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管理人室 灰色の体温
01.管理人はじめます
しおりを挟む二十歳になってすぐ、バイトをクビになった。
育ての親だった祖父が亡くなった。
きっかけというには、十分すぎる理由だった。
桜も散った四月の半ば、閑静な住宅街にある鉄筋コンクリート造の四階建てアパートメントを見上げて、天瀬翠はキャップを被り直した。黒のジーンズに白のTシャツ、上に黒の長袖シャツを羽織ったカジュアルな格好だが、今日からこのアパートの一階は、翠の職場兼住居となる。
まだ築五年未満と比較的新しいアパートであり、シンプルで無機質なコンクリート仕上げの外壁は、目立った汚れもなく綺麗なままだ。アパートの周囲には名前も知らない植物がお洒落に植えられている。
正面のエントランスには宅配ボックスと集合ポストが設置されており、エントランスホールに続く扉はオートロックになっていた。
荷物のほとんど入っていない黒のリュックを片方の肩に掛け、翠はオートロックの鍵をカードキーで解除した。ぴっと機械音が鳴り、扉を開けて中に入る。
解放的なエントランスホールは掃除が行き届いているようで、タイルの床も白い壁も綺麗に磨き上げられていた。
(俺が前に住んでた築二十年超えのボロアパートとは大違いだな)
翠がこのアパートに来たのは今日で三度目だ。一度目はアパートの見学と仕事の説明、二度目は前の家から荷物の搬入。すでに家具や荷物は全部部屋に運び入れてあるので、今日から問題なく住むことができる。
エントランスホールには小さな管理人室があり、ここが翠の主な仕事場となる。
翠の祖父はこのアパートの管理人だった。アパートのオーナーと知り合いで、このアパートが建った時から管理人を任されていた。
「バイトをクビになった」と祖父に愚痴を言ったら、管理人をやらないかと勧められたのだ。アパートに住むなら家賃免除の管理人と聞いて、一人暮らしで金のなかった翠はすぐさま飛び付いた。
でもまさか、そのとき祖父の言っていたことが本当になるなんて思ってもいなかった。
『俺はもうすぐ死ぬから、お前に引き継いでもらえると助かるよ』
なんて──なに言ってんだこの爺さんは。ピンピンしてるじゃねえか。
そう思っていたのに、翠が管理人の仕事の引き継ぎを色々と教えてもらった数日後、祖父は突然倒れてそのまま帰らぬ人となった。
まるで死ぬ日を知っていたかのように、祖父はあらゆる準備を終えて旅立っていった。残された翠がやることなど、数少ない手続きだけだった。
翠は祖父のことを思い出し、キャップのつばを掴んで顔を伏せた。祖父が亡くなって二週間。いつまでも感傷にふけっている場合ではない。どんなに辛く悲しいことがあったとしても、働かなくては食っていけないのだ。
管理人室のドアを持っていた鍵で開け、部屋に入る。中は狭く、机と椅子と棚があるだけの必要最低限な設備の部屋だ。
今日は日曜日なので管理人の仕事は休みだったが、一応明日から働く職場をもう一度確認しておこうと、翠は椅子にリュックを置いて管理人室から出た。
「……そういやアイツ、どこにいるんだ」
このアパートの一階には、住人が好きに使える共用ルームがある。翠は見学に来た時に一度入っただけだが、日当たりもよく、広くて過ごしやすそうなスペースだった。アパートの住人はよく共用ルームに集まり、和気藹々と交流を深めているのだとか。
オーナーが最初から用意していたのか、上品なモノトーンのテーブルやソファも置かれ、キッチンとトイレまで付いているので、人によってはこの部屋に入り浸っていてもおかしくはない。
基本的に使ったら個人で片付けるのがルールになっているようだが、当然共用ルームの掃除も管理人である翠の仕事だった。
誰もいなければ鍵がかかっているはずの共用ルームは、鍵が開いていた。住人の誰かが使っているのだろう。ここの住人とはまだ初対面なので、念のためノックをしてから翠はドアを開けた。
「あ……お前、こんなところにいたのか」
ドアを開けた翠の視線の先には、ソファを占領するようにして眠る大きな犬がいた。青みがかった灰色の毛、胸元と顔には白い毛も混じっている。美しい毛並みの犬で、顔立ちはなかなかに凛々しい。足をソファからはみ出しながら体を横たえて眠っていた犬は、翠の声に反応して頭だけを持ち上げた。
「琥珀、どうやって入ったんだ。誰かに入れてもらったのか」
犬は琥珀色の瞳をじっと翠に向け、返事をするように尻尾を左右に揺らした。
「お前、犬のくせにほんといいご身分だな」
翠は犬が寝そべるL字型のソファに近付くと、自分もそこに腰を下ろした。再び頭をソファに沈めた犬の横腹を撫でてやる。
祖父が翠に残してくれたもの。
アパートの管理人、少しのお金、いくつかの祖父の私物。
そしてこの大型犬──琥珀だった。
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