ファラオの寵妃

田鶴

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2.実母の逝去

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 トトメス3世の乳母の息子アメンメスが緊迫した様子で主人の元にやって来た。彼は最初、護衛だったが、他人をあまり信用できないトトメス3世の側近としても重用されるようになってきていた。

「陛下、イセト様のご容態が思わしくありません。医師によると今夜が峠だそうです」
「何! 母上の元にすぐに向かう」

 トトメス3世の母イセトは、トトメス2世の側室であった。彼女は息子の即位前後から体調が悪化して臥せることが多くなっていた。

 トトメス3世が母の寝室に着くと、痩せ衰えたイセトは顔色も青ざめ、呼吸が浅い。

「母上! 母上! 貴女の息子が会いに来ましたよ! 私のことがわかりますか?」

 トトメス3世は何度も母に呼びかけたが、反応はない。絶望した表情で彼は寝台の隣に控えている老齢の医師に尋ねた。

「昨日、見舞った時はまだ意識があった。いつからこんな状態なのだ?」
「今朝、徐々に反応が鈍くなり、数時間前から意識がありません」
「回復の見込みは?」

 医師は気の毒そうにトトメス3世を見て頭を横に振った。

「お別れをされたいのでしたら今のうちです。次にいらっしゃる時にはもしかしたらもう……」
「……時間が許す限り、母上のそばにいることにする」

 トトメス3世は寝台の横に座って母の手を握ったが、彼女の指先が冷たいのに驚いた。

 それから何時間経っただろうか。トトメス3世は執務に呼び戻されることもあるかと覚悟していたが、最後の母とのひとときに邪魔は入らなかった。もしかしたら寝室の前に控えているアメンメスが止めてくれたのかもしれないなと密かに感謝した。

 イセトの呼吸はどんどん浅くなっていき、最期の息が止まった。医師が臨終を告げる言葉がどこか遠くで響いているようでトトメス3世は母の死に実感がわかなかった。

 王宮の使用人の多くは、ハトシェプストの息がかかっているが、主治医はトトメス3世を幼少の頃から知っていて信頼できる人間だ。トトメス3世は思い切って自分の疑いを言葉に出してみた。

「正直に言ってくれないか。母上は長期にわたって毒を盛られて身体を壊したのではないか?」
「症状から言うとその可能性は高いでしょう。ですが、証拠がありません」
「くそっ! こんなことをするのは、あの女しかいない!」
「へ、陛下! めったなことをおっしゃらないほうがよいかと思います」

 主治医は、不安そうにキョロキョロと周囲を見回した。

「大丈夫だ。ここまではあの女も手を伸ばせないはずだ。いや、伸ばさせない!」

 その決意した顔は7歳の幼子とは思えないほど厳しい表情だった。母子が危険な立場に置かれたことでトトメス3世は早熟にならざるを得なかったのだ。

「絶対に許さないぞ! 母上の無念を思うと、怒りを抑えられない! 必ずあの女のしっぽを掴んでやる!」

 トトメス3世は涙をこらえながら爪が掌に食い込みそうなほど拳をきつく握った。その様子を見た医師は、危険だからやめたほうがいいと言うかのように、頭を横に振った。

 身の危険に怯えなければならない環境は、彼が世界に覇権を誇るエジプト大帝国のファラオになっても変わらない。トトメス3世は、ファラオとして権力を取り戻して母を害した人間に復讐すると亡き母へ心の中で誓った。

 だが憎い復讐相手の顔と同時に、幼くして結婚したネフェルウラーの顔も脳裏に浮かんだ。復讐後のネフェルウラーの運命を考えると、トトメス3世は暗澹たる気持ちになった。彼がハトシェプストを失脚させたら、個人的な思いだけでネフェルウラーを妃に留めておくのは難しいだろう。

 トトメス3世がまだ乳児のネフェルウラーと結婚した時は、彼女の実母で彼の継母でもあるハトシェプストを悪く思っていなかったから、すんなり彼女の存在を妃として受け入れられた。それどころか、ぷくぷくとした頬や、くりくりとしたぱっちりお目目、もみじのような手のネフェルウラーはとてもかわいかった。言葉が出るようになってからは、たどたどしい口ぶりでひたすら『にいたま兄様』と呼んで慕ってくれた。そんなネフェルウラーに情を移すなと言われても無理な話だった。

 これ以降、トトメス3世は復讐と愛の葛藤に悩むことになった。

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実際には、トトメス3世の実母イセトは長生きしたようですが、拙作では話の都合上、早死にしてもらいました。
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