成績表に書けない才能

深渡 ケイ

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第28話:第3進路室、閉鎖命令

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 第3進路室のドアのガラスに、廊下の蛍光灯が白く映っていた。机の上には昨夜から積み上がった調査書の控え、進路先のパンフ、封筒の糊の匂い。

 相沢陸がホチキスの針を詰め替えていると、廊下の足音が揃って近づいた。音が止まり、ノックが二回。

「入るぞ」

 黒川教頭は扉を開け、後ろに学年主任と事務長を従えて入ってきた。室内の空気が一段だけ重くなる。黒川は立ったまま、ファイルを机に置いた。

「桐生先生。第3進路室の件だ」

 静は椅子を引かず、机越しに顔を上げた。

「昼までに出す提案書なら、あと一時間あります」

 黒川は首を横に振らない。代わりに、ファイルを開いて一枚目を指で押さえた。

「正式通達だ。第3進路室は、今月末で閉鎖する」

 陸の手が止まった。ホチキスの上で指が硬くなる。

 静はペンを置いた。机の上の紙が、少しだけずれた。

「理由は」

「成果不十分」

 黒川は淡々と続ける。

「進学実績に寄与していない。就職も内定数が少ない。数字が出ていない。学校の評価に直結する指標で、改善が見られない」

 主任が視線を落としたまま、咳払いをひとつした。

 静は黒川の指先を見た。紙の上で、爪が白くなっている。

「卒業まで一年切ってる生徒がいる。今閉めたら、受け皿は」

「通常の進路指導に戻せばいい」

「通常で拾えてないから、第3ができた」

 黒川は静の言葉を受け流すみたいに、次のページをめくった。

「第3進路室の存在が、“学校が面倒を見る”という誤解を生む。努力が必要な場面で、甘えが出る。こちらのリソースも限界だ」

 陸が口を開きかけたが、静が視線だけで止めた。陸の喉が鳴る。

 静は椅子に深く座り直した。背もたれが軋む。

「誤解じゃない。面倒は見る。現実的に」

「現実的、ね」

 黒川の声が少しだけ低くなる。

「現実的なら、数字を出せ。学校は企業だ。成果がすべて。あなたも分かっているはずだ」

 静は机の端に置いた封筒を指で押した。封が甘く、糊が乾ききっていない。

「成果の定義が狭い」

「狭くない。世の中はそう動いている」

 黒川は、主任の方を一瞬だけ見た。主任が小さく頷く。

「第3は、今後“相談窓口”として残す案も検討した。しかし、専任は置けない。教室を一つ空ける余裕もない。ここは教室に戻す」

 陸が思わず言った。

「ここ、教室に戻しても……空き教室、今、足りてるんですか」

 主任が陸を見て、眉を寄せた。

「相沢。口を挟むな」

 黒川は陸を一度だけ見た。目線は冷たいが、怒鳴らない。

「足りない。だからだ」

 静が言う。

「足りないのは、教室じゃない。支援の方だ」

 黒川はファイルを閉じた。音が乾いていた。

「桐生先生。あなたの提案書は読んだ。外部連携、相談機関、職業訓練校とのパイプ。立派だ」

 静の眉がわずかに動く。

「読んだなら」

「読んだから閉める」

 黒川は言い切った。

「外部に投げる形になる。学校の成果にならない。あなたの熱意は評価するが、学校の看板を背負っている以上、優先順位が違う」

 主任が静の机の上の書類をちらりと見て、すぐ逸らした。事務長は無言で、部屋の隅の備品棚に目をやっている。

 静は息を吸った。吐く息が短い。

「閉鎖の手続きは」

 黒川は用意していた紙を一枚抜き、机の上に滑らせた。

「この通達に署名。今日中。引き継ぎは来週から。第3の案件は、各担任に戻す。個別に外部へ繋ぐなら、学校名を使うな。個人でやれ」

 陸が椅子から立ち上がりかけ、静が先に言った。

「個人でやるなら、勤務時間内は」

「当然、校務を優先しろ」

 黒川は腕時計を見た。

「時間はない。午後には職員会議だ。そこで周知する」

 静は紙を見た。署名欄の空白が、やけに大きい。

「成果不十分、ね」

 黒川は返す。

「あなたの言う“救い”が数字に変換できないなら、学校は守れない」

 静が顔を上げた。

「救いじゃない。生活だ。生徒の」

 黒川はその言葉を受けて、ほんの少し口角を動かした。笑いではない。

「生活なら、家庭が守る。学校が全部背負うな」

 静の指先が机の縁を掴む。爪が板に当たる音が小さく鳴った。

 陸が静の横顔を見た。いつもならすぐ言い返すのに、静は黙っている。黙ったまま、通達の紙を二回、指で揃えた。

 黒川が踵を返す。

「桐生先生。あなたが潰れる必要はない。余計なことはするな」

「余計かどうかは、こっちで決める」

 静が言うと、黒川は立ち止まった。振り向かないまま、息だけ落とした。

「決められるのは、組織の中だけだ」

 黒川は出ていった。主任と事務長も続き、扉が閉まる。廊下の音が遠ざかる。

 室内に残ったのは、蛍光灯の唸りと、紙の匂い。

 陸がようやく息を吐く。

「……閉鎖って、マジですか」

 静は通達を裏返し、机の端に置いた。ペンを取り、キャップを外す。書類にサインはしない。別の紙に、短くメモを書き始める。

「マジ」

 陸が拳を握って、机を叩きそうになり、寸前で止めた。

「じゃあ、ミオ先輩の二次見学とか、シキの相談窓口とか、レオの面談とか……全部、担任に戻すんですか。無理でしょ」

 静は書く手を止めずに言う。

「担任に戻す書類は戻す。戻した上で、こっちで手は動かす」

「でも、学校名使うなって」

「使わない」

 静はペン先で紙を叩く。

「相沢。電話、できる?」

「できます」

「今日の夕方の相談窓口、シキの予約番号。控え、どこだっけ」

 陸が慌てて引き出しを開け、クリアファイルを探す。紙が擦れる音が焦りを増幅する。

「これです、これ……」

 静は受け取り、目を走らせる。

「よし。ミオは二次の見学手配、済んでる。問題は母親の同意」

 陸が唇を噛む。

「『働け』ってやつ……」

 静は頷かない。代わりに、机の上のスマホを取った。

「レオの火曜十時半、面談。母へ同席通話可。ここは絶対落とせない。欠席されると“条件付き在籍”が崩れる」

 陸が言う。

「でも、先生。ここ閉められたら、場所……」

 静は部屋を見回した。壁の掲示板、椅子の脚、窓際のプリンター。どれも今日までの“居場所”の形をしている。

「場所は変わる」

 静はスマホの画面を点けたまま、陸を見る。

「逃げ道も変わる。増やす」

 陸は不安げに笑おうとして、失敗した顔になる。

「増えますか。むしろ減ってる」

 静は通達の紙に指を置いた。紙は動かないのに、指先だけが少し震えた。

「減らされた分、別の道を作る。学校の中じゃなくてもいい」

 陸が低い声で言う。

「……黒川教頭、止めに来ますよ。監視、もっときつくなる」

 静はスマホの画面を見た。時計が昼前を示している。

「止められる前に、やる」

 静は連絡先を開き、タップした。

「まずミオの母親に電話。短く、条件を出す。『今すぐ働け』に対して、“働きながら通う”現実案を作る」

 陸が頷き、受話器代わりの子機を手に取る。

「番号、あります」

 静が言う。

「相沢。言い方は丁寧に。でも、甘くしない。母親の不安は金だ。そこを外すな」

 陸は喉を鳴らし、番号を押す手が一瞬止まった。

「先生、もし……通話、録音されてたら」

 静は視線を上げた。

「されてる前提で話せ。嘘は言うな。約束は守れる範囲だけ」

 陸が息を吸い、発信ボタンを押した。

 コール音が一回、二回。静はその音を聞きながら、通達の署名欄を見ないようにして、机の上の提案書の束を引き寄せた。

 紙の角が、掌に食い込む。

 廊下の向こうで、職員室のチャイムが鳴った。午後の会議が近い合図みたいに。

 コール音の向こうで、誰かが出る気配がした。陸が背筋を伸ばす。

「……もしもし。あ、相沢です。桐生先生の進路室の件で――」

 静はペンを握り直し、次の番号をメモした。外部の相談窓口、訓練校の担当、就労支援の窓口。学校の名前を使わずに繋げるための、細い糸。

 ドアのガラスに、誰かの影が横切った。立ち止まらずに去っていく。

