6 / 13
2.実母の逝去
しおりを挟む
トトメス3世の乳母の息子アメンメスが緊迫した様子で主人の元にやって来た。彼は最初、護衛だったが、他人をあまり信用できないトトメス3世の側近としても重用されるようになってきていた。
「陛下、イセト様のご容態が思わしくありません。医師によると今夜が峠だそうです」
「何! 母上の元にすぐに向かう」
トトメス3世の母イセトは、トトメス2世の側室であった。彼女は息子の即位前後から体調が悪化して臥せることが多くなっていた。
トトメス3世が母の寝室に着くと、痩せ衰えたイセトは顔色も青ざめ、呼吸が浅い。
「母上! 母上! 貴女の息子が会いに来ましたよ! 私のことがわかりますか?」
トトメス3世は何度も母に呼びかけたが、反応はない。絶望した表情で彼は寝台の隣に控えている老齢の医師に尋ねた。
「昨日、見舞った時はまだ意識があった。いつからこんな状態なのだ?」
「今朝、徐々に反応が鈍くなり、数時間前から意識がありません」
「回復の見込みは?」
医師は気の毒そうにトトメス3世を見て頭を横に振った。
「お別れをされたいのでしたら今のうちです。次にいらっしゃる時にはもしかしたらもう……」
「……時間が許す限り、母上のそばにいることにする」
トトメス3世は寝台の横に座って母の手を握ったが、彼女の指先が冷たいのに驚いた。
それから何時間経っただろうか。トトメス3世は執務に呼び戻されることもあるかと覚悟していたが、最後の母とのひとときに邪魔は入らなかった。もしかしたら寝室の前に控えているアメンメスが止めてくれたのかもしれないなと密かに感謝した。
イセトの呼吸はどんどん浅くなっていき、最期の息が止まった。医師が臨終を告げる言葉がどこか遠くで響いているようでトトメス3世は母の死に実感がわかなかった。
王宮の使用人の多くは、ハトシェプストの息がかかっているが、主治医はトトメス3世を幼少の頃から知っていて信頼できる人間だ。トトメス3世は思い切って自分の疑いを言葉に出してみた。
「正直に言ってくれないか。母上は長期にわたって毒を盛られて身体を壊したのではないか?」
「症状から言うとその可能性は高いでしょう。ですが、証拠がありません」
「くそっ! こんなことをするのは、あの女しかいない!」
「へ、陛下! めったなことをおっしゃらないほうがよいかと思います」
主治医は、不安そうにキョロキョロと周囲を見回した。
「大丈夫だ。ここまではあの女も手を伸ばせないはずだ。いや、伸ばさせない!」
その決意した顔は7歳の幼子とは思えないほど厳しい表情だった。母子が危険な立場に置かれたことでトトメス3世は早熟にならざるを得なかったのだ。
「絶対に許さないぞ! 母上の無念を思うと、怒りを抑えられない! 必ずあの女のしっぽを掴んでやる!」
トトメス3世は涙をこらえながら爪が掌に食い込みそうなほど拳をきつく握った。その様子を見た医師は、危険だからやめたほうがいいと言うかのように、頭を横に振った。
身の危険に怯えなければならない環境は、彼が世界に覇権を誇るエジプト大帝国のファラオになっても変わらない。トトメス3世は、ファラオとして権力を取り戻して母を害した人間に復讐すると亡き母へ心の中で誓った。
だが憎い復讐相手の顔と同時に、幼くして結婚したネフェルウラーの顔も脳裏に浮かんだ。復讐後のネフェルウラーの運命を考えると、トトメス3世は暗澹たる気持ちになった。彼がハトシェプストを失脚させたら、個人的な思いだけでネフェルウラーを妃に留めておくのは難しいだろう。
トトメス3世がまだ乳児のネフェルウラーと結婚した時は、彼女の実母で彼の継母でもあるハトシェプストを悪く思っていなかったから、すんなり彼女の存在を妃として受け入れられた。それどころか、ぷくぷくとした頬や、くりくりとしたぱっちりお目目、もみじのような手のネフェルウラーはとてもかわいかった。言葉が出るようになってからは、たどたどしい口ぶりでひたすら『にいたま』と呼んで慕ってくれた。そんなネフェルウラーに情を移すなと言われても無理な話だった。
これ以降、トトメス3世は復讐と愛の葛藤に悩むことになった。
-------
実際には、トトメス3世の実母イセトは長生きしたようですが、拙作では話の都合上、早死にしてもらいました。
「陛下、イセト様のご容態が思わしくありません。医師によると今夜が峠だそうです」
「何! 母上の元にすぐに向かう」
トトメス3世の母イセトは、トトメス2世の側室であった。彼女は息子の即位前後から体調が悪化して臥せることが多くなっていた。
トトメス3世が母の寝室に着くと、痩せ衰えたイセトは顔色も青ざめ、呼吸が浅い。
「母上! 母上! 貴女の息子が会いに来ましたよ! 私のことがわかりますか?」
トトメス3世は何度も母に呼びかけたが、反応はない。絶望した表情で彼は寝台の隣に控えている老齢の医師に尋ねた。
「昨日、見舞った時はまだ意識があった。いつからこんな状態なのだ?」
「今朝、徐々に反応が鈍くなり、数時間前から意識がありません」
「回復の見込みは?」
医師は気の毒そうにトトメス3世を見て頭を横に振った。
「お別れをされたいのでしたら今のうちです。次にいらっしゃる時にはもしかしたらもう……」
「……時間が許す限り、母上のそばにいることにする」
トトメス3世は寝台の横に座って母の手を握ったが、彼女の指先が冷たいのに驚いた。
それから何時間経っただろうか。トトメス3世は執務に呼び戻されることもあるかと覚悟していたが、最後の母とのひとときに邪魔は入らなかった。もしかしたら寝室の前に控えているアメンメスが止めてくれたのかもしれないなと密かに感謝した。
イセトの呼吸はどんどん浅くなっていき、最期の息が止まった。医師が臨終を告げる言葉がどこか遠くで響いているようでトトメス3世は母の死に実感がわかなかった。
王宮の使用人の多くは、ハトシェプストの息がかかっているが、主治医はトトメス3世を幼少の頃から知っていて信頼できる人間だ。トトメス3世は思い切って自分の疑いを言葉に出してみた。
「正直に言ってくれないか。母上は長期にわたって毒を盛られて身体を壊したのではないか?」
「症状から言うとその可能性は高いでしょう。ですが、証拠がありません」
「くそっ! こんなことをするのは、あの女しかいない!」
「へ、陛下! めったなことをおっしゃらないほうがよいかと思います」
主治医は、不安そうにキョロキョロと周囲を見回した。
「大丈夫だ。ここまではあの女も手を伸ばせないはずだ。いや、伸ばさせない!」
その決意した顔は7歳の幼子とは思えないほど厳しい表情だった。母子が危険な立場に置かれたことでトトメス3世は早熟にならざるを得なかったのだ。
「絶対に許さないぞ! 母上の無念を思うと、怒りを抑えられない! 必ずあの女のしっぽを掴んでやる!」
トトメス3世は涙をこらえながら爪が掌に食い込みそうなほど拳をきつく握った。その様子を見た医師は、危険だからやめたほうがいいと言うかのように、頭を横に振った。
身の危険に怯えなければならない環境は、彼が世界に覇権を誇るエジプト大帝国のファラオになっても変わらない。トトメス3世は、ファラオとして権力を取り戻して母を害した人間に復讐すると亡き母へ心の中で誓った。
だが憎い復讐相手の顔と同時に、幼くして結婚したネフェルウラーの顔も脳裏に浮かんだ。復讐後のネフェルウラーの運命を考えると、トトメス3世は暗澹たる気持ちになった。彼がハトシェプストを失脚させたら、個人的な思いだけでネフェルウラーを妃に留めておくのは難しいだろう。
トトメス3世がまだ乳児のネフェルウラーと結婚した時は、彼女の実母で彼の継母でもあるハトシェプストを悪く思っていなかったから、すんなり彼女の存在を妃として受け入れられた。それどころか、ぷくぷくとした頬や、くりくりとしたぱっちりお目目、もみじのような手のネフェルウラーはとてもかわいかった。言葉が出るようになってからは、たどたどしい口ぶりでひたすら『にいたま』と呼んで慕ってくれた。そんなネフェルウラーに情を移すなと言われても無理な話だった。
これ以降、トトメス3世は復讐と愛の葛藤に悩むことになった。
-------
実際には、トトメス3世の実母イセトは長生きしたようですが、拙作では話の都合上、早死にしてもらいました。
16
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる