鉄の心臓、茨の涙

深渡 ケイ

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第5話:花の咲かない庭

第5話:花の咲かない庭

 雪解けの水が、灰を溶かしながら細い流れになっていた。世界は崩れたまま固まり、焦げた森の骨が空へ向けて指を伸ばしている。エリスの足首は泥に取られて何度もよろけ、そのたびに彼女は笑う形のまま唇を引き結び、涙の居場所を喉の奥へ押し戻した。泣けば、茨が咲く。咲けば、誰かが死ぬ。誰かとは、たいてい彼女の隣にいる鉄の巨体だった。

 ガルドの歩みは重く、しかし静かだった。関節の内側で錆が擦れるたび、駆動音が低く濁る。胸の鋼板の隙間から滲む黒いオイルが、霜の上に落ちて小さな夜を作り、すぐに冷えて固まった。彼はそれを気にする素振りを見せず、ただ彼女と地面の間に自分の影を差し入れるように歩いた。

 頭上でカラスが一度だけ嗤った。凍った空気を裂くような声だった。
「この先は、いい眺めだ。目が痛むほどにね」

 言葉の棘が、雪よりも冷たく耳に刺さる。エリスは聞こえないふりをして、頬を上げた。笑顔は薄い氷の膜のようで、割れれば血が出るとわかっているのに、それでも貼り付けていた。

 やがて、焦土の匂いが途切れた。代わりに、甘い香が忍び込んでくる。腐りかけの果実と蜜と、どこかで人の肌が焼ける匂いを混ぜたような、不自然に濃い甘さだ。視界の先で、灰色の地平がふいに裂け、色が溢れた。

 花畑だった。

 冬の名残を踏み越えた先に、ありえないほど鮮やかな庭が広がっている。紫の鈴、白い星、赤い舌。花弁は濡れた絹のように光り、葉は翡翠の刃のように硬く、風に揺れるたび微かな擦過音を立てた。雪も灰もここには届かず、地面は黒く肥え、湿り気を含んで艶めいている。空気は温かい――温かい、というより、肌を撫でる温度がいやに生々しい。

 エリスの呼吸が少しだけ速くなった。目が、色に吸い寄せられる。花のない旅だった。焼けた野、枯れた川、死んだ村。ここだけが、嘘のように生きている。

 ガルドは一歩、彼女の前へ出た。彼の首の関節がかすかに鳴り、視線が左右へ揺れる。駆動音が、低く警戒の調子へ変わった。彼の足元で、オイルの滴がひとつ落ちる。黒い雫が土に吸われると、そこだけが妙に早く湿り、光った。

 花畑は、静かすぎた。虫の羽音も、鳥の影もない。香りだけが満ちている。甘さが喉の奥に貼りつき、息を吸うたび舌が痺れる。

 カラスが、花の縁にある枯れた杭へと降り立った。杭は、よく見れば骨だった。白く磨かれ、花粉にまみれ、先端に乾いた布の切れ端が絡んでいる。布は人の衣の名残で、その端に錆びた小さな鈴がついていた。風が吹くたび、鈴は鳴らない。錆が音を殺している。

「咲いてるってことは、食べてるってことさ」カラスは嘴を鳴らし、花畑を見渡した。「ここは庭だ。花の咲かない庭じゃない。――咲かせるために、喰う庭だ」

 エリスは笑顔のまま、肩をすくめるように見せた。怖くないふり。大丈夫なふり。胸の奥で、何かが小さく震えた。震えは涙へ繋がる道だ。彼女はそれを踏み潰すように、指をぎゅっと握った。

 ガルドが、彼女の手の動きに反応した。彼の腕がわずかに上がり、彼女と花畑の間に鉄の壁を作る。だが触れない。触れられない。彼は守るための形だけを示し、距離を残したまま、彼女が進むなら進むと決めた足取りに合わせる。

 花畑の縁へ踏み入れた瞬間、土が妙に柔らかかった。湿った肉のように沈み、足首にまとわりつく。エリスは思わず足を引いたが、靴底に細い糸が絡んだ。糸は蔓だった。蔓は髪の毛より細く、透明に近い。雪の光を吸って見えづらい。蔓は彼女の踵に触れ、ぬるりとした感触を残した。

 ガルドの駆動音が一段高くなる。彼は足を踏み出し、蔓を踏み潰そうとした。だが蔓は平たく潰れず、むしろ鉄の足裏に吸いついた。吸盤のような小さな口が無数に開き、ぴたりと貼りつく。

 次の瞬間、花畑が息をした。

 一斉に、花弁が開く。いや、開くのではない。割れる。裂けた花弁の奥から、濡れた歯列が覗いた。白い花の中心に、白い歯。赤い花の中心に、赤い舌。紫の鈴は鈴ではなく、喉袋だった。甘い香りは蜜ではなく、腐敗の誘いだ。地面の柔らかさは腐葉土ではなく、幾重にも重なった消化途中のもの――骨と布と、まだ名を持っていた肉の残りだった。

 蔓が、エリスの足首へ巻きつく。冷たい。いや、冷たいのではない。冷たさの形をした粘着が皮膚を撫で、そこから熱を奪う。彼女は声を上げなかった。上げれば、泣く。泣けば、茨が咲く。咲けば、ガルドが死ぬ。喉の奥で叫びを噛み殺すと、歯の裏に血の味がした。

 ガルドが動いた。彼は躊躇なく、エリスの前へ身を滑り込ませる。鉄の腕が彼女に触れない距離で伸び、蔓を掴む――掴むというより、握り潰す。だが蔓は潰れず、逆に彼の指の隙間へ入り込み、関節の内側へ潜り込んだ。

 茨に触れたときと同じ腐食が、ここでも始まった。

 金属が、泣くような音を立てた。ぎり、と、きしむ。指の付け根の継ぎ目から、錆色の泡が滲む。赤茶の液が、花粉にまみれて黒く変わり、地面へ落ちる。ガルドの駆動音が不規則になり、低い唸りのように震えた。痛覚はないはずの兵器が、痛みの代わりに機構の乱れで苦しみを示す。彼の視線が一瞬だけ揺れ、エリスを見た。見て、すぐ前へ戻す。守るために。

 花が、鉄を好むように見えた。花の歯が、ガルドの脛へ噛みつく。歯は硬い。陶器のように冷たく、刃のように鋭い。噛みしめられた箇所から、塗装が剥がれ、下の鉄が露出する。露出した鉄に、蔓が喜ぶ。蔓はそこへ吸いつき、唾液のような液を流し込む。液は透明で、触れた瞬間に鉄の色を奪っていく。銀が褐色へ、褐色が黒へ。腐食は花の口の中で進み、彼の脚は静かに削られていく。

 エリスの胸が、痛いほど締まった。彼の背中はいつも冷たい鉄で、彼女の体温を受け取らない。なのに今、その冷たさが傷つけられているのがわかる。彼女のせいで。彼女がここへ足を踏み入れたせいで。涙が、目の奥で熱を持って膨らんだ。

 彼女は瞬きをしなかった。瞬きをすれば、溢れる。溢れれば、茨が生まれる。茨が生まれれば、彼は――。

 ガルドが、彼女の方へ腕を伸ばした。触れない距離で、掌を開く。そこにあるのは命令でも合図でもない。逃げろ、という形だ。彼の指先から、黒いオイルが糸を引いて落ちる。まるで血の代わりの涙だった。彼の駆動音が一瞬だけ整い、次に、わざと荒くなる。音で背中を押す。急げ、と。

 エリスは歯を食いしばり、足首の蔓を引きちぎろうとした。蔓は皮膚に吸いつき、剥がれるときに薄い皮を持っていく。痛みが走り、涙が喉まで上がる。彼女はそれを飲み込む。飲み込むたびに、胃の底が冷える。

 花畑の中央で、もっと大きなものが動いた。花の海が割れ、茎が束になって持ち上がる。そこには一輪の巨大な花があった。花弁は黒紫で、縁が鋸歯のようにギザギザしている。中心は深い穴で、穴の奥が湿って光る。甘い香りはそこから噴き出し、息を吸う者の意識を柔らかく溶かそうとする。

 穴の縁に、白いものが並んでいた。歯だ。歯の間に、錆びた指輪がひとつ挟まっている。細い骨が、花弁の裏から覗く。誰かの肋骨。誰かの祈り。誰かの旅の終わり。

 カラスが肩をすくめるように羽を震わせた。「ほら、歓迎の口だ。花は咲く。咲くために、喰う。――君たちみたいに、綺麗なものほどね」

 ガルドが、巨大な花へ向き直った。彼の片脚はすでに錆が広がり、動かすたびに細かな粉が舞う。粉は灰と混じり、雪の名残に落ちて茶色い筋を作る。それでも彼は前へ出た。エリスから距離を取る。彼女を花の香りから遠ざけるように、自分が餌になる位置へ。

 花の蔓が、彼の胴へ巻きつく。胸の鋼板の隙間へ潜り込み、心臓のある場所を探るように這う。そこに心臓はない。だが鉄の中で何かが鼓動の真似をしている。命令が、記憶が、彼女の名もない温度が、そこにある。

 蔓が触れた箇所から、腐食が花開く。錆は赤い花粉のように散り、彼の体を飾っていく。美しく、残酷に。鉄の鎧が、花に食われながら咲いていく。

 エリスは動けなかった。足首の痛みより、胸の奥の痛みが大きかった。泣くな、と自分に言い聞かせるほど、涙は溢れたがる。涙は茨になる。茨は彼を殺す。彼は今、別の花に殺されようとしている。どちらにしても、彼は傷つく。

 彼女の頬に、熱いものがひとすじ走りかけた。

 その瞬間、ガルドが振り返った。顔のない仮面のような鉄の面が、彼女を見据える。視線が揺れ、次いで、ぴたりと止まる。彼の駆動音が、ほんの一拍だけ静まった。静寂が、命令のように彼女の涙を凍らせる。

 彼は言葉を持たない代わりに、身を削って示す。泣かないで、ではない。泣いていい、とも言わない。ただ、今は走れ、と。

 エリスは唇を噛み、血の味で涙を押し戻した。血は温かい。温かさが、彼の冷たい体を救えないことが、さらに残酷だった。彼女は足首の蔓を、爪で引き裂く。皮膚が裂け、赤が滲む。赤は花畑の色に紛れ、すぐに香りに消される。

 彼女は走った。花の間を縫うたび、花弁が腕を掠め、絹のように柔らかい感触の奥で刃が皮膚を切る。細い傷がいくつも増え、そこから血が出る。血の温度が、冷たい香りに奪われていく。背後で、ガルドのきしむ音が大きくなる。金属が折れる前の、嫌な予兆の音。

 巨大な花が口を開ける。湿った闇が、ガルドを飲み込もうとする。彼はその縁へ片足を踏み込み、もう片足で踏ん張った。腐食で弱った脚が震え、錆の粉が雪のように舞う。彼の腕が伸び、蔓を引きちぎる。引きちぎられた蔓は、断面から白い乳のような液を噴き、地面に落ちてすぐ黒く変わった。

 カラスが上空へ舞い上がり、嗤い声を落とす。「ああ、いいね。鉄は錆び、花は咲く。君らは、触れないまま、食われる」

 エリスは振り返りたい衝動を、歯で噛み砕いた。見れば、止まる。止まれば、彼の犠牲が無意味になる。彼女はただ、花畑の縁へ向かって走り続けた。視界の端で、花が一斉に首を傾げる。まるで彼女の涙を待つ観客のように。

 花畑の外へ飛び出したとき、空気が急に冷たくなった。甘い香りが薄れ、灰の匂いが戻る。冷たさは痛みを際立たせ、足首の傷が焼けるように疼いた。彼女は膝をつき、泥に手をついた。指先が震える。涙はまだ目の奥で暴れている。

 背後で、花畑がざわめいた。花弁が擦れる音、蔓が地面を這う音、その奥に混じる、ガルドの駆動音。低く、途切れ途切れで、それでもまだ鳴っている。

 エリスは顔を上げた。花畑の縁に、鉄の影が揺れて見えた。錆に染まった巨体が、花の海から這い出ようとしている。彼の体には蔓の痕が絡みつき、腐食の跡が花模様のように広がっていた。美しい装飾のように、死の印が刻まれている。

 彼女は笑おうとした。大丈夫、と言う代わりに。けれど笑顔は、唇の端でひきつった。喉の奥が熱く、目の奥が痛い。涙は、もうすぐ形になる。

 ガルドが一歩、こちらへ踏み出した。足が沈み、錆の粉が舞う。彼の視線が、彼女の頬を見た。そこに涙が落ちていないか確かめるように。彼の胸の隙間から、黒いオイルがまた一滴落ちる。冷えた土に吸われ、夜がひとつ増えた。

 エリスはその黒い滴を見て、必死に瞬きをした。涙を落とさないために。落とせば、茨が咲く。咲けば、今度こそ彼の体は耐えられない。

 花畑の中で、巨大な花が口を閉じた。歯が噛み合う音が、遠い雷のように響く。まるで、次の食事を約束する蓋の音だった。


 庭は、花の代わりに骨を咲かせていた。白い小枝のようなものが土から突き出し、折れた指の節が霜に光る。踏めば乾いた音がして、灰が舞い、雪のように落ちた。空気は甘く腐り、蜜の匂いに似た毒が喉の奥をくすぐる。エリスの息は薄く、笑みは貼りついたまま、頬の血色だけが寒さに削られていく。

 その前に、ガルドが立っていた。鉄の背は月のない空を受け、黒い板金のように沈む。胸の奥で駆動の律動が低く鳴り、重い鐘のような振動が地面へ伝わった。関節の隙間からは、オイルが細い糸になって垂れ、土に吸われる前に冷えて鈍い光を失った。

 茂みが、呼吸した。

 葉が擦れる音は風ではない。絡み合う蔓が、獲物の体温を探して舌を伸ばす。庭の奥から、花弁のない蕾が裂け、そこから針のような茨が雨のように飛んだ。茨の先端は黒く濡れ、触れれば肉だけでなく鉄も腐らせる色をしている。

 カラスがどこかで笑った。声は高い枝の上から落ちてきて、冷たい石のように胸に当たる。「咲かない庭ほど、よく育つ」

 エリスは一歩、下がろうとして止まった。足首に蔓が絡み、肌に触れた瞬間、震えが走る。驚きが目に浮かびかけ、彼女はそれを噛み殺すように唇を噛んだ。泣けば、怒れば、彼女の内側の棘が外へ溢れる。ここでは、それは死そのものだった。

 ガルドの頭部が、わずかに彼女へ向いた。視線――ガラスのような眼窩の奥の淡い光が、揺らぎ、すぐに前へ戻る。駆動音が一段低くなり、ため息のように沈んだ。

 次の瞬間、鉄の腕が持ち上がった。手に握られているのは、折れた門扉の柱を引き抜いたような鉄塊――旅の途中で拾い、武器にしたものだ。重さが空気を歪ませ、振り上げるだけで周囲の灰が舞い上がる。

 蔓が跳ねた。茨が、エリスの頬を掠める寸前で、ガルドの前腕に突き立った。金属に刺さる音は、肉よりも乾いているのに、なぜか痛みを想像させた。刺さった箇所から、錆が花のように咲く。赤茶の腐食が、血の代わりに鉄を滲ませ、関節の隙間へ染み込んでいく。

 ガルドは怯まなかった。怯むというより、怯むための軽さをもう持っていない。腕を引く動きが、わずかに遅れる。関節がきしみ、古い棺の蓋が開くときのような音がした。動きの途中で、一瞬、止まる――錆が歯車の間に噛んだのだ。

 その停滞が、庭に隙を与えた。

 蔓が二本、三本と伸び、鉄の脚へ絡みつく。足首から膝へ、冷たい蛇のように巻き上がり、締め上げる。茨の先が装甲の継ぎ目を探り当て、そこへねじ込まれる。毒が触れた場所から、鉄が泣くように泡立ち、黒い液が滲んだ。

 エリスの喉が、小さく鳴った。声にならない。笑顔の端が震える。涙を堪えるために、彼女は自分の指を強く握りしめた。白い指先が赤くなるほどに。皮膚の柔らかさが、硬い世界に抗う唯一の証のようだった。

 ガルドの胸の駆動が、不規則に跳ねた。低音が高音へ、そしてまた沈む。焦りではない、と言い切れる者はいない。だが彼は言葉を持たず、ただ重さで答えるしかなかった。

 鉄塊が振り下ろされた。

 空気が裂け、灰が爆ぜた。打撃は蔓の群れをまとめて薙ぎ払い、庭の一角が根ごと抉れる。土が飛び、骨の枝が折れ、白い破片が雪のように散った。蔓は断面から黒い汁を噴き、切り口が痙攣する。まるで植物が血を流すようで、しかしその血は甘く腐った香りを放つ。

 一撃で道が開く。けれど、その開き方は、逃げ道ではなく墓穴に似ていた。ガルドの体は、振り下ろした反動を受け止めきれず、わずかに前へ沈む。膝の関節が鳴り、錆が擦れる音が耳に痛い。俊敏さは失われ、動きは重い鐘の振り子のように遅い。それでも、遅さは力になる。遅いからこそ、当たれば終わる。

 蔓が、また襲いかかる。今度は上から。枯れた木の枝に擬態していた茨が、鞭のようにしなり、ガルドの肩口へ叩きつけられた。装甲が裂け、内側の黒い骨組みが覗く。そこへ毒が触れ、裂け目の縁が一瞬で赤茶に染まる。錆は花弁のように広がり、鉄の肌に醜い美しさを刻んでいく。

 ガルドは身を捻ろうとした。だが捻りは、俊敏な生き物の領域だ。彼の腰の回転は鈍く、関節が引き攣れたように止まる。止まるたびに、内部で何かが削れ、油が余計に滲む。オイルは彼の「汗」だった。冷たい黒い汗が、彼の足元に小さな湖を作る。

 エリスはその湖を見た。見てしまった。自分がここにいるだけで、彼が腐っていく。笑顔が、さらに薄くなる。頬の筋肉が痛むほどに無理をして、唇の端を上げる。涙は出ない。出してはいけない。けれど目の縁が熱を持ち、そこに溜まるものが、棘になる予感がした。

 ガルドが、彼女の前へ一歩踏み出した。踏み出すたびに、蔓が足に絡む。彼はそれを引きちぎるのではなく、踏み潰す。鉄の踵が土ごと蔓を押し潰し、骨の枝を砕く。鈍い衝撃が連続し、庭全体が呻くように揺れた。

 そして、二撃目。

 横薙ぎの一閃が、低い位置で走る。蔓の胴をまとめて刈り、茨の雨を地面へ叩き落とす。鉄塊が通った跡には、切断された植物の断面が並び、そこから黒い汁が滲み、灰に染みていく。美しい花など一つもない庭で、唯一咲くのは錆と腐臭だけだ。

 だが、横薙ぎの終わり際、ガルドの腕がわずかに遅れた。錆が肘の内側で噛み、動きが途切れる。そこへ、狙い澄ましたように一本の茨が滑り込み、関節の隙間へ刺さった。

 音が変わった。

 駆動の律動に、微かなノイズが混じる。きしみが増え、鉄の息が浅くなる。刺さった茨の周囲から、腐食がじわりと広がり、赤茶の輪が脈打つ。まるで毒が血管を探すように、鉄の中を這っていく。

 ガルドは刺さった茨を抜かなかった。抜けば、その瞬間に関節が崩れると理解しているように見えた。代わりに、腕を固定し、残った力で鉄塊を握り直す。握る指の装甲が、ぎり、と鳴った。痛みを感じるはずのない存在が、痛みの形だけを学んでいく。

 エリスが、ほんの僅かに手を伸ばしかけた。彼の背へ触れたい。触れれば、彼は守られるのではなく、腐る。指先が空中で止まり、震え、引っ込む。柔らかい皮膚が、冷たい鉄に届かない距離で凍りつく。

 ガルドは振り返らない。ただ、彼女との距離を、さらに詰めないように前へ出る。茨と自分の間に、彼女を置かないために。言葉の代わりに、背中で誓う。

 三撃目は、上から叩き潰す形だった。庭の中心に盛り上がった根の塊へ、鉄塊が落ちる。衝撃で土が裂け、灰が噴き上がり、白い骨枝が一斉に折れた。蔓の群れが痙攣し、絡み合った茨がばらばらに散る。瞬間、道が生まれる。黒い土の裂け目が、奥へ続く細い通路のように口を開けた。

 カラスが低く鳴いた。笑いとも嘆きともつかない声が、折れた枝の上で揺れる。「重いねえ。重いほど、よく壊れる」

 ガルドの足が、その裂け目へ向かう。だが一歩目が、わずかに引っかかる。膝が伸びきらない。錆が骨のように固まり、可動域を奪っている。二歩目はさらに遅い。三歩目で、彼は一瞬だけ沈黙した。駆動音が、喉を詰まらせた咳のように途切れた。

 それでも、止まらない。止まれば、庭が彼女を飲む。

 エリスは彼の背を追う。笑顔の仮面を崩さぬまま、目だけが痛みに濡れている。涙はまだ落ちない。落ちれば、この庭以上の地獄が咲くからだ。彼女の胸の奥で、冷たい棘が芽を出し、皮膚の内側をそっと撫でる感触がする。

 ガルドの背から、オイルが一筋、長く垂れた。黒い雫が灰に落ち、しみは小さな闇の花のように広がる。彼は振り向かず、その花を置き去りにして進む。

 花の咲かない庭の中で、彼だけが、壊れることで道を作っていた。


 霜の膜が割れるような音が、庭の奥で幾度も鳴った。花の名を持つはずの場所は、どの枝も蕾を結ばず、黒ずんだ蔓だけが地を這い、灰の匂いを吸っては吐いていた。雪は薄く、土は濡れた鉄の色をしている。そこへ、何かが這いずる。

 それは獣でも人でもなく、腐った根が寄り集まって形を得たものに見えた。節だらけの肢が四方に伸び、幹のような胴からは、白い菌糸めいた糸が垂れている。糸は風に揺れながら、触れた石を一瞬でぬめらせ、苔を黒く焦がした。庭の死が、歩いてくる。

 ガルドは一歩前へ出た。雪を踏む足裏から鈍い振動が伝わり、胸の奥の鉄の心臓が、低く、重く、規則を刻む。駆動音はいつもより荒れていた。錆が関節に噛み、動くたびに細い悲鳴が混じる。肩口の継ぎ目から、濃いオイルが糸を引いて落ち、雪に小さな黒い穴を穿った。

 彼の背後、エリスは笑おうとしていた。唇の端が持ち上がり、しかし頬の筋肉が途中で凍りつく。目だけが、逃げ場のない庭の隅々を見て、戻ってきてはまた逸れた。泣いてはいけない。怒ってはいけない。息を乱してはいけない。そうやって彼女は自分の胸に蓋をしてきた。蓋の下で、棘が育つ音がする。

 怪物の糸が空を切り、ガルドの前腕へ絡みついた。白い糸は柔らかく見えたが、触れた瞬間、鉄の表面が泡立つように濁り、青黒い斑点が広がった。腐食の匂いが立つ。ガルドは糸を引きちぎろうと腕を捻り、関節がきしんで火花を散らす。切れた糸の端が雪に落ち、そこだけが黒く溶けた。

 彼はエリスを背に隠すように立ち直る。視線は怪物へ、しかし身体の角度だけは、彼女を守るために微妙に傾いている。盾になること、それが彼の造られた理由だ。けれど、盾は削れる。削れた粉は、雪よりも静かに積もっていく。

 怪物がもう一度、糸を吐いた。今度は広く、網のように。庭の空気が、湿った布で塞がれていく。ガルドの胸の駆動音が一段高くなる。焦燥が、機械の呼吸を変える。彼は踏み込む。けれど、糸の一部が足首に絡み、錆の進んだ継ぎ目が一瞬遅れた。

 遅れは、致命になる。

 白い網が彼の肩から胸へと滑り、鉄の鎧の隙間へ入り込む。腐食は痛みのように広がる。音が変わる。低い鼓動に、ひび割れた金属の軋みが重なる。オイルが、傷口から滲み出し、黒い涙のように垂れた。

 その黒い滴が雪を汚すのを、エリスの瞳が捉えた。

 彼女の喉が、小さく震えた。声にはならない。なるはずの言葉は、唇の内側で折れて、血の味だけが残る。彼女は一歩下がりかけ、すぐに止まった。止まった足元の雪が、わずかに沈む。沈んだ分だけ、彼女の決意が前へ出る。

 エリスは、ガルドの背中の影から抜けた。

 その瞬間、冷気が頬を刺し、世界が彼女の肌へ露骨に触れてきた。柔らかい皮膚は、凍えた刃に晒された花弁のように薄い。彼女はそれでも前へ出る。自分の足で。守られるだけの人形のように立つのではなく、折れると知りながら立つ。

 怪物の糸が彼女へ向かう。白い糸は、彼女の頬を撫でる前に空気を裂き、次の瞬間――糸の先端が、見えない何かに触れたように跳ねた。

 エリスの睫毛が濡れた。

 涙は一粒だけ、落ちるより先に、彼女の頬の上で形を変えた。透明な雫の中心から、細い棘が芽を出す。芽は瞬く間に伸び、血管のような赤い筋を走らせ、鋭さを増していく。茨は彼女の皮膚を破らずに、彼女の周囲の空間から生まれていった。まるで魂が外へ突き出すように。

 そしてそれは、優雅に、残酷に、咲いた。

 花の咲かない庭に、初めての「花」が現れたのだと錯覚するほどに。だが花弁はなく、あるのは棘だけ。棘は黒光りし、先端に微細な露を宿す。その露が、致死の毒だ。

 怪物の糸が茨に触れた瞬間、白は灰に変わった。燃えるのではない。腐るのでもない。毒が、存在の根を断つように、糸を脆くし、粉へと崩した。粉は風に乗る前に落ち、落ちた雪を黒く染めた。

 怪物が身を捩る。根の塊が震え、節だらけの肢が庭石を掻く。痛みの声はない。ただ、湿った空気が裂ける音がする。エリスの茨は、怪物にとっても猛毒だった。

 ガルドの頭部が、わずかに揺れた。彼女を見ようとして、しかし見てしまえば彼女の前に出た意味を奪うと知っているように、視線が迷う。駆動音が一瞬だけ弱まり、次いで、守るための低い唸りへ戻る。彼は半歩だけ退き、彼女の背後を空けた。盾が、盾の位置をずらす。彼女が前に立てるように。

 エリスは息を吸った。冷たい空気が肺を刺し、胸の奥で凍る。吐く息は白く、震えに変わる。震えは涙を呼ぶ。涙は棘を呼ぶ。彼女はそれを恐れ、同時に――今だけは、それを必要としていた。

 彼女の目尻から、二粒目が生まれる。落ちる前に茨となり、空へ向かって弧を描く。棘は彼女の意思に従うのではなく、彼女の感情に従う。守りたい、という熱が、冷たい棘に方向を与える。

 茨が走った。

 空気を切る音は、細い悲鳴のようだった。棘は怪物の胴へ突き刺さり、刺さった箇所から黒い斑が広がる。根の塊が痙攣し、菌糸の糸が一斉にしおれた。庭に漂っていた湿った毒気が、急に薄れる。怪物は後退しようとするが、足元の根が自分自身に絡まり、崩れる。

 エリスの唇が、また笑おうと動いた。今度の笑みは、作り物ではない。だが笑みはすぐに痛みに変わる。目の奥が熱くなり、熱は涙を増やす。増えた涙は、茨を増やす。彼女の周囲で棘が密になり、まるで見えない檻が作られていく。

 ガルドが、踏み出しかけて止まった。近づけば、茨が彼を殺す。離れれば、彼女が棘に囲まれて孤立する。彼の胸の駆動音が不規則に跳ね、金属の内側で何かが暴れるように鳴った。オイルが、関節から細く漏れ、雪に黒い筋を描く。

 それでも彼は近づかない。代わりに、彼は自分の身体を横へずらし、怪物の残った糸がエリスへ届かない角度に立った。彼女の前に出ない。彼女の戦いを奪わない。けれど、彼女が倒れたときだけは受け止められる距離を、冷たい計算で保つ。鉄の優しさは、触れられない形でしか示せない。

 怪物は最後の抵抗として、太い根を振り上げた。庭石を砕き、雪を跳ね上げ、エリスへ叩きつける。

 エリスの瞳が見開かれる。恐怖が喉を締め、涙が一気に溢れそうになる。溢れれば棘は暴走し、ガルドも庭も、すべてを刺し貫く。彼女の肩が震え、笑みが崩れそうになる。

 そのとき、ガルドがわずかに膝を折った。地面へ重心を落とし、足裏で雪を押し固める。駆動音が低く唸り、彼の身体が「耐える」形へ変わる。根がもし逸れても、彼が受ける位置だ。彼は言葉を持たない代わりに、姿勢で告げる――ここにいる、と。

 エリスは歯を食いしばった。涙を落とすのではなく、涙を棘へ変える。落ちる前に。暴れる前に。彼女は自分の感情を刃に研ぐ。

 茨が、根を迎え撃った。

 硬い根と、硬い棘。だが棘の先端に宿る毒が、根の生命を内側から腐らせる。ぶつかった瞬間、根はひび割れ、黒い汁を噴き、崩れ落ちた。崩れた破片が雪に刺さり、庭に小さな墓標のように立つ。

 怪物は、もう形を保てなかった。根の塊がほどけ、湿った土へ戻ろうとする。最後に残った胴が沈むとき、白い糸が一本だけ宙に漂い、エリスの髪に触れかけ――触れる前に、茨がそれを灰にした。

 静けさが戻る。雪が、遅れて落ち着く。灰が舞い、庭の空気が少しだけ軽くなる。

 エリスは立ったまま、肩で息をした。棘はまだ彼女の周囲に残り、細く震えている。彼女の頬には、棘へ変わりきれなかった小さな涙の跡が光り、その光はすぐに冷えていく。彼女の指先は白く、膝は震え、けれど足は後ろへ下がらなかった。

 ガルドは彼女の横に並ぶことを避け、半歩後ろに留まった。視線だけが、彼女の背中をなぞる。駆動音が少しだけ落ち着き、しかし錆のきしみは消えない。彼の胸板には、腐食の斑が新しく広がっていた。白い糸の跡が、黒い花のように咲いている。

 エリスが振り返る。棘の檻越しに、彼の顔――無表情な鉄の面を見つめる。そこに表情はないのに、彼女は彼の「待っていた」沈黙を読み取ってしまう。読み取ってしまうから、また胸が熱くなる。

 熱は涙を呼ぶ。

 彼女は急いで視線を逸らし、唇を結んだ。笑みを作るのではなく、ただ、崩れないように。棘が彼を傷つけない距離を保ったまま、彼女は小さく一歩、前へ進む。今度は、彼の影からではない。

 花の咲かない庭を、棘の花だけが通り過ぎていく。雪の白と、鉄の黒と、茨の暗い艶。柔らかな肌が硬い世界に刃を向け、硬い鉄が柔らかな心を守ろうとして削れていく。

 その対比の中で、二人の旅は、引き返せない方向へ、また一歩だけ進んだ。


 敵の影は、もう動かなかった。茨に穿たれた肉は夜の土に溶け、血は黒い漆のように冷えて、草の根へと沈んでゆく。風が吹くたび、折れた矢や刃の欠片が小さく鳴り、そこに残された戦いの輪郭だけが、音として漂った。

 だが、勝利の匂いはなかった。

 ついさっきまで、ここは花の海だった。白と淡紅の花弁が月光を受け、雪のように淡く輝き、踏みしめれば甘い香が立つはずの庭。今、同じ月は、灰色の地表を照らしていた。花弁は砂のように崩れ、茎は煤けた針金のように萎れ、葉は焼けた紙片のように丸まり、指で触れずとも砕けていくのが見て取れた。香りは消え、代わりに漂うのは、鉄と腐蝕と、濡れた土が腐る匂い――そして、どこか甘い毒の気配。

 エリスは、花畑の中心に立っていた。肩は小さくすぼみ、胸元の布は荒い呼吸に合わせてかすかに上下する。あれほど必死にこらえていたはずの涙が、頬を伝った痕跡だけが冷たい光を帯び、乾きかけている。涙そのものは、もう落ちていない。落ちれば、また何かが生まれてしまうと知っているからだ。

 彼女の足元から、茨が這っていた。血管のように細く、神経のように敏感で、触れたものを確かめるように地を撫で、やがて確信したように突き立ち、ねじれ、絡み合い、花の根を締め上げた。茨は花を殺すために生まれたのではない。けれど、彼女の感情が生み落としたそれは、柔らかなものを抱く術を知らず、ただ締め、刺し、奪うことしかできなかった。

 花の死は、音もなく進んだ。ひとつ萎れ、ふたつ崩れ、波が引くように色が消え、庭全体が瞬く間に褪せていく。美しさが腐る速度だけが、異様に速い。まるでこの土地が、彼女の涙を待ち受けていたかのように。

 ガルドは、少し離れたところで膝をつき、片腕を地面に突いて身体を支えていた。鉄の胸の奥で、心臓に似た駆動部が低く唸り、次第に不規則なきしみへと変わっていく。関節の隙間から、黒ずんだオイルが細い筋となって垂れ、土に落ちた瞬間、そこだけが濡れたように暗く染まった。

 彼の右手の甲には、茨の先が掠めた跡があった。傷は浅いはずなのに、鉄はそこから静かに変色していく。青黒い斑点が広がり、錆が花のように咲いていく。美しい花が咲かない庭で、ただ錆だけが、確かに咲いた。

 ガルドはその手を握りしめ、ゆっくりとほどいた。握るたび、金属が擦れ、痛みの代わりに鈍い抵抗が身体の内側を走る。彼は顔を上げ、エリスを見た。視線は揺らぎ、焦点がわずかに迷い、しかし最後には彼女の輪郭を掴んで離さない。近づきたいのに、近づけば彼女の周囲で眠る茨が目を覚ます。守るための身体が、守るべき呪いに触れれば死ぬ――その矛盾が、彼の動きを一寸ずつ錆びさせていた。

 エリスは振り返らなかった。振り返れば、彼の傷が見えてしまうから。唇は笑みの形を作ろうとして、途中でほどけ、また結ばれる。笑顔は薄い膜のようで、少しの風で破れてしまいそうだった。彼女の指先は、スカートの端を掴み、白くなるほど力を込めている。爪の下に土が入り、指の節が震える。泣かないための震えだ。

 足元の茨が、彼女の踵に絡みつきそうになって、寸前で止まった。まるで彼女自身の心が、最後の理性でそれを押さえ込んだみたいに。

 そのとき、枯れた花の間を、羽音が滑った。

 カラスが、折れた茎に止まった。かつてなら花の重みでしなったはずの場所は、今は軽い木片のように乾き、鳥の爪を受け止めている。人の顔をした嘴元が歪み、目が月光を吸って冷たく光った。

「おめでとう。敵は退いた。庭も退いた」

 声は軽いのに、言葉の端に、灰のような重さがあった。カラスは周囲を見回し、枯死した花々の上を歩いた。踏むたび、花弁が粉になって舞い、薄い雪のように空へ上がっては、すぐ落ちた。白いものが舞うのに、寒さではなく、死の乾きだけが残る。