 静は影を追わない。陸の通話の声だけを聞き、机の上の紙を一枚ずつ揃えた。

 会議まで、あと少し。ここが閉まるまで、もっと少し。


 電話を切った陸の指先が、受話器のボタンの上でしばらく止まっていた。

「……今、出なかったです」

 静はメモ帳を閉じるでもなく、次の番号を書き足した。

「出るまでかける。昼休み、夜、朝。相手の生活に合わせる。勝負はそこ」

 廊下が騒がしくなった。昼休みの足音に混じって、こちらへ向かう速い歩幅がある。

 ノックもなく扉が開き、ミオが顔を出した。息が上がっている。髪が少し乱れていた。

「先生、やばいって聞いた」

 静は視線だけで椅子を示す。

「座れ。まず水飲め」

「そんな場合じゃ――」

「座れ。倒れたら話が進まない」

 ミオは唇を噛んで椅子に落ちた。陸が給湯室から持ってきた紙コップを差し出すと、受け取って一気に飲んだ。

 続けて扉が開く。レオが無言で入ってきて、壁際に寄りかかった。制服の襟が崩れている。目が合っても逸らさない。

 最後にシキが入ってきた。手はポケットに突っ込んだまま。足元だけが落ち着かない。

「……みんな、来たんだ」

 陸が小さく言うと、シキが鼻で笑った。

「来るだろ。ここ、なくなるんだろ」

 ミオが静を睨むように見た。

「閉鎖って、ほんと? なんで」

 レオが低く言う。

「数字出てないから、ってやつ?」

 静は机の上の通達を裏向きにしたまま、動かさない。

「本当。今月末でここは閉まる」

 ミオが立ち上がる。

「ふざけんなよ。今さら? 今さら閉めたら、二次の見学とか、どうすんの」

 静は声を荒げない。

「見学は行く。手配は済んでる。問題は同意だ」

 ミオの肩が跳ねた。

「……母親のこと?」

 静が頷く代わりに、机のメモを指で叩いた。

「電話は出ない。出るまでかける。出たら条件を詰める。『働け』を否定しない。働きながら通う現実案を出す」

 ミオが言い返す。

「働きながらって、無理だよ。学費も交通費も――」

「だから今、数字を出す」

 静の声が切れる。

「月いくら必要か。あなたが今いくら稼げるか。足りない分をどこで埋めるか。奨学金、分割、バイト、制度。全部、紙にする」

 ミオが口を開けたまま止まった。怒鳴り返す言葉が見つからないみたいに。

 シキが椅子の背を蹴るように引いて座った。

「先生、制度って言うけどさ。俺、家賃の督促来てんだよ。今日明日でどうにかなるやつ、ある?」

 静はシキの目を見た。

「ある。今日の夕方、相談窓口。予約番号、ここ」

 静が紙を差し出すと、シキは受け取らず、机の上を指で弾いた。

「それ、行ったら全部バレるだろ。学校に。親に」

「学校には言わない。言えない。ここは閉められる」

 静はそこで一拍置いた。

「でも、命に関わるなら話は別。あなたが切りそうなら、私は保護者にも外にも繋ぐ」

 シキのまぶたが一瞬だけ揺れた。ポケットの中の手が、何かを握り直す。

「切るとか言ってねぇし」

「言わなくても、行動で分かる」

 静は机の端を指でなぞった。

「今日は窓口まで同行はできない。会議がある。だから相沢が途中まで付き添う。校門前で待ち合わせ、時間は――」

 陸がすぐ言う。

「十六時四十分。校門の外。人目あるとこ」

 シキが舌打ちした。

「お前、なんでそんな慣れてんだよ」

 陸が視線を落とす。

「……慣れたくて慣れてない」

 レオが壁から離れて、椅子を引いた。

「俺は?」

 静が即答する。

「火曜十時半。面談。母親、同席通話可。そこは崩すな」

 レオが笑ったような息を吐く。

「母ちゃん、出るかな」

「出ないなら、出るまでかける。ミオと同じ」

 静はレオの手元を見る。爪の間が黒い。バイトか、現場か、どちらにせよ手を使っている。

「中退届は出してない。『条件付き在籍』に変えた。条件は、学校に来ることじゃない。“連絡がつく状態でいること”だ」

 レオが眉をひそめる。

「それ、学校が許したの?」

「今は」

 静は言葉を短く切った。

「今は、ね」

 ミオが机を叩いた。

「先生、それ、つまりさ……教頭に黙ってやってんの?」

 陸が肩をすくめる。

「黙っては……ないです。見られてる感じ、ある」

 扉のガラスの向こうで、誰かが立ち止まった気配がした。影が揺れて、すぐ離れた。

 室内の全員が一瞬、息を止める。

 静は顔色を変えない。

「見られてる前提で動く。嘘はつかない。約束は守れる範囲だけ」

 ミオが唇を尖らせる。

「じゃあ、ここ閉めるの、止めるためにさ。私らが抗議したらいいじゃん。署名とか。SNSとか」

 レオが乗る。

「炎上させたら、学校もビビるだろ」

 シキが笑う。

「炎上って、俺らが燃えるだけじゃね」

 静は手を上げて止めた。

「煽るな」

 ミオが睨む。

「先生が煽ってるんじゃん。『戦え』って言えばいいじゃん」

 静は椅子にもたれず、前に身を乗り出した。

「戦い方を間違えると、あなたたちの進路が先に折れる」

 レオが舌で歯を鳴らした。

「じゃあ、黙って潰されろって?」

 静は首を振らない。代わりに、机の上の通達を指先で押し、少しだけこちらに引いた。裏向きのまま。

「私のために動くな」

 ミオが言う。

「は?」

「ここを残すための行動は、学校が“問題行動”ってラベル貼る」

 静は淡々と言葉を置く。

「推薦、調査書、面接評価、全部に影響する。あなたたちが損する」

 陸が小さく頷く。ミオは納得できない顔のまま、椅子の背を握った。

 静は続けた。

「自分のために動け。自分の進路のために。今、必要なのは抗議じゃない。手続きと証拠と連絡」

 シキが鼻で笑った。

「証拠って」

「家賃の督促。未納額。住む場所の見通し。窓口に出せる形にする」

 静はシキを見る。

「あなたが“今夜どこで寝るか”を、言葉で言えるようにする。恥じゃない。必要な情報」

 シキが視線を逸らす。

「……漫喫」

「それも情報。隠すと詰む」

 レオが腕を組む。

「俺の証拠は?」

「中退しない根拠。今やってる仕事の内容。出勤表。収入。学校と折り合いをつける材料」

 レオが小さく息を吐いた。

「数字、数字って、結局そっちかよ」

 静はレオの目を見て言う。

「そう。数字は武器になる。学校のためじゃない。あなたが自分を守るため」

 ミオが噛みつく。

「じゃあ私の数字は? 偏差値? 終わってるけど」

 静は短く返す。

「生活費。学費。通学時間。バイトの時給。出席の最低ライン。全部」

 ミオが言葉を失って、膝の上で指を絡めた。

 陸が口を開いた。

「先生、でも……ここがなくなったら、俺ら、どこに来れば」

 静は一瞬だけ室内を見渡した。掲示板のメモ、椅子の並び、プリンターの紙詰まりの跡。全部、今日までの形。

「来る場所は変える」

 静は机の引き出しから、白い封筒を一枚出した。学校の角印のない、ただの封筒。

「連絡先を渡す。個人の。時間も場所も、学校外にずらす。公民館、図書館、駅前のファストフード。人目があるところ」

 ミオが言う。

「先生、そこまでして……」

 静はそこで言葉を切り、ミオの目線を受け止めた。

「ここは閉まる。だから道を増やす。それだけ」

 レオが低く言った。

「先生、怒ってないの?」

 静は答えない。代わりに、ペンでメモを引き裂くように線を引いた。

「怒ってる暇がない」

 シキが笑いかけて、途中でやめた。

「……現実的だな」

 静は立ち上がった。椅子が短く鳴る。

「今から分担。ミオ、母親に出す条件を一緒に作る。あなたの“働ける時間”を正直に出せ。盛るな」

 ミオが頷き、唇を噛みしめたままスマホを出す。

「……分かった」

「レオ、火曜の通話に備えて、母親に送る短文を作る。『出て』じゃない。『この時間だけ、必要』」

 レオが舌打ちしながらも、スマホをいじり始めた。

「了解」

「シキ、夕方の窓口に持っていく紙。督促の写真、口座残高、身分証。揃う?」

 シキがポケットからスマホを出し、画面を見た。

「……督促、ある。残高は……見たくねえ」

「見ろ。見ないと、相手も動けない」

 シキは目を閉じてから、画面をタップした。

 陸が静を見上げる。

「先生、会議……」

 静は時計を見る。針が容赦なく進んでいる。

「会議は出る。そこでここが“閉まる”って確定する。だから今、できるだけ前に進める」

 扉の外でまた足音が止まった。今度は短く、わざとらしく咳が聞こえた。誰かが“いる”と知らせる咳。

 ミオが小声で言う。

「監視、マジじゃん」

 静は声を落とした。

「だから、騒ぐな。泣くな。今は」

 レオが笑う。

「泣いてねえし」

「泣いてもいい。でも、それで手が止まるなら後にしろ」

 静は机の上の通達を封筒に入れ、引き出しの奥にしまった。鍵を回す音が小さく響く。

「ここがなくなっても、あなたたちの期限は止まらない」

 静はドアの方を見ずに言った。

「期限に勝つ。方法は、ひとつじゃない」

 陸のスマホが震えた。画面に、未登録の番号。陸が静を見る。

「……ミオ先輩の、お母さんかも」

 ミオが息を呑んだ。椅子の脚が床を擦った。

 静が頷く。

「出ろ。短く。条件から入れ」

 陸が通話ボタンを押し、耳に当てた。

「もしもし、相沢です。お忙しいところ――」

 静は机の上に新しい紙を置き、ペン先を構えた。ミオの方へ紙を滑らせる。

「書け。あなたの言葉で。母親が欲しいのは安心だ。あげるのは、現実だけ」

 廊下の気配がまた動く。会議へ向かう職員の足音が増えていく。

 陸の声が少し震えた。

「はい。はい……“働く”のは前提で、大丈夫です。ただ、その働き方の話で――」

 静はペンを走らせながら、時計の針を見た。会議まで、あと十分。

 次に動かすべき電話の番号を、もう一つ書き足した。シキの窓口の担当者。レオの母へのSMS。閉鎖の先にある、細い道の入口。


 職員会議の開始五分前。廊下は足音と紙の擦れる音で満ちていた。

 第3進路室の扉が開き、静が先に出る。陸はその半歩後ろ。手には、ミオの母親との通話で書き散らしたメモと、シキが撮った督促状のコピー、レオが作ったSMSの下書き。

 ミオたちは室内に残った。静が振り返らずに言う。

「鍵、閉める。誰が来ても開けない」

「分かった」

 レオの声が短く返る。ミオは頷き、シキは目を逸らしたまま親指を立てた。

 扉が閉まる音が、廊下のざわめきに飲まれた。

 静は職員室へ向かう流れに乗らず、会議室の方へ歩いた。陸はついて行きながら、何度も前を見ては飲み込む。喉が乾いたまま、唾が出ない。

 会議室の前で、黒川が一人、資料を腕に抱えて立っていた。周囲の教師たちが挨拶をして通り過ぎる。黒川は簡単に返し、目線だけで人の流れを整えている。

 静が止まる。陸も止まる。黒川が気づき、視線をこちらへ向けた。

「桐生先生。時間通りだな」

 静は短く頷いた。陸の手の中の紙が、汗で柔らかくなっている。

 黒川の目が陸に移る。

「相沢。君も来たのか」

 陸は喉を鳴らした。静が横で何も言わない。止めない。背中も押さない。ただ、そこに立っている。

 陸は一歩、前に出た。

「……教頭先生」

 黒川の眉がわずかに動く。

「何だ」

 陸は手の紙を握り直した。紙の角が指に食い込む。

「第3進路室、閉めるって……本当に、必要ですか」

 廊下の空気が一瞬だけ薄くなる。近くにいた英語科の教師が足を止め、すぐに視線を逸らして会議室に入っていった。

 黒川は声を荒げない。

「必要だ。理由は通達の通りだ」

 陸が食い下がる。

「成果が数字じゃないから、って。でも、成果って……内定とか合格だけですか」

 黒川の目が細くなる。

「学校の評価は、それで決まる」

「でも」

 陸は息を吸い、吐く勢いで言った。

「僕、ここで初めて、ちゃんと進路の話できました。担任には言えなかった。親にも。ここで言えた」

 黒川が言う。

「君の感情は分かる。しかし――」

「感情じゃないです」

 陸は言い切って、自分でも驚いたように一瞬瞬きをした。それでも口は止まらない。

「ミオ先輩、二次の見学、行けるとこまで来てるんです。シキ、今日の夕方、相談窓口、予約取れたんです。レオも中退届、出さないで条件付き在籍になった。これ、数字じゃないけど……今、止めたら、崩れます」

