私の世界の景色

高峰悠華

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翳りの中の光

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 皿の上に置かれたパンケーキを見つめながら、十四歳の藤堂柚葉は微笑んだ。
 けれど、口に運ぶことはできなかった。
 バターの照り、甘い香り――それらは柚葉にとって「毒」に見える。ナイフとフォークを握った指が冷たく汗ばみ、視界が狭まっていく。喉は乾いているのに、食べ物を飲み込む想像をするだけで胸が圧迫される。
 母が「冷めるわよ」と促す声を背に、柚葉は無理やり一口だけ切り取った。唇に近づけた瞬間、心臓が跳ね、胃の奥が反射的に拒絶した。ナイフとフォークが皿の上で音を立てる。母の表情が一瞬曇る。
 柚葉は笑顔を貼りつけて言った。
「……後で食べるね」

 学校でも同じだった。昼休み、弁当を広げるふりをしながら、ほとんど口をつけない。周囲の友達はお菓子を分け合いながら楽しそうに笑っている。柚葉は笑顔を合わせるが、心の中では別の声が響いていた。
 ――太ったら終わり。食べたら駄目。
 体重計の数字が人生の価値を決める。鏡に映る身体は、骨ばっているのに、どうしても「まだ足りない」と思ってしまう。

 放課後、部屋に閉じこもり、ノートに体重の変化を書き込む。それが日課になっていた。数字が減ると安堵し、増えると世界が崩れるような恐怖に襲われる。
 友達が「痩せてて羨ましい」と言うたびに、心臓が跳ねた。褒められているはずなのに、認められているはずなのに、なぜか苦しかった。――私は本当はおかしいのだ、と柚葉は思った。

 ある日、美術の授業で自画像を描くことになった。クラスの生徒たちは思い思いに筆を走らせる。柚葉も鏡に向き合った。だが見えるのは「理想の姿」ではなく、醜い膨らみと歪んだ線だった。絵筆が震える。気づけば真っ黒に塗りつぶしていた。
 隣の席の男子が「なんか怖い」と笑った。その声が突き刺さる。教師は困ったように柚葉の絵を見つめたが、何も言わなかった。柚葉は無言で絵を伏せた。

 その日の放課後、美術室に残っていた柚葉に、美術部の先輩の夏目が声をかけた。
「それ、見せてくれない?」
 柚葉は躊躇ったが、無言でスケッチブックを差し出した。夏目はしばらく絵を見つめ、やがて小さく頷いた。
「……すごいよ。苦しさがちゃんと見える。嘘のない絵だ」
 その言葉に、柚葉の胸が熱くなった。誰も「怖い」としか言わなかったのに。――見える、って。
 夏目は続けた。
「もしよかったら、美術部に来ない? 描きたいもの、描いていいから」
 その誘いは、心の奥に小さな灯をともした。

 美術部に顔を出すようになってから、柚葉は少しずつ変わった。そこでは誰も彼女の食事や体重を話題にしなかった。代わりに、絵の色や線、構図について語り合う。自分の中の歪んだものを絵に閉じ込められる気がして、筆を握る時間が救いになった。
 あるとき、夏目に聞かれた。
「柚葉は、なんでそんなに細いの?」
 一瞬、呼吸が止まった。だが夏目はすぐに笑って肩をすくめた。
「……ごめん。無神経だった。俺さ、絵を見てて思ったんだ。柚葉はきっと、自分を縛るものと戦ってるんだろうなって」
 その言葉に、柚葉は驚いた。自分の中の秘密を、少しだけ覗かれた気がして怖かった。けれど同時に、胸の奥が軽くなった。――見透かされても、拒絶されなかった。

 文化祭では、美術部で作品展示をすることになった。柚葉は迷った末に、自分の「身体」をテーマにした抽象画を描いた。骨と影、光と翳り。見る人によって解釈は違うだろう。だが柚葉にとっては、自分の苦しみを外に出す唯一の方法だった。
 展示当日、母が会場に足を運んだ。絵の前で立ち尽くす母の背中を見て、柚葉は心臓が強く打った。やがて母は振り返り、震える声で言った。
「柚葉……こんなに、苦しかったの?」
 柚葉は答えられなかった。ただ涙が頬を伝った。母は静かに抱きしめた。
「ごめんね。気づいてあげられなくて」

 その夜、柚葉は久しぶりにパンを一口食べた。喉を通る瞬間、やはり怖さはあった。だが、完全に拒絶はしなかった。夏目や母の言葉が、翳りの中に小さな光を差し込んでいた。
 ――私はまだ、ここにいる。
 その事実だけで、少し呼吸が楽になった。
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