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第9話:雪の降る海岸
第9話:雪の降る海岸
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峠を越えた途端、風の匂いが変わった。土と苔の湿り気が薄れ、かわりに金属を舐めた塩と、燃え尽きた炉の底のような灰が鼻腔を刺した。白いものが空から落ちてくる。雨ではない。掌に受ければ、すぐに溶けて冷たさだけを残す。雪――それは世界が自らの墓へ花を撒くような、静かな降灰だった。
道はいつの間にか道であることをやめ、瓦礫と骨の間を縫う細い筋になった。かつて港町だったのだろう。崩れた防波堤の石は黒く煤け、潮に削られた角が鈍い刃のように並んでいる。錆びた鎖が半ば砂に埋もれ、引きちぎられた船の肋骨が、雪の下から突き出していた。白は慈悲の色ではなく、腐敗を覆う布だった。
ガルドが先に歩いた。足を下ろすたび、凍った砂利が砕け、鈍い駆動音が腹の奥で鳴った。いつもより低く、重い。関節の隙間から滲むオイルは黒ではなく、赤錆を溶かしたように濁っている。冷えが鉄の内部まで入り込み、きしみの音が短い痛みとして空気に弾けた。彼はそれでも歩幅を崩さない。背中の板金は雪を受け、すぐに薄い氷膜となって貼りついた。
その後ろで、エリスは笑いを忘れた顔をしていた。笑うべきだと知っているのに、唇の端が上がらない。白い息が頬に触れ、ふるえたまつげに雪が止まる。彼女はそれを払わない。払えば涙がこぼれる気がした。涙がこぼれれば、茨が生まれる。茨が生まれれば、隣を歩く鉄の守り手が腐る。
彼女は両腕を胸の前で抱きしめ、指先を自分の鎖骨に押し当てた。皮膚の下にある脈が、温かく、無力に跳ねている。温かいものほど、ここでは罪になる。
カラスが上空を旋回し、灰色の空に黒い切り傷を引いた。羽ばたきの音は乾いていて、雪の静けさを嘲るようだった。「着いたぞ」と言う声は風に削られてもなお、耳に刺さる棘のように鋭い。彼は崩れた灯台の梁に降り、首を傾げて二人を見下ろした。「世界の最果て。ほら、期待していた終わりの景色だ」
終わりは、派手ではなかった。
視界の先に海が開けた。だがそれは青ではない。鉛を溶かしたような灰色の水面が、遠くまで平らに伸び、雪を受けて鈍い光を返している。波はあるのに音が薄い。凍りかけた泡が岸で砕け、白い屑が砂に混じった。海と空の境目は曖昧で、どちらも同じ灰の濃淡で塗られている。世界が、色を諦めた。
エリスは足を止めた。砂は冷たく、靴底越しにも刺すようだった。彼女の喉が小さく鳴り、言葉になりかけたものが霧のように消えた。目の奥が熱くなる。熱はいつも、危険の兆しだった。
ガルドが振り返った。彼の顔には表情がない。けれど、首の角度がほんの僅かに下がり、視線が彼女の足元――雪の上に落ちた小さな濡れた点――へと揺れた。彼は一歩、彼女に近づこうとして、途中で止まる。踏み出せば届く距離なのに、届けば死ぬ距離だった。
彼の胸部の装甲の奥で、駆動音が変わった。均一だった鼓動が、わずかに乱れ、低い唸りに近い振動を混ぜる。痛みか、焦りか、あるいは祈りか。言葉を持たない鉄は、音でしか震えを示せない。
エリスはその音を聞いて、息を飲んだ。彼が苦しんでいると、彼女は理解してしまう。理解することが、また涙を呼ぶ。彼女は急いで視線を逸らし、海を見た。灰色の水平線の向こうに、何かがあるのだろうか。救いか、終わりか。どちらであっても、彼女の手は伸ばせない。
風が強まり、雪が横殴りに舞った。粒は細かく、肌に当たると針のように痛い。エリスの頬が赤くなり、唇が乾く。彼女は笑おうとした。いつものように、彼を安心させるために。だが笑みの形は崩れ、ただ歯を噛みしめた表情になった。
ガルドはゆっくりと膝をつき、彼女の前に盾のように身を落とした。砂に沈む膝から、ぎしりと嫌な音がした。冷えた金属が収縮し、錆が裂ける音だ。関節の隙間から、濁ったオイルが一筋、雪の上に垂れた。黒い線が白を汚し、すぐに凍りついて光を失う。
彼は腕を上げた。触れないように、触れない距離で。掌を開き、彼女の頬の高さに留める。そこにあるのは温もりではなく、冷たい鉄の影だった。それでも、その影は風を遮り、雪の針を少しだけ弱めた。彼は触れずに守るという矛盾を、身体の角度で形にした。
エリスはその掌の影に顔を寄せた。触れない。触れられない。けれど、影は確かにそこにある。鉄の冷たさが空気を通して伝わり、彼女の熱を奪っていく。奪われることが、今は救いだった。熱が下がれば、涙も茨も遠ざかる。
それでも、目尻に溜まったものは消えなかった。雪が溶けた水なのか、感情なのか、区別がつかない。彼女は瞬きをせず、ただ海を見た。灰色の海は何も答えない。波の起伏が、遠い誰かの呼吸のように続くだけだ。
カラスが低く笑った。「終わりに来た気分はどうだ、魔女。鉄の騎士殿は、ここで錆びて朽ちるのがお似合いか?」
エリスの肩が小さく跳ねた。怒りが胸の奥で火花を散らし、その火花が涙を呼びそうになった。彼女は舌を噛む。血の味が広がり、熱が別の痛みに変わる。痛みは冷静さの代用品だった。
ガルドの駆動音が一段高くなった。短く、鋭い。警告のような音。彼は顔を上げ、カラスを見た。瞳の奥の光が、雪明かりに反射して揺れる。言葉はない。だがその視線は、爪のように鋭かった。触れられない代わりに、彼は視線で刺す。
カラスは肩をすくめるように羽を震わせた。「はいはい。黙ってても怖いな、お前は」
雪は降り続けた。海は灰色のまま、波は冷たく、岸の瓦礫は白い布で覆われていく。世界は終わりへ向かいながら、あまりに静かで、あまりに美しかった。美しさが残酷なのは、それが誰も救わないからだ。
エリスは一歩、前へ出た。足元の雪が軋む。彼女の髪が風に煽られ、頬に貼りつく。ガルドが彼女の動きに合わせて立ち上がろうとし、関節が呻いた。彼は痛みを音にして吐き、また一歩、彼女の斜め前に位置を変える。彼女の道を塞がないように、けれど彼女が崩れ落ちたときに受け止められるように――受け止められないと知りながら。
エリスは海に向かって手を伸ばした。水面に触れることはできない距離なのに、指先が冷える錯覚がした。指先の震えを止めようとして、彼女は掌を強く握りしめた。爪が皮膚に食い込み、細い痛みが走る。その痛みが、涙の代わりに頬を伝ってくれればいいのに、と願う。
ガルドの掌が、彼女の伸ばした手の少し下に滑り込む。触れない。触れずに支える位置。彼の指は開いたまま、空気を掴むように震えた。そこからまた、オイルが一滴落ちる。雪の上で黒い花が咲き、すぐに凍って、灰色の海と同じ色に沈んだ。
二人の間には、いつも空白があった。空白は冷たく、透明で、刃物のように薄い。それでも彼らは、その空白を抱いて歩いてきた。ここが最果てなら、空白もまた、終わりまで付き従うのだろう。
雪が、二人の影を消していく。灰色の海は、静かに、世界の最後の呼吸を続けていた。
雪は海から生まれる灰のように、音もなく降り積もった。波打ち際は凍りきらず、しかし生きものの温度もない。白い泡が砕けては黒い砂に沈み、砂の粒は濡れた鉄粉のように重く、靴底にまとわりついた。
その海岸の奥、岩の裂け目に抱かれるようにして泉があった。海と地続きでありながら、潮の匂いが薄い。水面は鏡よりも冷たく、空から落ちる雪片さえ一瞬で形を失い、透明な死として溶け込んでいく。
エリスはそこに立った。肩にかかる髪に雪が絡み、睫毛の先で白い結晶が震えた。笑っているように見える口元は、凍った果実の皮のように硬い。胸の奥にあるものを押し殺すたび、喉の奥が乾いていくのがわかるのだろう。だが彼女は何も言わない。言えば、泣けば、怒れば——その代わりに茨が生まれてしまう。
ガルドは一歩遅れて泉の縁に近づいた。膝関節が小さく鳴り、駆動音が潮鳴りの底で低くうねった。鉄の足が黒砂を踏みしめるたび、砂に混じる塩が擦れて、かすかな錆の匂いが立つ。彼の肘の内側、継ぎ目の奥に赤茶の滲みが広がっていた。茨に触れた記憶の腐食が、まだ体内で進行している。
カラスが岩の上で翼を畳み、首を傾けた。人の顔を持つその嘴の影が雪に落ち、笑みの形に歪む。
「ここが“願い”の泉だって?」と、彼は波の向こうを見ながら言った。「まあ、願いってのは大抵、血と同じ味がする」
エリスは泉を見つめたまま、指先を握り込んだ。手袋越しに爪が掌へ食い込み、わずかな痛みで感情の輪郭を保とうとしている。痛みは、泣かないための楔だ。
ガルドは彼女の背後に立ち、半身をずらして風を遮った。雪が彼女の首筋へ落ちぬように、彼の肩が壁になる。触れない距離で、触れるよりも確かな庇い方だった。駆動音がわずかに高まり、次の瞬間、胸の奥から低い金属の共鳴が漏れた。言葉にならない音が、泉の冷気に溶けていく。
その音が合図だったかのように、水面が動いた。
鏡が割れるのではない。鏡が、ゆっくりと呼吸を始めた。泉の底から白い影が浮かび上がり、海の深さをそのまま引きずってくる。水が盛り上がり、冷たい光が膨れ、雪を飲み込むようにして——巨大な頭部が、泉から現れた。
