最後の晩餐部

深渡 ケイ

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第12話:最後の晩餐部

第12話:最後の晩餐部

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 体育館の拍手が、廊下の奥まで追いかけてくる。

 卒業証書の筒を抱えた湊は、ネクタイを指でゆるめながら、校舎の隅の階段を上った。胸のあたりが、まだざわざわしている。式の間、何度も名前を呼ばれて立ち上がるたび、誰かに見られてる気がして背筋を正した。

「……こっちで合ってんのか」

 三階。理科室の前を通り過ぎて、最後の晩餐部の札が貼られた扉の前に来る。札は少し曲がっていて、テープの端が浮いていた。

 湊はノブに手をかけて、軽く息を吐く。

「紬ー、終わったぞー。卒業したぞー。……って、いるわけないか」

 扉を開けると、部室は静まり返っていた。机の上に、紙コップも、メモ帳も、誰かが買ってきたコンビニの袋もない。窓際のカーテンだけが、風でわずかに揺れている。

 黒板には、薄くチョークの跡が残っていた。消しきれずに残った丸い線と、「いただきます」の文字。

「……片づけ、早すぎない?」

 湊が足を踏み入れた瞬間、背後で扉が閉まる音がした。

「お前が遅いだけだ」

 振り向くと、蓮が立っていた。制服の第二ボタンがなく、胸元が妙に空いて見える。手には小さな紙袋。目の下に、式の照明では隠れない影が落ちている。

「蓮も来てたんだ。卒業式、ちゃんと泣いた?」

「泣くか」

「俺、泣いてないけど、顔は泣いたみたいになってたらしい。クラスの女子に『目赤いよ』って言われた」

「花粉だろ」

「そうそう。今日やばい。体育館、乾燥してるし」

 蓮は返事をせず、机の一つに紙袋を置いた。袋の口から、白い封筒が覗いている。

 湊は部室を見回した。椅子が整然と並び、机の上は拭かれたみたいにきれいだ。いつも紬が座っていた窓際の席だけ、椅子の脚の位置が微妙にずれている。

「……なんか、ここ、広くない?」

「人数減ったからな」

「え、俺ら二人だけになったからって、部室って広くなるのか?」

「黙れ」

 湊は笑って、椅子を引いた。ギイ、と金属が鳴る。音が妙に大きく響いて、湊は肩をすくめた。

「なあ蓮。紬、来るよな? 今日だってさ、卒業だし。最後くらい顔出して、『おめでとう』って言ってくれるだろ」

 蓮は窓の外を見たまま、しばらく動かなかった。校庭の桜はまだ硬い蕾で、薄い影だけが枝に絡まっている。

「……来ない」

「え」

「来ない」

 湊は蓮の横顔を覗き込んだ。目が伏せられていて、まつ毛の影が頬に落ちている。蓮は視線を逸らさず、唇だけ動かした。

「……昨日、連絡した。今日は無理だって」

「無理って、何が? 体調?」

「……そうだ」

 湊は頬を指で掻いた。

「そっかー。まあ、卒業式って長いしな。座ってるだけでも疲れるし。紬、変なところで律儀だから、無理して来たら倒れる」

「……倒れるとか、軽く言うな」

「え? いや、ほら、倒れたら大変じゃん。俺が背負って保健室連れてく感じになるし。そういうの、漫画だと映えるけど現実だと腰やる」

 蓮の喉が小さく鳴った。咳ではない。飲み込む音に近い。湊はそれを、ただの空気の詰まりだと思って流した。

「で、蓮は何しに来たの? 部室の鍵返しに?」

「鍵は職員室に返した」

「じゃあ、何。俺に卒業祝いとか?」

「……これ」

 蓮が紙袋から封筒を取り出して、机の上に滑らせた。白い封筒は、端が少しよれている。何度も握り直したみたいに。

 湊は封筒を指でつまみ、ひっくり返す。宛名はない。裏に、細い字でひとことだけ書いてあった。

「『湊へ』……お、ラブレター?」

「殴るぞ」

「冗談冗談。紬の字だな、これ」

 封筒の角に、薄いシミがあった。水滴が乾いた跡みたいに輪になっている。湊はそれを見て、笑いながら言った。

「またお茶こぼしたんだろ。あいつ、よくやる」

 蓮の眉がわずかに動いた。けれど、何も言わない。

 湊は封を切ろうとして、手を止めた。

「……ここで開けていい?」

「……好きにしろ」

「好きにするわ」

 湊は封筒を開け、中の便箋を取り出した。紙は薄く、折り目がきっちりついている。開いた瞬間、インクの匂いがほんの少しだけ鼻に届いた気がした。

 文字は丁寧で、いつもの紬のテンポがそのまま乗っている。

 湊は声に出して読もうとして、喉の奥が詰まった。なんでだ、と自分で思う。花粉のせいだ。そういうことにして、咳払いを一つした。

「……読むぞ」

 蓮は椅子に座らず、机に手をついて立ったままだった。影が便箋に落ちる。

 湊は一行目を追った。

「……『湊くんへ。卒業おめでとう。今日、部室に行けなくてごめんね』……うんうん」

 指で紙を押さえる手が、少し汗ばむ。

「『最後の晩餐部に来てくれてありがとう。湊くんの言葉は、ほんとうにおいしかったです』……だってさ。な、蓮。俺、料理人になれるかも」

「……」

「『最初は写真の人だと思ってたけど、今はちゃんと、湊くんの声の人だと思ってます』……あー、これ、照れるやつ」

 湊は笑って、紙を軽く振った。紙がひらりと揺れて、シミの輪が光に透ける。

「『だから、お願いがあります』……お、お願い。何だろ。『卒業しても、たまにでいいから、食べさせに来てください』……いや、当然だろ。俺ら、部活なくなっても勝手に集まるタイプじゃん。な?」

 湊は蓮を見た。蓮は視線を外している。窓の外の、まだ咲かない桜を見ていた。

「……なあ?」

「……」

「え、何。返事してよ。俺だけテンション高いみたいじゃん」

 蓮は唇を噛んで、ようやく湊を見た。目が赤い。泣いたのか。花粉か。式の照明のせいか。

 湊は軽く肩を叩くつもりで、蓮の腕に手を伸ばした。触れた瞬間、蓮の体がわずかに硬くなる。

「蓮、花粉?」

「……違う」

「じゃあ、寝不足?」

「……」

 湊は手を引っ込め、便箋に視線を戻した。

「『湊くんは、わたしの中で、もう何回も「いただきます」を言わせてくれました』……うん。『湊くんが話してくれるたび、わたしはちゃんと生きてるって思えました』……え、これ、めっちゃ良いこと書くじゃん。俺、スクショ——いや紙だわ。写真撮っとこ」

 湊はスマホを取り出し、便箋にカメラを向けた。画面の中で、紬の文字が白く光る。

 シャッター音が部室に響いた。

「……撮るな」

「え、いいだろ。宝物だし。ほら、SNSには上げない。俺だって空気読む」

 蓮は何か言いかけて、喉の奥で止めた。小さく咳をして、顔を背ける。

 湊は続きを目で追った。

「『だから、最後まで、湊くんの言葉を食べたいです』……最後まで、って言い方、紬らしいな。大げさでさ。もう、そういうの好き」

 湊は笑って、便箋を指でトントンと叩いた。

「ほら、蓮も笑えよ。卒業だぞ? 終わりじゃなくて始まり。俺ら、これから自由時間増えるし、部室じゃなくてもどっかで話せる。カフェとか。紬、カフェは無理か。じゃあ……公園でピクニックごっこ。俺が弁当の話して、紬が『おいしい』って言う。完璧」

 蓮の目が一瞬だけ揺れた。何かを飲み込むみたいに喉が動く。

「……湊」

「ん?」

「お前さ」

「なに」

「……この部室、もう使えない」

「え、なんで。鍵返したって言ってたけど、また借りればいいじゃん。顧問に頼めば——」

「顧問、異動だ」

「マジ? へえ、あの先生、最後の晩餐部のこと好きそうだったのに。意外とドライだな」

「……」

 湊は便箋を封筒に戻しながら、窓際の席を見た。椅子の脚のずれが、やけに気になる。紬が座って、足をぶらぶらさせて、笑っていた場所。

「でもさ、部室じゃなくても、俺は行くよ。紬のとこ。病院だっけ? 家だっけ? どっちでもいい。卒業したって、俺ら終わりじゃないし」

 蓮は机の縁を掴む指に力を入れた。爪が白くなる。

「……行けると思ってんのか」

「え? 行けるだろ。面会時間とかあるけどさ。俺、マナー守るし。病院ってさ、変に緊張するけど、俺、最近慣れてきた。点滴の機械の音も、最初は怖かったけど、今はBGMみたい」

 湊は自分で言って、自分で笑った。

「なんだそれ、って顔すんな。慣れって大事だぞ」

 蓮は笑わなかった。目だけが、湊の持つ封筒を追っている。

「湊」

「んー?」

「……紬は」

 そこで蓮の声が途切れた。言葉の端が、空気に引っかかったみたいに落ちる。

 湊は首をかしげた。

「紬は?」

 蓮の喉が、また小さく鳴る。今度ははっきり咳だった。拳で口元を押さえ、息を整える。

「……紬は、今日は来ない」

「うん、だから体調だろ? 分かったって。今日じゃなくても——」

「今日じゃない」

 蓮が低く言った。

 湊は間を読み違えたまま、軽く手を振った。

「大丈夫大丈夫。明日でも明後日でも。春休みとかさ、俺、暇だし。暇って言うと怒られるけど、暇だからこそ行ける。紬のために時間使える。最高じゃん」

 蓮の視線が、湊の顔から一瞬だけ外れて、床に落ちた。床のワックスが、窓の光を鈍く跳ね返す。

「……お前、ほんと……」

「ん?」

 蓮は言いかけて、飲み込んだ。代わりに、紙袋の中から小さな鍵束を取り出した。もう返したと言ったのに、そこには見慣れた部室の鍵が一本混じっている。

「これ」

「え、鍵? 返したんじゃ」

「……予備だ」

「お前、そういうとこ器用だよな。じゃあさ、これ俺が持ってていい? 最後の晩餐部、最後まで俺が管理するってことで」

 湊が手を伸ばすと、蓮は一瞬だけ躊躇してから鍵を渡した。金属が掌に冷たい。

 湊は鍵を握りしめ、笑った。

「よし。これでいつでも集まれる。な?」

 蓮は答えない。代わりに、窓の外の桜を見て、短く息を吐いた。

「……湊」

「ん?」

「……ちゃんと、来いよ」

「もちろん。俺、約束守るタイプだし。紬のお願いだぞ? 『食べさせに来て』って。行くに決まってる」

 湊は封筒を胸ポケットにしまい、証書の筒を持ち直した。

「まずはさ、卒業メシの話しようぜ。式終わったら家で寿司って言ってたやつ多かったけど、俺んちは……まあ、たぶん何もない。だから俺、コンビニの唐揚げでも買って、紬に語るわ。『衣がカリッとしててさ』って」

 蓮の肩が、ほんの少しだけ震えた。笑いではなく、何かを堪えるみたいに。

 湊はそれに気づかず、扉へ向かう。

「ほら、行くぞ。部室、締める。次は紬いるときに開けよう」

 湊が鍵を回すと、カチリと乾いた音がした。

 その音だけが、いつまでも廊下に残った。


 校門を出てすぐのコンビニの白い光が、夕方の冷えた空気をやけに明るく照らしていた。

 湊は自動ドアをくぐるなり、いつもの癖でスマホを構えた。新作スイーツの棚に反射した自分の顔が、思ったより青く見えて、角度を変える。

「……撮るの、早い」

 隣で紬が笑う。声は軽いのに、笑い終わりがほんの少し短い。

「職業病。ほら、コンビニも盛れるから」
「盛れないよ。コンビニはコンビニ」
「それがいいんだろ。リアルってやつ」

 湊はおにぎりコーナーの前で立ち止まった。ガラス越しに、三角がずらっと並ぶ。鮭、梅、昆布、ツナマヨ、明太子。

「今日、何がいい? 部長」

 紬は棚を見つめたまま、指先で空をなぞるみたいに、ひとつずつ目で追っていく。

「……鮭」
「王道だな。俺も鮭でいい?」
「いい。おそろい」

 湊は鮭を二つ取って、ついでに麦茶も二本。レジに向かいながら、紬が咳払いみたいに小さく喉を鳴らしたのが聞こえた。

「大丈夫? 乾燥?」
「うん。冬、敵」

「加湿器、部室に置くか」
「部室、カビる」

「じゃあ俺が霧吹きで……」
「やめて。植物扱いしないで」

 会計を済ませ、袋を受け取る。店を出た瞬間、熱がない風が頬を撫でて、湊は肩をすくめた。

「寒っ。どこで食う?」
「……あそこ」

 紬が指したのは、コンビニ横の小さなベンチ。街灯の下に置かれた灰色の金属で、座ると背中が冷えそうなやつだ。

 湊は袋を持ったまま先に座り、紬が隣に腰を下ろす。二人の間に、コンビニ袋がくしゃりと鳴る音だけが落ちた。

「はい、鮭」

 湊がおにぎりを渡すと、紬は受け取って、包装の端をつまむ。

「この、ビニールの音。もう味がする」
「味がするって何だよ」
「湊はまだわかんない」

「俺、味オンチだからな」
「知ってる。写真は上手いのに」

 湊は自分のおにぎりを手に取った。包装を開ける手順を間違えて、海苔が変なところに貼りつく。

「うわ、失敗した」
「初心者だ」
「コンビニおにぎりで初心者って何だよ」

 紬はくすっと笑って、指で海苔の角を直してくれる。指先が冷たい。

「……冷えてる」
「湊の手が熱いんだよ」

 湊は気にせず、ひと口かじった。米が少し固い。冷めた鮭の塩気がじわっと広がる。

「うん。うまい」
「うん、うまい」

 紬はおにぎりを唇の近くまで持っていき、しばらく止めた。湊はそれを「映え角度探してるんだな」と勝手に解釈して、スマホを取り出しかける。

「撮る?」
「撮らない。今日のは、撮らなくていい」

 紬はそう言って、包装の上からおにぎりをぎゅっと握った。海苔が少しだけ、しわになる。

 湊はもう一口かじり、口の中で転がしながら言った。

「コンビニおにぎりってさ、豪華じゃないけど、安心するよな」
「安心、する」

 紬は視線を落としたまま、ゆっくり頷いた。

「部長んち、そういうのあるの?」
「……あった。昔」

 湊は「昔」に引っかかりそうになって、でも自分の家の食卓を思い出して、引っかかるのをやめた。

「俺んちは、食卓っていうより、ただの置き場だったわ」
「置き場」
「皿が置いてあって、各自で食って、終わり。会話とかない」

 紬はおにぎりを見つめたまま、ぽつりと返す。

「会話があると、味が増える」
「それ、科学的に証明されてる?」
「紬的に証明されてる」

 湊は笑って、麦茶のペットボトルを開けた。冷えた液体が喉を落ちる。

「ほら、部長も飲め」

 一本を差し出すと、紬は受け取って、キャップを回す。けれど一度止まり、指先でキャップを撫でるだけになった。

「……あとで」
「遠慮すんなって」

 湊は紬のペットボトルも開けてやって、手渡した。

「はい」
「……ありがとう」

 紬はボトルを両手で包んで、温めるみたいに持った。飲まずに。

 湊は気にせず、おにぎりの残りを大きくかじった。

「冷めてるのに、なんか、ちゃんと飯って感じする」
「冷めてるから、いいのかも」
「え、冷めてるのが?」
「急がなくていい味」

 湊は口をもぐもぐさせながら、紬の顔を横目で見た。街灯の下で、頬の色が薄い。けど、笑ってる。

「急がなくていいならさ、俺らこれ、毎日でもいいな」
「毎日コンビニ」
「毎日鮭」
「鮭、怒る」

「じゃあ梅も混ぜる」
「梅は……すっぱい」

 紬が眉を寄せる。その表情がやけに子どもっぽくて、湊は吹きそうになった。

「部長、酸っぱいの苦手とか、キャラ崩壊」
「キャラは崩れるためにある」

 紬はそう言って、ようやくおにぎりに口を近づけた。唇が海苔に触れたところで、ほんの少しだけ止まる。

 湊はその間を「もったいぶってる」と思って、茶化す。

「ほらほら、食レポしろよ。鮭の香りが~とか」
「……鮭の香りが、あったかい家みたい」
「急にエモいな」

 湊は笑いながら、空になった包装をくしゃっと丸めた。紙の音が乾いて響く。

「俺の食レポもする?」
「する」
「え、して」

 紬は湊の口元を見て、少しだけ目を細める。視線が、妙に真剣で、湊は一瞬だけ居心地が悪くなる。

 でもすぐ、紬はいつもの調子に戻した。

「湊は、食べ方がうるさい」
「ひどい!」
「でも、ちゃんと生きてる音がする」

 湊は「褒められた?」と首を傾げ、麦茶を一口飲んだ。

「じゃあもっと生きる音出しとくわ」
「ほどほどに」

 紬は笑いながら、またおにぎりを握り直す。指に力が入った瞬間、手首の内側に白い跡がくっきり浮いた。

 湊は気づかないふりで、空を見上げた。夕焼けが薄く、雲がちぎれて流れていく。

「なあ、部長。豪華じゃなくてもさ、こういうの、悪くないな」
「悪くない」

 紬は小さく頷いて、湊の方へほんの少しだけ肩を寄せた。

「……冷めたおにぎり、好き」
「俺も。あ、でも次は温めてもらう?」
「ダメ。これは、冷めてるのがいい」

 湊は「こだわり強っ」と笑い、袋の中から残りのナプキンを取り出して紬に渡した。

「口、海苔ついてる」
「ついてない」
「ついてる」
「ついてない」

 湊が指差すと、紬は渋々ナプキンで口元を押さえる。押さえたまま、少しだけ息を吸って、また笑った。

「……湊」
「ん?」
「今日、ありがとう」

「おにぎり買っただけだろ」
「買っただけ、じゃない」

 紬はそれ以上言わず、おにぎりを見下ろした。湊は「変なやつ」と思いながら、空の包装をもう一度丸め直す。

 ベンチの冷たさが、じわじわとズボン越しに染みてきた。二人の間に、コンビニの白い光と、冷めた鮭の匂いだけが残っていた。


 湊が部室の扉を開けると、いつもの匂い――古い机の木と、乾いたチョークと、誰かがこぼした甘い紅茶――が混ざって鼻をくすぐった。

 窓際の定位置。紬は背もたれに軽く寄りかかって、指先で机の端をトントン叩いていた。笑っているのに、笑い終わったあと、ほんの一拍だけ口元が止まる。

「お、いたいた。部長、今日も元気そうじゃん」

「元気そうって、何。元気だよ。ほら、見て」

 紬は両手を小さくぱっと広げてみせる。手首のあたりに袖が少し引っかかって、慌てて直す仕草が妙に丁寧だった。

「……湊。遅い」

 蓮が机の向こうから睨む。声はいつも通り尖っているのに、目だけが湊の手元を追っていた。

「悪い悪い。寄り道した。今日のメニュー、仕入れてきたからさ」

 湊はコンビニの袋を掲げた。白いビニールがシャラっと鳴る。

 紬の目が、ぱっと明るくなる。

「わ、なにそれ。袋の音、もうおいしい」

「音で腹が鳴るタイプかよ」

「鳴る。今、鳴った。聞こえた?」

「聞こえねえよ。お前の胃、サイレントモードだろ」

 紬がくすくす笑って、口元を手で隠す。その手が一瞬だけ震えた気がしたが、湊は袋の中を探るのに夢中で見落とした。

「じゃーん」

 湊は一個だけ取り出して、紬の席の前に、ことんと置いた。海苔が巻かれた三角。ラベルには「ツナマヨ」。

「今日のメニューは、コンビニのおにぎりです」

「……コンビニのおにぎり」

 紬がゆっくり復唱する。まるで高級料理の名前みたいに、丁寧に。

 蓮が即座に噛みついた。

「ふざけてんのか」

「え、ふざけてないけど?」

「最後の晩餐部だぞ。晩餐って言葉、知ってる?」

「知ってる知ってる。豪華なやつだろ。だからさ、逆に、豪華じゃない方がリアルじゃん」

「意味わかんねえ」

「ほら、コンビニって、最強だろ。日本の誇り。俺らの胃袋のインフラ」

「インフラ語るなら水でも持ってこい」

「水も買った。ちゃんと」

 湊が袋を揺らすと、ペットボトルがこつんと当たって音がした。

 紬はおにぎりを見つめたまま、目だけで湊を見上げる。

「湊くん、それ……選んだの?」

「当たり前。ツナマヨ。王道。誰も傷つかない」

「私、ツナマヨ、好き」

「ほらな。俺のセンス、天才」

「……うん。天才」

 紬の笑い声が軽く弾む。けれど、笑ったあとに喉の奥がひゅっと鳴って、紬は咳払いみたいに小さく息を整えた。手の甲で口元を拭って、何事もない顔に戻す。

「大丈夫?」

 湊が聞くと、紬は即答で頷いた。

「大丈夫大丈夫。今のは、笑いすぎたやつ」

「笑いすぎで咳って、お前老人かよ」

「失礼な。私は永遠の十六歳」

「永遠って言うやつほど期限あるんだよなー」

 湊が軽口を叩くと、蓮の視線が一瞬だけ鋭く刺さった。すぐに逸らされる。

 紬は、ラベルの端を指でなぞる。ツナマヨの文字をなぞるみたいに。

「じゃあ、聞かせて。湊くんの、コンビニおにぎりの話」

「話って、何を?」

「買ったときの気持ちとか。匂いとか。手に持ったときの温度とか。あと、海苔を剥がす音」

「めっちゃ細かいな」

「細かいほど、おいしい」

 湊は椅子を引いて座り、スマホを机に置いた。反射的に画面を点けて、カメラを起動しかけて、やめる。撮るより先に言葉だ。そんな自分に少しだけ驚いて、誤魔化すように咳払いした。

「よし。じゃ、いくぞ。まず、コンビニに入った瞬間な」

「うん」

「レジの近くのホットスナックの匂いが来るじゃん。あれ、ずるい。唐揚げとかさ。で、俺はそれを横目に、おにぎりコーナーに直行する」

「横目に、唐揚げ。ふふ」

 紬が笑う。笑い方が、いつもより少しだけ静かだ。

 湊は気づかないふりで続けた。

「おにぎりの棚って、冷えてるだろ。指先がちょっと冷たくなる。で、ツナマヨを掴むと、包装がパリッとしててさ」

「パリッ」

「そう。あのパリッが、もう食べる前の合図。で、持ったときの三角の角が、掌にちょうどいい」

「角が、掌にちょうどいい……」

 紬は目を細めて、まるで掌にその形を乗せているみたいに指を丸める。

 蓮が腕を組んだまま、低い声で言った。

「……くだらねえ」

「くだらないのがいいんだって。な、部長」

「うん。くだらないの、好き」

 紬はおにぎりに手を伸ばして、触れる寸前で止めた。指が空中で迷子になって、すぐ膝の上に戻る。

 湊はそれを「もったいぶってる」としか思わない。

「ほら、開け方もあるぞ。コンビニおにぎりは三段階だ」

「三段階」

「まず真ん中のシールを引く。ぺり、って。次に左右を引っ張って、海苔が巻かれる。最後に、海苔がパリッと――」

 湊が指で空を裂くようにジェスチャーすると、紬の肩が小さく揺れた。笑っているのに、目の奥が妙に真剣だった。

「……そのパリッ、聞こえる」

「だろ? で、海苔の匂いが来る。黒いのに、海の匂い。そこにツナマヨの、ちょい酸っぱい匂いが混ざるんだよ」

 紬は目を閉じた。深呼吸するみたいに、ゆっくり息を吸って、吐いた。

「……おいしい」

「まだ食ってねえのに」

「もう、来た」

 蓮が小さく舌打ちして、視線を窓の外に逃がした。拳が膝の上で固く握られている。

 湊はそれを「相変わらず不機嫌だな」としか受け取らず、紬の前のおにぎりを指で軽く押した。

「ほら、そこにある。今日の晩餐だ。……っていうか昼だけど」

「最後の晩餐部は、時間に縛られないの」

「それ、便利な魔法の言葉だな」

「部長権限」

 紬が胸を張る。張ったはずなのに、肩が少し落ちて見えた。湊は机の上のラベルを指でトントン叩いて、明るく言った。

「よし。じゃあ部長、召し上がれ。俺の言葉で」


 窓の外は、嘘みたいに青かった。雲が薄くちぎれて、校舎の影がグラウンドに落ちている。

 保健室のベッドの脇で、湊はスマホを伏せた。画面に映っていたのは、さっき撮った空の写真。加工のスライダーを触る指が止まって、結局、何もいじらないままロックした。

「……青すぎだろ」

「それ、褒めてる?」

 紬の声は軽い。カーテンの隙間から差す光が、彼女の頬の白さをやけに際立たせる。

「褒めてる。だってさ、フィルターいらないじゃん。勝ち確」

「勝ち確って言う人、人生も勝ち負けで見るよね」

「見るだろ。だって——」

 湊が言いかけたところで、紬が小さく咳をした。喉の奥を撫でるような、短い咳。すぐに笑って誤魔化すみたいに口元を指で押さえる。

「……埃、かな」

「この部屋、毎日掃除されてんのに?」

「じゃあ、湊が持ち込んだホコリ」

「俺のせいにすんなって」

 蓮が椅子の背にもたれて、ふっと息を吐いた。目の下に薄い影。湊が見慣れたはずの顔なのに、今日だけ別人みたいに見える瞬間がある。

「……湊」

「なに」

「スマホ、しまえ」

「え、なんで。今、空撮っただけ——」

「しまえ」

 短い声。説明がない。湊は肩をすくめてポケットに突っ込んだ。

「はいはい。反抗期かよ」

「反抗期はおまえだろ」

「俺は思春期のど真ん中だわ」

 紬がくすくす笑った。けれど、その笑いが途中でほどけて、息が抜けるように静かになった。口角だけ残して、目が遠くを見る。

 湊は窓の外に視線を戻す。青空は、何も知らない顔で広がっている。

「なあ、紬」

「なあに」

「今日さ、何食べる? いや、食べるって言い方あれだけど。話、なににする?」

「んー……」

 紬は指先でシーツをなぞった。細い指。爪は短く整えられている。がんばって笑うための準備みたいに見えて、湊はそれを「おしゃれ意識高い」と勝手に分類した。

「湊の、いちばん美味しかったやつ」

「え、俺の? 俺、食卓の記憶薄いんだけど」

「だから聞くんだよ。薄いのを、濃くするの」

「濃くするって……コーヒーかよ」

「コーヒーでもいいよ」

「え、コーヒーの話で腹……いや、心いっぱいになる?」

「なるなる。香りの話、好き」

 紬が目を細めた。けれど次の瞬間、まぶたの裏で何かが重くなったみたいに、ゆっくり瞬きをした。

 蓮が立ち上がる気配がする。椅子がきしんで、床を擦る音。湊は横目で見た。蓮は窓際に行って、カーテンをほんの少しだけ閉めた。光が柔らかくなる。

「暗くすんなよ。せっかく青いのに」

「眩しいの、苦手なんだよ」

 蓮の言い方は紬の代弁みたいで、湊は「こういうのが幼馴染パワーか」と勝手に納得する。

 紬が笑う。

「蓮、保護者みたい」

「保護者だろ」

「え、認めるんだ」

「……今さら否定する意味あるか」

 湊は鼻で笑った。

「なにそれ。恋人ムーブじゃん」

「黙れ」

「照れたー」

「黙れ」

 紬がまた笑う。今度はちゃんと続いた。だけど笑い終わりに、息を吸う音が少しだけ浅い。湊は気づいた気がして、「笑いすぎ」と言いかけて、やめた。言うと、場が変わる。変わってほしくない。

 紬が目を上げる。

「湊、今日の空、何点?」

「百点」

「フィルターなし?」

「なし。盛らなくても強い。……ずるい」

「ずるい、って空に言う?」

「言う。だってさ、俺さ——」

 湊は言葉を探して、喉の奥で転がした。いつものなら「映える」とか「バズる」とか、そういう単語が先に出る。けど今日は、さっきからスマホが遠い。画面より、窓の向こうが近い。

「俺さ、こういうの見て、誰かに見せたいって思うの、ずっとだったんだよ」

「うん」

 紬がうなずく。聞く体勢が、いつもより静かだ。

「でもさ、見せたい相手って、たぶん……数字じゃないんだよな」

 蓮が一瞬、動きを止めた。空気が一拍だけ空く。

 紬が、息を吐くみたいに笑う。

「今ごろ?」

「うるせ。今ごろだよ」

 湊は照れ隠しに窓枠に肘をついた。ガラスは冬ほど冷たくない。季節は進んでる。

「……なんかさ」

 紬が小さく首をかしげる。

「なに」

「こうしてると、腹減る……じゃなくて、心が腹減るっていうか」

「言い直しが雑」

「だってさ、ほんとに腹は減ってんの。俺。今も」

「湊はいつもお腹すいてるもんね」

「それはそう」

 湊が笑うと、紬も笑った。笑い合うだけで、何かが満たされる感覚がある。湊はそれが不思議で、でも気持ちよくて、説明したくなった。

「俺、さ。家で飯食っても、味とか覚えてないのに」

「うん」

「ここで、紬に話すやつは、なんか……残るんだよ」

「残すために、食べてるんだよ」

 紬はさらっと言った。いつもみたいに。いつも通りの、部長の言い方で。

 その「いつも通り」が、逆に少しだけ怖い。湊はその怖さを、笑いに変える癖がある。

「なにそれ、名言? 今の切り抜いて投稿していい?」

「だめ。著作権、私」

「じゃあ俺、料理担当だから共同著作で」

「料理って言うな」

 蓮が低く言った。紬の横で、点滴のチューブが小さく揺れている。透明な管の中を、透明なものが落ちていく。湊はそれを「理科の実験みたい」と思って、口には出さなかった。

 紬が湊を見る。

「湊、今日、もう一個だけ。お願い」

「なに」

「湊の、いちばん嬉しかったやつ」

「嬉しかったやつ?」

「うん。味じゃなくて、気持ちのほう」

 湊は窓の外に視線を逃がした。青空は、どこまでも続いている。誰にも触れないのに、確かにそこにある。

 嬉しかったこと。湊の頭に浮かぶのは、通知の赤丸とか、いいねの数とか、そういうのだった。けどそれを言うと、たぶん紬は笑う。笑ってくれる。でも、今日はそれじゃない気がした。

 湊は息を吸って、吐いた。

「……ここ」

「ここ?」

「ここに来てさ、紬が『うまい』って言ってくれるとこ」

 紬の目が丸くなる。すぐに、照れたみたいに目尻が下がる。

「言ってないよ。私、言葉で食べるだけだし」

「言ってる。顔が言ってる」

「顔で食べるのは反則」

「反則でいい。反則のほうが強い」

 蓮が鼻で笑った。

「おまえ、ほんと単純だな」

「単純で何が悪い。単純だから、続けられんだよ」

 湊は言ってから、自分の言葉に少しだけ驚いた。続けられる。続けたい。続ける。見栄じゃなくて。

 紬が、枕に頭を沈めるみたいに少しだけ体を預けた。

「……湊」

「ん?」

「続けてね」

「当たり前だろ。俺、部員だし。部活だし」

「うん」

 紬の返事は短い。けれど、その短さが、なぜか胸に引っかかる。湊は引っかかりを指で弾くみたいに、軽い声を出した。

「なに。弱気? 部長が?」

「部長も、人だよ」

「人間宣言きた」

「きた」

 蓮が紬のほうへ身を乗り出す。

「紬、無理すんな」

「無理してない」

「……してる」

 その一言だけ、蓮の声が少しだけ硬い。湊は「また過保護モード」と思って笑いかけたが、蓮の目が笑っていない。

 湊は、笑いを飲み込んでしまった。

 代わりに、窓の外を見た。青空。雲。風。何も変わらないようで、少しずつ形が変わっていく。

 湊はぽつりと呟く。誰に言うでもなく、でもここにいる二人に届く声で。

「……いい人生だった」

 紬が息を止めたみたいに、動きを止める。

 蓮が、湊を睨む。

「は?」

 湊は自分でも何を言ったのか分からなくなって、慌てて笑った。

「ち、違う違う。今の空がさ。空の話。空の人生。青空の人生」

「空に人生はない」

「あるだろ。あるってことにしとけって。俺、今、そういう気分なんだよ」

 紬が、ゆっくり息を吐いて笑った。けれどその笑いは、どこか薄い紙みたいに震えて、すぐにほどけた。

「……湊って、変なとこで本音出すよね」

「え、俺、本音なんて出してないけど?」

「出てるよ」

「マジで? じゃあ俺、成長してるじゃん」

「うん。してる」

 紬はそう言って、目を閉じた。まぶたの上に光が薄く乗って、呼吸が小さく上下する。

 蓮がカーテンをもう少しだけ引いた。部屋の青が、少しだけ遠のく。

 湊はそれでも、窓の外の青空を見ていた。フィルターなしの色を、目に焼き付けるみたいに。スマホじゃなく、自分の中に保存するみたいに。

「なあ、紬」

 返事はない。

 湊は小声で続けた。

「次はさ、もっとちゃんと……うまい話するわ。絶対」

 蓮が湊の肩を掴んだ。強くはない。逃がさない程度。

「……今は、黙れ」

「え、なんで」

「いいから」

 湊は口を閉じた。窓の外の青空だけが、いつも通りに広がっていた。


「でさ、あの店のカレー、最初にスパイスの香りが鼻の奥に来るんだよ。あ、辛いって意味じゃなくて、こう……乾いた木みたいな、古い本棚みたいな匂い」

 昼休みのオフィスの休憩スペースで、湊は紙コップのコーヒーを片手に、向かいの席へ身を乗り出していた。テーブルの真ん中には、誰かが買ってきたコンビニのパンが山になっている。

「古い本棚のカレーって何?」と後輩の真鍋が笑う。

「例えだって。で、そこに玉ねぎの甘さが追いかけてきて、最後にバターが、こう……ドン。腹の底に落ちる」

「腹の底に落ちる、って表現、食レポの人みたいっすね」

「俺、部活で鍛えたから」

「部活?」

 湊はさらっと言って、コーヒーを一口飲む。苦い。苦いのに、口の中に残る香りが好きだった。

「『最後の晩餐部』って知ってる? 高校の時さ、変な部活があって」

「なにそれ、やばそう」

「やばいっていうか、最高。みんなで『美味しい話』するだけ」

「それ部活なんすか」

「部活。顧問もいたし」

 真鍋がパンをちぎりながら首を傾げる。「美味しい話って、食べた話?」

「うん。食べた話。誰かが語って、聞いたやつが勝手に腹いっぱいになる。意味わかんないだろ」

「意味わかんないっす」

「でも、ほんとに腹いっぱいになるんだよ。……いや、なるっていうか、なる気がする」

「気がする、かい」

 隣の席から、同僚の美咲が顔を出した。「湊さん、また始まってる。昼休みの『湊の飯テロ』」

「飯テロじゃない。文化だ」

「文化はいいけど、こっちは実際に食べてるんだから、せめて静かにして」

「え、今食べてるの?」

「見ればわかるでしょ」

 美咲がサラダチキンを掲げる。湊は「うわ、健康」と言いながら笑い、真鍋の方へ戻った。

「で、カレーな。店の奥にさ、ちっちゃいテーブルがあって。窓が曇ってて、外の雨の音が、ちょうどスプーンの音と混ざるんだよ」

「雨の日限定っすか」

「雨の日が最高。あと、店主がね、絶対に笑わない。無表情で『辛さ、普通?』って聞くの。普通って答えると、普通じゃない辛さが出てくる」

「それ普通じゃないじゃないっすか」

「だろ? でもね、不思議と、食べ終わると普通の顔して店出てる。俺も普通の顔してた。……たぶん」

 真鍋が吹き出す。「たぶんって」

 湊は肩をすくめた。「俺、味、正直よくわかんないから。写真はうまいけど」

「湊さん、インスタの人って感じっすもんね」

「今はインスタじゃなくて、社内チャットの『ランチ報告』だよ。いいね欲しいから」

「社内でいいね集めてどうすんすか」

「生きてる感じする」

 言いながら、湊の指が無意識に胸ポケットを探る。そこにあるはずの細い紙片。折り目のついた、古いメモ。

 指先に触れた瞬間、湊は小さく息を吸った。

「……あ、やべ。コーヒー、変なとこ入った」

「大丈夫っすか?」真鍋が身を乗り出す。

「大丈夫大丈夫。こういうの、昔から」

 湊は笑って、喉を軽く叩いた。咳は一回で収まった。収まったのに、胸の奥に小さな空白が残る。湊はそれを、コーヒーの苦さのせいにした。

「でさ」と、湊は話を続ける。「カレーの後に、店主が水を出すんだよ。冷たい水。コップがやたら重くて、縁が厚い。あれが、妙にうまい」

 美咲が鼻で笑う。「水がうまいって、もう終わりじゃん」

「終わりじゃない。水がうまい店は全部うまい。これは真理」

「誰の真理?」

「部長の真理」

 真鍋が「部長?」と聞き返す。

 湊は一瞬だけ、視線をテーブルの端へ落とした。パンの袋がくしゃっと鳴る。昼の光が、窓のブラインドを斜めに切っていた。

「うちの部長、すげー人だったんだよ。……食べるのが、うまかった」

「食べるのが?」真鍋が首を傾げる。「食べ方?」

「違う。聞いて食べる。話を食べるって感じ」

「ますます意味わかんないっす」

「だよな。でもさ、俺がくだらない話しても、笑って食べてくれるんだよ。『うん、それ美味しい』って。こっちはさ、救われるわけ」

 美咲が少しだけ声を落とした。「……いい部活だったんだね」

「うん。いい部活。最高だった」

 湊は言い切って、コーヒーを飲み干した。底に残ったぬるさが舌に触れる。

 真鍋がパンを差し出す。「湊さん、食べます?」

「今はいい。話で腹いっぱい」

「それ、ほんとに部活の影響じゃないっすか」

「だろ?」

 湊はスマホを取り出し、昼休みの写真を一枚撮った。パンの山、サラダチキン、紙コップ。角度を変えて、光を拾う。

「うわ、また映え狙ってる」と美咲が言う。

「仕事だよ、仕事。『ランチ報告』は社内の平和維持活動」

「平和維持活動って、なんだそれ」

 湊は笑いながら、写真に短い文章を添える。カレーの話の続き。雨の音、重いコップ、水の冷たさ。

 送信ボタンを押す寸前、指が止まる。

 画面の端に、過去のメモアプリの通知がちらりと見えた。日付は数年前のまま、更新されないままのタイトル。

「最後の晩餐部」

 湊はそれを見て、口の端を上げた。

「……あー、そうだ」

 真鍋が顔を上げる。「何が?」

「今度さ、みんなであのカレー屋行こうぜ。雨の日狙って」

「雨の日限定イベントっすか」

「限定がうまいんだよ」

 美咲が首を振る。「湊さん、またこじつけてる」

「こじつけじゃない。味の設計」

 湊は送信ボタンを押した。すぐに社内チャットに通知が飛び、誰かが「いいね」を押す音がした気がした。実際はそんな音、鳴らないのに。

「湊さん、今日も語り、絶好調っすね」

「当然。俺、食べさせるの得意だから」

「食べさせるって……」

「言葉で」

 湊は笑って、胸ポケットのメモを指でなぞった。紙の角が少し丸くなっている。そこには、短い文字が並んでいた。読まなくても、目を閉じれば浮かぶ。

 部室の匂い。古い机。窓から入る夕方の光。机の上に置かれた空の皿。誰かの笑い声。

「湊さん?」

「ん?」

 真鍋が目を細める。「なんか、今だけ静かでしたよ」

「え、俺? 静かだった?」

「一瞬だけ」

「気のせいだろ。昼飯食ったら眠くなるじゃん」

「湊さん、食ってないじゃないっすか」

「話食った」

「それ、ズルいっすね」

「ズルいのが勝ち」

 湊は立ち上がり、紙コップをゴミ箱へ投げ入れた。外れた。コップが床を転がる。

「うわ、下手」

 美咲が呆れる。「写真はうまいのに」

「人生、器用貧乏なんで」

 湊はコップを拾い、ちゃんと捨てた。戻る途中、窓の外を見た。空は薄い灰色で、今にも雨が落ちてきそうだった。

「……雨、降るかな」

 誰にともなく言う。

 真鍋が笑う。「降ったらカレーっすね」

「降ったらカレーだな」

 湊はそう答えて、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。理由はわからない。わからないまま、いつもの調子で軽く息を吐く。

「あー、今日の話、誰かに食わせたいな」

「もう食わせてるじゃないっすか」

「足りない」

 湊は言って、ポケットのメモを握り直した。紙の感触が、確かにそこにある。

 休憩スペースのざわめきの中で、湊の耳には、遠い部室の笑い声が混ざって聞こえた気がした。気がしただけだ。そういうことにして、湊はドアを押した。

「午後、頑張ろうぜ。腹いっぱいだし」

「食ってないのに」

「食ったって」

 湊は振り返り、いつもの軽い笑顔で言った。

「美味しい話は、いつでも用意できるから」


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