公爵子息に気に入られて貴族令嬢になったけど姑の嫌がらせで婚約破棄されました。傷心の私を癒してくれるのは幼馴染だけです

エルトリア

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44 貴族街と一般市民街の対立

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 アーカンシェルの壁の前に、鋼鉄製の足場が広く組まれている。壁の絵の制作現場は、『黒塗り事件』以降、続けられていた下地の塗装作業こそ終わっているものの、そこに新たな絵は未だ描かれてはおらず、通りがかった人々はまっさらな壁を見上げて落胆の溜息を吐いていた。

 壁の黒塗り事件から十日――。
 リーリエの姿は、商業区の大通りにあった。
 『黒塗り事件』の捜査が一通り終わり、補修の許可が出た看板を塗り直し、新たな絵を描く作業をリーリエは続けている。
 人々の期待は変わらずに壁の絵に向けられていたが、表立ってそれを口に出す者はいない。皆が寝静まる夜に一人壁に向かうリーリエの姿を見、何度朝を迎えてもそこに絵がない日々を過ごすうちに、街の人々もまた、彼女の痛みに打ち拉がれていたのだ。
 だが、その沈痛なまでの悲嘆を怒りに変える出来事が起こった。



「どういうことだ? なんで俺たちが閉め出されなきゃならねぇんだよ!」

 開館時間を迎えたアーカンシェル国立美術館に、市民の怒号が響き渡っている。

「『黒塗り事件』の捜査の結果です。作品を守るために、立ち入り禁止の措置が執られました」

 慇懃に説明する係員の傍らには、武器を携えた警察官が控えている。

「なら、なんで一般市民のみ立ち入り禁止なんだ!?」

「貴族の作品を守るためってことか!?」

「逆だろう! 被害者は俺たちの方なんだぞ!」

 不平を訴える市民の声に係員は無言で頭を垂れる。警察官は次第に数を増し、入館する貴族を守る壁のように通路の片側を塞いでいく。

「……先日の抗議が、貴族街の脅威となっております。どうか静粛にお願い致します」

 係員がエドガーの拘束の件を持ち出し、警察官は市民たちを追いやるように前身する。

「断固抗議する。こんなことは間違っているぞ!」

 いわれなき差別に市民らは怒りの声を上げ、抗議の決意を固めていく。デモの動きがあるという噂が立ち、それに共感する人々の怒りは瞬く間に伝播して、街は物々しい雰囲気に包まれ始めていた。



 同日同時刻――。
 同様のことが、アーカンシェル国立美術大学でも起こり、一般市民と貴族たちとの間に深い溝が生まれていた。二度のリーリエの絵に対する『黒塗り事件』への限定措置として構内への立ち入りを禁じられた一般市民らは、怒りに任せて抗議のプラカードを作成し、貴族街との境界に次々と打ち立てて行く。
 街頭映写盤は、アーカンシェルを分断するこの一連の騒動を、『黒塗り事件』の捜査を発端とした、街の対立として報じ、鎮圧のために、領主である公爵がその決断を迫られているという速報を流した。
 怒りの伝播によって生み出され、次第に熱を帯びて行くこの騒動は、隣国にも伝わり、即日のうちに大きな波紋を呼んだ。

 翌日には、皇家に飾られていたリーリエの作品が、アーカンシェルに戻されることが決定されたという速報が流れ、これに伴い、リーリエの最優秀賞も取り下げられる可能性があるというニュースが一般市民街の怒りを更に高めた。怒りの感情を煽るように、貴族街の方からは歓声や拍手が上がっている。
 対立の深まる街の東西は、リーリエの壁の絵の前を中心として小規模なデモが行われており、激しい感情をぶつけ合う一般市民と貴族らの姿は、アーカンシェルの街をすっかり変えてしまっていた。

「……もう、これ以上堪えるのは御免だ」

 苦々しくニュースを聞いていたエドガーが、険しい顔で街頭映写盤を見つめている。傍らに立つリーリエは、その横顔から決意めいたものを読み取り、緩く頭を振った。

「エドガー」

「お前が傷つけられるのを、黙って見ていることはできない。それにこれは――」

 エドガーはそこで言葉を切り、街頭映写盤を見上げていた人々を振り返った。

「街の誇りの問題だ」

 同意を示す声が次々と上がる。頂点に達した街の人々の怒りは、もう止まらなかった。

「俺たちもデモを起こそう。この街の誇りを取り戻すために! 芸術都市アーカンシェルに恥じぬ平等な統治を求めるために!」

 エドガーの発言に、反抗を示すプラカードが次々と掲げられる。目を覆ってしまいたくなるような負の感情が渦巻く光景に、リーリエは悲鳴のような声を上げた。

「この街の景観が失われてしまうわ。私はこんなこと望んでない!」

「じゃあ、黙って虐げられる側に立つのか!?」

 エドガーがいつになく強い口調で言い、リーリエを射るような視線で見つめる。彼の怒りを目の当たりにしたリーリエは、固く口を閉ざし、ただ黙ってエドガーを見つめた。

「……俺は御免だ。リーリエ、お前の絵は――」

 そこまで言い、エドガーはリーリエの腕をそっと掴んだ。

「済まない。この感情をお前に向けるべきじゃない。……だが、これだけは言わせてくれ。お前はもっと胸を張って、生きていいんだ」

 顔を歪めながら怒りの感情を押し殺し、エドガーが諭すように言う。リーリエは目を潤ませてエドガーの瞳をまっすぐに見つめ、微笑んだ。

「私は大丈夫。絵が描けないなんてことはもうないわ。自分らしさと自信を取り戻せたから」

「それなら安心だな。俺がいなくても」

 エドガーが苦笑を浮かべ、リーリエに背を向ける。彼の視線の先には、デモを起こすべきだとプラカードを抱える、人々の怒りの表情があった。

「違うわ、エドガー。私が立ち直れたのは、あなたのお陰。だから、こんなやり方は違うってはっきり言える。アートだって示すなら、アートで示さなきゃダメなの」

「……話が通じない相手にでもか?」

 リーリエの言葉に、エドガーは振り返らない。だが、リーリエはその背に訴えかけるように続けた。

「アートには、言葉以上のものがあるはずよ。あなたはそれを知ってる」

「知ってるさ。だから許せない。……みんな、そうだろ?」

 エドガーの問いかけに、人々から同意の声が次々と上がる。街の人たちは自分たちのアートが否定されたこと、リーリエを傷つけられたことがどうしても許せないのだ。彼らはデモを行うことを決意している。もう止められない。

「待って、エドガー!」

「悪いが、その頼みだけは聞けない。これだけは譲れないんだ」

 エドガーの歩みに合わせて人々が動き出す。その群衆の中にはアスカの姿もあった。アスカは、リーリエを一瞥し、苦く笑って手を振った。

 ――怒っていいんだよ、リーリエ。

 その苦々しい笑みに、アスカがかつてリーリエに向けた言葉が重なる。

「怒ってないわけじゃないよ……」

 だが、怒っただけではなにも生み出さない。
 遠ざかる群衆に紛れて幼なじみたちの姿が見えなくなる。街の中心や入り口、貴族街との境界で、激しい衝突が起きている。その声が生温い風に乗って不穏に響いている。

「……なにか。なにか出来ることは――」

 呟きながら、リーリエはバンクシー・ペイントサービスの倉庫に入った。そこには、いつもと同じように塗装作業用従機フェイド・ファミリーズが佇んでいた。
 そのエアブラシには、バニッシュペインターAが装填されている。

「壁の絵……」

 絵がなければ消せないと思い、密かに描き直していたあの壁の絵。そのビジョンがリーリエのなかに浮かび上がる。
 アーカンシェルへの加護を込めて描いた、希望の絵。この街の全ての人々に届けたかったもの、美しいアーカンシェルの街の景色を祈りとともに込めた絵――。

「……私には、これがある。これしかないけど、それでも――」

 唇を噛んで梯子を掴み、操縦席に飛び乗る。

「やるしかない」

 従機のエアブラシに取り付けられているのは、色を浮かび上がらせる作用があるバニッシュペインターAだ。
 従機を起動させ、跳躍して屋根に上ると街の衝突の様子が遠く見えた。
 人々の対立は、貴族街との境界を中心に、街全体に及んでいる。エドガーたちが向かっているのは、リーリエの壁の絵を描くあの場所だった。

「道を歩いて進むことはできない……」

 方法はただ一つ、壁伝いに現場へ向かうこと。

「待ってて、みんな」

 リーリエは従機の左腕のアンカーを確かめ、屋根から壁へと飛び移った。
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