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第四章 絢爛のスクールフェスタ
第392話 勝利への道筋
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傷みと疼きが同時に襲ってくる。
身体の変化に頭が追いついていない。現実から切り離されたような意識を気力で引き戻すと、漸く目を開くことが出来た。
「マスター!」
ホムの悲鳴のような声が聞こえてくる。大丈夫だ、僕はここにいてちゃんと生きている。
文字通り身を焦がすような灼熱も、今は感じられない。恐らくアルフェが咄嗟に僕を守ってくれたのだろう。
「……痛っ」
攻撃を受けた訳でもないのに、不意に肩に痛みが走る。首を巡らせれば、大きなガラスの破片が刺さっているのが見えた。
流れる血が止まり、肉が盛り上がり、ガラスの破片を押し出そうとしている。ガラスの破片を掴んで引き抜くと、ほんの一瞬血が噴き出したが、身体は僕がそうするのを待っていたかのように周囲の皮膚が盛り上がって瞬く間に綺麗な素肌に戻った。
「やれやれ……」
ガラスの破片は操縦槽の倉口が破壊されたことで砕けた映像盤だ。もう身体の痛みはないが、よくよく自分の姿を確かめてみると、服が破れ、一部は燃えて焼き切れてしまっていた。当然その下にある僕の生身の肉体は火傷や怪我を負ったはずなのだが、肌の表面には何の痕跡も残されてはいない。
ここまで来ると、人間離れしているというよりは最早人間とは言えないだろう。
常人であれば即死は免れないほどの攻撃を受けてなお、こうして無傷でいられる――つまりイグニスが僕を殺すのは不可能に近いということだ。女神のエーテルによって変化したこの体質に感謝すべきだろうな。
イグニスの攻撃は操縦槽にいる僕を狙い、胴部に集中しているが、僕が操縦桿を握って離さなかったせいなのか、機体はまだ僕のエーテルに反応している。大破したと思ったが、勘違いで助かった。
「リーフ! リーフ!」
操縦桿を握り、機体を起こそうとしていると、泣き出しそうな顔をしたアルフェが胴部から飛び込んで来た。
「僕は無事だよ。それよりホムは?」
無事を確かめ合いたいところだが、その余裕はない。イグニスの攻撃が僕に向いていないということは、今はホムがその足止めをしてくれているのだ。
「アーケシウスを起こす。アルフェは下がって」
「うん」
アルフェが頷き、機体から瞬時に離れる。僕がアーケシウスを起こすと、ホムがイグニスの追撃を振り払い、僕の元に駆けてきた。
「マスター! ……マスター……」
僕の無事を知り、安堵の声を漏らしながらもホムの目は忙しなくイグニスの動きを追っている。
「ここは……」
アーケシウスの脚部が沈む感覚に違和感を覚えて視線を落とすと、足許に骨の山が見えた。
「祭壇のすぐそば。エステアさんがいる」
アルフェが僕の呟きに応えてくれる。映像盤がないので背後は見えないが、エステアを助ける機会があるとしたら、今しかないだろう。イグニスがなりふり構わず僕を攻撃してくれたお陰で、アーケシウスごと僕は祭壇に吹き飛ばされたのだ。
祭壇の手前にアーケシウスが落ちたことで、イグニスは手出しが出来なくなったと見ていい。
「ホム、エステアを助けよう。祭壇から下ろすんだ」
「はい!」
ホムがエステアの縄を解き、祭壇から下ろす音がする。イグニスはそれを歯噛みしながらただ見ているだけだ。
この状況を有利と見ていいかどうかは別として、イグニスが攻撃してこないことで、仕切り直す時間が生まれたのは間違いない。
「……リーフ」
アルフェの声が迷いで揺れている。僕もそうだからよくわかる。
――撤退すべきか、否か。
エステアを置いて撤退することはあり得なかった。だが、エステアを祭壇から下ろすことが出来た今、イグニスの隙を突いて逃げることが出来れば、例え追いかけて来られたとしてもヴァナベルたちと合流出来る。
ここでじりじりと体力を減らす必要は、もうないのだ。イグニスが邪法を発動させないところをみると、生け贄がいなければ祭壇に施されている邪法は起動できないという仮説が有力となる。
もっといえば、イグニスはこの邪法の祭壇を壊したくないとみえる。息つく間もないほどの苛烈な攻撃で気づかなかったが、この静寂に身を置くことでよくわかる。巧みに攻撃を仕掛けてきたのも、ホムを煽っていたのもイグニスなりの誘導だったのかもしれない。
僕たちが成すべきことは、あくまでエステアの救出だ。イグニスと決着を付けることではない。人質であるエステアを救出した今、最も優先するべきはここから無事に脱出することだ。
だが、イグニスも僕たちの思惑に気がついているらしく、先ほどまでのように攻撃を仕掛けてはこない。最終沈殿池への出口を警戒するように陣取り、こちらの出方を待っているのだ。
「どうしたぁ? ビビって動けねぇか?」
イグニスがこちらを挑発してくるがホムは応じない。ホムに抱えられたエステアはまだ気を失ったままだ。
「それにしても、ヒトモドキどもの集まりだと思っていたが、リーフ、てめぇは化け物だったとはなぁ!? トドメを刺したつもりだったが、死にきれねぇどころか、てめぇだけ元に戻っていやがる! 何遍殺しても足りねぇと思ってたところだ、そのガラクタから引き摺り出して八つ裂きにしてやれるからなぁあああっ!」
化け物という表現にアルフェの耳がぴくりと反応する。だが、アルフェもホムもイグニスの挑発には乗らなかった。
「君の方こそ、確かに半身を抉ったはずだけれど、もう再生しているようだね。一体どういう絡繰りなんだい?」
炎が輪郭を隠すように渦巻いていて、実際のところ、イグニス顔面がどうなっているかはわからないが、アーケシウスのドリルで抉ったはずの胴部はもう元に戻っている。
「貴様ら人間の攻撃なぞ、偉大なる魔王ベルゼブ様の精鋭たる俺様には通じん。何度やればわかる?」
こちらの攻撃が通用していないことを見せつけるように、炎で身体を膨らませ、イグニスが嘲笑を浴びせる。
「これ以上、無駄な抵抗をして俺様を煩わせるな。どうせてめぇらはここから生きて出られなねぇんだからよぉ! ハハハハハハハッ!」
イグニスが両脚を踏み鳴らし、僕たちを威嚇する。
「逃げられるとでも思ったか!? 時間稼ぎなんて小賢しい真似を考えてるようだが、オレ様にはお見通しなんだよぉ! 誰一人としてここから逃がしはしねぇぞ! 全員まとめて消し炭にしてやるからなぁああああっ!!」
咆吼と同時に、イグニスの放つ炎が勢いを増し、地面は赤熱し溶岩のように溶け始める。
空間が歪むような熱波が辺りを包んでいる。イグニスの足許は岩漿のように沸き立ち、半身が地下へと沈んでいく。岩漿の表面に禍々しく浮かび上がる模様は、恐らく邪法の印だ。
「マスター」
エステアを抱えたままのホムが、警告を込めた声音で僕を呼ぶ。聞こえていても反応出来なかった。
イグニスは僕たちの背後にある邪法の祭壇を傷つけたくないはずだと思っていたが、あの邪法の印は脅しには見えない。
僕たちを消し炭にして復讐を遂げたことになるのか。それとも、本物のイグニスのように僕たちの魂を狩り、贄とするつもりなのだろうか。
エステアを抱えて脱出するには、一か八かホムとアルフェの雷鳴瞬動でアーケシウスを射出する以外に思いつかない。
邪法の印によって、イグニスも雷鳴瞬動のように突進の威力を高めているのだとすれば、攻撃が来る前に退避すべきだ。
――決断しなければならない、今すぐ。
「大丈夫だよ、リーフ」
逡巡のうちに焦る顔を浮かべていたのだろう。アルフェの優しい声が耳を撫でるように聞こえて来た。
「アルフェ……?」
アルフェがアーケシウスの前に進み出て、僕を見上げて微笑んでいる。優しくて強くて、愛しい微笑みだ。
「どんな攻撃が来てもワタシがみんなを護る。だからリーフは勝つことだけを考えて」
勝つこと――アルフェの力強い言葉に、僕は思わず目を見開いた。アルフェはもう、覚悟を決めている。
「難しい状況だよね。いっぱい考えることがあるよね。だから、その時間をワタシが作る」
「無茶だ、アルフェ。どんな攻撃が来るのかもわからないのに、生身の君が矢面に立つなんて、僕には――」
「……ワタシね」
僕の言葉を手のひらを向けて遮り、アルフェは改めて僕に微笑み掛けた。
「リーフならみんなが助かる答えを見つけられるって信じている。だからリーフも、ワタシを信じて」
アルフェは覚悟を決めている。でも、この笑顔は必ず生きてみんなと帰るという覚悟だ。
生きるために、イグニスに勝たなければならない。
だからこそ、アルフェを信じて次の一手に繋げる。それこそが最善手だ。
「別れの挨拶は終わったか? 命乞いのひとつも見せてくれたら、二人まとめて葬ってやるんだがなぁ!」
邪法の準備が整ったのか、イグニスの咆吼と共に空間が激しい地鳴りとともに揺れはじめる。
アルフェはイグニスの方を向き、高く杖を掲げた。メルアに託された魔力増幅器が、アルフェのエーテルを受けて輝いた。
「灰燼に帰せ――ボルカニック・インフェルノオオオオオオ!!!」
イグニスが吠えるように叫んだのは、邪法の式句だ。式句に反応し、岩漿が不気味に盛り上がって弾ける。火山の噴火を思わせる激しい爆発が地下から湧き起こり、真っ赤に燃えた岩石と爆炎が押し寄せてくる。だが、アルフェは動じない。
「分厚き氷塊よ。我が前に現れ、彼らの刃を阻み、我を守れ。フロストディバイド」
アルフェの詠唱に応え、巨大な氷壁が具現する。迫り来る爆炎を堰き止める。だが、それは一時しのぎに過ぎない。火山を彷彿とさせる荒れ狂う岩漿と炎が、氷壁越しでもはっきりと見える。このままでは、氷壁は耐えられない。溶けるか罅割れるかして、砕けてしまう。
「亀裂が……」
ホムがエステアを庇うようにアーケシウスの後ろに下がりながら声を上げる。このような状況でもアルフェは動かない。杖を高く掲げ続けている。
「いや、大丈夫だ。アルフェは負けない」
大きな亀裂が入った氷壁があっという間に溶けていく。激しく巻き上がる水蒸気は、宙に滞留して渦を成し、瞬く間に水の奔流に変化していく。全てアルフェの狙い通りなのだ。
「水よ溢れよ。流れを変え、力の奔流となり、水の壁を叩きつけよ」
凛としたアルフェの声が、詠唱を追える。多層術式だ。アルフェは中位氷魔法を発動すると同時に、水属性魔法の術式を同時展開していたのだ。そして、この四節を超える詠唱句は、この魔法が上位に位置する魔法であるということを示している。
「猛々しく乱暴に我が敵を飲み込み、押し流せ――タイダルウェーブ!」
巨大な水の壁だ。防御だけでない、攻撃に転じうる動きを持っている。氷壁から生まれた水をさらに水属性魔法によって膨張させ、瞬時に大量の水を生成したのだ。そしてその濁流を操ることで生まれた巨大な水の壁がイグニスの攻撃を防いでいる。
地中に半身を埋めるようにして発動したイグニスの邪法が、疑似的に噴火口を生成し、大噴火による攻撃を行うのに対して、アルフェは同規模の氷と水の奔流の壁を生み出すことで凌いでいるのだ。
「それで防いだつもりか!? オレ様の邪法は、まだまだこんなものじゃねぇぞおおおおお!!」
イグニスの咆哮と共に再び大噴火が起こる。一度目よりも激しい岩漿がアルフェ目がけて殺到する。
「うっ、ううぅああああああああ!」
アルフェは水の奔流を操り、イグニスの攻撃を上方へと反らす。受け流された岩漿は、天井に激突し、真っ赤に焼けていく。
「どれだけ足掻こうと無駄だぁあああああっ!」
「ワタシは、負けない!!」
アルフェが無詠唱で更に風魔法と氷魔法を加え、天井を焼く岩漿を急速に冷やしていく。
岩漿は冷えて固まり、ごつごつとした岩石に変わっていく。アルフェが僕たちに岩漿が降り注がないようにしているのだとしたら、魔力の消耗が激しすぎる。夥しい量の魔力を消費し続けるアルフェは、いつ魔力切れを起こしても不思議ではない。
「…………」
この状況を早く打破しなけばならない。僕を信じてくれたアルフェのためにも、一刻も早く――
考えを巡らせる僕の耳に、不意に岩が割れるような不穏な音が聞こえてくる。音を辿った先には、岩石が貼り付いて歪な形に変わった天井がある。そこに入っている大きな亀裂は、岩漿とアルフェの多層術式による冷却に晒され続け、崩落しそうになっている。
この空間は大闘技場の真下にある。すなわち、僕たちにが天井として見ている部分は、その床と繋がっている。
アルフェの狙いは、もしかして――
「ホム、エステアを離して。攻撃が止んだら、イグニス目掛けて走るんだ」
天啓が降りた。もう迷っている時間は過ぎた。
「……で、ですが、エステアを置いては……」
ホムはエステアを抱え直しながら、不安に声を震わせている。
「エステアは置いていかない。今、必要なのは攻撃なんだ」
僕はアーケシウスを動かし、ホムの方へと向ける。僕を見上げるホムの瞳は、不安に揺れていた。こんなときに、ホムにかけるべき言葉を僕はもう知っている。ホムは僕の大切な娘だ。
「……大丈夫。僕を信じて、ホム」
今のホムが必要としているのは、作戦の説明ではない。エステアを救出し、必ず戻るという僕たちの想いと覚悟を、強く共有することだ。
「マスター……」
ホムの目が涙に濡れている。イグニスに対して攻撃が届かなかった自責の念ではなく、希望と勇気に涙が溢れたのだ。
「いつだって、わたくしは貴方を信じています」
微笑み、深く頷くと、ホムはそっとエステアをその場に横たわらせた。
「どうぞ、ご指示を」
僕の指示に合わせ、ホムはイグニスに向かって飛び込めるように臨戦態勢に入ってる。
アルフェもホムを僕を信じてくれている。僕も二人を信じている。
それこそが、僕たちの強さだ。
だから僕も、二人が信じてくれた自分を信じていられる。
「真なる叡智の書……」
僕の想いに応えるように、真なる叡智の書の頁が捲れていく。
開かれたのは、今の僕たちにぴったりの魔法を記した頁だ。
最上位の風属性魔法――前世の僕では行使することが出来ない魔法だが、今の僕なら最大限活かすことが出来る。
――大丈夫、もう何も心配いらない。
僕は自分に言い聞かせる。勝つべき道筋は、アルフェが照らしてくれている。
あとはそれを、僕が進むだけだ。
僕のエーテルに反応して、真なる叡智の書が柔らかな風を巻き起こした。
身体の変化に頭が追いついていない。現実から切り離されたような意識を気力で引き戻すと、漸く目を開くことが出来た。
「マスター!」
ホムの悲鳴のような声が聞こえてくる。大丈夫だ、僕はここにいてちゃんと生きている。
文字通り身を焦がすような灼熱も、今は感じられない。恐らくアルフェが咄嗟に僕を守ってくれたのだろう。
「……痛っ」
攻撃を受けた訳でもないのに、不意に肩に痛みが走る。首を巡らせれば、大きなガラスの破片が刺さっているのが見えた。
流れる血が止まり、肉が盛り上がり、ガラスの破片を押し出そうとしている。ガラスの破片を掴んで引き抜くと、ほんの一瞬血が噴き出したが、身体は僕がそうするのを待っていたかのように周囲の皮膚が盛り上がって瞬く間に綺麗な素肌に戻った。
「やれやれ……」
ガラスの破片は操縦槽の倉口が破壊されたことで砕けた映像盤だ。もう身体の痛みはないが、よくよく自分の姿を確かめてみると、服が破れ、一部は燃えて焼き切れてしまっていた。当然その下にある僕の生身の肉体は火傷や怪我を負ったはずなのだが、肌の表面には何の痕跡も残されてはいない。
ここまで来ると、人間離れしているというよりは最早人間とは言えないだろう。
常人であれば即死は免れないほどの攻撃を受けてなお、こうして無傷でいられる――つまりイグニスが僕を殺すのは不可能に近いということだ。女神のエーテルによって変化したこの体質に感謝すべきだろうな。
イグニスの攻撃は操縦槽にいる僕を狙い、胴部に集中しているが、僕が操縦桿を握って離さなかったせいなのか、機体はまだ僕のエーテルに反応している。大破したと思ったが、勘違いで助かった。
「リーフ! リーフ!」
操縦桿を握り、機体を起こそうとしていると、泣き出しそうな顔をしたアルフェが胴部から飛び込んで来た。
「僕は無事だよ。それよりホムは?」
無事を確かめ合いたいところだが、その余裕はない。イグニスの攻撃が僕に向いていないということは、今はホムがその足止めをしてくれているのだ。
「アーケシウスを起こす。アルフェは下がって」
「うん」
アルフェが頷き、機体から瞬時に離れる。僕がアーケシウスを起こすと、ホムがイグニスの追撃を振り払い、僕の元に駆けてきた。
「マスター! ……マスター……」
僕の無事を知り、安堵の声を漏らしながらもホムの目は忙しなくイグニスの動きを追っている。
「ここは……」
アーケシウスの脚部が沈む感覚に違和感を覚えて視線を落とすと、足許に骨の山が見えた。
「祭壇のすぐそば。エステアさんがいる」
アルフェが僕の呟きに応えてくれる。映像盤がないので背後は見えないが、エステアを助ける機会があるとしたら、今しかないだろう。イグニスがなりふり構わず僕を攻撃してくれたお陰で、アーケシウスごと僕は祭壇に吹き飛ばされたのだ。
祭壇の手前にアーケシウスが落ちたことで、イグニスは手出しが出来なくなったと見ていい。
「ホム、エステアを助けよう。祭壇から下ろすんだ」
「はい!」
ホムがエステアの縄を解き、祭壇から下ろす音がする。イグニスはそれを歯噛みしながらただ見ているだけだ。
この状況を有利と見ていいかどうかは別として、イグニスが攻撃してこないことで、仕切り直す時間が生まれたのは間違いない。
「……リーフ」
アルフェの声が迷いで揺れている。僕もそうだからよくわかる。
――撤退すべきか、否か。
エステアを置いて撤退することはあり得なかった。だが、エステアを祭壇から下ろすことが出来た今、イグニスの隙を突いて逃げることが出来れば、例え追いかけて来られたとしてもヴァナベルたちと合流出来る。
ここでじりじりと体力を減らす必要は、もうないのだ。イグニスが邪法を発動させないところをみると、生け贄がいなければ祭壇に施されている邪法は起動できないという仮説が有力となる。
もっといえば、イグニスはこの邪法の祭壇を壊したくないとみえる。息つく間もないほどの苛烈な攻撃で気づかなかったが、この静寂に身を置くことでよくわかる。巧みに攻撃を仕掛けてきたのも、ホムを煽っていたのもイグニスなりの誘導だったのかもしれない。
僕たちが成すべきことは、あくまでエステアの救出だ。イグニスと決着を付けることではない。人質であるエステアを救出した今、最も優先するべきはここから無事に脱出することだ。
だが、イグニスも僕たちの思惑に気がついているらしく、先ほどまでのように攻撃を仕掛けてはこない。最終沈殿池への出口を警戒するように陣取り、こちらの出方を待っているのだ。
「どうしたぁ? ビビって動けねぇか?」
イグニスがこちらを挑発してくるがホムは応じない。ホムに抱えられたエステアはまだ気を失ったままだ。
「それにしても、ヒトモドキどもの集まりだと思っていたが、リーフ、てめぇは化け物だったとはなぁ!? トドメを刺したつもりだったが、死にきれねぇどころか、てめぇだけ元に戻っていやがる! 何遍殺しても足りねぇと思ってたところだ、そのガラクタから引き摺り出して八つ裂きにしてやれるからなぁあああっ!」
化け物という表現にアルフェの耳がぴくりと反応する。だが、アルフェもホムもイグニスの挑発には乗らなかった。
「君の方こそ、確かに半身を抉ったはずだけれど、もう再生しているようだね。一体どういう絡繰りなんだい?」
炎が輪郭を隠すように渦巻いていて、実際のところ、イグニス顔面がどうなっているかはわからないが、アーケシウスのドリルで抉ったはずの胴部はもう元に戻っている。
「貴様ら人間の攻撃なぞ、偉大なる魔王ベルゼブ様の精鋭たる俺様には通じん。何度やればわかる?」
こちらの攻撃が通用していないことを見せつけるように、炎で身体を膨らませ、イグニスが嘲笑を浴びせる。
「これ以上、無駄な抵抗をして俺様を煩わせるな。どうせてめぇらはここから生きて出られなねぇんだからよぉ! ハハハハハハハッ!」
イグニスが両脚を踏み鳴らし、僕たちを威嚇する。
「逃げられるとでも思ったか!? 時間稼ぎなんて小賢しい真似を考えてるようだが、オレ様にはお見通しなんだよぉ! 誰一人としてここから逃がしはしねぇぞ! 全員まとめて消し炭にしてやるからなぁああああっ!!」
咆吼と同時に、イグニスの放つ炎が勢いを増し、地面は赤熱し溶岩のように溶け始める。
空間が歪むような熱波が辺りを包んでいる。イグニスの足許は岩漿のように沸き立ち、半身が地下へと沈んでいく。岩漿の表面に禍々しく浮かび上がる模様は、恐らく邪法の印だ。
「マスター」
エステアを抱えたままのホムが、警告を込めた声音で僕を呼ぶ。聞こえていても反応出来なかった。
イグニスは僕たちの背後にある邪法の祭壇を傷つけたくないはずだと思っていたが、あの邪法の印は脅しには見えない。
僕たちを消し炭にして復讐を遂げたことになるのか。それとも、本物のイグニスのように僕たちの魂を狩り、贄とするつもりなのだろうか。
エステアを抱えて脱出するには、一か八かホムとアルフェの雷鳴瞬動でアーケシウスを射出する以外に思いつかない。
邪法の印によって、イグニスも雷鳴瞬動のように突進の威力を高めているのだとすれば、攻撃が来る前に退避すべきだ。
――決断しなければならない、今すぐ。
「大丈夫だよ、リーフ」
逡巡のうちに焦る顔を浮かべていたのだろう。アルフェの優しい声が耳を撫でるように聞こえて来た。
「アルフェ……?」
アルフェがアーケシウスの前に進み出て、僕を見上げて微笑んでいる。優しくて強くて、愛しい微笑みだ。
「どんな攻撃が来てもワタシがみんなを護る。だからリーフは勝つことだけを考えて」
勝つこと――アルフェの力強い言葉に、僕は思わず目を見開いた。アルフェはもう、覚悟を決めている。
「難しい状況だよね。いっぱい考えることがあるよね。だから、その時間をワタシが作る」
「無茶だ、アルフェ。どんな攻撃が来るのかもわからないのに、生身の君が矢面に立つなんて、僕には――」
「……ワタシね」
僕の言葉を手のひらを向けて遮り、アルフェは改めて僕に微笑み掛けた。
「リーフならみんなが助かる答えを見つけられるって信じている。だからリーフも、ワタシを信じて」
アルフェは覚悟を決めている。でも、この笑顔は必ず生きてみんなと帰るという覚悟だ。
生きるために、イグニスに勝たなければならない。
だからこそ、アルフェを信じて次の一手に繋げる。それこそが最善手だ。
「別れの挨拶は終わったか? 命乞いのひとつも見せてくれたら、二人まとめて葬ってやるんだがなぁ!」
邪法の準備が整ったのか、イグニスの咆吼と共に空間が激しい地鳴りとともに揺れはじめる。
アルフェはイグニスの方を向き、高く杖を掲げた。メルアに託された魔力増幅器が、アルフェのエーテルを受けて輝いた。
「灰燼に帰せ――ボルカニック・インフェルノオオオオオオ!!!」
イグニスが吠えるように叫んだのは、邪法の式句だ。式句に反応し、岩漿が不気味に盛り上がって弾ける。火山の噴火を思わせる激しい爆発が地下から湧き起こり、真っ赤に燃えた岩石と爆炎が押し寄せてくる。だが、アルフェは動じない。
「分厚き氷塊よ。我が前に現れ、彼らの刃を阻み、我を守れ。フロストディバイド」
アルフェの詠唱に応え、巨大な氷壁が具現する。迫り来る爆炎を堰き止める。だが、それは一時しのぎに過ぎない。火山を彷彿とさせる荒れ狂う岩漿と炎が、氷壁越しでもはっきりと見える。このままでは、氷壁は耐えられない。溶けるか罅割れるかして、砕けてしまう。
「亀裂が……」
ホムがエステアを庇うようにアーケシウスの後ろに下がりながら声を上げる。このような状況でもアルフェは動かない。杖を高く掲げ続けている。
「いや、大丈夫だ。アルフェは負けない」
大きな亀裂が入った氷壁があっという間に溶けていく。激しく巻き上がる水蒸気は、宙に滞留して渦を成し、瞬く間に水の奔流に変化していく。全てアルフェの狙い通りなのだ。
「水よ溢れよ。流れを変え、力の奔流となり、水の壁を叩きつけよ」
凛としたアルフェの声が、詠唱を追える。多層術式だ。アルフェは中位氷魔法を発動すると同時に、水属性魔法の術式を同時展開していたのだ。そして、この四節を超える詠唱句は、この魔法が上位に位置する魔法であるということを示している。
「猛々しく乱暴に我が敵を飲み込み、押し流せ――タイダルウェーブ!」
巨大な水の壁だ。防御だけでない、攻撃に転じうる動きを持っている。氷壁から生まれた水をさらに水属性魔法によって膨張させ、瞬時に大量の水を生成したのだ。そしてその濁流を操ることで生まれた巨大な水の壁がイグニスの攻撃を防いでいる。
地中に半身を埋めるようにして発動したイグニスの邪法が、疑似的に噴火口を生成し、大噴火による攻撃を行うのに対して、アルフェは同規模の氷と水の奔流の壁を生み出すことで凌いでいるのだ。
「それで防いだつもりか!? オレ様の邪法は、まだまだこんなものじゃねぇぞおおおおお!!」
イグニスの咆哮と共に再び大噴火が起こる。一度目よりも激しい岩漿がアルフェ目がけて殺到する。
「うっ、ううぅああああああああ!」
アルフェは水の奔流を操り、イグニスの攻撃を上方へと反らす。受け流された岩漿は、天井に激突し、真っ赤に焼けていく。
「どれだけ足掻こうと無駄だぁあああああっ!」
「ワタシは、負けない!!」
アルフェが無詠唱で更に風魔法と氷魔法を加え、天井を焼く岩漿を急速に冷やしていく。
岩漿は冷えて固まり、ごつごつとした岩石に変わっていく。アルフェが僕たちに岩漿が降り注がないようにしているのだとしたら、魔力の消耗が激しすぎる。夥しい量の魔力を消費し続けるアルフェは、いつ魔力切れを起こしても不思議ではない。
「…………」
この状況を早く打破しなけばならない。僕を信じてくれたアルフェのためにも、一刻も早く――
考えを巡らせる僕の耳に、不意に岩が割れるような不穏な音が聞こえてくる。音を辿った先には、岩石が貼り付いて歪な形に変わった天井がある。そこに入っている大きな亀裂は、岩漿とアルフェの多層術式による冷却に晒され続け、崩落しそうになっている。
この空間は大闘技場の真下にある。すなわち、僕たちにが天井として見ている部分は、その床と繋がっている。
アルフェの狙いは、もしかして――
「ホム、エステアを離して。攻撃が止んだら、イグニス目掛けて走るんだ」
天啓が降りた。もう迷っている時間は過ぎた。
「……で、ですが、エステアを置いては……」
ホムはエステアを抱え直しながら、不安に声を震わせている。
「エステアは置いていかない。今、必要なのは攻撃なんだ」
僕はアーケシウスを動かし、ホムの方へと向ける。僕を見上げるホムの瞳は、不安に揺れていた。こんなときに、ホムにかけるべき言葉を僕はもう知っている。ホムは僕の大切な娘だ。
「……大丈夫。僕を信じて、ホム」
今のホムが必要としているのは、作戦の説明ではない。エステアを救出し、必ず戻るという僕たちの想いと覚悟を、強く共有することだ。
「マスター……」
ホムの目が涙に濡れている。イグニスに対して攻撃が届かなかった自責の念ではなく、希望と勇気に涙が溢れたのだ。
「いつだって、わたくしは貴方を信じています」
微笑み、深く頷くと、ホムはそっとエステアをその場に横たわらせた。
「どうぞ、ご指示を」
僕の指示に合わせ、ホムはイグニスに向かって飛び込めるように臨戦態勢に入ってる。
アルフェもホムを僕を信じてくれている。僕も二人を信じている。
それこそが、僕たちの強さだ。
だから僕も、二人が信じてくれた自分を信じていられる。
「真なる叡智の書……」
僕の想いに応えるように、真なる叡智の書の頁が捲れていく。
開かれたのは、今の僕たちにぴったりの魔法を記した頁だ。
最上位の風属性魔法――前世の僕では行使することが出来ない魔法だが、今の僕なら最大限活かすことが出来る。
――大丈夫、もう何も心配いらない。
僕は自分に言い聞かせる。勝つべき道筋は、アルフェが照らしてくれている。
あとはそれを、僕が進むだけだ。
僕のエーテルに反応して、真なる叡智の書が柔らかな風を巻き起こした。
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