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74.イレネーの現状
近頃食欲が湧かない。それにろくに眠れない日々が続いている。
イレネーはこの日の朝も一、二時間ほどしか睡眠を摂れず、ふらついた足取りでリビングに姿を見せた。
そこには既に両親の姿があったが、父も母も顔色が悪く食事も進んでいないようだった。庶民が見たら涎を垂らしそうな豪勢な料理ばかりなのに、殆ど手をつけていない。
「おはようございます。父上、母上」
「ああ……」
「ええ……」
朝の挨拶をしても、心ここにあらずと言った様子だ。苛立ちを覚えたものの、ぐっと自制した。イレネーも仕事中に「イレネー様、集中なさってください」と執事に何度も注意を受けているからだ。
そして両親がこのような有様になった原因を作ったのも自分自身だった。
「イレネー、本日ブランシェ嬢が来る予定はあるか?」
「い、いえ……手紙も来ておりませんし……」
「ねえ、こちらから会いに行くのはどうかしら。そうすれば、ブランシェだって喜ぶと思うの」
「それはやめたほうがいい。不快に思われでもしたら一巻の終わりだ。婚約破棄を言い渡される可能性だってある」
「まさか。それはないんじゃないのかしら。だって危うい立場にいるのは向こうだって同じこと。私たちはこれから支え合って生きて行かなくてはならないのよ」
会話もこんな内容のものばかりだ。
現在マシャール伯爵家とキューギスト侯爵家は、社交界で孤立状態にある。
原因はリグレットの件だった。キューギスト侯爵令嬢であるブランシェが彼女を陥れたという噂が広く出回っているのだ。
リグレットにはブランシェに関する悪評を吹聴したとされていたが、それもブランシェの自作自演だと判明。本当の犯人は金で雇われた庶民だとグライン公爵家の調査で明らかとなった。
それによりイレネーの評判も失墜した。ブランシェと伴侶になるために二人で共謀し、リグレットに汚名を着せたという疑いまでかけられている。
そのようなことはしていないとイレネーは何度も自らの潔白を訴えたものの、彼の言葉を信じる者は数える程度だった。そんなごく少数の人間も、「イレネーはブランシェの裏の顔を見抜けなかっただけの愚か者だ」と話している。
今後マシャール伯爵家とキューギスト侯爵家が生き残るための手段は限られている。
一つは母の言う通り、共に手を取り合って生きてくこと。よく言えば協力、悪く言えば依存だ。
しかしそれも困難な道のりとなる。元々イレネーはナヴィア修道院の件で、グライン公爵の怒りを買っていたのだ。
この国で最も有力である貴族に敵視されるのがどれだけ問題か。それは先日、ひっそりと他国へ逃げ去ったリグレットの実家がいい見本となっている。
マシャール伯爵家が早急に悪評を取り払い、立て直すことが出来る方法が一つある。
だがそれは、イレネーが一番恐れていることだった。
「……イレネー、お前は私にとって自慢の息子だ。しかし今やマシャール家にとって不必要な存在でもある。いざという時は……覚悟しておけ」
「そ、そんな。父上、それは!」
「反論は許さん」
「はい……」
父には凍えるように冷たい眼差しを向けられ、母は気まずそうに視線を合わせようとしない。
イレネーをマシャール伯爵家の籍から抜いて屋敷から追い出す。両親がその方法を選ばないのは、イレネーへの情がまだ残っているから。それもいつ尽きるか分からないが。
だからその前にイレネーは、何としてでも汚名を返上しなければならない。
「……リグレット」
一人きりになった部屋の中で、元婚約者の名前を呟く。
ブランシェへの愛はもう冷めていた。向こうも同じだろう。自分の意思なのか、はたまた家族に止められているのか、彼女がこの屋敷を訪れることもなくなっていた。
今イレネーの心を占めているのはリグレットだけだった。
どうしてあんなにか弱い少女を信じて守ってやれなかったのか。自らに強い怒りを抱くとともに、どうしても淡い希望を抱いてしまう。
今やナヴィア修道院の聖女として名を馳せている彼女とやり直すことができれば、今よりはマシな状況になるのでは──と。
いや違う。ただリグレットのために償いたいだけだ。自分にそう言い聞かせながら、イレネーは机の引き出しにしまっている便箋に手を伸ばした。
イレネーはこの日の朝も一、二時間ほどしか睡眠を摂れず、ふらついた足取りでリビングに姿を見せた。
そこには既に両親の姿があったが、父も母も顔色が悪く食事も進んでいないようだった。庶民が見たら涎を垂らしそうな豪勢な料理ばかりなのに、殆ど手をつけていない。
「おはようございます。父上、母上」
「ああ……」
「ええ……」
朝の挨拶をしても、心ここにあらずと言った様子だ。苛立ちを覚えたものの、ぐっと自制した。イレネーも仕事中に「イレネー様、集中なさってください」と執事に何度も注意を受けているからだ。
そして両親がこのような有様になった原因を作ったのも自分自身だった。
「イレネー、本日ブランシェ嬢が来る予定はあるか?」
「い、いえ……手紙も来ておりませんし……」
「ねえ、こちらから会いに行くのはどうかしら。そうすれば、ブランシェだって喜ぶと思うの」
「それはやめたほうがいい。不快に思われでもしたら一巻の終わりだ。婚約破棄を言い渡される可能性だってある」
「まさか。それはないんじゃないのかしら。だって危うい立場にいるのは向こうだって同じこと。私たちはこれから支え合って生きて行かなくてはならないのよ」
会話もこんな内容のものばかりだ。
現在マシャール伯爵家とキューギスト侯爵家は、社交界で孤立状態にある。
原因はリグレットの件だった。キューギスト侯爵令嬢であるブランシェが彼女を陥れたという噂が広く出回っているのだ。
リグレットにはブランシェに関する悪評を吹聴したとされていたが、それもブランシェの自作自演だと判明。本当の犯人は金で雇われた庶民だとグライン公爵家の調査で明らかとなった。
それによりイレネーの評判も失墜した。ブランシェと伴侶になるために二人で共謀し、リグレットに汚名を着せたという疑いまでかけられている。
そのようなことはしていないとイレネーは何度も自らの潔白を訴えたものの、彼の言葉を信じる者は数える程度だった。そんなごく少数の人間も、「イレネーはブランシェの裏の顔を見抜けなかっただけの愚か者だ」と話している。
今後マシャール伯爵家とキューギスト侯爵家が生き残るための手段は限られている。
一つは母の言う通り、共に手を取り合って生きてくこと。よく言えば協力、悪く言えば依存だ。
しかしそれも困難な道のりとなる。元々イレネーはナヴィア修道院の件で、グライン公爵の怒りを買っていたのだ。
この国で最も有力である貴族に敵視されるのがどれだけ問題か。それは先日、ひっそりと他国へ逃げ去ったリグレットの実家がいい見本となっている。
マシャール伯爵家が早急に悪評を取り払い、立て直すことが出来る方法が一つある。
だがそれは、イレネーが一番恐れていることだった。
「……イレネー、お前は私にとって自慢の息子だ。しかし今やマシャール家にとって不必要な存在でもある。いざという時は……覚悟しておけ」
「そ、そんな。父上、それは!」
「反論は許さん」
「はい……」
父には凍えるように冷たい眼差しを向けられ、母は気まずそうに視線を合わせようとしない。
イレネーをマシャール伯爵家の籍から抜いて屋敷から追い出す。両親がその方法を選ばないのは、イレネーへの情がまだ残っているから。それもいつ尽きるか分からないが。
だからその前にイレネーは、何としてでも汚名を返上しなければならない。
「……リグレット」
一人きりになった部屋の中で、元婚約者の名前を呟く。
ブランシェへの愛はもう冷めていた。向こうも同じだろう。自分の意思なのか、はたまた家族に止められているのか、彼女がこの屋敷を訪れることもなくなっていた。
今イレネーの心を占めているのはリグレットだけだった。
どうしてあんなにか弱い少女を信じて守ってやれなかったのか。自らに強い怒りを抱くとともに、どうしても淡い希望を抱いてしまう。
今やナヴィア修道院の聖女として名を馳せている彼女とやり直すことができれば、今よりはマシな状況になるのでは──と。
いや違う。ただリグレットのために償いたいだけだ。自分にそう言い聞かせながら、イレネーは机の引き出しにしまっている便箋に手を伸ばした。
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