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5月
1.
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翌週の連休明け、今年は特にサークルが低調なのかまだ勧誘熱のさめやらぬ大学構内を抜けて、駅までの一本道を歩きはじめてすぐだった。
軽いクラクションの音に千晶が思わず振り返ると、例のジャケットを着た彼が車から降りてきた。
「すごい所だね」
千晶の出てきた場所は、高いコンクリート塀の更に上までカイズカイブキの緑の壁が続き、その奥に更に高い樹木がそびえていて外から塀の内側は伺い知れない。敷地全体をぐるっと囲むかたちで、年代を重ねた樹木は二三階建ての建物も隠していた。
開かれた門戸から見える、よくある鉄筋コンクリートの建物も古さと味気なさとで、昼夜怪しげな実験が行われている不気味さをその大学名が肯定しているように見える。
「まぁ……入ってみますかぁ?」
怪しさは否定しない。内部は普通のボロ校舎と運動場に薬草園でなんということはない、樹木は防風で植えられているのが巨木化しただけ。
にんまりと含みを持たせると無言で彼が助手席のドアを開けた。
車に乗せられて、ではなく、なんとなく乗ってしまったのだ。
どこへ行くとも聞かず言わず、連休後半から始めたばかりのバイトの疲れが残ってたからって、日暮れにはまだ早い適度な温かさの車内に、記憶があるのは二本目の橋を渡ったあたりまで。まさか寝ちゃうとは千晶自身も警戒心が無さすぎて呆れるばかり。
「…、…キ、着いたよ」
「ぅ…ん」
で、寝ぼけたまま、地下駐車場からそのままエレベーターへ。
着いたフロアに見覚えがある。
(まさか、ね、マンションの内装なんてどこも似たり寄ったりだもの)
アルミ製の黒いドアが開いて、ちらっと見えた風景にはっきりと覚醒した。クロス壁とリノリウムの床から一転、大理石貼の室内は、やっぱり来たことがあったと膝からくずれ落ちそうになる、のを踏みどどまってドアの前で固ま――
(でも私が顔を覚えていなかった位だし、そもそもこういう人はいちいち顔を覚ようとはしないだろうから)
――らずに秒速で記憶を封印した。やましいことは何もない。
(何でまたのこのこついてきちゃったかな。いやいやそういうつもりじゃなくてとか言うべき? そんなつもりで来たんじゃない、が通用するのは中学生まででしょ。高校生だって二度目の抵抗には使えない)
知りもしないの人の車に乗ることがおかしいのだ、いいや、知ってる人でも安心しちゃいけない、それは判ってる。でも、なぜか抗えない。そんな自問自答の結果。
「帰ってもいいかな?」
ためらう素振りでなく用事が済んだあとの確認のように、内開きのドアを手で抑えた彼のほうを向くことなく言った。
「だめ」どんな表情かはわからないが、強制するような声色ではない。
「そこはお茶だけでもって言う所ですよね」
「お茶くらい飲んでいってよ」
「お茶だけですよね」
「さぁ、どうかな」
「何もしないから、っていう一言はないの?」 無防備な自分を棚にあげて言う。
「変なことはしないよ」
やや高めの身長の千晶が目線を一段上げる程度に、彼の身長もまた平均より高かった。見合った目線はとても自然なものだった。なんの含みもない位。
*
危機感とか判断力とか学習しないのは、歴史にも経験にも学ばないのは、愚かを通り越して憐れだろうか。常識が崩れる何か、
直感でわかるならこの世に格言なんて生まれていないのに。
*
部屋は以前と同じだった。外に見えるビル群が少し変わったのと、引っ越し直後の段ボールがなくなっていたことだけ。
明るいマーブルの床に、黒い革のソファ、フレームと家具はウォールナット材、足元のシルクのカーペットに観葉植物。
千晶の家の一階部分がまるまると収まってまだ余裕があるだろう広さを意識させないのは、コの字のソファーは10人掛け、窓側のベンチソファも3×2、2×2人掛けが二面分と、ダインニングテーブルも8人掛けとカウンター席、部屋の広さに見合った人数の椅子があるからだ。
羽根を伸ばしたいから、そう一人暮らしの理由を口にしていたのに。モデルルームみたいな趣味の主張のない部屋からは今も念願の大学生一人暮らし感は全く感じられない。
「何のむ?」と尋ねた手には既にビールの瓶があった。アイランドキッチンの向こうのキャビネットにはグラス類に酒瓶がそれなりに並んでいる。「シャンパンもあるよ」
(飲むのか、お茶じゃないのかよ)
「トマトジュースがあれば飲みたいな」
「全部飲んじゃって」
無理難題で帰る口実にするつもりが、んー、もらいものがあったはず…と棚下から瓶入りを出してきた。しかも大瓶、900か1000cc。
「ジン?ウォッカ?」
「トマトジュースだけでいいよ」
もう一度冷蔵庫を開けレモンとライムを千晶に渡して、カッティングボードとナイフブロックを目でやる。切ってと言葉にしない男と勝手に櫛形に切る女。
彼は氷を入れたグラスを片手に、わざわざ千晶の後にまわりこんで首筋に顔を埋める。
「包丁を持った相手に勇気があるね」
「ふふ」
そのままビールともども目の前で栓が開く、無理に酒を勧める気はないようだ。ビールにライムを添え、氷を入れたグラスにトマトジュースを注いでレモンを絞る。
「医学生なんだって?」
(余計なこと言いやがって)会ったことすら黙っておけなかったのかあの優男め、喰えない人の予感は確信に変わった。
「うん、みえないでしょ」
「それはこれから変わっていくんじゃない?」
「そうかな」
なりたい姿と求められる姿、どちらに近づいていくのだろう。
「遅くなったけど、入学おめでとう」
