10 / 48
10 祝福の拍手
しおりを挟む
婚約が成立してからの日々はめまぐるしく過ぎていく。
母ミシェルと、アルフレッドの父クロードの祝福を受けたリーリエは公爵家によるお披露目会に備えた『教育』のため、リヒテンブルグ家の邸宅へと移り住んだ。
専属の家庭教師がつき、礼儀作法などを教え込まれる日々は、リーリエにとって厳しくも新鮮な出来事の連続で、公爵家に嫁ぐことの意味を改めて思い知らせるものだった。
アルフレッドが選んだという側付きのメイドのナタリーは、リーリエと年齢が近いこともあり、何かとリーリエを気遣い、プライベートの時間を何不自由なく過ごせるように尽力した。ナタリーの働きもあり、リーリエは邸宅での過ごし方にも少しずつ慣れていったが、アルフレッドの母エリザベートからのあからさまな敵意にだけはいつまでも慣れなかった。
エリザベートは婚約が成立した際も、一人リーリエを認めずに、まるでいないもののように振る舞っている。全ての人に歓迎されていると思ってはいなかったリーリエだったが、エリザベートが指定した家庭教師からも次第に厳しく当たられるようになり、リーリエの心は憂鬱に沈むようになり始めた。
それでも、毎日の日課は変わらずに訪れる。
いつものように重苦しい空気の中、午前の授業を受けたリーリエは、家庭教師の退室を見送り、大きく息を吐いた。
早めの昼食を兼ねてマナーを学んだが、なにをどの順番でどう食べるかに集中しすぎて、味を全く感じていない。重苦しい空気を逃すようにリーリエは窓辺に進むと、締め切っていたカーテンを開いて窓を開けた。
窓の外には、アルフレッドがリーリエのために設けたアトリエが見える。あのアトリエにも、ここに来てからは数えるほどしか足を踏み入れていなかった。
窓辺に凭れ、大きく溜息を吐く。人の敵意に晒されることに慣れていないせいもあり、屋敷での生活は心細かった。ナタリーがいなければ、堪えきれなかったかもしれない。多忙とはいえアルフレッドとの時間が取れないことも、リーリエの不安に拍車をかけていた。
もう一度溜息をつきかけたところで、扉が規則正しく二度叩かれた。ノックの音にリーリエは慌てて背筋を伸ばし、扉向こうに視線を向ける。
「アルフレッド……」
訪ねて来たのはアルフレッドだった。
「一人きりにして済まなかったね。今日は屋敷を見て回ろう。北棟を案内するよ」
「でも、午後のレッスンが――」
アルフレッドの突然の申し出にリーリエは逡巡する。
「それならもう断ってある。君は私の婚約者なんだ。教育のために私との時間がなくなるのは本末転倒だろう?」
「…………」
悪戯っぽく微笑むアルフレッドに、リーリエは思わず薄口を開けた。
「ダメかな?」
「いいえ。嬉しいわ、アルフレッド」
孤独で心細かった心が、光が差したように明るくなる。アルフレッドに手を引かれ、リーリエは屋敷の北棟へと出向いた。
☘
屋敷の北棟は、美術コレクターであるアルフレッドの母のコレクションが多く収められている。
「陽の光が当たらないように、北棟なのね」
「そうだね。その分、外の風景を描いたものや花の絵が多いかな」
廊下や展示室の至るところに飾られた絵のほとんどは、印象派と呼ばれる明るい色彩が特徴の絵ばかりだ。特に花の絵が多く、リーリエはその豊かな色彩に顔を綻ばせた。
アルフレッドの母のことは苦手だったが、彼女の心のなかにこうした花や風景を愛でる意識があるのだとわかると、向けられる悪意の感情が幾分か和らぐように思う。
「……なにか描きたいかい?」
「え?」
「そう見えたから」
アルフレッドに問いかけられ、リーリエは無意識に動いていた手に気づき、目を瞬いた。
「……アルフレッド……その……」
「アトリエでは狭いかな? 街へ行こうか」
自分の希望を口にして良いものか迷うリーリエの心を見透かしたように、アルフレッドが提案する。これ以上ない提案に、リーリエは声を弾ませた。
「いいの?」
「構わないよ。絵を描く君を見るのが好きなんだ」
☘
急遽出された蒸気車両が、昼下がりの一般市民外へと進んでいく。
数日ぶりに店へと戻ったリーリエは、鎧戸を開けて従機を出した。思えば、従機に乗ること自体が久し振りで、起動と同時に懐かしさで胸が一杯になった。
「待ってたぞ、リーリエ」
鎧戸をくぐって路上に出たリーリエを、街の人々が歓迎する。彼らはリーリエの従機を先導し、新しく竣工したばかりの建物の前に誘った。
「ここに、好きなように描いてくれ」
「俺たちは、それが見たくて待ってたんだよ」
「……ありがとう」
真っ白に塗られた壁は、リーリエのために残された巨大なキャンバスのようだ。リーリエは微笑むとエアブラシを操作し、太陽のように美しく咲く花々を描いた。
滑るようになめらかな動きを見せる無骨な従機を使ったドローイングに、街の人々が次第に集まってくる。リーリエは心に浮かんだ光り輝くような花々の景色を大胆かつ繊細に描き、白い壁を彩っていく。
絵が仕上がる頃には、噂を聞きつけた新聞社と映像配信会社が駆けつけ、アルフレッドとリーリエの姿を、完成したばかりのスプレーアートと共に写真や映像に収めていった。
アルフレッドと肩を寄せ合うリーリエは、いつの間にかいつもの笑顔を取り戻していることに気づいた。
母ミシェルと、アルフレッドの父クロードの祝福を受けたリーリエは公爵家によるお披露目会に備えた『教育』のため、リヒテンブルグ家の邸宅へと移り住んだ。
専属の家庭教師がつき、礼儀作法などを教え込まれる日々は、リーリエにとって厳しくも新鮮な出来事の連続で、公爵家に嫁ぐことの意味を改めて思い知らせるものだった。
アルフレッドが選んだという側付きのメイドのナタリーは、リーリエと年齢が近いこともあり、何かとリーリエを気遣い、プライベートの時間を何不自由なく過ごせるように尽力した。ナタリーの働きもあり、リーリエは邸宅での過ごし方にも少しずつ慣れていったが、アルフレッドの母エリザベートからのあからさまな敵意にだけはいつまでも慣れなかった。
エリザベートは婚約が成立した際も、一人リーリエを認めずに、まるでいないもののように振る舞っている。全ての人に歓迎されていると思ってはいなかったリーリエだったが、エリザベートが指定した家庭教師からも次第に厳しく当たられるようになり、リーリエの心は憂鬱に沈むようになり始めた。
それでも、毎日の日課は変わらずに訪れる。
いつものように重苦しい空気の中、午前の授業を受けたリーリエは、家庭教師の退室を見送り、大きく息を吐いた。
早めの昼食を兼ねてマナーを学んだが、なにをどの順番でどう食べるかに集中しすぎて、味を全く感じていない。重苦しい空気を逃すようにリーリエは窓辺に進むと、締め切っていたカーテンを開いて窓を開けた。
窓の外には、アルフレッドがリーリエのために設けたアトリエが見える。あのアトリエにも、ここに来てからは数えるほどしか足を踏み入れていなかった。
窓辺に凭れ、大きく溜息を吐く。人の敵意に晒されることに慣れていないせいもあり、屋敷での生活は心細かった。ナタリーがいなければ、堪えきれなかったかもしれない。多忙とはいえアルフレッドとの時間が取れないことも、リーリエの不安に拍車をかけていた。
もう一度溜息をつきかけたところで、扉が規則正しく二度叩かれた。ノックの音にリーリエは慌てて背筋を伸ばし、扉向こうに視線を向ける。
「アルフレッド……」
訪ねて来たのはアルフレッドだった。
「一人きりにして済まなかったね。今日は屋敷を見て回ろう。北棟を案内するよ」
「でも、午後のレッスンが――」
アルフレッドの突然の申し出にリーリエは逡巡する。
「それならもう断ってある。君は私の婚約者なんだ。教育のために私との時間がなくなるのは本末転倒だろう?」
「…………」
悪戯っぽく微笑むアルフレッドに、リーリエは思わず薄口を開けた。
「ダメかな?」
「いいえ。嬉しいわ、アルフレッド」
孤独で心細かった心が、光が差したように明るくなる。アルフレッドに手を引かれ、リーリエは屋敷の北棟へと出向いた。
☘
屋敷の北棟は、美術コレクターであるアルフレッドの母のコレクションが多く収められている。
「陽の光が当たらないように、北棟なのね」
「そうだね。その分、外の風景を描いたものや花の絵が多いかな」
廊下や展示室の至るところに飾られた絵のほとんどは、印象派と呼ばれる明るい色彩が特徴の絵ばかりだ。特に花の絵が多く、リーリエはその豊かな色彩に顔を綻ばせた。
アルフレッドの母のことは苦手だったが、彼女の心のなかにこうした花や風景を愛でる意識があるのだとわかると、向けられる悪意の感情が幾分か和らぐように思う。
「……なにか描きたいかい?」
「え?」
「そう見えたから」
アルフレッドに問いかけられ、リーリエは無意識に動いていた手に気づき、目を瞬いた。
「……アルフレッド……その……」
「アトリエでは狭いかな? 街へ行こうか」
自分の希望を口にして良いものか迷うリーリエの心を見透かしたように、アルフレッドが提案する。これ以上ない提案に、リーリエは声を弾ませた。
「いいの?」
「構わないよ。絵を描く君を見るのが好きなんだ」
☘
急遽出された蒸気車両が、昼下がりの一般市民外へと進んでいく。
数日ぶりに店へと戻ったリーリエは、鎧戸を開けて従機を出した。思えば、従機に乗ること自体が久し振りで、起動と同時に懐かしさで胸が一杯になった。
「待ってたぞ、リーリエ」
鎧戸をくぐって路上に出たリーリエを、街の人々が歓迎する。彼らはリーリエの従機を先導し、新しく竣工したばかりの建物の前に誘った。
「ここに、好きなように描いてくれ」
「俺たちは、それが見たくて待ってたんだよ」
「……ありがとう」
真っ白に塗られた壁は、リーリエのために残された巨大なキャンバスのようだ。リーリエは微笑むとエアブラシを操作し、太陽のように美しく咲く花々を描いた。
滑るようになめらかな動きを見せる無骨な従機を使ったドローイングに、街の人々が次第に集まってくる。リーリエは心に浮かんだ光り輝くような花々の景色を大胆かつ繊細に描き、白い壁を彩っていく。
絵が仕上がる頃には、噂を聞きつけた新聞社と映像配信会社が駆けつけ、アルフレッドとリーリエの姿を、完成したばかりのスプレーアートと共に写真や映像に収めていった。
アルフレッドと肩を寄せ合うリーリエは、いつの間にかいつもの笑顔を取り戻していることに気づいた。
0
あなたにおすすめの小説
婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。
黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」
豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。
しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
何もしない公爵夫人ですが、なぜか屋敷がうまく回っています
鷹 綾
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスの妻となったフィレ・バーナード。
けれど彼女は、屋敷を仕切ることも、改革を行うことも、声高に意見を述べることもしなかった。
指示を出さない。
判断を奪わない。
必要以上に関わらない。
「何もしない夫人」として、ただ静かにそこにいるだけ。
それなのに――
いつの間にか屋敷は落ち着き、
使用人たちは迷わなくなり、
人は出入りし、戻り、また進んでいくようになる。
誰かに依存しない。
誰かを支配しない。
それでも確かに“安心できる場所”は、彼女の周りに残っていた。
必要とされなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
それでも、ここにいていい。
これは、
「何もしない」ことで壊れなかった関係と、
「奪わない」ことで続いていった日常を描く、
静かでやさしい結婚生活の物語。
婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました
由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。
彼女は何も言わずにその場を去った。
――それが、王太子の終わりだった。
翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。
裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。
王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。
「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」
ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました
たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。
婚約破棄された人たらし悪役令嬢ですが、 最強で過保護な兄たちと義姉に溺愛されています
由香
ファンタジー
婚約破棄のその日、
悪役令嬢リリアーナは――弁明すら、しなかった。
王太子と“聖女”に断罪され、すべてを失った彼女。
だがその裏で、王国最強と名高い三人の兄と、
冷静沈着な義姉が、静かに動き始めていた。
再検証によって暴かれる“聖女の嘘”。
広場で語られる真実。
そして、無自覚に人を惹きつけてしまう
リリアーナの優しさが、次々と味方を増やしていく――。
これは、
悪役令嬢として断罪された少女が、
「誰かの物語の脇役」ではなく、
自分自身の人生を取り戻す物語。
過保護すぎる兄たちと義姉に溺愛されながら、
彼女は静かに、そして確実に幸せへ向かっていく。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる