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五章

繁華街 その1

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相馬そうまさん!」
そんな軽い調子の声が背後から聞こえた。
朝っぱらから、その声を聞き、なんだか、頭が痛くなる。
その丸尾まるおの声を無視して宗一そういちは学校への路を急いでいた。
相馬そうまさん、無視しないでくださいよ! 相馬そうまさんってばー!」
登校途中に前を歩いている宗一そういちを見つけた丸尾まるおは走ってきて、彼に追いつくと、今度はまとわりつき始めていた
宗一そういちは返事はしない。
ただ黙りこくって、ひたすら歩くことにだけ専念しているかのようだった。
丸尾まるおのこうした行動は、いつものことである。
正直言って、うざいので、とことん無視を決め込むことにした。
何しろ、この頃はいつもまとわりついている。
自分何がそんなにいいのか、さっぱりと宗一そういちはわからない。
だが、この後輩は宗一そういちが授業に出ているとき以外は、常にこうして近くにいる気がする。
朝も昼休みも放課後もである。
いつもいつもプリンと一緒になって、周囲でわめき散らしているのである。
今も勝手になんらかの話を始めていた。
むろん、会話は聞いていないので、何を話していても関係ないし、内容を覚えていることもなかった。
ただ、丸尾まるおはそうやって学校に着いて、宗一そういちが教室に入り、ホームルームが始まる直前までプリンと同じことを続けていたのだった。

      ◆◇◆

丸尾まるおはどうして自分に対して、こんなにも学園での時間を割くことが出来るのだろうか。
プリンもだが、こいつらはなんで自分のクラスで自分の友達と話したりしないのであろうか。
自分であれば、洋介ようすけと話したり、その他の生徒ともきちんとコミュニケーションを取っているのにだ。
そのほうが学校での生活は楽しいと思うのだが、この二人は違うのだろうか。
わざわざ上級生の自分のところに来て、他愛もない話にばかり興じている。
しかも、自分はその大半は聞き流しているだけである。
一回、プリンに「なぜ、自分にまとわりつくのか」と訊ねたことがある。
彼女の場合、答えは単純で、「好きだから!」だそうだ。
好きな人といれば楽しいとも言っていたので、理由は明確ではあった。
しかし、この丸尾まるおのほうはどうだろうか。
ただ、舎弟にして欲しいからという理由だけで、こんなにも自分の時間を他人である自分のために割けるのであろうか。
自分は誰かの舎弟になりたいと思ったことはないし、いまいち、この丸尾まるおの感覚は理解できなかった。
そもそもどうして自分の舎弟になりたいのかというのも理解できなかった。
今日も授業は終わった。
また、いつものようにプリンと丸尾まるおが現れた。
終了のホームルームが終わると同時に教室に飛び込んできたのだった。
「今日もやっと授業が終わったねー! そーそー君、どこかに遊びにいこーよ!」
プリンが叫びながら抱きついてきた。
周囲には同級生たちがいる。
恥ずかしいことこの上ないが、プリンはまったく気にする素振りがない。
「離れろ! 苦しい…」
相馬そうまさん! カバンをお持ちします!」
「いや、いいから! そんなことしなくても!」
勝手にカバンを手にした丸尾まるおからカバンを取り返す。
カバンを持つと言っても、帰り道は途中までだし、分かれるときには返してもらうのだから、まったく意味のない気遣いである。
つまりはそんなことをしてもらう必要性も理由もないのだ。
「えー、俺に持たせてくださいよ!」
「いいから、持たなくても!」
「アハハっ、ねー、そーそー君、カラオケいこーよ! カラオケっ!」
丸尾まるおに話しているのもお構いなしにプリンが隣で勝手なことを言っている。
「いいっすねー、カラオケっ! 俺もお供します!」
「んじゃ、けっていー!」
プリンが右手を突き上げながら言う。
その瞬間、プリンは離れて、くるりと宗一そういちの前に回る。
宗一そういちは足を止めて、少しうつむき加減になる。
目の前では丸尾まるおとプリンが二人で勝手にはしゃいで盛り上がっていた。
「…いかない」
静かにその言葉を口にすると、二人は「エッ!?」っと意外そうな顔をする。
「そんないきましょうよ! 相馬そうまさん!」
「うんうん。行こうよー!」
「…だから行かないって…」
「どうしてですか?」
丸尾ルビがそれをついに問いかけた。
「…うざいから。お前ら…」
その言葉を口にすると、二人は互いに顔を見合わせる。
「お前ら本当にうざいよ。少しは人の迷惑も考えろよ…。いつもいつも上級生の教室に押しかけて、朝から帰りまで、俺の周りで勝手なことばかり言って…少しは空気読めよ! みんな周りの奴ら引いてんだよ!」
実際にこの頃、周囲の同級生たちはあまり宗一そういちに話しかけてこなくなっていた。
洋介ようすけですら、気を遣ったかのようにして、二人が来ているときは話に割り込んできたりしないくらいだ。
どうせ、今日も二人が来るだろうと言うことで、あまり同級生から誘われなくなったりもしている。
なんだか、この二人が図々しく自分の領域を侵している気がしてならないのである。
それがために教室で疎外感を覚えることが、この頃は多々あった。
「でも、でも俺、舎弟っすよ!相馬そうまさんの…」
「舎弟じゃねーよ…」
「プリンもプリンはそーそー君のこと好きだからそれで…」
「好きだからって、空気も読まないで何でもしていいのかよ」
それぞれの言葉に対して、それぞれの思いをぶつける。
二人からは言葉は返ってこない。
丸尾まるおは困った顔をしているし、プリンは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「あ…うう…ごめんなさい。でもね、プリン、そーそー君のことが大好きで…」
「俺は好きじゃねーよ…」
ぽつりと出てしまった言葉。
さらりと自分のどこかすら分からない場所からその言葉が出た。
シンとした教室にやけにその言葉は響いていた気がした。
プリンの大きな瞳にはどんどんと涙が溜まる。
やがて、それは眼からこぼれ落ちて、彼女の頬を伝わり、教室の床に水滴となって落ちた。
「ううっ…! ひどいよ…。プリンおバカだから、なんだか、分からないけど、とにかくひどいよ!」
そう言って、プリンは身を翻すと、教室から飛び出していった。
相馬そうまさん…」
「なんだよ…」
「その追わなくて…」
「いいよ」
素っ気なく宗一そういちは言う。
そして、宗一そういちはカバンを手にして、自身も教室から出ようとした。
「…お前も帰れよ」
その一言だけ冷たく投げつけると、宗一そういちは教室から出るのだった。
何かが終わった。
今まで続いていた何かがぷっつりと事切れた。
そんな感覚に見舞われながら、宗一そういちは長い長い廊下を歩いて行くのだった。
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