蒼天の風 祈りの剣

月代零

文字の大きさ
38 / 74
第七章 見つめた先に

#1

しおりを挟む
 グレイス子爵家では、束の間の穏やかな日々が過ぎていた。
 エディリーンたち三人は、数日間屋敷の仕事を手伝っていたが、本来の目的を忘れてしまいそうなほど、平和な日々を送っていた。グレイス夫人を始めとする屋敷の人々の雰囲気もあって、よそ者扱いされて肩身の狭い思いをすることもなく、程よい距離感で受け入れられていた。仕事があるというのは、良いことだった。
 しかし、今はこの春の収穫の最盛期で、三日後にはブラント商会との取引が控えている。エディリーンはその取引に同行する予定だった。
 ブラント商会は、グラナトに居を構え、グレイス家の薬草を卸している。ソムニフェルムを扱うことを許された、国のお墨付きの商家である。
 だが、先代は慈善家としても有名だったが、今の当主に代替わりしてからは良くない話が多いと、街で囁かれていた。
 そこで何が行われているのか突き止め、可能なら証拠を掴む。目下の目的はそれだった。

「ところで、エディリーン。今回の報酬のことなのだけれど」

 エディリーンはその日の午後、一人で薬草を木箱に詰めていた。その仕事が一段落したところ、グレイス夫人がそっと声をかけてきた。

「報酬など結構です。魔術師の間の問題でもありますから」

 そう。真面目に修行に取り組まず、怪しげな薬物に手を出した挙句に失踪するなど、魔術師の面汚しである。そのような人間は、見つけ出して罰を与えねばならないし、薬の出所も叩かなければならないのだ。

「そういうわけにはいかないわ。仕事には、代価を支払わなければ」
「本当に結構ですから」
「でも……」

 エディリーンは首を縦に振ろうとしないが、夫人もなかなか引き下がらない。困ったように頬に手を当てて、何やら考える仕草をしている。
 やがて何か思い付いたように、ぱっと表情を明るくした。

「そうだわ。ちょっと見てほしいものがあるの」

 言ってエディリーンを促し、屋敷の奥へ向かう。
 案内されたのは、一階の奥、食堂などとは反対側に位置する部屋だった。扉を開けると、壁一面と床面にも棚が三列ほど設えられており、その全てに本や何かを書き付けた紙の束が並んでいる。書斎と思しきそこは、個人の持ち物にしてはなかなか圧巻な光景だった。
 手前側は薄暗いが、奥には窓があって、そこに大きくどっしりとした机が置いてあった。そこだけは日当たりがよく、昼間は気持ちがよさそうだった。古い紙とインクの匂いに、虫除けのためだろうか、何かの木のような香りがした。
 遠目から背表紙を軽く眺めただけでも、広い分野の書物を網羅しているのがわかる。魔術書や薬草学、医術に関する本の豊富さはもちろん、歴史や天文学、経済、地理、宗教、哲学に物語の本まで揃えられており、グレイス家の人々の博識さがうかがえる内容だった。

「金品は受け取れないと言うなら、この中から好きなものを持って行ってくれないかしら?」

 思わぬ申し出に、エディリーンは驚いて夫人を振り返る。

「そんな……いただけません」

 書物など、興味のない人間にはただの重い紙の束でしかないが、わかる人間にはその価値は計り知れないだろう。 しかしそれ以上に、この家にあるものはグレイス夫人にとって、家族との大切な思い出の品であるはずだ。言葉の端々から、それは読み取れる。
 けれど、夫人はゆるゆると首を横に振る。

「わたしがいなくなったら、国に管理されるか、別の領主のものになると思うけれど……。わたしには魔術書の価値はよくわからないけれど、貴重なものもあるはずよ。主人も息子も大事にしていたものだから、必要としてくれる人の手に渡ってくれたら嬉しいわ。次にこの屋敷を管理する人が、大事にしてくれるとは限らないもの」

 ね? と夫人は微笑んで首を傾げる。
 そこまで言われては、受け取るべきだろうか。それに、単純にこの蔵書を見てみたい気もした。

「作業は一区切りついているでしょう? 自由に見て構わないから、夕食まで休憩してらっしゃいな」

 夫人はそう言い置くと、エディリーンを残して書斎を出て行った。扉が閉まると、部屋全体に静謐な空気が満ちる気がする。
 書物は、金銀宝石ほどではないが、なかなかに高価な品物であった。
 木の板に文字や絵を掘り、それにインクを付けて印刷する木版印刷が普及しつつあるが、大量に作れるものではない。魔術書などは、魔術師が全て手書きで書いた一点ものがほとんどだった。生産に手間がかかる分、高値で取引される。
 しかし、書物の価値はそこにあるのではない。先人の遺した知識や思いの価値は、金銭では到底表せない。
 そして、エディリーンにとって書物は、世界を知る術を与えてくれた道標だった。言葉がなくあやふやだった彼女の世界に、名前を付け、思考することを教えてくれた。一つ物事を知る度に、世界が鮮やかに色付いていった気がする幼い頃の記憶を、今でも思い出せるのだ。
 エディリーンは、書棚の間をゆっくりと歩いた。ベアトリクスもなかなかの蔵書を持っていると思うが、これほどのものを拝む機会は今後訪れないかもしれない。せっかくなので、堪能させてもらうことにする。
 ふと、本棚の一角から何かの気配を感じて立ち止まった。悪いもののではないと思う。春先の風が頬を撫でるような感じだった。
 気配の元を探すと、何冊かの魔術書を見つけた。それは、精霊が封じられた書だった。
 だが、以前に関わったような、禍々しいものは感じない。穏やかに眠っているような気配だけがしていた。
 きっと大事にされているのだろう。封印の綻びもなさそうだし、このまま放っておいても問題はないだろうと判断した。
 一通り見て回り、とりあえず魔術関連の本を何冊か取って、机に積んだ。こちらも日々きちんと掃除がされているようで、埃一つ落ちていなかった。
 軽く目を通しているだけで、あっという間に時間が過ぎてしまう。気が付くと日が落ちて薄暗くなってきていた。さすがに切り上げようと席を立つ。
 そこに、ベアトリクスからの知らせと、ユリウス王子からの使者が相次いで到着したのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...