33 / 48
32 痛む傷
しおりを挟む
出展を決めたリーリエへの、エドガーのパトロンとしての仕事は早かった。
リーリエの答えを確信していたかのように、手続きは迅速に進められ、一般市民街は、『アーカンシェルの女神』の美術展への出展を受けて大いに盛り上がった。
美術展に出展する絵を描くことは、普段は看板等の塗装という依頼されたものがメインのリーリエにとっても新鮮だった。何にも縛られずに、自分の絵を描くという機会を得たリーリエは、次々と浮かび上がるビジョンに胸をときめかせ、塗装の仕事にも一層励んだ。
仕事の合間に車庫兼アトリエの屋根に従機の腕を伸ばし、バンクシー・ペイントサービスの屋根の色も新しく塗り替えた。アルフレッドを助ける際に屋根に跳躍したフェイド・ファミリーズがつけた足跡を消したリーリエは、一息吐いて愛機の操縦席に凭れながら空を仰いだ。
夏へと向かう眩い日差しが、雲の隙間から天使の梯子のように伸びている。青く澄んだ空に浮かぶ白い雲をぼんやりと数えながら、美術展で描く絵に想いを馳せていると、街頭映像盤が不意に点灯し、臨時ニュースを知らせた。
画面に大写しにされたのは、公爵家の令息アルフレッドだった。
「……アルフレッド……」
元婚約者の顔を画面越しに目の当たりにしたリーリエは、その顔に重なるように並べられた文字に目を瞠った。
「婚約……」
臨時ニュースは、アルフレッドの新たな婚約を発表している。決定ということではなく、内定という曖昧な表現ではあったが、その報せに街角の人々も歩を止め、ざわざわと驚きの声を上げた。
アルフレッドと並んで街頭映写盤に映し出されたのは、許嫁のアンナだった。ニュースは婚約内定の一報から、アーカンシェル国立美術館で行われる美術展の話題へと写っていく。美術大学の学生らのコメントがいくつか紹介されたあと、画面には再びアンナが映し出され、アルフレッドに捧げる愛の絵を描くという意気込みが流された。
「…………」
目を逸らしたいはずなのに、瞬きすらすることが出来ない。リーリエは無意識に胸を押さえ、喘ぐように大きく息を吐いた。
もう吹っ切れたと思っていたが、あの辛い出来事がありありと蘇ってくる。自分を苦しめるあの冷たい視線の数々が、どこからか向けられているような気がして、リーリエは頭を振り、記憶を振り払おうと努めた。
――俺を信じろ。
苦しみに顔を歪めるリーリエの耳に、エドガーの声が甦る。
「俺を信じろ……」
リーリエは、脳裏にエドガーの姿を思い浮かべ、彼の言葉を声に出して反芻した。
「落書きなんかじゃない……」
続いて、アスカの言葉が蘇る。その通りだと、リーリエは深く頷いた。
アルフレッドとの婚約発表の場で、あんなことがあって、スプレーアートの評価も貴族の間では更に悪くなった。だが、それこそがあの嫌がらせをしていた人物の狙いなのだ。
「嫌がらせになんて屈している場合じゃない……」
自分を奮い立たせるように呟いたが、声は震えていた。一人で立ち向かえるほど、まだ強くはないのだ。
それを痛感したリーリエは、操縦席から立ち上がり、アーカンシェルの街をゆっくりと見回して目を閉じた。
高速道路を行き交う蒸気車両のエンジン音、街の喧騒、川のせせらぎ、木々のざわめき。
沢山の音に交じり、エドガーの愛車のエンジン音が聞こえたような気がする。
「……エドガー?」
まさかね、と思いながら目を開けたリーリエは、通りの向こうにエドガーの姿を見つけて思わず息を呑んだ。
「リーリエ!」
愛車を停めたエドガーが駆け寄ってくる姿が見える。
「エドガー!」
リーリエも従機から飛び降り、エドガーに抱きついた。
「エドガー……」
その存在を確かめるように、広い背中に手を回す。日の光を浴びたライダースジャケットの革の匂いと、エドガーから感じる温かな太陽のような匂いがリーリエの鼻先をくすぐった。
先ほどまであれほど心細かったはずなのに、抱きしめられると不思議と落ち着く。リーリエが目を閉じ、安堵の息を漏らしていると、エドガーの身体が笑いを堪えているように少し揺れた。
「……いつになく熱烈な歓迎だな」
苦笑混じりに呟きながら、エドガーが頭を撫でる。
「タイミングが良すぎるわ」
「狙ったんだ」
反論しようと顔を上げたリーリエの目を覗き込み、エドガーが軽口を叩くように言った。
「すぐにとは言わない。けど、あんなヤツのことは忘れようぜ」
街頭映像盤のニュースを見て、駆けつけてくれたらしいことに気づき、リーリエは困惑に目を伏せた。
「……そうしたいって思ってるのに……」
婚約破棄という結果にはなったが、初めて愛した人だ。頭では理解していても、どうしても心が追いつかない。もどかしさに顔を歪めて呟くと、エドガーの手がリーリエの顎に添えられた。
「俺を見ろ」
エドガーがリーリエの顎に添えた手に力を入れ、強引に上向かせる。強制的に見つめ合うかたちにされたリーリエは、目を瞬いてエドガーを見上げた。
「見るだけじゃ足りないか?」
囁くような切なく優しい声がエドガーの唇を震わせる。その唇がリーリエに迫り、上唇を掠めるように触れた。
「あ……」
思わず目を瞠ったリーリエは、エドガーの胸に強く引き寄せられ、抱き締められた。
「俺が忘れさせてやる」
エドガーの心臓が早鐘のように打っているのに気づいたリーリエは、彼の背に手を回し、見た目よりも厚い胸板にぴったりと耳をつけた。
「うん……」
エドガーと同じように、自分の胸もドキドキと脈打っている。微かに触れただけの口付けの感覚が、唇にちいさな熱をもたらしていた。
「エドガー……」
「ここにいる。俺は、離れたりしない」
呟きに応えるようにエドガーが腕に力を込める。苦しかった胸の中にある黒い靄がほどけるような感覚に、リーリエの頬を温かな涙が伝っていった。
リーリエの答えを確信していたかのように、手続きは迅速に進められ、一般市民街は、『アーカンシェルの女神』の美術展への出展を受けて大いに盛り上がった。
美術展に出展する絵を描くことは、普段は看板等の塗装という依頼されたものがメインのリーリエにとっても新鮮だった。何にも縛られずに、自分の絵を描くという機会を得たリーリエは、次々と浮かび上がるビジョンに胸をときめかせ、塗装の仕事にも一層励んだ。
仕事の合間に車庫兼アトリエの屋根に従機の腕を伸ばし、バンクシー・ペイントサービスの屋根の色も新しく塗り替えた。アルフレッドを助ける際に屋根に跳躍したフェイド・ファミリーズがつけた足跡を消したリーリエは、一息吐いて愛機の操縦席に凭れながら空を仰いだ。
夏へと向かう眩い日差しが、雲の隙間から天使の梯子のように伸びている。青く澄んだ空に浮かぶ白い雲をぼんやりと数えながら、美術展で描く絵に想いを馳せていると、街頭映像盤が不意に点灯し、臨時ニュースを知らせた。
画面に大写しにされたのは、公爵家の令息アルフレッドだった。
「……アルフレッド……」
元婚約者の顔を画面越しに目の当たりにしたリーリエは、その顔に重なるように並べられた文字に目を瞠った。
「婚約……」
臨時ニュースは、アルフレッドの新たな婚約を発表している。決定ということではなく、内定という曖昧な表現ではあったが、その報せに街角の人々も歩を止め、ざわざわと驚きの声を上げた。
アルフレッドと並んで街頭映写盤に映し出されたのは、許嫁のアンナだった。ニュースは婚約内定の一報から、アーカンシェル国立美術館で行われる美術展の話題へと写っていく。美術大学の学生らのコメントがいくつか紹介されたあと、画面には再びアンナが映し出され、アルフレッドに捧げる愛の絵を描くという意気込みが流された。
「…………」
目を逸らしたいはずなのに、瞬きすらすることが出来ない。リーリエは無意識に胸を押さえ、喘ぐように大きく息を吐いた。
もう吹っ切れたと思っていたが、あの辛い出来事がありありと蘇ってくる。自分を苦しめるあの冷たい視線の数々が、どこからか向けられているような気がして、リーリエは頭を振り、記憶を振り払おうと努めた。
――俺を信じろ。
苦しみに顔を歪めるリーリエの耳に、エドガーの声が甦る。
「俺を信じろ……」
リーリエは、脳裏にエドガーの姿を思い浮かべ、彼の言葉を声に出して反芻した。
「落書きなんかじゃない……」
続いて、アスカの言葉が蘇る。その通りだと、リーリエは深く頷いた。
アルフレッドとの婚約発表の場で、あんなことがあって、スプレーアートの評価も貴族の間では更に悪くなった。だが、それこそがあの嫌がらせをしていた人物の狙いなのだ。
「嫌がらせになんて屈している場合じゃない……」
自分を奮い立たせるように呟いたが、声は震えていた。一人で立ち向かえるほど、まだ強くはないのだ。
それを痛感したリーリエは、操縦席から立ち上がり、アーカンシェルの街をゆっくりと見回して目を閉じた。
高速道路を行き交う蒸気車両のエンジン音、街の喧騒、川のせせらぎ、木々のざわめき。
沢山の音に交じり、エドガーの愛車のエンジン音が聞こえたような気がする。
「……エドガー?」
まさかね、と思いながら目を開けたリーリエは、通りの向こうにエドガーの姿を見つけて思わず息を呑んだ。
「リーリエ!」
愛車を停めたエドガーが駆け寄ってくる姿が見える。
「エドガー!」
リーリエも従機から飛び降り、エドガーに抱きついた。
「エドガー……」
その存在を確かめるように、広い背中に手を回す。日の光を浴びたライダースジャケットの革の匂いと、エドガーから感じる温かな太陽のような匂いがリーリエの鼻先をくすぐった。
先ほどまであれほど心細かったはずなのに、抱きしめられると不思議と落ち着く。リーリエが目を閉じ、安堵の息を漏らしていると、エドガーの身体が笑いを堪えているように少し揺れた。
「……いつになく熱烈な歓迎だな」
苦笑混じりに呟きながら、エドガーが頭を撫でる。
「タイミングが良すぎるわ」
「狙ったんだ」
反論しようと顔を上げたリーリエの目を覗き込み、エドガーが軽口を叩くように言った。
「すぐにとは言わない。けど、あんなヤツのことは忘れようぜ」
街頭映像盤のニュースを見て、駆けつけてくれたらしいことに気づき、リーリエは困惑に目を伏せた。
「……そうしたいって思ってるのに……」
婚約破棄という結果にはなったが、初めて愛した人だ。頭では理解していても、どうしても心が追いつかない。もどかしさに顔を歪めて呟くと、エドガーの手がリーリエの顎に添えられた。
「俺を見ろ」
エドガーがリーリエの顎に添えた手に力を入れ、強引に上向かせる。強制的に見つめ合うかたちにされたリーリエは、目を瞬いてエドガーを見上げた。
「見るだけじゃ足りないか?」
囁くような切なく優しい声がエドガーの唇を震わせる。その唇がリーリエに迫り、上唇を掠めるように触れた。
「あ……」
思わず目を瞠ったリーリエは、エドガーの胸に強く引き寄せられ、抱き締められた。
「俺が忘れさせてやる」
エドガーの心臓が早鐘のように打っているのに気づいたリーリエは、彼の背に手を回し、見た目よりも厚い胸板にぴったりと耳をつけた。
「うん……」
エドガーと同じように、自分の胸もドキドキと脈打っている。微かに触れただけの口付けの感覚が、唇にちいさな熱をもたらしていた。
「エドガー……」
「ここにいる。俺は、離れたりしない」
呟きに応えるようにエドガーが腕に力を込める。苦しかった胸の中にある黒い靄がほどけるような感覚に、リーリエの頬を温かな涙が伝っていった。
0
あなたにおすすめの小説
婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。
黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」
豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。
しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
何もしない公爵夫人ですが、なぜか屋敷がうまく回っています
鷹 綾
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスの妻となったフィレ・バーナード。
けれど彼女は、屋敷を仕切ることも、改革を行うことも、声高に意見を述べることもしなかった。
指示を出さない。
判断を奪わない。
必要以上に関わらない。
「何もしない夫人」として、ただ静かにそこにいるだけ。
それなのに――
いつの間にか屋敷は落ち着き、
使用人たちは迷わなくなり、
人は出入りし、戻り、また進んでいくようになる。
誰かに依存しない。
誰かを支配しない。
それでも確かに“安心できる場所”は、彼女の周りに残っていた。
必要とされなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
それでも、ここにいていい。
これは、
「何もしない」ことで壊れなかった関係と、
「奪わない」ことで続いていった日常を描く、
静かでやさしい結婚生活の物語。
婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました
由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。
彼女は何も言わずにその場を去った。
――それが、王太子の終わりだった。
翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。
裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。
王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。
「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」
ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました
たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。
婚約破棄された人たらし悪役令嬢ですが、 最強で過保護な兄たちと義姉に溺愛されています
由香
ファンタジー
婚約破棄のその日、
悪役令嬢リリアーナは――弁明すら、しなかった。
王太子と“聖女”に断罪され、すべてを失った彼女。
だがその裏で、王国最強と名高い三人の兄と、
冷静沈着な義姉が、静かに動き始めていた。
再検証によって暴かれる“聖女の嘘”。
広場で語られる真実。
そして、無自覚に人を惹きつけてしまう
リリアーナの優しさが、次々と味方を増やしていく――。
これは、
悪役令嬢として断罪された少女が、
「誰かの物語の脇役」ではなく、
自分自身の人生を取り戻す物語。
過保護すぎる兄たちと義姉に溺愛されながら、
彼女は静かに、そして確実に幸せへ向かっていく。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる