31 / 74
第六章 籠の鳥は、
#1
しおりを挟む
その後、エディリーンはこの男とは面識がないということで、なんとか口裏を合わせさせた。グレイス夫人に用があって来た、ということで納得してもらったのだ。
夫人にはこの際知られても仕方ないが、アンジェリカや他の使用人は、エディリーンのことを、勉学のためにやってきた薬草師見習いだと思っている。王子の近衛騎士と面識があるなどと知られては困るのだ。
ジルもアーネストも見て一瞬驚いた顔をしたが、何も言わずに目礼するに止めた。アーネストは時折何か言いたそうな視線を送って来るが、知らぬふりを決め込む。
なし崩し的に、アーネストも含めて夕食を囲むことになった。ここでは、使用人たちも全員で同じ食卓を囲むらしい。人数も少ないのに、わざわざ別々に食事を摂るのは効率が悪いし、一緒に食べた方が美味しい、というのが夫人の言だった。
エディリーンとジル、そしてアーネストも、客人として歓待された。焼きたてのふかふかと温かいパンに、香草をまぶして焼いた肉、野菜のたっぷり入ったスープや、サラダなどが食卓に並ぶ。果物や果実酒も供された。この屋敷の人たちの雰囲気も相まって、温かく和やかな食卓だった。――少なくとも表向きは。
そして、屋敷全体が寝静まった夜更け。エディリーンは手燭に明かりを灯したまま、部屋の寝台に腰かけていた。寝間着に着替えてもいない。
しばらく待って、そろそろかと思った頃、予想通り部屋の外に気配を感じた。立ち上がると静かに、だが素早く扉を開けた。
そこには、扉をノックしようと手を上げた姿勢のまま固まったアーネストが立っていた。
「夜這いとはいい度胸だな。妙な気を起こしたらただじゃおかないと言ったはずだが」
声は抑えているが、口調は刺々しい。アーネストの後ろでは、それを聞いたジルが忍び笑いを漏らしている。二人も屋敷の空き部屋を提供されて、滞在することになっていた。
「……どこの世界に父親を連れて夜這いに来る男がいるんだ?」
アーネストは嘆息して肩を落とした。
元よりエディリーンは、この男がそんな考えを起こさないであろうと思う程度には、信用していないこともなかった。二度と会うことはないだろうと思っていた矢先の再会に、嫌味の一つも言いたくなっただけだ。
「……まあいい。入れ」
ここで話していては、屋敷の人間に聞かれてしまうかもしれない。エディリーンは二人を部屋の中に招き入れる。自分は寝台に腰かけて、男二人は椅子に座らせた。
「で、あんた何しに来たんだ? グレイス夫人に用があったわけじゃないんだろう?」
「ええと……ベアトリクス殿から連絡は受けていない?」
「何も」
エディリーンは怪訝な顔で首を傾げる。
アーネストは軽く頭を掻いて気を取り直すと、本題に入ろうとする。
「急ぎの用件だ。ジル殿、あなたにも聞いていただきたい」
言って、エディリーンを見つめ、声を一層低める。
「帝国が、君の身柄を要求してきている」
思ってもみなかった答えに、エディリーンもジルも言葉を失った。
「………………何故?」
長い沈黙の後、ようやく一言だけ絞り出す。
「それはこちらが聞きたいくらいだ」
アーネストは首を横に振って、事の経緯を語る。
先日の帝国との国境での戦の後、帝国側から使者が一通の書状を携えてやってきた。その書状の内容は、レーヴェに所属している青い髪の魔術師を、こちらに返還してもらいたい、というものだった。
その魔術師はフェルスの国民だったが、諸事情により長らく行方が分からなくなっていた。此度の戦で偶然にも刃を交えることになったが、本来は争うべきでない相手であった。代わりに、皇帝の弟君の姫を、ユリウス王子の妃として差し出す。それをもって、我が国と貴国との関係の安寧を願わんとする、という、冗談なのかふざけているのかわからない内容だった。
しかし、それを冗談と突っぱねることもできないのが、大国との外交というものだった。
「……なんでそうなる? しかも〝返還〞って……」
いかに小国とはいえ、一国の王子に皇帝の弟の娘を嫁がせようというのも馬鹿にしているし、何の地位もない魔術
師の一人を欲しがるというのも、理解に苦しむ話だった。
「だから、それはこちらが聞きたい。……先に言っておくが、こちらはそんな要求に応じることは断じてできない。ユリウス殿下に皇帝の弟の姫をあてがわれるなど以ての外だし、恩人である君を帝国に引き渡すなど、絶対にするつもりもない。……もっとも、君が帝国の重要人物なのであれば、話は変わってくるが……」
「そんなわけないだろう」
エディリーンは即座に否定する。
「そんな人間はいないと言えばいいんじゃないのか? 素性の知れない流れ者なんだし」