 エリスの肩が、ほんの少し跳ねた。彼女は声を出さない。出せば、感情がこぼれ、また茨が生まれる。彼女はただ、喉の奥で息を飲み込み、背筋を伸ばし、何も感じていないふりをした。感じていないふりをするほど、感じていることが露わになる。

 ガルドの駆動音が、低く沈んだ。一定だったリズムが乱れ、歯車が噛み合わないような微かな空転が混じる。彼はゆっくり立ち上がり、足を一歩だけ前へ出した。地面に残る茨の影を避けるように、慎重に。彼の足裏が土を踏むと、乾いた地面がひび割れて、粉が舞った。花の根が死んだ土地は、もう柔らかさを失っていた。

 その一歩で、彼はエリスに触れられる距離には届かない。だが、離れすぎてもいない。彼の身体が選べる、ぎりぎりの献身の位置だった。

 エリスの髪が風に揺れ、頬にかかった。彼女はそれを払おうとして指を上げ、途中で止めた。指先が震えれば、それだけで涙が誘われる。涙が出れば、また花が死ぬ。彼女は指を下ろし、ただ髪が頬を撫でるのを耐えた。柔らかなものが触れることさえ、今は罪の予感を孕んでいる。

 花畑だった場所の向こうに、荒野が広がっていた。枯れた茎は折れ、地面は灰色に露出し、ところどころに黒い棘の束が突き出ている。棘は月光を受けて鈍く光り、まるでこの土地が、彼女の涙を吸って武器に変えたかのようだった。

 カラスは翼を広げ、羽を一度だけ大きく震わせた。羽根から落ちる微細な埃が、枯れた花弁と混じり、空気に薄い膜を作る。

「君が泣くたび、世界は賢くなる。柔らかいものから死んでいく。ほら、花は嘘をつけない」

 その言葉に、エリスの喉が小さく動いた。声にならない何かが、胸の内側でぶつかり、出口を探して暴れる。彼女の睫毛が湿り、光を抱えた水が、今にも溢れそうになる。

 ガルドが、すぐに動いた。

 彼は自分の外套の端を引き裂いた。布が裂ける乾いた音が、荒野に短く響く。裂いた布を、彼は地面にそっと置いた。エリスから少し離れた場所――茨が届かない距離に、白い布の欠片を落とす。そこだけが、雪の片鱗のように見えた。彼はさらにもう一枚裂き、同じように置いた。花の代わりに、白いものを並べていく。触れられないかわりに、彼は距離の中に、彼女が目を落とせる柔らかさを作ろうとした。

 そのたびに、彼の指の関節がきしみ、鉄が擦れて小さな粉が落ちた。裂けた布の白さに、彼の錆の赤茶が、ほんの少しだけ混じる。まるで血が滲んだ雪のように。

 エリスは、やっとゆっくりと振り返った。

 ガルドの手の甲の変色が、月明かりに見えた。錆の花が、確かに咲いている。彼女の瞳が揺れ、笑顔の膜が割れそうになった。けれど彼女は、唇を噛み、頬を上げた。笑ってみせる。泣かない。泣けば、彼が死ぬ。泣けば、また世界が枯れる。

 それでも、目尻に溜まった水が、重力に負けて落ちかける。

 ガルドは、ほんのわずか首を振った。言葉の代わりに、駆動音を落とした。低く、静かに、彼女の呼吸に合わせるように。彼の胸の奥の機械が、彼女の心臓の代役を務めるかのように、一定のリズムを刻む。泣くなとは言えない。泣いてもいいとも言えない。彼にできるのは、彼女の涙が落ちる前に、世界のほうを差し出すことだけだ。

 エリスは、落ちかけた涙を瞬きで押し戻した。睫毛に残った雫が、針の先のように光り、やがて乾いて塩の跡になる。彼女は視線を下げ、ガルドが置いた白い布切れを見た。それは花ではない。香りもない。けれど、枯れた庭の中で唯一、殺されずに白く在るものだった。

 彼女は一歩、前に出た。

 茨が、地面の下で微かに蠢いた。気配だけが、足首に冷たい指を這わせるように昇ってくる。エリスは立ち止まり、呼吸を整える。笑顔を貼り付けたまま、胸の奥で泣き叫ぶものを鎮める。痛みは熱を持ち、喉を焼く。それでも声を出さない。声は涙を呼ぶから。

 ガルドは、その一歩に応えるように、もう一歩だけ前へ出た。二人の間の距離が、わずかに縮む。触れられない距離のまま、しかし互いの孤独の輪郭が、少しだけ重なる。

 枯れ果てた庭の向こうで、風が鳴った。かつて花を揺らした風は、今は棘を鳴らし、乾いた茎を折り、灰を巻き上げるだけだ。月光は優しくもなく、残酷でもなく、ただ等しく冷たかった。

 カラスが、低く笑った。笑い声は羽音に紛れ、すぐ夜に溶けた。

 花の咲かない庭で、エリスは笑い続け、ガルドは錆び続ける。二人が守ったものは、敵ではなく、彼女の涙に殺された美しさだった。世界は静かにその業を受け入れ、枯れた土の上に、棘の影だけを伸ばしていった。


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