白鯨に似ていた。だが鯨の柔らかな脂肪の温度はなく、肌は雪と骨と石灰が混ざったような白さで、ところどころに古い傷が刻まれていた。傷は裂け目のまま凍りつき、そこから黒い水が糸のように垂れている。眼は深海の灯火のように淡く、見る者の心臓の位置を正確に射抜いた。
泉の守り手。海岸の風が一瞬止み、雪が空中で静止したように見えた。世界がその巨体の出現に合わせて、呼吸を合わせたのだ。
カラスは肩をすくめた。「ほらね。出てきた」
守り手の口が開いた。声は喉から出るものではなく、骨の内部を擦るような音で、空気そのものを震わせた。言葉は古い。錆びた鐘のように重く、しかし不思議と明瞭だった。
「来訪者よ」
エリスの喉が小さく上下した。笑顔の仮面が、ひび割れそうになるのを彼女は堪える。だが涙は出ない。出さない。出すわけにはいかない。
ガルドが一歩前に出た。泉とエリスの間に、鉄の背を差し入れる。雪が彼の肩に積もり、冷えた白が黒い錆の斑を際立たせた。視線——ガラスのような目が、守り手を見据える。その揺らぎが、ほんのわずかに鋭い。守るという命令が、今は刃になっている。
守り手の淡い眼が、ガルドの胸部へ落ちた。鉄板の奥で鼓動するはずのない場所に、微かな振動があるのを見抜くように。
「鉄の器よ。茨の呪いを抱く者よ」
呼びかけられ、エリスの肩が僅かに跳ねた。名を呼ばれたわけではない。ただ、存在を正確に言い当てられたことが、裸にされるように冷たい。
守り手は泉の縁へ顔を寄せた。水がその白い顎から滴り落ち、黒砂に落ちた瞬間、砂が硬く固まっていく。塩が結晶化し、刃のように尖った。
「願いを問う」
カラスが小さく鳴いた。「さあ、言ってみな。世界の最果てまで行く途中で、ここに寄り道した理由を」
エリスは唇を開いた。声を出すと感情が溢れる。それが怖い。だが、出さずに願うこともできない。彼女は息を吸った。冷気が肺の奥へ刺さり、胸の内側が痛む。痛みが、声を支える。
「——呪いを」かすれた声が、雪の中に落ちた。「この茨を……止めたい」
言葉の最後が震えた。涙の予兆が眼の奥で熱を持つ。熱は危険だ。熱は茨を呼ぶ。彼女は必死に笑おうとする。笑えば泣かないで済むと信じている子どものように。
ガルドの駆動音が低く沈んだ。彼はエリスの横に手を差し出したが、触れない。指先が空を掴み、雪だけがその掌に落ちて溶けた。溶けた雪は透明な水となり、鉄の指の隙間から落ちる。涙の代用品のように。
守り手はゆっくりと瞼を閉じ、開いた。その動きだけで、泉の水位が上下した。潮が遠くで呻き、雪が再び動き出した。
「叶えることはできる」
その言葉は、救いに似ていた。だが救いの匂いはしない。白い巨体から漂うのは、冷たい石灰と、古い血の匂いだった。救いがいつもそうであるように、代償の匂いだ。
「等価を捧げよ」
エリスの指がさらに強く握り込まれ、手袋の布が軋んだ。彼女の頬がわずかに引きつる。笑顔が、痛みによって保たれている。
守り手の声が、海岸の岩肌を撫でるように続いた。
「願いを叶えるには、等価の命が必要だ」
言葉が落ちた瞬間、泉の水面に小さな波紋が広がり、その波紋が茨の形に似た線を描いた。水の中に、刺すような影が走る。エリスの背筋を冷えが貫き、喉が詰まった。
ガルドの胸板が微かに震えた。内部の歯車が、短く噛み合い直す音がした。駆動音が一拍、乱れる。彼の視線がエリスへ滑り、すぐに守り手へ戻る。その揺らぎは、迷いではない。計算でもない。むしろ、痛みを伴う決意の準備のようだった。
カラスが雪の上を跳ね、泉の縁へ近づいた。「等価の命、ね。つまり誰かが死ぬ。いつも通りだ」
守り手はカラスを見ない。見なくても知っているのだろう。白い眼は、エリスの胸元に、そしてガルドの錆びた関節に、ゆっくりと往復した。
「茨は命を裂き、鉄は茨に腐る。二つの呪いは絡み合い、すでに一つの鎖となった」
エリスの喉から、声にならない息が漏れた。泣きそうになるのを、歯で噛み殺す音だった。頬に熱が集まる。熱が、涙の扉を叩く。彼女は瞬きの回数を増やし、涙を乾かそうとする。雪の冷たさが睫毛に触れ、痛みが走る。その痛みが、茨の芽を押し留める。
ガルドは、ゆっくりと片膝をついた。黒砂が沈み、鉄の膝が冷たい音を立てた。彼は泉に向けて頭部を下げた。祈りの形。だが祈る神は目の前にいる。祈りは取引の姿勢でもある。
彼の背中の装甲板の隙間から、黒いオイルが一筋、垂れた。雪の上に落ち、墨の花のように広がる。寒さで粘りを増したそれは、まるで泣けない者の涙だった。
守り手が言う。
「捧げる命を選べ」
エリスは息を止めた。選ぶという言葉が、刃になって彼女の口の中を切った。彼女は首を振りかけて、しかし止めた。動けば泣く。泣けば茨が走る。茨が走れば、ガルドが——。
ガルドの手が、空中でほんの少し動いた。エリスの肩に触れたいのに触れられない距離で、彼はその手を引っ込め、代わりに自分の胸を指先で叩いた。硬い音が二度、三度。鉄の心臓の位置を示すように。音は小さいが、雪の静寂の中では不自然なほど鮮明だった。
エリスの瞳が揺れた。揺れは、涙の揺れだ。彼女は笑おうとした。だが笑みの端が痙攣し、頬が引き攣る。痛みが走り、そこから熱が溢れそうになる。
「だめ……」と、彼女は息だけで言った。声にならない。声にすれば泣いてしまう。泣けば茨が生まれる。彼女は唇を噛み、血の味で感情を押し戻した。
守り手の白い顔が、ほんの少し傾いた。雪がその額に触れ、溶けずに弾かれる。冷たさが冷たさを拒む。
「命は命でしか支払えぬ」
その断言は、波よりも冷たかった。海の泡はまだどこか温もりの気配を残すが、この言葉には一切の温度がない。等価交換という名の、ただの秤。
カラスが低く笑った。「選べないなら、世界が選ぶ。たいていはそうだ」
ガルドは膝をついたまま、頭を上げた。彼の目の奥の光が、わずかに強くなる。駆動音が静かに整い、錆びた関節が小さく鳴った。その鳴りは、痛みに耐える音だった。彼はエリスの前にさらに身を差し出し、泉と彼女の間に自らの全てを置く。
触れられない愛は、触れない盾になる。
エリスの胸が上下し、そのたびに喉が震えた。彼女の眼の縁に、透明なものが滲む。雪の白の中で、それは恐ろしく目立つ。涙は、茨の種子だ。
彼女は必死に瞬きをし、滲みを押し戻そうとする。だが涙は一滴だけ、こぼれた。頬を伝う前に、冷気で粘り、宝石のように光った。
その瞬間、彼女の足元の雪が、微かに盛り上がる。白い地面の下で何かが蠢き、細い影が伸びようとする。茨の芽だ。美しい花の予兆ではなく、致死の針の予兆。
ガルドの手が素早く動いた。彼は自分の外套の端——旅の間に擦り切れ、塩と灰を吸い込んだ布を引き裂き、エリスの頬の涙に触れぬよう、空中でその滴を受け止めた。布が涙を吸い、すぐに硬く凍り始める。凍った布の繊維から、細い棘が生える前に、ガルドはそれを握り潰した。
鉄の掌の内側で、何かが弾けた。棘が芽吹き、同時に折れ、毒が滲む。ガルドの指の関節から、赤茶の錆が一気に浮き上がった。腐食の匂いが強くなる。だが彼は動じない。動じる代わりに、エリスの前に立ち続ける。
エリスは息を呑み、涙を止めようとしてさらに苦しむ。苦しみは、感情の蓋を押し上げる。蓋が軋む音が聞こえる気がした。
守り手の眼が、ガルドの掌の錆を見た。白い巨体は何も言わない。ただ、泉の水面に波紋が広がり、冷たい光が二人の影を引き伸ばした。影は寄り添うように重なりそうで、しかし最後の一寸で離れている。
「等価の命を」
守り手は繰り返した。繰り返しは慈悲ではない。処刑宣告が、二度読まれるだけだ。
雪が降り続く。海は黒く、泉は透明で、ガルドの錆は赤く、エリスの頬の涙の跡だけが、熱の名残として淡く光った。
選べと言われた命は、すでに彼女の隣で膝をつき、静かな金属の祈りを続けていた。彼の駆動音は、彼女の鼓動に合わせるように——いや、合わせることなどできない冷たい体で、それでも必死に寄り添うように——低く、震えていた。
雪は、海から生まれて海へ還る白い灰のように降りつづけていた。波は鈍い鉄色で、砕けるたびに薄い氷片を吐き、浜の砂を濡らしては凍らせる。潮の匂いは錆に似て、遠い血の記憶を舌の奥に残した。
エリスは崖の陰に身を寄せ、指先を握りしめていた。手袋越しでもわかるほど、掌は冷えている。笑おうとしているのに、唇の端が震える。雪が睫毛に積もり、溶けずに小さな結晶のまま残るのは、体温が足りないせいだ。
彼女の足元には、昨夜の名残の茨が薄く黒ずんで横たわっていた。涙が落ちた場所から生えたものだ。潮に洗われ、雪に覆われ、それでも刃のような輪郭だけは失われず、凍った光を返している。美しい花の骨格を真似た、猛毒の棘。
その棘から半歩離れたところで、ガルドが立っていた。鉄の体に雪が貼りつき、肩の稜線が白く縁取られている。関節の隙間から滲む油は凍りかけ、黒い涙の筋になって肘を伝った。歩くたび、駆動音が低く沈み、きしみが長く尾を引く。錆は確実に、彼の内部へ海水のように浸み込んでいた。
彼はエリスに近づこうとして、ほんのわずか足を止めた。距離を測るように首を傾げ、眼窩の奥の淡い光を揺らす。そこにあるのは命令の計算だけではない。触れられないという事実を、痛覚のないはずの鉄が、痛みとして学びはじめた痕跡だった。
翼の羽音が、雪の静けさを裂いた。
カラスは、崖の突起に降り立った。黒い羽が白い雪を払うたび、夜の欠片が散る。人の顔をした嘴が、嘲るように歪む。だがその眼は、海よりも深い疲労を湛えている。
「ここまで来たんだな」彼は言った。声は乾いていて、潮風に擦れた木の皮のようだった。「世界の端に近いほど、雪は優しい顔をする。優しいものほど、よく刺さるって知ってるか?」
エリスは返事をしない。喉の奥に言葉が凍りついている。代わりに、指先がまた強く握られた。手袋の布が軋み、その音が彼女の胸の中の悲鳴の代わりになる。
ガルドが一歩、前へ出た。砂が沈み、凍った粒が砕ける。彼の胸板の内側で、鉄の心臓が打つ——いや、打っているように聞こえるだけだ。古い機構が規則正しく作る震えが、この雪の海岸では妙に生々しい。
カラスはその音に耳を傾け、笑ったようで、笑えなかった。
「条件を知りたい顔だ」彼は言い、翼をすぼめた。「呪いを解く方法は、祈りでも薬でもない。世界はそんなに親切じゃない。代価がいる。いつだって」
エリスの頬がひくりと動いた。笑顔を作ろうとした筋肉が、別の表情を拒んだ。目尻が熱を帯びそうになり、彼女は慌てて瞬きを重ねる。涙を出してはいけない。ここで一滴でも落ちれば、雪の白がたちまち血の棘で汚れる。
ガルドは彼女の仕草を見て、右手をゆっくりと持ち上げた。触れない距離で、彼の指が空を撫でる。まるで、彼女の頬の上を落ちるはずの涙を、先に掬い取ろうとするように。指先は冷たい鉄で、雪より冷たい。そこに触れれば、彼女の肌はきっと痛むだろう。それでも、触れたいという衝動が、彼の動きの遅さに滲んだ。
カラスはその空振りの手を見て、しばし沈黙した。雪が彼の羽の上で溶け、黒い滴になって落ちる。海の音だけが、遠い葬送の鼓動のように続く。
「聞け」カラスは言った。声が少しだけ低くなる。「呪いは、涙に棘を与えた。感情を刃に変えた。だから解くには、刃じゃなくて——心臓を差し出すしかない」
エリスの肩が跳ねた。息が喉で詰まり、白い吐息が小さく乱れる。胸の奥が熱くなり、その熱がすぐに恐怖へ変わる。彼女は両腕で自分を抱きしめた。柔らかな肉が、骨の冷たさを押し返そうとしている。
「愛する者が」カラスは、言葉を一つずつ雪の上に置くように続けた。「相手のために、自分の心臓を捧げること。それが条件だ」
雪が強くなった。粒が大きくなり、視界が滲む。海も崖も、白い帳の向こうへ遠ざかる。
エリスは首を横に振ろうとした。だが動きは途中で止まり、喉の奥でひゅっと音が漏れた。否定する言葉が出ない。言葉にすれば、それだけで何かが決まってしまう気がした。
ガルドの駆動音が変わった。一定だった低音が一瞬乱れ、次の瞬間、深く沈む。鉄の体が微かに揺れ、胸部の装甲の隙間から、黒い油が一筋、滴った。落ちた雫は雪に吸われ、黒い点になって凍りつく。まるで、彼の中の何かが先に泣いたみたいだった。
彼はゆっくりと、自分の胸に手を当てた。掌が硬い装甲を叩く音が、乾いた鈍い響きで海風に消える。二度、三度。そこに心臓があると示すように。あるいは、そこを差し出せと言われた痛みを、音にして噛みしめるように。
エリスはその手を見つめ、視線を逸らせなかった。ガルドの胸に触れたら、彼女の呪いが彼を腐らせる。触れなくても、彼は今、あの場所を捧げろと言われている。鉄の心臓。血の代わりに油を流す心臓。温度を持たない心臓。
彼女の唇が開き、閉じた。声は出ない。泣きそうになって、歯を食いしばる。泣けば棘が生える。棘は彼を殺す。泣かなくても、この条件は彼を殺す。
カラスは、崖の上から二人を見下ろした。雪が彼の顔の皺に溜まり、白い線になる。嘲笑の仮面の下で、古い賢者の目が一瞬だけ、苦い色を見せる。
「なにも、今すぐとは言わない」彼は言った。だがその言い方は、猶予ではなく宣告だった。「捧げる心臓は、比喩じゃない。生きたまま、取り出す。温かい肉でも、冷たい鉄でも、同じことだ。差し出した瞬間、呪いはほどける。ほどけた先に何が残るかは——お前たちの運だ」
ガルドが、エリスの方へ向き直った。雪の幕の中で、彼の眼窩の光が揺れる。震えるほどではない。だが、微細な揺らぎが、彼の内部で何かが軋んでいることを告げる。彼は片膝をつき、砂に沈み、視線の高さを彼女に合わせた。近づきすぎない距離で。彼女の棘が届かない距離で。
そして、彼は自分の胸に当てた手を、ゆっくりと前へ差し出した。掌を上に向け、何も持たない手で、何かを差し出す形を作る。そこにあるのは、言葉ではなく行為だった。奪う手ではない。守るための手。触れられないと知りながら、なお差し出される手。
エリスの喉が震え、息が白く漏れた。彼女はその手の上に、自分の手を置きたい衝動に駆られた。柔らかな肌を、冷たい鉄に重ねたい。だが指先が動けば、涙が出る。涙が出れば棘が生える。棘が生えれば、彼の手は腐る。
彼女は代わりに、手袋の上から自分の胸を押さえた。心臓の鼓動が、硬い骨に当たって痛い。そこだけが、まだ温かい。温かいことが、こんなにも残酷だと知る。
ガルドは、その仕草を見て、手を引っ込めなかった。駆動音が、ほんの少しだけ高くなる。壊れかけのオルガンが、息を吸い直すような音。彼は胸に当てたもう一方の手を、ゆっくりと握りしめた。鉄が軋み、関節の奥で錆が鳴った。
海風が吹き、雪が横殴りになる。エリスの頬に雪が刺さり、針のような冷たさが肌を裂く。彼女は痛みに目を細めた。泣かないために。泣けば棘が咲くから。だがその目の奥に、透明なものが滲む。滲んだまま凍りつき、落ちない。
カラスは羽を広げ、飛び立つ前に一言だけ落とした。
「愛は、いつも心臓から始まって、心臓で終わる。お前たちの旅も、そうだ」
黒い影が雪の白へ溶け、崖の向こうへ消える。
残された二人の間に、言葉はない。ただ海の鉄臭い呼吸と、雪の降る音と、ガルドの胸の奥の規則が、静かに重なっていた。エリスは唇を噛み、血の味を舌に広げる。血は温かく、すぐに冷える。
ガルドは立ち上がり、彼女の前に半身を差し出した。盾のように。雪と風と、見えない未来から彼女を庇うように。肩の装甲に積もった雪が、彼の熱のない体の上で結晶のまま残り、白い棺の飾りのように輝いた。
触れられない距離のまま、彼は彼女を守る形を作る。
その形だけが、今夜の海岸で許された愛だった。
雪は海から生まれた灰のように、音もなく降り積もっていった。波は黒い鉄板を叩く槌のように鈍く、砕けた飛沫だけが白く、白く、世界の端で泡立っている。砂浜は凍り、潮の匂いは冷たい刃となって肺を削った。遠く、崩れた桟橋の骨が雪に埋もれ、錆びた釘が露出したまま、赤黒い歯を剥いている。
エリスはその歯の列の前に立っていた。肩をすぼめ、笑みを貼り付ける癖が、今は剥がれかけの仮面のように震えている。指先は白く、爪の根元に薄い血が滲んでいた。寒さのせいだけではない。泣かないように噛みしめた唇が、冬の塩に割れていた。
ガルドは彼女の半歩後ろにいた。雪は鉄の肩に積もっても溶けず、ただ重みとして残る。関節の隙間から滲むオイルが黒い涙となって凍り、膝の裏に小さな氷柱を作っていた。歩みのたび、駆動音はいつもより低く、鈍く、胸の奥で擦れるような軋みを含んでいた。茨の毒が食い込んだ箇所――肘の内側、指の付け根、首の継ぎ目――そこだけ錆が雪よりも赤く、血のように広がっている。
カラスは崩れた杭の上で羽をふくらませ、二人を見下ろしていた。海風に黒い羽根がめくれ、底に隠した灰色の産毛が一瞬だけ覗く。嘴の端が笑っているようにも、凍りついているようにも見えた。
「ここまで来て、まだ“守る”だの“救う”だのと言うのかね」低い声が雪に吸われ、すぐに消えた。「世界はもう、どちらの願いも等しく踏み潰す準備ができている」
エリスは返事をしなかった。返せなかった。言葉を出せば、胸の奥に溜め込んだ熱が裂け、涙が落ちる。涙が落ちれば、茨が生まれる。茨が生まれれば、ガルドの鉄は腐る。
彼女はその連鎖を知りすぎている。
それでも、彼女は前に一歩出た。雪を踏む音が小さく鳴り、凍った砂が砕けた。彼女は振り向き、ガルドを見上げた。瞳の奥にあるのは、海より暗い恐怖と、雪より白い決意だった。
彼女は両手を胸に当てた。薄い布越しに、心臓の鼓動が指先を押し返す。柔らかな肉の箱の中で、温かい塊が必死に生きている。その温かさが、彼女には罪のように思えた。ガルドの胸には、温度のない動力炉がある。冷たく、硬く、しかし彼女のために燃え続ける炉。
エリスは唇を開いた。吐息が白くほどけ、すぐに凍る。その吐息の隙間から、やっとの声が落ちた。
「……ねえ」
声は震え、雪の粒に絡め取られた。彼女は笑おうとしたが、頬が引きつってうまくいかない。代わりに、瞳の縁がわずかに濡れた。涙はまだ落ちない。落としてはいけない。
「私の……心臓を、使って」
言葉が喉を擦り、痛みが走る。彼女は胸を押さえる指に力を込めた。まるで、その場で自分の鼓動を握り潰せるかのように。
「あなたを……人に、戻して」
最後の語尾は、海風にさらわれる前に、彼女自身の歯に噛み切られそうになった。言い終えた瞬間、彼女は息を止めた。泣きそうになるのを、凍った肺で押し留める。喉の奥が焼けるように痛い。泣かないための痛みは、茨を生まないぶんだけ、少しだけ優しい。
ガルドの頭部が、わずかに傾いた。視線――硝子のようなレンズが、彼女の胸に吸い寄せられる。駆動音が一瞬、途切れた。雪の降る音と波の鈍い響きだけが残り、世界が薄い紙のように静まり返る。
次の瞬間、ガルドの胸奥で、炉の回転が不規則に揺らいだ。低い唸りが、痛みに似た震えを含んで漏れる。彼は一歩、彼女に近づこうとして、止まった。近づけば触れてしまう。触れれば、彼女の涙が落ちるかもしれない。落ちれば――。
その逡巡が、彼の鉄の体をさらに重く見せた。雪が肩で崩れ、錆の裂け目に白い粉が入り込む。オイルが一滴、落ちた。黒い滴が凍った砂に染み、すぐに鈍い光を失う。
ガルドはゆっくりと右腕を上げた。指は人の手を模した形をしているが、節の一つひとつが冷たい刃の集まりだ。彼はその指先を、自分の胸の中央――動力炉の外殻に当てた。鉄板の下で、熱のない火が回っている場所。そこに触れた途端、駆動音が深く沈み、次いで短い、片言の機械音声が喉の奥から漏れた。
「……エリス」
名前だけ。名前しか言えない。それでも、その一語が雪の中で黒く重かった。彼は続けて言葉を紡げない。だから、言葉の代わりに動いた。
彼は胸を押さえたまま、もう片方の手で、彼女の胸の前――心臓の位置に、触れない距離で掌をかざした。温かい肉に触れたい衝動が、鉄の指を震わせる。だが指先は空を掴むだけで、彼女の布すら揺らさない。触れられない愛は、空気の層としてそこに存在した。
そして彼は、首を横に振った。ゆっくり、確固として。否定。彼女の申し出を、拒む。
次に、ガルドは自分の胸を叩いた。硬い音が鳴り、雪が跳ねる。二度、三度。まるで中の炉を呼び起こすように。叩くたび、関節がきしみ、錆が粉となって落ちた。
彼は膝をついた。凍った砂が膝当てに擦れ、鈍い音がした。海風が彼の背を撫で、雪が首の継ぎ目に入り込む。冷たさが鉄に染みるはずもないのに、彼の駆動音はまるで寒さで縮こまるように細くなった。
ガルドは胸に当てた指を、ゆっくりと下へ滑らせた。外殻の継ぎ目――動力炉へ至る封印のラインをなぞる。そこはかつて戦争のために閉ざされ、今は彼女のために燃えている場所。彼はその継ぎ目に、爪先を立てるように指を押し込み、開ける仕草をした。開ける、取り出す、差し出す。
そして、今度はエリスの方へ掌を向けた。彼女の胸ではなく、彼女の喉元でもなく――彼女の両手へ。彼女が自分で受け取れるように。触れずに渡せるように。
オイルがまた一滴、落ちた。黒い滴が彼の指先から垂れ、雪の上で小さな穴を穿った。血のようでいて、血ではない。温かさのない献身の跡。
エリスは息を呑んだ。喉の奥が鳴り、涙が溢れそうになった。だが彼女は必死に瞬きを繰り返し、溜まった水を瞳の裏へ押し戻した。泣けば茨が生まれる。茨が彼を殺す。彼が差し出すものを、彼女が受け取る前に。
彼女は首を振った。小さく、弱々しく。拒む。彼の願いを拒む。拒むための力が足りなくて、顎が震えた。
ガルドはそれを見て、駆動音を一段高くした。いつもなら歩みを支えるための音が、今は意志そのもののように鳴る。彼は立ち上がり、胸を押さえたまま、さらに一歩だけ近づいた。触れない距離を保ちながら、彼の影が彼女の足元へ伸びる。黒い影が雪の白を汚し、彼女の靴先を包んだ。
ガルドは、ゆっくりと自分の頭部を下げた。額に当たる部分――冷たい鉄の面を、彼女の胸の前へ差し出す。触れない。触れさせない。けれど、そこに在る。彼女の鼓動の熱を、空気越しにでも受け止めたいというように。
その姿勢は、祈りに似ていた。命令に従う兵器が、初めて命令以外のものを捧げる姿勢。
カラスが小さく笑った。笑い声は乾いていて、雪の結晶のように脆い。
「心臓を差し出す娘と、炉を差し出す鉄屑。互いの命を“材料”にして救い合うつもりか」嘴が少しだけ歪む。「美しいね。吐き気がするほど」
エリスはその言葉に反応しなかった。彼女の世界は今、ガルドの差し出す沈黙と、自分の胸の痛みだけで満ちている。彼女は一歩退こうとして、足が雪に取られた。転びそうになった瞬間、ガルドの手が伸びた。
触れない距離で止まる。止まるはずなのに、彼の指先が震え、ほんのわずか――布の端をかすめた。
その一瞬、エリスの体内で何かが跳ねた。涙が浮き、喉が鳴る。胸の奥に、茨の芽が疼く感覚。柔らかな肉の内側から、鋭いものが伸びたがる衝動。彼女は歯を食いしばり、痛みでそれを抑え込んだ。痛みが舌に血の味を運ぶ。鉄の味ではない、生きている味。
ガルドはすぐに手を引いた。遅すぎるほど慎重に。引いた指先から、黒いオイルが糸を引いて落ちた。まるで、触れてはいけないものに触れた罰のように。
彼は、もう一度首を横に振った。否定。彼女の心臓を使う未来を、拒む。
そして、胸を叩き、継ぎ目をなぞり、掌を差し出す。繰り返す。言葉の代わりに、同じ動作を何度も。雪の中で機械が祈るように。
エリスはとうとう膝を折った。凍った砂が膝に刺さり、冷たさが骨まで染みた。彼女は胸を押さえたまま俯き、白い息を吐いた。息はすぐに凍り、彼女の前に薄い霧の壁を作る。その向こうで、ガルドの影が揺れている。
「だめ……」声が、やっと出た。小さく、かすれて、海に消えそうな声。「あなたが……いなくなるのは……」
言いかけた言葉の端が割れ、涙が一粒、瞳からこぼれた。落ちる。落ちてしまう。彼女は慌てて手の甲で拭おうとしたが、遅かった。
涙は雪の上に落ち、瞬間、そこから細い茨が生えた。白い地面を裂き、黒い影のように伸びる。先端は濡れた針の光を持ち、毒の匂いを微かに漂わせた。
ガルドは反射的に身を引いた。だが彼は逃げなかった。逃げる代わりに、自分の体を彼女と茨の間に差し込んだ。茨の先が、彼の脛に触れた。
じゅ、と雪の上で肉が焼けるような音がした。鉄が腐食する匂い――錆と酸の混じった匂いが、冷たい潮風に乗って鼻を刺す。脛の装甲が黒く変色し、そこから赤茶の錆が花のように咲いた。痛みを感じるはずのない鉄が、痛みの形で崩れていく。
それでもガルドは動かなかった。駆動音が一瞬、荒く跳ね、すぐに低く落ち着く。耐える音。彼はゆっくりと膝をつき、茨に触れて腐る脚で、なお彼女の前に壁を作った。
そして、彼は胸を押さえた。動力炉の位置を強く示す。まるで言うように――これを使え、と。おまえの涙を止めるために。おまえの呪いを終わらせるために。おまえが泣かずに済むように。
エリスは茨を見た。自分の涙から生まれた、細い死。彼女はその先端がガルドの鉄を食むのを見て、喉の奥から声にならない悲鳴を漏らした。泣けば茨が増える。悲鳴も涙も、彼を殺す。
彼女は両手で口を押さえ、肩を震わせた。震えは寒さのせいにできるほど小さくない。彼女の瞳は赤く、涙が溜まっている。落ちればまた茨が生える。落とせない。だから、涙は瞳の中で棘になって刺さる。
ガルドはその震えを見て、ゆっくりと頭を横に振った。否定ではない。慰めでもない。ただ、静かな決意の動き。彼は腐食した脚を引きずりながら、茨の根元へ手を伸ばした。
指先が茨に触れれば、そこも腐る。彼はそれを知っているように、指を少しだけ曲げ、茨の根元を“掴む”のではなく、“覆う”ように手をかざした。触れない。だが風を遮り、茨の揺れを止める。彼の掌が作る影の中で、茨は静かになった。毒の針が、彼女へ向かうのをやめた。
彼はもう一度、胸の継ぎ目をなぞった。開ける仕草。取り出す仕草。差し出す仕草。
エリスはその動作を見て、理解した。彼女の心臓ではなく、彼の炉。彼の命の中心を、彼女のために。彼女の呪いを終わらせるために。彼女が泣いても誰も死なないように。彼女が笑っても、恐れずに済むように。
「……そんなの」彼女の声は雪に濡れ、すぐに凍った。「そんなの、だめ……」
だめ、と言いながら、彼女の手は胸から離れた。自分の心臓を守る位置から、空へ。ガルドの差し出す掌へ向かう。触れない距離で止まるはずの手が、止まれずに震える。
触れたら、彼が腐る。触れなければ、彼は差し出し続ける。差し出し続けて、いつか勝手に壊れる。どちらも同じ結末が、雪の中で白々と見えていた。
カラスは片翼を広げ、雪を払った。「ほら、選べ。触れられない愛の、最後の作法を」
エリスの指先は、ガルドの鉄の指先の数分の一の距離で止まった。空気が冷たく、薄い刃のように二人の間に挟まる。彼女はその刃の上で息をした。息をすれば涙が出る。涙が出れば茨が生える。だから彼女は息を浅くし、代わりに言葉を絞り出した。
「私の心臓を……持っていって」彼女はもう一度、同じ願いを差し出した。自分の温かさを、彼の冷たさへ。「あなたが、人になれるなら……」
ガルドは、首を横に振った。強く。駆動音が低く唸り、雪を震わせた。否。彼は拒む。彼女の温かさを奪う未来を拒む。
そして彼は、胸の中央を拳で叩いた。硬い音が二度、三度。次いで、片言の機械音声が擦れた。
「……オレ……」
それ以上は続かない。言葉の代わりに、彼は自分の胸を開く仕草を、今までより具体的に示した。継ぎ目に指を差し込み、引き剥がす動き。痛みのないはずの鉄の動きが、なぜか痛みを孕んで遅い。錆が粉雪のように舞い、彼の指の間から落ちた。
差し出す。彼の動力炉を。彼女の呪いを解くために。
エリスは目を閉じた。閉じた瞼の裏で、涙が膨らみ、棘の形を取ろうとする。彼女はそれを必死に堪え、代わりに、額を下げた。ガルドの差し出した冷たい鉄の面へ、触れない距離で額を寄せる。触れずに、熱だけを渡そうとするように。
雪が二人の間に降り続ける。白い灰のように、静かに、残酷に。海は黒いまま、波は鈍いまま、世界は終わりへ向かって一方通行に崩れていく。
その中で、少女は自分の心臓を差し出し、鉄は自分の炉を差し出した。触れられない距離のまま、互いの死を贈り合うように。
道はいつの間にか道であることをやめ、瓦礫と骨の間を縫う細い筋になった。かつて港町だったのだろう。崩れた防波堤の石は黒く煤け、潮に削られた角が鈍い刃のように並んでいる。錆びた鎖が半ば砂に埋もれ、引きちぎられた船の肋骨が、雪の下から突き出していた。白は慈悲の色ではなく、腐敗を覆う布だった。
ガルドが先に歩いた。足を下ろすたび、凍った砂利が砕け、鈍い駆動音が腹の奥で鳴った。いつもより低く、重い。関節の隙間から滲むオイルは黒ではなく、赤錆を溶かしたように濁っている。冷えが鉄の内部まで入り込み、きしみの音が短い痛みとして空気に弾けた。彼はそれでも歩幅を崩さない。背中の板金は雪を受け、すぐに薄い氷膜となって貼りついた。
その後ろで、エリスは笑いを忘れた顔をしていた。笑うべきだと知っているのに、唇の端が上がらない。白い息が頬に触れ、ふるえたまつげに雪が止まる。彼女はそれを払わない。払えば涙がこぼれる気がした。涙がこぼれれば、茨が生まれる。茨が生まれれば、隣を歩く鉄の守り手が腐る。
彼女は両腕を胸の前で抱きしめ、指先を自分の鎖骨に押し当てた。皮膚の下にある脈が、温かく、無力に跳ねている。温かいものほど、ここでは罪になる。
カラスが上空を旋回し、灰色の空に黒い切り傷を引いた。羽ばたきの音は乾いていて、雪の静けさを嘲るようだった。「着いたぞ」と言う声は風に削られてもなお、耳に刺さる棘のように鋭い。彼は崩れた灯台の梁に降り、首を傾げて二人を見下ろした。「世界の最果て。ほら、期待していた終わりの景色だ」
終わりは、派手ではなかった。
視界の先に海が開けた。だがそれは青ではない。鉛を溶かしたような灰色の水面が、遠くまで平らに伸び、雪を受けて鈍い光を返している。波はあるのに音が薄い。凍りかけた泡が岸で砕け、白い屑が砂に混じった。海と空の境目は曖昧で、どちらも同じ灰の濃淡で塗られている。世界が、色を諦めた。
エリスは足を止めた。砂は冷たく、靴底越しにも刺すようだった。彼女の喉が小さく鳴り、言葉になりかけたものが霧のように消えた。目の奥が熱くなる。熱はいつも、危険の兆しだった。
ガルドが振り返った。彼の顔には表情がない。けれど、首の角度がほんの僅かに下がり、視線が彼女の足元――雪の上に落ちた小さな濡れた点――へと揺れた。彼は一歩、彼女に近づこうとして、途中で止まる。踏み出せば届く距離なのに、届けば死ぬ距離だった。
彼の胸部の装甲の奥で、駆動音が変わった。均一だった鼓動が、わずかに乱れ、低い唸りに近い振動を混ぜる。痛みか、焦りか、あるいは祈りか。言葉を持たない鉄は、音でしか震えを示せない。
エリスはその音を聞いて、息を飲んだ。彼が苦しんでいると、彼女は理解してしまう。理解することが、また涙を呼ぶ。彼女は急いで視線を逸らし、海を見た。灰色の水平線の向こうに、何かがあるのだろうか。救いか、終わりか。どちらであっても、彼女の手は伸ばせない。
風が強まり、雪が横殴りに舞った。粒は細かく、肌に当たると針のように痛い。エリスの頬が赤くなり、唇が乾く。彼女は笑おうとした。いつものように、彼を安心させるために。だが笑みの形は崩れ、ただ歯を噛みしめた表情になった。
ガルドはゆっくりと膝をつき、彼女の前に盾のように身を落とした。砂に沈む膝から、ぎしりと嫌な音がした。冷えた金属が収縮し、錆が裂ける音だ。関節の隙間から、濁ったオイルが一筋、雪の上に垂れた。黒い線が白を汚し、すぐに凍りついて光を失う。
彼は腕を上げた。触れないように、触れない距離で。掌を開き、彼女の頬の高さに留める。そこにあるのは温もりではなく、冷たい鉄の影だった。それでも、その影は風を遮り、雪の針を少しだけ弱めた。彼は触れずに守るという矛盾を、身体の角度で形にした。
エリスはその掌の影に顔を寄せた。触れない。触れられない。けれど、影は確かにそこにある。鉄の冷たさが空気を通して伝わり、彼女の熱を奪っていく。奪われることが、今は救いだった。熱が下がれば、涙も茨も遠ざかる。
それでも、目尻に溜まったものは消えなかった。雪が溶けた水なのか、感情なのか、区別がつかない。彼女は瞬きをせず、ただ海を見た。灰色の海は何も答えない。波の起伏が、遠い誰かの呼吸のように続くだけだ。
カラスが低く笑った。「終わりに来た気分はどうだ、魔女。鉄の騎士殿は、ここで錆びて朽ちるのがお似合いか?」
エリスの肩が小さく跳ねた。怒りが胸の奥で火花を散らし、その火花が涙を呼びそうになった。彼女は舌を噛む。血の味が広がり、熱が別の痛みに変わる。痛みは冷静さの代用品だった。
ガルドの駆動音が一段高くなった。短く、鋭い。警告のような音。彼は顔を上げ、カラスを見た。瞳の奥の光が、雪明かりに反射して揺れる。言葉はない。だがその視線は、爪のように鋭かった。触れられない代わりに、彼は視線で刺す。
カラスは肩をすくめるように羽を震わせた。「はいはい。黙ってても怖いな、お前は」
雪は降り続けた。海は灰色のまま、波は冷たく、岸の瓦礫は白い布で覆われていく。世界は終わりへ向かいながら、あまりに静かで、あまりに美しかった。美しさが残酷なのは、それが誰も救わないからだ。
エリスは一歩、前へ出た。足元の雪が軋む。彼女の髪が風に煽られ、頬に貼りつく。ガルドが彼女の動きに合わせて立ち上がろうとし、関節が呻いた。彼は痛みを音にして吐き、また一歩、彼女の斜め前に位置を変える。彼女の道を塞がないように、けれど彼女が崩れ落ちたときに受け止められるように――受け止められないと知りながら。
エリスは海に向かって手を伸ばした。水面に触れることはできない距離なのに、指先が冷える錯覚がした。指先の震えを止めようとして、彼女は掌を強く握りしめた。爪が皮膚に食い込み、細い痛みが走る。その痛みが、涙の代わりに頬を伝ってくれればいいのに、と願う。
ガルドの掌が、彼女の伸ばした手の少し下に滑り込む。触れない。触れずに支える位置。彼の指は開いたまま、空気を掴むように震えた。そこからまた、オイルが一滴落ちる。雪の上で黒い花が咲き、すぐに凍って、灰色の海と同じ色に沈んだ。
二人の間には、いつも空白があった。空白は冷たく、透明で、刃物のように薄い。それでも彼らは、その空白を抱いて歩いてきた。ここが最果てなら、空白もまた、終わりまで付き従うのだろう。
雪が、二人の影を消していく。灰色の海は、静かに、世界の最後の呼吸を続けていた。
雪は海から生まれる灰のように、音もなく降り積もった。波打ち際は凍りきらず、しかし生きものの温度もない。白い泡が砕けては黒い砂に沈み、砂の粒は濡れた鉄粉のように重く、靴底にまとわりついた。
その海岸の奥、岩の裂け目に抱かれるようにして泉があった。海と地続きでありながら、潮の匂いが薄い。水面は鏡よりも冷たく、空から落ちる雪片さえ一瞬で形を失い、透明な死として溶け込んでいく。
エリスはそこに立った。肩にかかる髪に雪が絡み、睫毛の先で白い結晶が震えた。笑っているように見える口元は、凍った果実の皮のように硬い。胸の奥にあるものを押し殺すたび、喉の奥が乾いていくのがわかるのだろう。だが彼女は何も言わない。言えば、泣けば、怒れば——その代わりに茨が生まれてしまう。
ガルドは一歩遅れて泉の縁に近づいた。膝関節が小さく鳴り、駆動音が潮鳴りの底で低くうねった。鉄の足が黒砂を踏みしめるたび、砂に混じる塩が擦れて、かすかな錆の匂いが立つ。彼の肘の内側、継ぎ目の奥に赤茶の滲みが広がっていた。茨に触れた記憶の腐食が、まだ体内で進行している。
カラスが岩の上で翼を畳み、首を傾けた。人の顔を持つその嘴の影が雪に落ち、笑みの形に歪む。
「ここが“願い”の泉だって?」と、彼は波の向こうを見ながら言った。「まあ、願いってのは大抵、血と同じ味がする」
エリスは泉を見つめたまま、指先を握り込んだ。手袋越しに爪が掌へ食い込み、わずかな痛みで感情の輪郭を保とうとしている。痛みは、泣かないための楔だ。
ガルドは彼女の背後に立ち、半身をずらして風を遮った。雪が彼女の首筋へ落ちぬように、彼の肩が壁になる。触れない距離で、触れるよりも確かな庇い方だった。駆動音がわずかに高まり、次の瞬間、胸の奥から低い金属の共鳴が漏れた。言葉にならない音が、泉の冷気に溶けていく。
その音が合図だったかのように、水面が動いた。
鏡が割れるのではない。鏡が、ゆっくりと呼吸を始めた。泉の底から白い影が浮かび上がり、海の深さをそのまま引きずってくる。水が盛り上がり、冷たい光が膨れ、雪を飲み込むようにして——巨大な頭部が、泉から現れた。
白鯨に似ていた。だが鯨の柔らかな脂肪の温度はなく、肌は雪と骨と石灰が混ざったような白さで、ところどころに古い傷が刻まれていた。傷は裂け目のまま凍りつき、そこから黒い水が糸のように垂れている。眼は深海の灯火のように淡く、見る者の心臓の位置を正確に射抜いた。
泉の守り手。海岸の風が一瞬止み、雪が空中で静止したように見えた。世界がその巨体の出現に合わせて、呼吸を合わせたのだ。
カラスは肩をすくめた。「ほらね。出てきた」
守り手の口が開いた。声は喉から出るものではなく、骨の内部を擦るような音で、空気そのものを震わせた。言葉は古い。錆びた鐘のように重く、しかし不思議と明瞭だった。
「来訪者よ」
エリスの喉が小さく上下した。笑顔の仮面が、ひび割れそうになるのを彼女は堪える。だが涙は出ない。出さない。出すわけにはいかない。
ガルドが一歩前に出た。泉とエリスの間に、鉄の背を差し入れる。雪が彼の肩に積もり、冷えた白が黒い錆の斑を際立たせた。視線——ガラスのような目が、守り手を見据える。その揺らぎが、ほんのわずかに鋭い。守るという命令が、今は刃になっている。
守り手の淡い眼が、ガルドの胸部へ落ちた。鉄板の奥で鼓動するはずのない場所に、微かな振動があるのを見抜くように。
「鉄の器よ。茨の呪いを抱く者よ」
呼びかけられ、エリスの肩が僅かに跳ねた。名を呼ばれたわけではない。ただ、存在を正確に言い当てられたことが、裸にされるように冷たい。
守り手は泉の縁へ顔を寄せた。水がその白い顎から滴り落ち、黒砂に落ちた瞬間、砂が硬く固まっていく。塩が結晶化し、刃のように尖った。
「願いを問う」
カラスが小さく鳴いた。「さあ、言ってみな。世界の最果てまで行く途中で、ここに寄り道した理由を」
エリスは唇を開いた。声を出すと感情が溢れる。それが怖い。だが、出さずに願うこともできない。彼女は息を吸った。冷気が肺の奥へ刺さり、胸の内側が痛む。痛みが、声を支える。
「——呪いを」かすれた声が、雪の中に落ちた。「この茨を……止めたい」
言葉の最後が震えた。涙の予兆が眼の奥で熱を持つ。熱は危険だ。熱は茨を呼ぶ。彼女は必死に笑おうとする。笑えば泣かないで済むと信じている子どものように。
ガルドの駆動音が低く沈んだ。彼はエリスの横に手を差し出したが、触れない。指先が空を掴み、雪だけがその掌に落ちて溶けた。溶けた雪は透明な水となり、鉄の指の隙間から落ちる。涙の代用品のように。
守り手はゆっくりと瞼を閉じ、開いた。その動きだけで、泉の水位が上下した。潮が遠くで呻き、雪が再び動き出した。
「叶えることはできる」
その言葉は、救いに似ていた。だが救いの匂いはしない。白い巨体から漂うのは、冷たい石灰と、古い血の匂いだった。救いがいつもそうであるように、代償の匂いだ。
「等価を捧げよ」
エリスの指がさらに強く握り込まれ、手袋の布が軋んだ。彼女の頬がわずかに引きつる。笑顔が、痛みによって保たれている。
守り手の声が、海岸の岩肌を撫でるように続いた。
「願いを叶えるには、等価の命が必要だ」
言葉が落ちた瞬間、泉の水面に小さな波紋が広がり、その波紋が茨の形に似た線を描いた。水の中に、刺すような影が走る。エリスの背筋を冷えが貫き、喉が詰まった。
ガルドの胸板が微かに震えた。内部の歯車が、短く噛み合い直す音がした。駆動音が一拍、乱れる。彼の視線がエリスへ滑り、すぐに守り手へ戻る。その揺らぎは、迷いではない。計算でもない。むしろ、痛みを伴う決意の準備のようだった。
カラスが雪の上を跳ね、泉の縁へ近づいた。「等価の命、ね。つまり誰かが死ぬ。いつも通りだ」
守り手はカラスを見ない。見なくても知っているのだろう。白い眼は、エリスの胸元に、そしてガルドの錆びた関節に、ゆっくりと往復した。
「茨は命を裂き、鉄は茨に腐る。二つの呪いは絡み合い、すでに一つの鎖となった」
エリスの喉から、声にならない息が漏れた。泣きそうになるのを、歯で噛み殺す音だった。頬に熱が集まる。熱が、涙の扉を叩く。彼女は瞬きの回数を増やし、涙を乾かそうとする。雪の冷たさが睫毛に触れ、痛みが走る。その痛みが、茨の芽を押し留める。
ガルドは、ゆっくりと片膝をついた。黒砂が沈み、鉄の膝が冷たい音を立てた。彼は泉に向けて頭部を下げた。祈りの形。だが祈る神は目の前にいる。祈りは取引の姿勢でもある。
彼の背中の装甲板の隙間から、黒いオイルが一筋、垂れた。雪の上に落ち、墨の花のように広がる。寒さで粘りを増したそれは、まるで泣けない者の涙だった。
守り手が言う。
「捧げる命を選べ」
エリスは息を止めた。選ぶという言葉が、刃になって彼女の口の中を切った。彼女は首を振りかけて、しかし止めた。動けば泣く。泣けば茨が走る。茨が走れば、ガルドが——。
ガルドの手が、空中でほんの少し動いた。エリスの肩に触れたいのに触れられない距離で、彼はその手を引っ込め、代わりに自分の胸を指先で叩いた。硬い音が二度、三度。鉄の心臓の位置を示すように。音は小さいが、雪の静寂の中では不自然なほど鮮明だった。
エリスの瞳が揺れた。揺れは、涙の揺れだ。彼女は笑おうとした。だが笑みの端が痙攣し、頬が引き攣る。痛みが走り、そこから熱が溢れそうになる。
「だめ……」と、彼女は息だけで言った。声にならない。声にすれば泣いてしまう。泣けば茨が生まれる。彼女は唇を噛み、血の味で感情を押し戻した。
守り手の白い顔が、ほんの少し傾いた。雪がその額に触れ、溶けずに弾かれる。冷たさが冷たさを拒む。
「命は命でしか支払えぬ」
その断言は、波よりも冷たかった。海の泡はまだどこか温もりの気配を残すが、この言葉には一切の温度がない。等価交換という名の、ただの秤。
カラスが低く笑った。「選べないなら、世界が選ぶ。たいていはそうだ」
ガルドは膝をついたまま、頭を上げた。彼の目の奥の光が、わずかに強くなる。駆動音が静かに整い、錆びた関節が小さく鳴った。その鳴りは、痛みに耐える音だった。彼はエリスの前にさらに身を差し出し、泉と彼女の間に自らの全てを置く。
触れられない愛は、触れない盾になる。
エリスの胸が上下し、そのたびに喉が震えた。彼女の眼の縁に、透明なものが滲む。雪の白の中で、それは恐ろしく目立つ。涙は、茨の種子だ。
彼女は必死に瞬きをし、滲みを押し戻そうとする。だが涙は一滴だけ、こぼれた。頬を伝う前に、冷気で粘り、宝石のように光った。
その瞬間、彼女の足元の雪が、微かに盛り上がる。白い地面の下で何かが蠢き、細い影が伸びようとする。茨の芽だ。美しい花の予兆ではなく、致死の針の予兆。
ガルドの手が素早く動いた。彼は自分の外套の端——旅の間に擦り切れ、塩と灰を吸い込んだ布を引き裂き、エリスの頬の涙に触れぬよう、空中でその滴を受け止めた。布が涙を吸い、すぐに硬く凍り始める。凍った布の繊維から、細い棘が生える前に、ガルドはそれを握り潰した。
鉄の掌の内側で、何かが弾けた。棘が芽吹き、同時に折れ、毒が滲む。ガルドの指の関節から、赤茶の錆が一気に浮き上がった。腐食の匂いが強くなる。だが彼は動じない。動じる代わりに、エリスの前に立ち続ける。
エリスは息を呑み、涙を止めようとしてさらに苦しむ。苦しみは、感情の蓋を押し上げる。蓋が軋む音が聞こえる気がした。
守り手の眼が、ガルドの掌の錆を見た。白い巨体は何も言わない。ただ、泉の水面に波紋が広がり、冷たい光が二人の影を引き伸ばした。影は寄り添うように重なりそうで、しかし最後の一寸で離れている。
「等価の命を」
守り手は繰り返した。繰り返しは慈悲ではない。処刑宣告が、二度読まれるだけだ。
雪が降り続く。海は黒く、泉は透明で、ガルドの錆は赤く、エリスの頬の涙の跡だけが、熱の名残として淡く光った。
選べと言われた命は、すでに彼女の隣で膝をつき、静かな金属の祈りを続けていた。彼の駆動音は、彼女の鼓動に合わせるように——いや、合わせることなどできない冷たい体で、それでも必死に寄り添うように——低く、震えていた。
雪は、海から生まれて海へ還る白い灰のように降りつづけていた。波は鈍い鉄色で、砕けるたびに薄い氷片を吐き、浜の砂を濡らしては凍らせる。潮の匂いは錆に似て、遠い血の記憶を舌の奥に残した。
エリスは崖の陰に身を寄せ、指先を握りしめていた。手袋越しでもわかるほど、掌は冷えている。笑おうとしているのに、唇の端が震える。雪が睫毛に積もり、溶けずに小さな結晶のまま残るのは、体温が足りないせいだ。
彼女の足元には、昨夜の名残の茨が薄く黒ずんで横たわっていた。涙が落ちた場所から生えたものだ。潮に洗われ、雪に覆われ、それでも刃のような輪郭だけは失われず、凍った光を返している。美しい花の骨格を真似た、猛毒の棘。
その棘から半歩離れたところで、ガルドが立っていた。鉄の体に雪が貼りつき、肩の稜線が白く縁取られている。関節の隙間から滲む油は凍りかけ、黒い涙の筋になって肘を伝った。歩くたび、駆動音が低く沈み、きしみが長く尾を引く。錆は確実に、彼の内部へ海水のように浸み込んでいた。
彼はエリスに近づこうとして、ほんのわずか足を止めた。距離を測るように首を傾げ、眼窩の奥の淡い光を揺らす。そこにあるのは命令の計算だけではない。触れられないという事実を、痛覚のないはずの鉄が、痛みとして学びはじめた痕跡だった。
翼の羽音が、雪の静けさを裂いた。
カラスは、崖の突起に降り立った。黒い羽が白い雪を払うたび、夜の欠片が散る。人の顔をした嘴が、嘲るように歪む。だがその眼は、海よりも深い疲労を湛えている。
「ここまで来たんだな」彼は言った。声は乾いていて、潮風に擦れた木の皮のようだった。「世界の端に近いほど、雪は優しい顔をする。優しいものほど、よく刺さるって知ってるか?」
エリスは返事をしない。喉の奥に言葉が凍りついている。代わりに、指先がまた強く握られた。手袋の布が軋み、その音が彼女の胸の中の悲鳴の代わりになる。
ガルドが一歩、前へ出た。砂が沈み、凍った粒が砕ける。彼の胸板の内側で、鉄の心臓が打つ——いや、打っているように聞こえるだけだ。古い機構が規則正しく作る震えが、この雪の海岸では妙に生々しい。
カラスはその音に耳を傾け、笑ったようで、笑えなかった。
「条件を知りたい顔だ」彼は言い、翼をすぼめた。「呪いを解く方法は、祈りでも薬でもない。世界はそんなに親切じゃない。代価がいる。いつだって」
エリスの頬がひくりと動いた。笑顔を作ろうとした筋肉が、別の表情を拒んだ。目尻が熱を帯びそうになり、彼女は慌てて瞬きを重ねる。涙を出してはいけない。ここで一滴でも落ちれば、雪の白がたちまち血の棘で汚れる。
ガルドは彼女の仕草を見て、右手をゆっくりと持ち上げた。触れない距離で、彼の指が空を撫でる。まるで、彼女の頬の上を落ちるはずの涙を、先に掬い取ろうとするように。指先は冷たい鉄で、雪より冷たい。そこに触れれば、彼女の肌はきっと痛むだろう。それでも、触れたいという衝動が、彼の動きの遅さに滲んだ。
カラスはその空振りの手を見て、しばし沈黙した。雪が彼の羽の上で溶け、黒い滴になって落ちる。海の音だけが、遠い葬送の鼓動のように続く。
「聞け」カラスは言った。声が少しだけ低くなる。「呪いは、涙に棘を与えた。感情を刃に変えた。だから解くには、刃じゃなくて——心臓を差し出すしかない」
エリスの肩が跳ねた。息が喉で詰まり、白い吐息が小さく乱れる。胸の奥が熱くなり、その熱がすぐに恐怖へ変わる。彼女は両腕で自分を抱きしめた。柔らかな肉が、骨の冷たさを押し返そうとしている。
「愛する者が」カラスは、言葉を一つずつ雪の上に置くように続けた。「相手のために、自分の心臓を捧げること。それが条件だ」
雪が強くなった。粒が大きくなり、視界が滲む。海も崖も、白い帳の向こうへ遠ざかる。
エリスは首を横に振ろうとした。だが動きは途中で止まり、喉の奥でひゅっと音が漏れた。否定する言葉が出ない。言葉にすれば、それだけで何かが決まってしまう気がした。
ガルドの駆動音が変わった。一定だった低音が一瞬乱れ、次の瞬間、深く沈む。鉄の体が微かに揺れ、胸部の装甲の隙間から、黒い油が一筋、滴った。落ちた雫は雪に吸われ、黒い点になって凍りつく。まるで、彼の中の何かが先に泣いたみたいだった。
彼はゆっくりと、自分の胸に手を当てた。掌が硬い装甲を叩く音が、乾いた鈍い響きで海風に消える。二度、三度。そこに心臓があると示すように。あるいは、そこを差し出せと言われた痛みを、音にして噛みしめるように。
エリスはその手を見つめ、視線を逸らせなかった。ガルドの胸に触れたら、彼女の呪いが彼を腐らせる。触れなくても、彼は今、あの場所を捧げろと言われている。鉄の心臓。血の代わりに油を流す心臓。温度を持たない心臓。
彼女の唇が開き、閉じた。声は出ない。泣きそうになって、歯を食いしばる。泣けば棘が生える。棘は彼を殺す。泣かなくても、この条件は彼を殺す。
カラスは、崖の上から二人を見下ろした。雪が彼の顔の皺に溜まり、白い線になる。嘲笑の仮面の下で、古い賢者の目が一瞬だけ、苦い色を見せる。
「なにも、今すぐとは言わない」彼は言った。だがその言い方は、猶予ではなく宣告だった。「捧げる心臓は、比喩じゃない。生きたまま、取り出す。温かい肉でも、冷たい鉄でも、同じことだ。差し出した瞬間、呪いはほどける。ほどけた先に何が残るかは——お前たちの運だ」
ガルドが、エリスの方へ向き直った。雪の幕の中で、彼の眼窩の光が揺れる。震えるほどではない。だが、微細な揺らぎが、彼の内部で何かが軋んでいることを告げる。彼は片膝をつき、砂に沈み、視線の高さを彼女に合わせた。近づきすぎない距離で。彼女の棘が届かない距離で。
そして、彼は自分の胸に当てた手を、ゆっくりと前へ差し出した。掌を上に向け、何も持たない手で、何かを差し出す形を作る。そこにあるのは、言葉ではなく行為だった。奪う手ではない。守るための手。触れられないと知りながら、なお差し出される手。
エリスの喉が震え、息が白く漏れた。彼女はその手の上に、自分の手を置きたい衝動に駆られた。柔らかな肌を、冷たい鉄に重ねたい。だが指先が動けば、涙が出る。涙が出れば棘が生える。棘が生えれば、彼の手は腐る。
彼女は代わりに、手袋の上から自分の胸を押さえた。心臓の鼓動が、硬い骨に当たって痛い。そこだけが、まだ温かい。温かいことが、こんなにも残酷だと知る。
ガルドは、その仕草を見て、手を引っ込めなかった。駆動音が、ほんの少しだけ高くなる。壊れかけのオルガンが、息を吸い直すような音。彼は胸に当てたもう一方の手を、ゆっくりと握りしめた。鉄が軋み、関節の奥で錆が鳴った。
海風が吹き、雪が横殴りになる。エリスの頬に雪が刺さり、針のような冷たさが肌を裂く。彼女は痛みに目を細めた。泣かないために。泣けば棘が咲くから。だがその目の奥に、透明なものが滲む。滲んだまま凍りつき、落ちない。
カラスは羽を広げ、飛び立つ前に一言だけ落とした。
「愛は、いつも心臓から始まって、心臓で終わる。お前たちの旅も、そうだ」
黒い影が雪の白へ溶け、崖の向こうへ消える。
残された二人の間に、言葉はない。ただ海の鉄臭い呼吸と、雪の降る音と、ガルドの胸の奥の規則が、静かに重なっていた。エリスは唇を噛み、血の味を舌に広げる。血は温かく、すぐに冷える。
ガルドは立ち上がり、彼女の前に半身を差し出した。盾のように。雪と風と、見えない未来から彼女を庇うように。肩の装甲に積もった雪が、彼の熱のない体の上で結晶のまま残り、白い棺の飾りのように輝いた。
触れられない距離のまま、彼は彼女を守る形を作る。
その形だけが、今夜の海岸で許された愛だった。
雪は海から生まれた灰のように、音もなく降り積もっていった。波は黒い鉄板を叩く槌のように鈍く、砕けた飛沫だけが白く、白く、世界の端で泡立っている。砂浜は凍り、潮の匂いは冷たい刃となって肺を削った。遠く、崩れた桟橋の骨が雪に埋もれ、錆びた釘が露出したまま、赤黒い歯を剥いている。
エリスはその歯の列の前に立っていた。肩をすぼめ、笑みを貼り付ける癖が、今は剥がれかけの仮面のように震えている。指先は白く、爪の根元に薄い血が滲んでいた。寒さのせいだけではない。泣かないように噛みしめた唇が、冬の塩に割れていた。
ガルドは彼女の半歩後ろにいた。雪は鉄の肩に積もっても溶けず、ただ重みとして残る。関節の隙間から滲むオイルが黒い涙となって凍り、膝の裏に小さな氷柱を作っていた。歩みのたび、駆動音はいつもより低く、鈍く、胸の奥で擦れるような軋みを含んでいた。茨の毒が食い込んだ箇所――肘の内側、指の付け根、首の継ぎ目――そこだけ錆が雪よりも赤く、血のように広がっている。
カラスは崩れた杭の上で羽をふくらませ、二人を見下ろしていた。海風に黒い羽根がめくれ、底に隠した灰色の産毛が一瞬だけ覗く。嘴の端が笑っているようにも、凍りついているようにも見えた。
「ここまで来て、まだ“守る”だの“救う”だのと言うのかね」低い声が雪に吸われ、すぐに消えた。「世界はもう、どちらの願いも等しく踏み潰す準備ができている」
エリスは返事をしなかった。返せなかった。言葉を出せば、胸の奥に溜め込んだ熱が裂け、涙が落ちる。涙が落ちれば、茨が生まれる。茨が生まれれば、ガルドの鉄は腐る。
彼女はその連鎖を知りすぎている。
それでも、彼女は前に一歩出た。雪を踏む音が小さく鳴り、凍った砂が砕けた。彼女は振り向き、ガルドを見上げた。瞳の奥にあるのは、海より暗い恐怖と、雪より白い決意だった。
彼女は両手を胸に当てた。薄い布越しに、心臓の鼓動が指先を押し返す。柔らかな肉の箱の中で、温かい塊が必死に生きている。その温かさが、彼女には罪のように思えた。ガルドの胸には、温度のない動力炉がある。冷たく、硬く、しかし彼女のために燃え続ける炉。
エリスは唇を開いた。吐息が白くほどけ、すぐに凍る。その吐息の隙間から、やっとの声が落ちた。
「……ねえ」
声は震え、雪の粒に絡め取られた。彼女は笑おうとしたが、頬が引きつってうまくいかない。代わりに、瞳の縁がわずかに濡れた。涙はまだ落ちない。落としてはいけない。
「私の……心臓を、使って」
言葉が喉を擦り、痛みが走る。彼女は胸を押さえる指に力を込めた。まるで、その場で自分の鼓動を握り潰せるかのように。
「あなたを……人に、戻して」
最後の語尾は、海風にさらわれる前に、彼女自身の歯に噛み切られそうになった。言い終えた瞬間、彼女は息を止めた。泣きそうになるのを、凍った肺で押し留める。喉の奥が焼けるように痛い。泣かないための痛みは、茨を生まないぶんだけ、少しだけ優しい。
ガルドの頭部が、わずかに傾いた。視線――硝子のようなレンズが、彼女の胸に吸い寄せられる。駆動音が一瞬、途切れた。雪の降る音と波の鈍い響きだけが残り、世界が薄い紙のように静まり返る。
次の瞬間、ガルドの胸奥で、炉の回転が不規則に揺らいだ。低い唸りが、痛みに似た震えを含んで漏れる。彼は一歩、彼女に近づこうとして、止まった。近づけば触れてしまう。触れれば、彼女の涙が落ちるかもしれない。落ちれば――。
その逡巡が、彼の鉄の体をさらに重く見せた。雪が肩で崩れ、錆の裂け目に白い粉が入り込む。オイルが一滴、落ちた。黒い滴が凍った砂に染み、すぐに鈍い光を失う。
ガルドはゆっくりと右腕を上げた。指は人の手を模した形をしているが、節の一つひとつが冷たい刃の集まりだ。彼はその指先を、自分の胸の中央――動力炉の外殻に当てた。鉄板の下で、熱のない火が回っている場所。そこに触れた途端、駆動音が深く沈み、次いで短い、片言の機械音声が喉の奥から漏れた。
「……エリス」
名前だけ。名前しか言えない。それでも、その一語が雪の中で黒く重かった。彼は続けて言葉を紡げない。だから、言葉の代わりに動いた。
彼は胸を押さえたまま、もう片方の手で、彼女の胸の前――心臓の位置に、触れない距離で掌をかざした。温かい肉に触れたい衝動が、鉄の指を震わせる。だが指先は空を掴むだけで、彼女の布すら揺らさない。触れられない愛は、空気の層としてそこに存在した。
そして彼は、首を横に振った。ゆっくり、確固として。否定。彼女の申し出を、拒む。
次に、ガルドは自分の胸を叩いた。硬い音が鳴り、雪が跳ねる。二度、三度。まるで中の炉を呼び起こすように。叩くたび、関節がきしみ、錆が粉となって落ちた。
彼は膝をついた。凍った砂が膝当てに擦れ、鈍い音がした。海風が彼の背を撫で、雪が首の継ぎ目に入り込む。冷たさが鉄に染みるはずもないのに、彼の駆動音はまるで寒さで縮こまるように細くなった。
ガルドは胸に当てた指を、ゆっくりと下へ滑らせた。外殻の継ぎ目――動力炉へ至る封印のラインをなぞる。そこはかつて戦争のために閉ざされ、今は彼女のために燃えている場所。彼はその継ぎ目に、爪先を立てるように指を押し込み、開ける仕草をした。開ける、取り出す、差し出す。
そして、今度はエリスの方へ掌を向けた。彼女の胸ではなく、彼女の喉元でもなく――彼女の両手へ。彼女が自分で受け取れるように。触れずに渡せるように。
オイルがまた一滴、落ちた。黒い滴が彼の指先から垂れ、雪の上で小さな穴を穿った。血のようでいて、血ではない。温かさのない献身の跡。
エリスは息を呑んだ。喉の奥が鳴り、涙が溢れそうになった。だが彼女は必死に瞬きを繰り返し、溜まった水を瞳の裏へ押し戻した。泣けば茨が生まれる。茨が彼を殺す。彼が差し出すものを、彼女が受け取る前に。
彼女は首を振った。小さく、弱々しく。拒む。彼の願いを拒む。拒むための力が足りなくて、顎が震えた。
ガルドはそれを見て、駆動音を一段高くした。いつもなら歩みを支えるための音が、今は意志そのもののように鳴る。彼は立ち上がり、胸を押さえたまま、さらに一歩だけ近づいた。触れない距離を保ちながら、彼の影が彼女の足元へ伸びる。黒い影が雪の白を汚し、彼女の靴先を包んだ。
ガルドは、ゆっくりと自分の頭部を下げた。額に当たる部分――冷たい鉄の面を、彼女の胸の前へ差し出す。触れない。触れさせない。けれど、そこに在る。彼女の鼓動の熱を、空気越しにでも受け止めたいというように。
その姿勢は、祈りに似ていた。命令に従う兵器が、初めて命令以外のものを捧げる姿勢。
カラスが小さく笑った。笑い声は乾いていて、雪の結晶のように脆い。
「心臓を差し出す娘と、炉を差し出す鉄屑。互いの命を“材料”にして救い合うつもりか」嘴が少しだけ歪む。「美しいね。吐き気がするほど」
エリスはその言葉に反応しなかった。彼女の世界は今、ガルドの差し出す沈黙と、自分の胸の痛みだけで満ちている。彼女は一歩退こうとして、足が雪に取られた。転びそうになった瞬間、ガルドの手が伸びた。
触れない距離で止まる。止まるはずなのに、彼の指先が震え、ほんのわずか――布の端をかすめた。
その一瞬、エリスの体内で何かが跳ねた。涙が浮き、喉が鳴る。胸の奥に、茨の芽が疼く感覚。柔らかな肉の内側から、鋭いものが伸びたがる衝動。彼女は歯を食いしばり、痛みでそれを抑え込んだ。痛みが舌に血の味を運ぶ。鉄の味ではない、生きている味。
ガルドはすぐに手を引いた。遅すぎるほど慎重に。引いた指先から、黒いオイルが糸を引いて落ちた。まるで、触れてはいけないものに触れた罰のように。
彼は、もう一度首を横に振った。否定。彼女の心臓を使う未来を、拒む。
そして、胸を叩き、継ぎ目をなぞり、掌を差し出す。繰り返す。言葉の代わりに、同じ動作を何度も。雪の中で機械が祈るように。
エリスはとうとう膝を折った。凍った砂が膝に刺さり、冷たさが骨まで染みた。彼女は胸を押さえたまま俯き、白い息を吐いた。息はすぐに凍り、彼女の前に薄い霧の壁を作る。その向こうで、ガルドの影が揺れている。
「だめ……」声が、やっと出た。小さく、かすれて、海に消えそうな声。「あなたが……いなくなるのは……」
言いかけた言葉の端が割れ、涙が一粒、瞳からこぼれた。落ちる。落ちてしまう。彼女は慌てて手の甲で拭おうとしたが、遅かった。
涙は雪の上に落ち、瞬間、そこから細い茨が生えた。白い地面を裂き、黒い影のように伸びる。先端は濡れた針の光を持ち、毒の匂いを微かに漂わせた。
ガルドは反射的に身を引いた。だが彼は逃げなかった。逃げる代わりに、自分の体を彼女と茨の間に差し込んだ。茨の先が、彼の脛に触れた。
じゅ、と雪の上で肉が焼けるような音がした。鉄が腐食する匂い――錆と酸の混じった匂いが、冷たい潮風に乗って鼻を刺す。脛の装甲が黒く変色し、そこから赤茶の錆が花のように咲いた。痛みを感じるはずのない鉄が、痛みの形で崩れていく。
それでもガルドは動かなかった。駆動音が一瞬、荒く跳ね、すぐに低く落ち着く。耐える音。彼はゆっくりと膝をつき、茨に触れて腐る脚で、なお彼女の前に壁を作った。
そして、彼は胸を押さえた。動力炉の位置を強く示す。まるで言うように――これを使え、と。おまえの涙を止めるために。おまえの呪いを終わらせるために。おまえが泣かずに済むように。
エリスは茨を見た。自分の涙から生まれた、細い死。彼女はその先端がガルドの鉄を食むのを見て、喉の奥から声にならない悲鳴を漏らした。泣けば茨が増える。悲鳴も涙も、彼を殺す。
彼女は両手で口を押さえ、肩を震わせた。震えは寒さのせいにできるほど小さくない。彼女の瞳は赤く、涙が溜まっている。落ちればまた茨が生える。落とせない。だから、涙は瞳の中で棘になって刺さる。
ガルドはその震えを見て、ゆっくりと頭を横に振った。否定ではない。慰めでもない。ただ、静かな決意の動き。彼は腐食した脚を引きずりながら、茨の根元へ手を伸ばした。
指先が茨に触れれば、そこも腐る。彼はそれを知っているように、指を少しだけ曲げ、茨の根元を“掴む”のではなく、“覆う”ように手をかざした。触れない。だが風を遮り、茨の揺れを止める。彼の掌が作る影の中で、茨は静かになった。毒の針が、彼女へ向かうのをやめた。
彼はもう一度、胸の継ぎ目をなぞった。開ける仕草。取り出す仕草。差し出す仕草。
エリスはその動作を見て、理解した。彼女の心臓ではなく、彼の炉。彼の命の中心を、彼女のために。彼女の呪いを終わらせるために。彼女が泣いても誰も死なないように。彼女が笑っても、恐れずに済むように。
「……そんなの」彼女の声は雪に濡れ、すぐに凍った。「そんなの、だめ……」
だめ、と言いながら、彼女の手は胸から離れた。自分の心臓を守る位置から、空へ。ガルドの差し出す掌へ向かう。触れない距離で止まるはずの手が、止まれずに震える。
触れたら、彼が腐る。触れなければ、彼は差し出し続ける。差し出し続けて、いつか勝手に壊れる。どちらも同じ結末が、雪の中で白々と見えていた。
カラスは片翼を広げ、雪を払った。「ほら、選べ。触れられない愛の、最後の作法を」
エリスの指先は、ガルドの鉄の指先の数分の一の距離で止まった。空気が冷たく、薄い刃のように二人の間に挟まる。彼女はその刃の上で息をした。息をすれば涙が出る。涙が出れば茨が生える。だから彼女は息を浅くし、代わりに言葉を絞り出した。
「私の心臓を……持っていって」彼女はもう一度、同じ願いを差し出した。自分の温かさを、彼の冷たさへ。「あなたが、人になれるなら……」
ガルドは、首を横に振った。強く。駆動音が低く唸り、雪を震わせた。否。彼は拒む。彼女の温かさを奪う未来を拒む。
そして彼は、胸の中央を拳で叩いた。硬い音が二度、三度。次いで、片言の機械音声が擦れた。
「……オレ……」
それ以上は続かない。言葉の代わりに、彼は自分の胸を開く仕草を、今までより具体的に示した。継ぎ目に指を差し込み、引き剥がす動き。痛みのないはずの鉄の動きが、なぜか痛みを孕んで遅い。錆が粉雪のように舞い、彼の指の間から落ちた。
差し出す。彼の動力炉を。彼女の呪いを解くために。
エリスは目を閉じた。閉じた瞼の裏で、涙が膨らみ、棘の形を取ろうとする。彼女はそれを必死に堪え、代わりに、額を下げた。ガルドの差し出した冷たい鉄の面へ、触れない距離で額を寄せる。触れずに、熱だけを渡そうとするように。
雪が二人の間に降り続ける。白い灰のように、静かに、残酷に。海は黒いまま、波は鈍いまま、世界は終わりへ向かって一方通行に崩れていく。
その中で、少女は自分の心臓を差し出し、鉄は自分の炉を差し出した。触れられない距離のまま、互いの死を贈り合うように。
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