ詩?」
紗良は慌ててノートを閉じた。そこには、声にできない代わりに書き連ねた言葉がびっしりと綴られていた。「私は声を失くした鳥」「水面にだけ響く歌」。彼女の小さな叫びが並んでいた。透は無理に覗こうとはせず、「見せたくないならいいよ。でも、なんかすげえな」と呟いた。その「すげえ」という曖昧な肯定が、紗良には痛いほど温かかった。
季節は進み、教室では合唱祭の練習が始まった。紗良は当然のように口を閉ざしていたが、透が「口パクでもいいから」と笑って肩を叩いた。声は出せなくても、歌詞を口の形でなぞることならできる。周りに合わせて動かす唇の震えに、奇妙な充足感があった。歌声は出ない。だが、自分も輪の中にいる。――それは、彼女が長く夢見てきた感覚だった。
合唱祭当日。舞台に立った瞬間、観客の視線が一斉に浴びせられる。胸が潰れそうになる。だが隣に透がいる。彼の声が大きく広がるのを、身体で感じる。紗良は唇を震わせ、言葉にならない歌を必死に追った。声は出ない。それでも、舞台を降りたあと、透が言った。「藤原、ちゃんと歌ってたな」
彼は彼女の口の動きを「歌」と呼んでくれたのだ。紗良の胸の奥で、固く凍っていたものが少しだけ溶けた気がした。
帰り道、川面に映る自分の顔を見つめ、紗良は心の中で呟いた。
――私はここにいる。声にならなくても、確かにいる。
その声は水面に溶け、夕焼けと一緒にゆるやかに広がっていった。
家に帰る途中の川べりは、唯一、紗良が息をつける場所だった。川面に映る夕焼けに向かって、心の中でだけ声を出す。誰にも聞こえない声は、水の上で波紋のように広がっていくような気がした。彼女はそこにだけ、かろうじて「生きている自分」を感じ取ることができた。
学校では「無口な子」として処理されている。けれどそれは無口ではなく、声を発することができないという事実にすぎない。言葉はある。心には、きらめきも怒りもある。だがそれを音に変える回路が、彼女の中では何かに塞がれてしまっているのだ。小学校低学年の頃、音読を失敗して笑われた記憶が、いまだに胸を締めつける。――その日以来、声は頑なに彼女を裏切った。
クラスでただ一人、彼女に何度も話しかけてくる男子がいた。村井透。快活という言葉から少しはみ出した、不器用な明るさをもった少年だ。彼はいつも少し大きな声で「よお、藤原!」と呼びかける。紗良は返事ができないから、曖昧に微笑むしかない。その笑みが相手に伝わるのかどうかはわからなかったが、透は気にするふうもなく隣に座ってきたり、給食でパンを半分渡してきたりする。
――どうして、そんなふうにできるのだろう。
紗良は、彼の存在を不思議に思いながらも、少しずつ心がほどけていくのを感じていた。
ある日、放課後の教室で、透が突然声をかけてきた。
「なあ、藤原。川のとこでさ、お前よく一人で立ってるよな。何してんの?」
胸が跳ねた。見られていたのか。紗良はとっさに視線を逸らす。言葉を返そうとしたが、やはり声は出なかった。透は肩をすくめ、「別に変じゃないよ。俺もあそこ好きだし」と続けた。その一言に、なぜだか涙がこみ上げそうになった。――変じゃない。そう言われたのは初めてだった。
数日後、川辺でノートを広げていると、透が隣に座った。
「お、勉強中? ……って、違うな。これ詩?」
紗良は慌ててノートを閉じた。そこには、声にできない代わりに書き連ねた言葉がびっしりと綴られていた。「私は声を失くした鳥」「水面にだけ響く歌」。彼女の小さな叫びが並んでいた。透は無理に覗こうとはせず、「見せたくないならいいよ。でも、なんかすげえな」と呟いた。その「すげえ」という曖昧な肯定が、紗良には痛いほど温かかった。
季節は進み、教室では合唱祭の練習が始まった。紗良は当然のように口を閉ざしていたが、透が「口パクでもいいから」と笑って肩を叩いた。声は出せなくても、歌詞を口の形でなぞることならできる。周りに合わせて動かす唇の震えに、奇妙な充足感があった。歌声は出ない。だが、自分も輪の中にいる。――それは、彼女が長く夢見てきた感覚だった。
合唱祭当日。舞台に立った瞬間、観客の視線が一斉に浴びせられる。胸が潰れそうになる。だが隣に透がいる。彼の声が大きく広がるのを、身体で感じる。紗良は唇を震わせ、言葉にならない歌を必死に追った。声は出ない。それでも、舞台を降りたあと、透が言った。「藤原、ちゃんと歌ってたな」
彼は彼女の口の動きを「歌」と呼んでくれたのだ。紗良の胸の奥で、固く凍っていたものが少しだけ溶けた気がした。
帰り道、川面に映る自分の顔を見つめ、紗良は心の中で呟いた。
――私はここにいる。声にならなくても、確かにいる。
その声は水面に溶け、夕焼けと一緒にゆるやかに広がっていった。
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