17 / 87
第二番
第16話 白き幻
しおりを挟む
離宮に移って数日が経った。
ひとりの時間が長い。日和や他の侍従と会っても、口もつぐんでいる。
静湖は気づけば部屋の寝台から、鏡の中に語りかけるようになっていた。
「ねぇ、ここにいつまでいるのかな。僕の声や体はどうなってしまうと思う? そりゃ、僕は男だもの。男の王子として生きていくしかない」
鏡の中の自分に話すときには、流暢に高い声が出ることもあり安心した。
「僕は、それでいいの?」
自分への問いも、口にする。
「……御影もその未来で、ただそばにいてくれる。それが僕の望むすべて」
「ふーん、本当かな?」
「そんなもんさ」
鏡の中の自分は、まるで女の子みたいだ。ひとりよがりな欲望を見ているにすぎないとわかりながら、静湖はその印象を捨てられず、鏡の前でくりかえし髪をほどいた。
対話をくりかえしていたある日の午後、鏡の奥から、ふっと音楽がこちらの世界へ向かってきた。
森の中をそよぐ風の音楽……だがたしかに鏡の向こうの世界から聴こえてくる。
「なに、なに!」
「君に僕を聴かせてあげる」
答えた言葉は、静湖のものではない。
鏡の向こうの自分が勝手に動きだし、鏡の奥の部屋を歩いて、寝台の陰からあるはずのないヴィオロンを取りだした。静湖はあっけにとられて成り行きを見守る。
響く風の歌に合わせ、鏡の世界の自分はヴィオロンを構えて弓で弦を弾き鳴らす。
優美な調べが、静湖をなでた。
なにより音楽を奏でるその姿は、少女そのもので──。
演奏が終わると、静湖は拍手で相手をたたえていた。
「ヴィオロンの音がこんなに優しいなんて、知らなかった!」
「君のためだから」
「僕のため?」
「うん、僕ら友達になろう?」
鏡の向こうの静湖は、鏡のこちらへ手を突きだしてきた。
「僕の名は白流。そして君の名は青流。白流と呼んで、青流?」
「白流……」
「それでよし。ね?」
──どうしてその手を握り返してしまったのか。白流はそのままするりと鏡の境界を越えてこの世界に現れ、髪の色がさっと白く染まっていった。
それは願いの木の音楽会のさなか、静湖の前に姿を現した幻の存在だった。
「白流、君は音楽会のときにも……」
「うん、ずっと会いたかったんだよ、青流」
気づけばぎゅうと抱きしめられていた。実体のない幻でありながら、そこには温もりがある気がした。が、静湖を抱きしめたまま、白流は、またね、と消えていった。
*
鏡に向かうたび、白流は静湖の前に現れた。静湖ととりとめない会話をし、時には現実の部屋にはないヴィオロンやピアノを弾いてみせた。しかしその後は、鏡の境界を越えて現れることはなかった──その日までは。
よく晴れて爽やかな風のそよぐその日、静湖は庭先で思いもよらぬ人物に出会った。
国王天海の正妃、奥の宮である。
彼女は庭の草原に布を広げ、軽食と茶を並べて、侍従もともなわずに裁縫をしていた。
「どうぞ」
静湖に気づくと奥の宮は手を止めて、向かいに座るように優雅にすすめた。
断ることもできず、静湖は従う。
近くで差し向かって見る金の長髪は、波打つと銀にも輝く。だが髪だけでなく、彼女はすべてが美しいのだった。さやかなまなざし、すっとした鼻梁、温かな声に、全身にまとった柔らかな空気──どこか誰かなつかしい人を思わせる面持ちと仕草。
その奥の宮が、静湖に笑いかけた。
「はじめまして。こうしてお話しするのははじめてですね」
静湖は沈黙で答えた。
「あら、しゃべれないの?」
奥の宮はおかしそうに笑い声をあげた。
どうして笑うんですか、と口に出すことはできない。が、彼女は静湖の顔色を読んだ。
「ごめんなさい。あまりにかわいらしいから。あなたのことを深く愛し、信じていますよ」
「……え? どうして?」
「あら、しゃべれるんじゃない」
またおかしそうに彼女は笑う。声がかすれたのは気にならなかった。愛していると言われても、よく知らない失礼な相手だ。不服を表して頬をふくらませると、さらに笑われる。
それから二人は会話もなしに、昼さがりの穏やかな時間を過ごした。奥の宮は縫い物をしながら、静湖が木漏れ陽を眺めたり茶をすすったりする様子を、ただにこにこと見て微笑むのだった。
やがて奥の宮はひとつの刺繍を終え、布地を広げながら口を開いた。
「私がどうして笑ったか、あなたにはわからない……私、高飛車で歪な女なんです。あなたにこの姿をさらしているのが滑稽で、笑ってしまったの」
静湖が首をかしげて応じると、奥の宮は、仲良くしてね、と微笑んだ。
彼女の言葉は謎だったが、本心を語ってくれたのはわかり、静湖は親しみを感じた。
奥の宮は改めて裁縫をはじめた。静湖はもう緊張も反発も覚えなかった。気づけば流れる時間は心地よく、静湖はうつらうつらまどろみかける。
が、何杯目かの香草茶を、静湖が奥の宮に注ごうとしたところ。
「あなた」
「え?」
「あなた、憑かれてる」
奥の宮がにわかに立ちあがり、静湖の肩のうしろへ手を伸ばした。
「気づかれた!」
静湖の声──いや、白流の声がして、静湖は何者かに腕をつかまれ立ちあがらされていた。腕を取る白流の姿が見えた。そのまま白流は走りだし、静湖の体は引っぱられていく。唖然とする奥の宮を残し、白流は静湖を駆りたてて館の二階の部屋へ、鏡の前へ連れていった。
「逃げるから、ついてきて!」
「え、ええっ!」
そうして白流は、波打つ鏡の向こうへ静湖を連れ去った。
*
ひとりの時間が長い。日和や他の侍従と会っても、口もつぐんでいる。
静湖は気づけば部屋の寝台から、鏡の中に語りかけるようになっていた。
「ねぇ、ここにいつまでいるのかな。僕の声や体はどうなってしまうと思う? そりゃ、僕は男だもの。男の王子として生きていくしかない」
鏡の中の自分に話すときには、流暢に高い声が出ることもあり安心した。
「僕は、それでいいの?」
自分への問いも、口にする。
「……御影もその未来で、ただそばにいてくれる。それが僕の望むすべて」
「ふーん、本当かな?」
「そんなもんさ」
鏡の中の自分は、まるで女の子みたいだ。ひとりよがりな欲望を見ているにすぎないとわかりながら、静湖はその印象を捨てられず、鏡の前でくりかえし髪をほどいた。
対話をくりかえしていたある日の午後、鏡の奥から、ふっと音楽がこちらの世界へ向かってきた。
森の中をそよぐ風の音楽……だがたしかに鏡の向こうの世界から聴こえてくる。
「なに、なに!」
「君に僕を聴かせてあげる」
答えた言葉は、静湖のものではない。
鏡の向こうの自分が勝手に動きだし、鏡の奥の部屋を歩いて、寝台の陰からあるはずのないヴィオロンを取りだした。静湖はあっけにとられて成り行きを見守る。
響く風の歌に合わせ、鏡の世界の自分はヴィオロンを構えて弓で弦を弾き鳴らす。
優美な調べが、静湖をなでた。
なにより音楽を奏でるその姿は、少女そのもので──。
演奏が終わると、静湖は拍手で相手をたたえていた。
「ヴィオロンの音がこんなに優しいなんて、知らなかった!」
「君のためだから」
「僕のため?」
「うん、僕ら友達になろう?」
鏡の向こうの静湖は、鏡のこちらへ手を突きだしてきた。
「僕の名は白流。そして君の名は青流。白流と呼んで、青流?」
「白流……」
「それでよし。ね?」
──どうしてその手を握り返してしまったのか。白流はそのままするりと鏡の境界を越えてこの世界に現れ、髪の色がさっと白く染まっていった。
それは願いの木の音楽会のさなか、静湖の前に姿を現した幻の存在だった。
「白流、君は音楽会のときにも……」
「うん、ずっと会いたかったんだよ、青流」
気づけばぎゅうと抱きしめられていた。実体のない幻でありながら、そこには温もりがある気がした。が、静湖を抱きしめたまま、白流は、またね、と消えていった。
*
鏡に向かうたび、白流は静湖の前に現れた。静湖ととりとめない会話をし、時には現実の部屋にはないヴィオロンやピアノを弾いてみせた。しかしその後は、鏡の境界を越えて現れることはなかった──その日までは。
よく晴れて爽やかな風のそよぐその日、静湖は庭先で思いもよらぬ人物に出会った。
国王天海の正妃、奥の宮である。
彼女は庭の草原に布を広げ、軽食と茶を並べて、侍従もともなわずに裁縫をしていた。
「どうぞ」
静湖に気づくと奥の宮は手を止めて、向かいに座るように優雅にすすめた。
断ることもできず、静湖は従う。
近くで差し向かって見る金の長髪は、波打つと銀にも輝く。だが髪だけでなく、彼女はすべてが美しいのだった。さやかなまなざし、すっとした鼻梁、温かな声に、全身にまとった柔らかな空気──どこか誰かなつかしい人を思わせる面持ちと仕草。
その奥の宮が、静湖に笑いかけた。
「はじめまして。こうしてお話しするのははじめてですね」
静湖は沈黙で答えた。
「あら、しゃべれないの?」
奥の宮はおかしそうに笑い声をあげた。
どうして笑うんですか、と口に出すことはできない。が、彼女は静湖の顔色を読んだ。
「ごめんなさい。あまりにかわいらしいから。あなたのことを深く愛し、信じていますよ」
「……え? どうして?」
「あら、しゃべれるんじゃない」
またおかしそうに彼女は笑う。声がかすれたのは気にならなかった。愛していると言われても、よく知らない失礼な相手だ。不服を表して頬をふくらませると、さらに笑われる。
それから二人は会話もなしに、昼さがりの穏やかな時間を過ごした。奥の宮は縫い物をしながら、静湖が木漏れ陽を眺めたり茶をすすったりする様子を、ただにこにこと見て微笑むのだった。
やがて奥の宮はひとつの刺繍を終え、布地を広げながら口を開いた。
「私がどうして笑ったか、あなたにはわからない……私、高飛車で歪な女なんです。あなたにこの姿をさらしているのが滑稽で、笑ってしまったの」
静湖が首をかしげて応じると、奥の宮は、仲良くしてね、と微笑んだ。
彼女の言葉は謎だったが、本心を語ってくれたのはわかり、静湖は親しみを感じた。
奥の宮は改めて裁縫をはじめた。静湖はもう緊張も反発も覚えなかった。気づけば流れる時間は心地よく、静湖はうつらうつらまどろみかける。
が、何杯目かの香草茶を、静湖が奥の宮に注ごうとしたところ。
「あなた」
「え?」
「あなた、憑かれてる」
奥の宮がにわかに立ちあがり、静湖の肩のうしろへ手を伸ばした。
「気づかれた!」
静湖の声──いや、白流の声がして、静湖は何者かに腕をつかまれ立ちあがらされていた。腕を取る白流の姿が見えた。そのまま白流は走りだし、静湖の体は引っぱられていく。唖然とする奥の宮を残し、白流は静湖を駆りたてて館の二階の部屋へ、鏡の前へ連れていった。
「逃げるから、ついてきて!」
「え、ええっ!」
そうして白流は、波打つ鏡の向こうへ静湖を連れ去った。
*
0
あなたにおすすめの小説
冷徹団長の「ここにいろ」は、騎士団公認の“抱きしめ命令”です
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全16話+後日談5話⭐︎
王都最硬派、規律と責任の塊――騎士団長ヴァルド・アークライトは、夜の見回り中に路地で“落とし物”を拾った。
……いや、拾ったのは魔物の卵ではなく、道端で寝ていた少女だった。しかも目覚めた彼女は満面の笑みで「落とし物です!拾ってくださってありがとうございます!」と言い張り、団長の屋敷を“保護施設”だと勘違いして、掃除・料理・当番表作りに騎士の悩み相談まで勝手に開始。
追い出せば泣く、士気は落ちる、そして何より――ヴァルド自身の休息が、彼女の存在に依存し始めていく。
無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」
騎士団内ではついに“団長語翻訳係”まで誕生し、命令が全部“愛の保護”に変換されていく甘々溺愛コメディ!
虐げられた私、ずっと一緒にいた精霊たちの王に愛される〜私が愛し子だなんて知りませんでした〜
ボタニカルseven
恋愛
「今までお世話になりました」
あぁ、これでやっとこの人たちから解放されるんだ。
「セレス様、行きましょう」
「ありがとう、リリ」
私はセレス・バートレイ。四歳の頃に母親がなくなり父がしばらく家を留守にしたかと思えば愛人とその子供を連れてきた。私はそれから今までその愛人と子供に虐げられてきた。心が折れそうになった時だってあったが、いつも隣で見守ってきてくれた精霊たちが支えてくれた。
ある日精霊たちはいった。
「あの方が迎えに来る」
カクヨム/なろう様でも連載させていただいております
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
私の存在
戒月冷音
恋愛
私は、一生懸命生きてきた。
何故か相手にされない親は、放置し姉に顎で使われてきた。
しかし15の時、小学生の事故現場に遭遇した結果、私の生が終わった。
しかし、別の世界で目覚め、前世の知識を元に私は生まれ変わる…
王宮の万能メイド、偏屈魔術師を餌付けする
葉山あおい
恋愛
王宮で働く勤続八年のメイド、エレナ・フォスター。仕事は完璧だが愛想がない彼女は、いつしか「鉄の女」と呼ばれ恐れられていた。
そんな彼女に下された辞令は、王宮の敷地内にありながら「魔窟」と呼ばれる『北の塔』の専属メイドになること。そこの主である宮廷魔術師団長・シルヴィス・クローデルは、稀代の天才ながら極度の人嫌い&生活能力ゼロの偏屈男だった!
ゴミ屋敷と化した塔をピカピカに掃除し、栄養失調寸前の彼に絶品の手料理を振る舞うエレナ。黄金色のオムレツ、とろける煮込みハンバーグ、特製カツサンド……。美味しいご飯で餌付けされた魔術師様は、次第にエレナへの独占欲を露わにし始めて――?
意地悪な聖女や侯爵夫人のいびりも、完璧なスキルで華麗に返り討ち。平民出身のメイドが、身分差を乗り越えて幸せな花嫁になるまでの、美味しくて甘いシンデレラストーリー。
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる