『婚約なんて予定にないんですが!? 転生モブの私に公爵様が迫ってくる』

ヤオサカ

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第13話 誰かの視線が、私の手を止める

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「……今日は、なんだか筆が重いなあ」

 アトリエでスケッチブックを開いたまま、私は鉛筆を握りしめたまま動けずにいた。
 描きたいはずの風景が、どうしてか頭の中でぼやけている。

 王宮の展示が終わり、公爵家との“非公式な婚約前提の交際”が噂として流れた頃から——
 私のまわりの空気が、明らかに変わっていた。

「ティナお嬢様、紅茶をお持ちしました」

 クラリスの声に顔を上げると、彼女がそっとカップを差し出してくれた。

「ありがとうございます……」

「最近、少しお疲れのように見えます」

「うん。……なんだろうね、描こうとすると手が止まるの。今までは、もっと自由に動かせたはずなのに」

「お嬢様は、これまで“誰に見られるか”を意識せずに描いてこられました。けれど今は……その自由が、少しずつ狭められてきているのかもしれませんね」

「……たしかに、そうかもしれない」

 王宮での展示が称賛された。
 それは本当に嬉しかった。

 でも同時に、「ジークハルト・レイヴンの婚約者候補が描いた絵」としての注目が集まっているのも事実だった。

 私の絵じゃないみたいだ、と思ってしまった。
 誰かに“見られるために描く”ことの重さが、今、じわじわと心にのしかかっていた。



 その日の午後、屋敷に姉セリーナが訪ねてきた。

「今日はお茶を一緒にしてくれるかしら?」

「もちろん。姉さまの紅茶は、ちょっと特別だから」

 セリーナが選んだのは、ほんのり花の香りがするブレンドティーだった。
 その香りに包まれているだけで、少しだけ気持ちが落ち着く。

「……ジーク様との噂、だいぶ広まってきているようね」

「……うん。私がどうこう言う前に、みんな勝手に話を作ってる」

「それが“貴族社会”というものよ。真実よりも、誰が語ったかの方が重視されるの」

 セリーナの目は、ほんの少しだけ哀しそうだった。

「私も、婚約が決まったとき、似たようなことを言われた。“やっぱり姉妹で格が違う”とか、“妹は絵なんていう道楽で気楽ね”とか」

「……そんなことを?」

「ええ。直接ではなかったけれど、耳には入ってくるものよ」

 姉は一口紅茶を飲んで、言葉を続けた。

「でも、私はあなたが羨ましかった。自分の意思で何かを選び、誰かに届くものを作り出せるあなたが」

「私だって、姉さまみたいにしっかりしていたらって、何度も思った」

「だからこそ、お互いがいるのよ」

 姉の言葉に、私は目を閉じた。

 比べられることは、もう慣れたつもりだった。
 でも、こうして“対等な姉妹”として向き合えるようになったのは、今が初めてだった。

「ありがとう、姉さま」

「ええ。……でも、ティナ。もう一つ、気をつけなければならないことがあるわ」

「なに?」

「“あなたの絵”が、“ジークハルトのもの”だと思っている人が出てきている」

「……え?」

「公爵家に嫁ぐのだから、絵を描くのもその家の“活動”の一環だ、という考え方があるの。あなたが自由に描き続けるには、はっきり意思を示さなければならない」

 私はその言葉を飲み込むのに、少し時間がかかった。

 自由に描く——それすら、誰かに制限される可能性があるなんて。

「ジークさんは……そんなこと、言わないと思う」

「そうね。彼自身はそうではないでしょう。でも、周囲は違う」



 その夜、私はジークハルトに手紙を書いた。

 私は、あなたの隣にいたいと思う気持ちに、嘘はありません。
 けれど、私の絵は“私のもの”でありたいのです。
 私が描きたいから描く。その自由を、手放したくないのです。

 それでも、あなたの隣にいていいでしょうか?

 ティナ・ミルフォード

 書き終えた手紙を封筒に入れ、そっと胸に抱えた。
 そのとき、ようやく筆を取る勇気が戻ってきた気がした。



 翌日、ジークから返事が届いた。

 君の絵が“君のものである”ということ。
 それは僕にとっても、何より大切なことです。

 絵を描く君に、僕が惹かれたのだから。

 ティナ、どうか自分の描きたいものを、描き続けてください。
 僕はそれを、誰よりも近くで見ていたい。

 ジークハルト・レイヴン

 その文を読み終えた瞬間、胸の奥に広がったのは、確かな温もりだった。

 誰かの視線が私の手を止めるなら、
 私はその視線を、やさしく受け止めて、描き続ければいい。

「……私は、絵で生きていく」

 その想いを、もう一度胸に刻んだ。
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