魔法使いの恋歌 〜波空国交響譚〜

星乃水晴(すばる)

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第四番

第49話 宙の淵 1

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 大狼はいつしか天のどこかへ走り去っていた。じゅんは空から広場を見おろし、静湖しずみの姿がないと気づいた。風になった体を下降させ、狼として着地する。

 すると、がやがやと聞き覚えのある人々の声が遠くから耳に届いた。准は森の中に身を隠す。

「ううむ、この広場にもおられぬようですな」

 山道を登ってきたのは、神官長の柘榴ざくろだった。供の神官を何人か連れている。

「先に行ったのでしょうな。どうしたものか」
「しずくん、准くん……」

 神官の中には珊瑚の姿もある。柘榴は皆を振り返った。

「この先は〈ソラ〉に呑まれた危険な区域。だが私は行けるところまでは行くべきと思う。皆はここで待っていてくれて構わない」
「私は行きます」

 珊瑚が進みでる。神官たちは、進む者と残る者に分かれた。

 准は、柘榴たちより先に上空から静湖を探そうと、静かに身をひるがえした。

 天へ駆け、広場から先の道を探る。そこは先ほども見えた渓谷につながっており、谷底からは音が噴きあがるように見えた。

 准は谷沿いの細い山道に、狼の姿で降りたつ。

 が、山道の上も、谷底からの音の奔流の中だった。音を詠んできた准には、その流れは強すぎた。

 ぐらりと視界が回り、あたりの景色が形を成さなくなる。見えているものが景色なのか音なのかわからなくなる。自分の輪郭がほどけていき、気づけば谷へ落下していた。

 落ちながら必死に、音の流れを捕まえて乗ろうとあがく。だができなかった。あたりには圧倒的な音があふれており、自分の音楽を見失い、狼の体は溶けていった。准は世界に呑まれ、その一部に組みこまれようとしていた。

 はっとしたとき、下からなにか熱い流れにすくわれた。
 大狼の音楽だった。
 そのしっかりと確かな音楽は、准の音楽を呼びおこし、再び奏でさせた。

〝大丈夫か〟
〝はい……〟
〝ここはすべてがひとつなる場だ。出るぞ〟

 准は音楽のまま、大狼の音楽に連れられて上昇していく。気づけば谷を見おろす上空を流れていた。体はいつのまにか狼の姿に戻り、大狼の背に乗せられ運ばれていた。



 滝を越えた先に母の姿はなく、静湖は全身から雫をしたたらせ立ちつくした。

 右手には渓谷と向かいの山々が雄大に広がり、左手は山肌の斜面となっている。細い山道は谷沿いをどこまでも続き、青の響きはその奥から聴こえてくる。

 その響きに、心が共鳴していた。導かれていると感じる。

 この先は〈ソラ〉だ──大狼の警告が蘇る。
 静湖はどきどきとする胸に手を当てて深呼吸し、ゆっくりと歩きだした。

 と、静湖を迎えるかのように、見おろす谷間に虹がかかっていった。あたりに響く音楽が変わり、目下の峻厳な地形を歌うかのような交響曲が鳴りわたりはじめた。力強い響きは静湖の足もとを流れ、踏みだす足が音楽の上を歩むかのようにふわふわと浮いた。

「わっ、わっ」

 両腕を広げ、均衡きんこうを取りながら進んでいく。交響曲の主題が変わり、かすかに妖精が舞い遊ぶようながひらめいた。響きを目で追うと、妖精の通り道がそこにあるかのように、景色が調べに合わせて色を変えゆらぐのだった。

 その景色の中から、妖精は遊びでて静湖の周りを舞った。小さな旋律にからまれた静湖の手は、輪郭が消えて見えなくなる。

「溶けてる……!」

 思わず叫び、慌てて旋律を振り払う。手は実体を取り戻した。ことに静湖は戦慄し、あたりの音楽から逃げるように走りだす。

 走った、あやふやな音の上を。
 転がるように駆けた、細い道を踏み外す恐怖も感じずに。

 雄大な景色そのものだった交響曲は、いつしか妖しくゆがんでいた。目の前のすべてがゆがんだようだった。谷と山道が混ざりあい、音とともにふくれたり流れまわったり、形を成さなくなっていく。

 そこに、ごう、と谷から風が吹きあがり、さらに別の音楽が運ばれてきた。

「な、なに……?」

 夜がいななく旋律が踊る。きらめく銀の星空が景色を塗りかえた。見渡す世界一面に、銀の夜が落ちて星々が瞬き、山や谷の影が闇に置きかえられていく。

 天の河のように銀の輝きが流れる道で、星屑のような小岩につまずき、静湖は頭からつんのめった。転んでなめた土の味にも、不思議な香りが混ざっている。

 誰かの冷たい視線が、それを見おろしていた。

 はっと顔をあげれば、こぼれるばかりの星々を背に、左手の斜面に立つ人影があった。黒髪をなびかせた魔術師に見えた。が、その体は影でできており、闇を煮詰めたような顔の中に、夜空を宿した瞳がこうこうと輝くのがわかるだけだ。
 それでもその人物は──。

「御影……?」

 つぶやくと、魔術師は目を見開いて朗々と歌った。

〝なにも知らぬ子どもよ おまえが私を愛すなど 星の巡る歳月としつきほども たがう私を〟

 幻影だ、と警戒しながら、静湖は痛む体で立ちあがり身構える。

 それは静湖の心の底にあった御影の像なのか。幻であればこそ、その姿は美しかった。銀の星々を従えて立つ夜の番人。闇の彩りをまとい死星をもつかさどる者。

〝私がなにを愛するか 私がおまえを愛したか おまえは私を見ていたか
 そうではなかろう、ならば知れ!〟

 魔術師は歌いながら腕を横なぎに振るう。
 音の波が静湖を襲い、吹きとばされる。

 谷に落ちる──いや、谷ではない。星々のもとの奈落には、溶けあった交響が原初の夜闇のごとく渦巻いている。

 ──〈流の炉〉だ……!
 静湖は直感的にそう思う。あなたは〈流の炉〉のにえにされるために波空に連れ去られた、という聞かされた言葉たちが蘇る。そこへ今まさに、落ちていく。その刹那、静湖の心はあふれた。

 ──御影は、どんなときも僕を想ってくれていた。こんな幻影にわかるものじゃない!

 必死に伸ばした手がなにかをつかみ、落下は食い止められた。
 静湖は崖の途中で、突きだした岩をつかんでぶらさがっていた。
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