「それが、そうもいかない。君の姿は、大勢の人間が見ている。戦局を変えた、風の精か何かのようだったと」
エディリーンは顔をしかめて天を仰いだ。
目立つのは、やはりこの髪か。空のような、透ける薄青の不思議な色合いの髪。黒などの目立たない色に染めようとしたこともあったが、すぐに落ちてしまうし、面倒になってやめていた。誰も気に留めないだろうと高を括っていたが、それがこんな形で仇になってしまうとは。
「……やっぱりこの国を出た方がいいか……」
ぼそりと呟いたエディリーンを、アーネストは慌てて止める。
「待ってくれ。先程も言ったが、恩人にそんなことはさせられない」
「どうして? 根無し草の傭兵の一人くらい、どうなろうと放っておけばいいのに」
とはいえ、許可なく国境を超えるのは、犯罪である。商人や旅人には、手続きをすれば通行手形が発行されるが、今回は当然、彼女に手形を発行することはできない。それなしに無許可で移住などすれば、真っ当な生活を営むことはできない。
「だから、君にそんなことをさせて平気でいられるほど、こちらも恩知らずではないつもりだ。そこでだ。ジル殿、一つ確認させていただきたい。エディリーンとは血が繋がっていないと言っていたが、一体どういった経緯で?」
アーネストはジルに向き直る。ジルは困ったように髭を撫でた。
「どうと言われても……行き倒れているのを拾った。それだけです。当時のこの子も、まともに喋れる状態じゃなかったんでねえ……。それ以上のことは何も」
雨の降りしきる中、衰弱して倒れていた小さな子供。あのままでは、間違いなく命を落としていただろう。そこに差し伸べられた、温かく大きな手。それが、彼女の中にある、最初の鮮明な記憶だった。
けれど、どうしてあの場にいたのか、それ以前はどこでどうしていたのかは、ひどく曖昧で言葉にすることができなかった。
「わたしだって……知らない」
思い出そうとすると、胸の底に深い穴が空いて、そこへどこまでも落ちてしまいそうな気分に捕らわれる。それは冷たく、決して快いものではないという確信だけがある。
唇を引き結び、微かに声を震わせた彼女を、アーネストは真剣な瞳で見つめていた。やがて視線を緩め、エディリーンとジルをゆっくりと交互に見る。
「帝国と関わりがないのであれば、一つ提案がある。あの時ユリウス殿下が仰った、宮廷魔術師の件……受けてもらえないだろうか」
「はあ?」
夫人にはこの際知られても仕方ないが、アンジェリカや他の使用人は、エディリーンのことを、勉学のためにやってきた薬草師見習いだと思っている。王子の近衛騎士と面識があるなどと知られては困るのだ。
ジルもアーネストも見て一瞬驚いた顔をしたが、何も言わずに目礼するに止めた。アーネストは時折何か言いたそうな視線を送って来るが、知らぬふりを決め込む。
なし崩し的に、アーネストも含めて夕食を囲むことになった。ここでは、使用人たちも全員で同じ食卓を囲むらしい。人数も少ないのに、わざわざ別々に食事を摂るのは効率が悪いし、一緒に食べた方が美味しい、というのが夫人の言だった。
エディリーンとジル、そしてアーネストも、客人として歓待された。焼きたてのふかふかと温かいパンに、香草をまぶして焼いた肉、野菜のたっぷり入ったスープや、サラダなどが食卓に並ぶ。果物や果実酒も供された。この屋敷の人たちの雰囲気も相まって、温かく和やかな食卓だった。――少なくとも表向きは。
そして、屋敷全体が寝静まった夜更け。エディリーンは手燭に明かりを灯したまま、部屋の寝台に腰かけていた。寝間着に着替えてもいない。
しばらく待って、そろそろかと思った頃、予想通り部屋の外に気配を感じた。立ち上がると静かに、だが素早く扉を開けた。
そこには、扉をノックしようと手を上げた姿勢のまま固まったアーネストが立っていた。
「夜這いとはいい度胸だな。妙な気を起こしたらただじゃおかないと言ったはずだが」
声は抑えているが、口調は刺々しい。アーネストの後ろでは、それを聞いたジルが忍び笑いを漏らしている。二人も屋敷の空き部屋を提供されて、滞在することになっていた。
「……どこの世界に父親を連れて夜這いに来る男がいるんだ?」
アーネストは嘆息して肩を落とした。
元よりエディリーンは、この男がそんな考えを起こさないであろうと思う程度には、信用していないこともなかった。二度と会うことはないだろうと思っていた矢先の再会に、嫌味の一つも言いたくなっただけだ。
「……まあいい。入れ」
ここで話していては、屋敷の人間に聞かれてしまうかもしれない。エディリーンは二人を部屋の中に招き入れる。自分は寝台に腰かけて、男二人は椅子に座らせた。
「で、あんた何しに来たんだ? グレイス夫人に用があったわけじゃないんだろう?」
「ええと……ベアトリクス殿から連絡は受けていない?」
「何も」
エディリーンは怪訝な顔で首を傾げる。
アーネストは軽く頭を掻いて気を取り直すと、本題に入ろうとする。
「急ぎの用件だ。ジル殿、あなたにも聞いていただきたい」
言って、エディリーンを見つめ、声を一層低める。
「帝国が、君の身柄を要求してきている」
思ってもみなかった答えに、エディリーンもジルも言葉を失った。
「………………何故?」
長い沈黙の後、ようやく一言だけ絞り出す。
「それはこちらが聞きたいくらいだ」
アーネストは首を横に振って、事の経緯を語る。
先日の帝国との国境での戦の後、帝国側から使者が一通の書状を携えてやってきた。その書状の内容は、レーヴェに所属している青い髪の魔術師を、こちらに返還してもらいたい、というものだった。
その魔術師はフェルスの国民だったが、諸事情により長らく行方が分からなくなっていた。此度の戦で偶然にも刃を交えることになったが、本来は争うべきでない相手であった。代わりに、皇帝の弟君の姫を、ユリウス王子の妃として差し出す。それをもって、我が国と貴国との関係の安寧を願わんとする、という、冗談なのかふざけているのかわからない内容だった。
しかし、それを冗談と突っぱねることもできないのが、大国との外交というものだった。
「……なんでそうなる? しかも〝返還〞って……」
いかに小国とはいえ、一国の王子に皇帝の弟の娘を嫁がせようというのも馬鹿にしているし、何の地位もない魔術
師の一人を欲しがるというのも、理解に苦しむ話だった。
「だから、それはこちらが聞きたい。……先に言っておくが、こちらはそんな要求に応じることは断じてできない。ユリウス殿下に皇帝の弟の姫をあてがわれるなど以ての外だし、恩人である君を帝国に引き渡すなど、絶対にするつもりもない。……もっとも、君が帝国の重要人物なのであれば、話は変わってくるが……」
「そんなわけないだろう」
エディリーンは即座に否定する。
「そんな人間はいないと言えばいいんじゃないのか? 素性の知れない流れ者なんだし」
「それが、そうもいかない。君の姿は、大勢の人間が見ている。戦局を変えた、風の精か何かのようだったと」
エディリーンは顔をしかめて天を仰いだ。
目立つのは、やはりこの髪か。空のような、透ける薄青の不思議な色合いの髪。黒などの目立たない色に染めようとしたこともあったが、すぐに落ちてしまうし、面倒になってやめていた。誰も気に留めないだろうと高を括っていたが、それがこんな形で仇になってしまうとは。
「……やっぱりこの国を出た方がいいか……」
ぼそりと呟いたエディリーンを、アーネストは慌てて止める。
「待ってくれ。先程も言ったが、恩人にそんなことはさせられない」
「どうして? 根無し草の傭兵の一人くらい、どうなろうと放っておけばいいのに」
とはいえ、許可なく国境を超えるのは、犯罪である。商人や旅人には、手続きをすれば通行手形が発行されるが、今回は当然、彼女に手形を発行することはできない。それなしに無許可で移住などすれば、真っ当な生活を営むことはできない。
「だから、君にそんなことをさせて平気でいられるほど、こちらも恩知らずではないつもりだ。そこでだ。ジル殿、一つ確認させていただきたい。エディリーンとは血が繋がっていないと言っていたが、一体どういった経緯で?」
アーネストはジルに向き直る。ジルは困ったように髭を撫でた。
「どうと言われても……行き倒れているのを拾った。それだけです。当時のこの子も、まともに喋れる状態じゃなかったんでねえ……。それ以上のことは何も」
雨の降りしきる中、衰弱して倒れていた小さな子供。あのままでは、間違いなく命を落としていただろう。そこに差し伸べられた、温かく大きな手。それが、彼女の中にある、最初の鮮明な記憶だった。
けれど、どうしてあの場にいたのか、それ以前はどこでどうしていたのかは、ひどく曖昧で言葉にすることができなかった。
「わたしだって……知らない」
思い出そうとすると、胸の底に深い穴が空いて、そこへどこまでも落ちてしまいそうな気分に捕らわれる。それは冷たく、決して快いものではないという確信だけがある。
唇を引き結び、微かに声を震わせた彼女を、アーネストは真剣な瞳で見つめていた。やがて視線を緩め、エディリーンとジルをゆっくりと交互に見る。
「帝国と関わりがないのであれば、一つ提案がある。あの時ユリウス殿下が仰った、宮廷魔術師の件……受けてもらえないだろうか」
「はあ?」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる