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31 陶酔の時間
しおりを挟む胸の中で歓喜の音が響いている。
何かを描きたくてたまらない衝動に突き動かされたリーリエは、エドガーから譲り受けたバニッシュペインターの缶を抱え、塗装仕事が終わると同時に自宅へと戻った。
バンクシー・ペイントサービスの従機の駐機場兼アトリエに、愛機フェイド・ファミリーズを入れ、手持ちの中で最も大きなキャンバスを壁に立てたリーリエは、調合した塗料を入れたエアブラシを構えた。
「はじめるよ」
目を閉じて浮かんだビジョンに語りかけたリーリエは、キャンバスに向けて踊るように自由に描き進めていく。
目の前にキラキラとした光が次々と舞い降りてくる。リーリエは、その軌跡を辿るように手を動かす。楽しくてたまらないあの感覚に、指先まで痺れるような強い興奮が身体じゅうを駆け抜けていく。
心に浮かんでいるその瞬間を切り取り、ひたすらキャンバスに描き写していく。次から次へと浮かぶその鮮やかで美しい世界をそこに残し、描き続けることに、リーリエは深く陶酔していった。
キャンバスが色で埋め尽くされると、次はバニッシュペインターをエアブラシに装着して新たなビジョンを描いていく。瞬く光を追いかけながら身体を踊らせ、リーリエは一心不乱に絵を描き続けた。
☘
陶酔の夜が更け、涼しい風がアトリエに吹き込む。
集中して描き上げた巨大なキャンバスの絵を前に、エアブラシを手にしたリーリエがやっと大きく肩で息を吐いた。
描画を終え、改めて自分の絵を眺める。エドガーの蒸気バイクとアーカンシェルの街並を描いたその絵は、昼と宵闇の境目にあるうつろう景色の間にある。
同じアーカンシェルの街並を描いたマグロナルドの店内にある絵とも、以前描いたどの絵とも違うその絵を前に、リーリエは額の汗を拭いながら微笑んだ。
「想像以上だ、リーリエ!」
どこからともなくエドガーの声が飛び、拍手が起こる。
「エドガー!」
自分で絵を描き上げた嬉しさが、実感として湧き、リーリエは思わずエドガーに駆け寄って抱きついた。
エドガーはリーリエを抱きしめ返したかと思うと、そのまま逞しい腕でリーリエの腰を支えて軽々と持ち上げる。ワンピースの裾が、風を受けてふわりと広がった。
「エ、エドガー!?」
「最高だ、リーリエ! 最高の気分だ!」
逞しい腕に軽々と抱え上げられて戸惑うリーリエに、エドガーが満面の笑みを見せながらゆっくりと身体を回転させる。リーリエの身体も持ち上げられたままくるりと宙を回り、それから静かに床に下ろされた。
「本当に、最高だ。リーリエ……」
床に下ろしたリーリエに改めて語りかけながら、エドガーが強く抱き締める。
「もう平気か?」
囁くような声で問いかけられたその言葉が、絵を描けるか、という意味だと気づき、リーリエは大きく首を縦に振った。
「もう大丈夫。心の中は楽しいもので溢れているわ」
言葉では上手く表現できそうになかったが、目の前がぱちぱちと光で煌めくような興奮と感覚で、全身が火照ったように熱くなっている。
「その調子だ、リーリエ。お前はやっぱりそういう顔の方が似合ってる」
「ありがとう、エドガー」
リーリエは微笑んでエドガーと目を合わせ、改めて頷いた。
「改めて依頼させてくれ。お前の絵で、俺と美術展に出てほしいんだ」
「美術展って、あの……?」
思いがけない申し出だった。仕事の依頼だとばかり思っていたリーリエは、驚いてオウム返しに聞き返した。
「そうだ。国立美術館の新棟完成記念に開かれる、あの美術展だ。俺がパトロンになる」
「それは、凄く光栄なことだけど、どうして――」
「お前の才能を、もっと世界に広めたいんだ」
申し出は嬉しかったが、突然のことに思考が追いつかない。戸惑いながら言葉を紡ぐリーリエは、エドガーの真摯な表情に気づいて、口を噤んだ。
「……ダメか?」
「…………」
やりたいという想いはある。だが、自分などが出展して良いのかという迷いもあった。
自分の絵は父に教わったものであり、ほとんど独学でもある。それに、貴族らに落書きと断罪され――
「やろうよ、リーリエ!」
迷うリーリエの耳に鋭く響いたのは、アスカの激励の声だった。
「街にこれだけの活気が生まれたのは、リーリエのパパとリーリエのおかげなんだよ。あたしも、あの美術展にリーリエが出てくれたらって、ずっと思ってた!」
「アスカ……」
アルバイト先の制服のまま駆けつけたアスカが、肩で息を切らしながら訴える。
「だってあの新棟はあたしたちの夢、リーリエのパパの夢、みーんなの夢だったんだから、リーリエが出ないなんて、やっぱり盛り上がりに欠けるって!」
ずっと胸に秘めていたであろうアスカの言葉に、リーリエは両の手をぎゅっと握りしめた。
「見せてやろうよ、リーリエ。これはアートなんだって! 落書きなんかじゃないってとこ、見せつけてやろうよ!」
「…………」
そうしたいという気持ちはある。けれど、まだそれは怖い――。
それをどう言葉にすべきか迷いながら、リーリエはエドガーへと殆ど無意識に視線を移した。エドガーはそれを真っ向から受け止め、握りしめたままのリーリエの手をそっと手のひらで包み込んで引き寄せた。
「誰が何と言おうと、俺がお前を引っ張ってく。俺を信じろ」
力強いその声と、熱い手が彼の言葉に偽りがないことを示している。リーリエはそれに頷き、握りしめていた手指を解くと、エドガーの手をそっと握り返した。
「……ありがとう。私も、そうなれたらいいって思ってた。だけど無理だって勝手に諦めてた……」
心の内を吐露するうちに、描きたいという気持ちが強く溢れてくる。自分の中に残っていた情熱の炎が蘇るのを感じながら、リーリエは、両手でエドガーの手を取って強く力を込めた。
「やりたいって思ったら、心がそうしたいって動いたら、我慢しちゃダメなんだよね」
「リーリエ!」
その決意にアスカが飛びつくようにリーリエを抱き締める。
そうして、美術展へのリーリエの出展は、エドガーというパトロンを得て決定された。
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