高そうな瓶のトマトジュースはフルーツのように甘かった。
軽いクラクションの音に千晶が思わず振り返ると、例のジャケットを着た彼が車から降りてきた。
「すごい所だね」
千晶の出てきた場所は、高いコンクリート塀の更に上までカイズカイブキの緑の壁が続き、その奥に更に高い樹木がそびえていて外から塀の内側は伺い知れない。敷地全体をぐるっと囲むかたちで、年代を重ねた樹木は二三階建ての建物も隠していた。
開かれた門戸から見える、よくある鉄筋コンクリートの建物も古さと味気なさとで、昼夜怪しげな実験が行われている不気味さをその大学名が肯定しているように見える。
「まぁ……入ってみますかぁ?」
怪しさは否定しない。内部は普通のボロ校舎と運動場に薬草園でなんということはない、樹木は防風で植えられているのが巨木化しただけ。
にんまりと含みを持たせると無言で彼が助手席のドアを開けた。
車に乗せられて、ではなく、なんとなく乗ってしまったのだ。
どこへ行くとも聞かず言わず、連休後半から始めたばかりのバイトの疲れが残ってたからって、日暮れにはまだ早い適度な温かさの車内に、記憶があるのは二本目の橋を渡ったあたりまで。まさか寝ちゃうとは千晶自身も警戒心が無さすぎて呆れるばかり。
「…、…キ、着いたよ」
「ぅ…ん」
で、寝ぼけたまま、地下駐車場からそのままエレベーターへ。
着いたフロアに見覚えがある。
(まさか、ね、マンションの内装なんてどこも似たり寄ったりだもの)
アルミ製の黒いドアが開いて、ちらっと見えた風景にはっきりと覚醒した。クロス壁とリノリウムの床から一転、大理石貼の室内は、やっぱり来たことがあったと膝からくずれ落ちそうになる、のを踏みどどまってドアの前で固ま――
(でも私が顔を覚えていなかった位だし、そもそもこういう人はいちいち顔を覚ようとはしないだろうから)
――らずに秒速で記憶を封印した。やましいことは何もない。
(何でまたのこのこついてきちゃったかな。いやいやそういうつもりじゃなくてとか言うべき? そんなつもりで来たんじゃない、が通用するのは中学生まででしょ。高校生だって二度目の抵抗には使えない)
知りもしないの人の車に乗ることがおかしいのだ、いいや、知ってる人でも安心しちゃいけない、それは判ってる。でも、なぜか抗えない。そんな自問自答の結果。
「帰ってもいいかな?」
ためらう素振りでなく用事が済んだあとの確認のように、内開きのドアを手で抑えた彼のほうを向くことなく言った。
「だめ」どんな表情かはわからないが、強制するような声色ではない。
「そこはお茶だけでもって言う所ですよね」
「お茶くらい飲んでいってよ」
「お茶だけですよね」
「さぁ、どうかな」
「何もしないから、っていう一言はないの?」 無防備な自分を棚にあげて言う。
「変なことはしないよ」
やや高めの身長の千晶が目線を一段上げる程度に、彼の身長もまた平均より高かった。見合った目線はとても自然なものだった。なんの含みもない位。
*
危機感とか判断力とか学習しないのは、歴史にも経験にも学ばないのは、愚かを通り越して憐れだろうか。常識が崩れる何か、
直感でわかるならこの世に格言なんて生まれていないのに。
*
部屋は以前と同じだった。外に見えるビル群が少し変わったのと、引っ越し直後の段ボールがなくなっていたことだけ。
明るいマーブルの床に、黒い革のソファ、フレームと家具はウォールナット材、足元のシルクのカーペットに観葉植物。
千晶の家の一階部分がまるまると収まってまだ余裕があるだろう広さを意識させないのは、コの字のソファーは10人掛け、窓側のベンチソファも3×2、2×2人掛けが二面分と、ダインニングテーブルも8人掛けとカウンター席、部屋の広さに見合った人数の椅子があるからだ。
羽根を伸ばしたいから、そう一人暮らしの理由を口にしていたのに。モデルルームみたいな趣味の主張のない部屋からは今も念願の大学生一人暮らし感は全く感じられない。
「何のむ?」と尋ねた手には既にビールの瓶があった。アイランドキッチンの向こうのキャビネットにはグラス類に酒瓶がそれなりに並んでいる。「シャンパンもあるよ」
(飲むのか、お茶じゃないのかよ)
「トマトジュースがあれば飲みたいな」
「全部飲んじゃって」
無理難題で帰る口実にするつもりが、んー、もらいものがあったはず…と棚下から瓶入りを出してきた。しかも大瓶、900か1000cc。
「ジン?ウォッカ?」
「トマトジュースだけでいいよ」
もう一度冷蔵庫を開けレモンとライムを千晶に渡して、カッティングボードとナイフブロックを目でやる。切ってと言葉にしない男と勝手に櫛形に切る女。
彼は氷を入れたグラスを片手に、わざわざ千晶の後にまわりこんで首筋に顔を埋める。
「包丁を持った相手に勇気があるね」
「ふふ」
そのままビールともども目の前で栓が開く、無理に酒を勧める気はないようだ。ビールにライムを添え、氷を入れたグラスにトマトジュースを注いでレモンを絞る。
「医学生なんだって?」
(余計なこと言いやがって)会ったことすら黙っておけなかったのかあの優男め、喰えない人の予感は確信に変わった。
「うん、みえないでしょ」
「それはこれから変わっていくんじゃない?」
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なりたい姿と求められる姿、どちらに近づいていくのだろう。
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高そうな瓶のトマトジュースはフルーツのように甘かった。
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