 黒川は静を見た。静は黙ったまま、黒川の視線を受ける。逃げない。

 黒川はまた陸に戻す。

「崩れないように、担任に戻すと言っている」

 陸の声が震えた。

「担任に戻したら、同じです。戻したら、また黙ります。僕ら、黙るの、得意なんで」

 黒川の口元がわずかに固くなる。

「得意? それは逃げだ」

 陸の頬が赤くなる。

「逃げますよ。逃げないと、壊れるから」

 言ってしまった後、陸は唇を噛んだ。視界の端で静が小さく瞬きをしたが、何も言わない。

 黒川は一拍置いた。

「壊れる、ね」

 黒川の声がほんの少しだけ柔らかくなる。だが次の言葉は硬い。

「相沢。学校は、全員の壊れそうを拾えない。拾うなら、ルールの中で拾う」

 陸は言う。

「ルールの中って、誰のためのルールですか」

 黒川の視線が鋭くなる。廊下の遠くで、会議開始のベルが鳴った。

「学校のためだ」

「学校って、誰ですか」

 陸はもう引けなかった。手の紙がくしゃりと音を立てる。

「僕ら、学校じゃないんですか」

 黒川の喉が小さく動いた。答えがすぐ出ない間が落ちる。黒川の背後の扉が開き、主任が顔を出した。

「教頭、始まります」

 黒川は扉の中を見ずに、短く返した。

「分かっている」

 主任は陸と静を見た。眉が寄る。言いたいことを飲み込み、扉を閉めた。

 黒川は陸に向き直る。

「君たちは学校だ。だからこそ、学校を守らなきゃいけない」

 陸が言う。

「守るって……切ることですか」

 黒川の目が揺れた。ほんの一瞬、何か別の言葉が喉元まで来たように見えた。

 静がそこで初めて口を開いた。

「相沢。言い切れ。途中で止めるな」

 陸は静を見た。静は頷かない。ただ、目で「続けろ」と言っている。

 陸は黒川に戻る。

「僕、数字、出せない側です。だから、第3に来ました。でも、ここがなくなったら、僕らは“切られた側”って分かります。そうなったら……学校のこと、守れないです」

 黒川の眉間に皺が寄る。

「脅しに聞こえるぞ」

「脅しじゃないです。現実です」

 陸は声を落とした。

「僕ら、学校に期待しなくなります。連絡もしなくなる。出席も、提出も、全部」

 黒川の瞳がわずかに動いた。静はその変化を見逃さない。だが口には出さない。

 黒川は息を吐き、資料を抱え直した。

「相沢。君は賢いな。だから言う」

 黒川の声は低い。

「君の言う通り、ここで拾われたものがある。私も否定はしない」

 陸の目が少しだけ開く。

 黒川は続けた。

「だが、決裁は覆らない。閉鎖は決定だ。組織は、例外を積み上げると崩れる」

 陸が言う。

「例外じゃないです。必要です」

 黒川は首を横に振らず、ただ言った。

「必要でも、今の形では続けられない」

 静が口を挟む。

「形を変える案は出した。外部連携、相談窓口の連結、校内の負担軽減」

 黒川は静を見る。

「読んだ。だが学校の成果にならない」

 静は言い返さない。代わりに、陸の手の紙を顎で示した。

「これが成果だ。学校が数えないだけで」

 黒川は視線を落とし、陸の握りしめた紙を見た。くしゃくしゃのメモ。母親との通話の要点。金額の試算。窓口の予約番号。火曜の通話時間。

 黒川の口が少しだけ開き、閉じる。

「……相沢」

「はい」

「君は、誰に言われてここまでやっている」

 陸は即答しなかった。静を見て、それから黒川を見る。

「……僕が、必要だと思ったからです」

 静が小さく言う。

「自分の言葉で言えたな」

 黒川が目を細める。褒めるでもなく、咎めるでもない。

「君のような生徒が増えれば、学校も変わるかもしれない」

 陸の胸が少しだけ持ち上がる。

 だが黒川は、次の言葉でそれを静かに落とした。

「しかし、私は今日の会議で閉鎖を通す。今は、守るべきものの順番が違う」

 静の口元が動く。笑いではない。

「順番を変える仕事が、進路指導だろ」

 黒川は静を見たまま、答えない。会議室の中から、ざわめきが大きくなる。開始の空気が迫っている。

 黒川は扉に手をかけた。

「桐生先生。相沢。中に入れ」

 静は頷き、陸の肩を軽く叩いた。陸はびくりとする。

「今のは、無駄じゃない」

 陸が小声で言う。

「でも、変わらないじゃないですか」

 静は歩き出しながら言う。

「変わらない決裁もある。だから、別のところで変える。生徒の手続きを止めない。今日の夕方も、火曜も」

 黒川が先に会議室へ入る。扉が開いた隙間から、教員たちの視線が一斉にこちらへ向く。静と陸はその中を通る。

 席に着く直前、陸のスマホが震えた。画面に「未登録」。ミオの母かもしれない番号。

 陸は静を見る。静は視線だけで言う。「切るな」

 陸は会議室の椅子の背に手をかけたまま、スマホを握り直した。

 黒川の声が前方で響く。

「――第3進路室の閉鎖について、報告します」

 陸の指が、通話ボタンの上に乗った。会議の空気に呑まれないように、息を浅く吸う。

 次の一手は、会議の外にある。ここで座って聞きながら、同時に動かすしかない。


 会議室の空気は、プリントのインクの匂いと、ため息の混ざった熱で重かった。

 前方の黒川が資料をめくる音だけがはっきり聞こえる。

「――第3進路室の閉鎖について。今月末をもって運用を終了し、教室として再配置します」

 ざわめきが一段上がる。反対の声は上がらない。上げる場所がない、という顔が並ぶ。

 静は最後列に座り、ペン先を紙に当てたまま動かさない。陸は隣で、スマホを机の下に伏せて握っている。画面の「未登録」が消えない。

 黒川が続ける。

「理由は、進学・就職実績の改善が見られないため。今後は担任を中心とした通常の進路指導へ一本化します」

「質問いいですか」

 数学科の教師が手を上げる。声は弱い。

「第3の生徒、家庭事情が複雑な子が多い。担任だけで回るのか」

 黒川は即答する。

「回します。外部機関は必要に応じて紹介する。だが学校の看板で過度な介入はしない」

 静のペン先が、紙に小さな点を打った。

「過度、の線引きは」

 静が口を開く。会議室の視線が一斉に向く。

 黒川は静を見た。

「桐生先生。線引きは管理職が行う」

 静は頷くだけで引かない。

「管理職が線を引くなら、管理職が責任を取る。第3が拾っていたケース、落ちる」

 黒川の声が低くなる。

「脅しはやめろ」

「脅しじゃない。報告」

 静は紙に目を落としながら言う。

「今日の夕方、家賃督促で住居不安の生徒が相談窓口に行く。火曜、条件付き在籍の生徒が保護者同席通話の面談。二次見学の同意待ちの生徒がいる。今、切り替えたら事故る」

 会議室の端で、誰かが小さく息を吸った。

 黒川は一拍置いてから言う。

「事故らないように、手順を整える」

 静が言う。

「手順を整えるには、現場が動く場所がいる。第3がそれだった」

 黒川は資料を閉じる。

「結論は変わらない」

 静はそこで言葉を止めた。引くのではなく、別の紙をめくる。机の上に置いた資料が一枚、音を立てて揃う。

 陸のスマホがまた震えた。今度は着信が切れた振動。陸の喉が鳴る。

 静が小さく囁く。

「後で折り返せ。会議中は切るな」

 陸は頷き、指でメモアプリを開く。

 黒川が周囲を見渡し、締めに入ろうとする。

「以上。第3進路室の閉鎖は――」

「待ってください」

 静の声が短く割り込む。黒川の眉が動く。

「桐生先生。議題は――」

「議題の範囲です」

 静は立ち上がらない。座ったまま、資料を一枚持ち上げた。校名の入っていない、白い紙。タイトルだけが太字で印字されている。

『外部発表会(成果物・実務スキル可視化)実施案』

 会議室の何人かが、思わず覗き込むように身を乗り出した。

 黒川が言う。

「何だ、それは」

 静は淡々と説明を始める。長くしない。要点だけを、短く刺す。

「第3の生徒の成果を、外に出して見せる。合否じゃなく、作ったもの、やったこと、続けたこと。実務スキルを可視化して、企業・専門学校・支援機関に見てもらう」

 英語科の教師が眉を上げる。

「発表会? 文化祭みたいな?」

「文化祭じゃない」

 静は即答する。

「就活のポートフォリオと、面接の場を学校外で作る。小規模でいい。参加者は外部。学校関係者は最低限」

 黒川が言う。

「学校外? 学校の成果にならないと言ったはずだ」

 静は黒川を見る。

「学校の成果にする方法もある。参加企業に、学校宛ての評価シートを書かせる。出席率、報連相、納期、改善の速度。数字にできる」

 会議室が静かになる。数字、という単語にだけ反応する空気。

 黒川が口を開きかけ、閉じた。

 静は畳みかけない。間を置いて、次を出す。

「第3が閉まっても、私が勝手にやることはできる。でも学校の協力がないと、安全面と信用で詰む。だから、学校として“やるかやらないか”を今ここで決めてほしい」

 黒川の声が硬い。

「外部を招くなら、リスクが増える。不祥事が起きたらどうする」

「起きない形にする」

 静は紙をもう一枚めくった。チェック項目が並ぶ。会場、動線、個人情報、撮影禁止、同意書、緊急連絡、支援機関同席。

「同意書を取る。撮影は禁止。生徒名は出さない。支援機関に立ち会ってもらう。会場は市の貸会議室。学校敷地外」

 黒川が言う。

「費用は」

「借りるのは二時間。市の施設なら数千円。交通費は各自。払えない子には支援制度の申請を同時に走らせる」

「誰がやる」

「私がやる」

 静は言い切った。会議室の空気が揺れる。誰かが「無茶だ」と小声で漏らした。

 黒川が静を見た。視線が鋭いまま、どこかで迷いが混じる。

「あなたは、閉鎖を覆したいだけだろう」

 静は首を振らない。肯定もしない。代わりに、陸の方へ視線を投げた。

 陸が背筋を伸ばす。喉が詰まる。でも、口を開いた。

「……僕、発表できます」

 会議室の視線が陸に集まる。陸の耳が熱くなる。

「僕、調査書の申請、封筒の準備、窓口の予約、電話のメモ……それ、やりました。誰かに言われたんじゃなくて。必要だったから」

 陸は机の下で握っていたスマホを、そっと机の上に置いた。画面には未登録着信の履歴。消せない現実が並ぶ。

「それ、成績表には書けないけど……できるって、見せられると思う」

 静は陸に頷かない。頷くと、励ましに見える。静はただ、黒川を見る。

「これが、私の最後の手段」

 黒川が小さく息を吐く。

「……最後の手段を、会議でぶつけるな」

 静は返す。

「会議でしか、決められないから」

 黒川の指が資料の角を叩いた。音が三回。癖みたいに一定。

「外部発表会をやって、何が変わる」

 静は短く答える。

「進路が変わる。本人の自己評価が変わる。外の人が“採用する理由”を言語化できる」

 黒川が言う。

「保証は」

「ない」

 静は即答した。

「でも、今のまま閉めたら、保証はゼロになる」

 会議室の誰かが、ペンを落とした。拾う音がやけに大きい。

 黒川は静の資料を取らない。目線だけで読む。

「……実施はいつだ」

 静の声が少しだけ硬くなる。期限を言うのは、痛みを伴う。

「二週間後。閉鎖前にやる。閉鎖後だと学校の名が使えない」

 黒川が笑うでもなく言う。

「無謀だな」

「無謀でも、現実」

 静は言った。

「期限は動かない」

 黒川は黙った。会議室の空気が、返事を待って固まる。

 やがて黒川が言う。

「持ち帰る。管理職会議で検討する」

 静はそれを「先延ばし」と呼ばない。呼んでも意味がない。

「検討の期限は」

 黒川が静を見る。

「明日、朝一」

 静は頷いた。

「明日朝一までに、参加候補の外部を具体名で出す。会場も仮押さえする」

 黒川の目が細くなる。

「勝手に動くな」

 静は淡々と返す。

「仮押さえはキャンセルできる。動かないと間に合わない」

 黒川はそれ以上言わず、議事を進めるために資料をめくった。

「――次。来年度の教科書採択について」

 会議は流れていく。だが静の頭の中は、二週間後の会場の椅子の並びと、名札のない名札ケースと、受付の紙の山で埋まっていく。

 隣で陸が、机の下で静の袖をほんの少し引いた。

「先生……明日朝一って、外部、どこに」

 静は前を見たまま、小さく言う。

「今から電話する。会議が終わった瞬間に」

 陸のスマホがまた震えた。今度はメッセージ。ミオからだ。

『母、折り返してきた。今なら出るって』

 陸が静に画面を見せる。静のペンが止まらないまま、視線だけが動く。

「終わったらすぐかける。相沢、準備」

 陸が頷く。

 黒川の声が会議室に響く。次の議題、次の数字、次の締め付け。

 静は資料の端に、小さく会場名を書いた。市民会館第二会議室。仮押さえ。担当者名。

 ここが閉まる前に、外へ出す。見せるために。守るために。

 会議が終わる拍手はない。椅子が引かれ、紙がまとめられ、人が立ち上がる。

 静は立ち上がる前に、陸にだけ聞こえる声で言った。

「走るぞ。電話、三本。今日中に一本でも繋げる」

 陸が息を吸う。

「はい」

 会議室の扉が開いた。廊下の光が差し込む。静はその光の中へ、資料を抱えて踏み出した。


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