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第58話 血に塗れた紙
王の間は、いつもよりも静かだった。
高い天井に反響するのは、わずかな足音と、遠くで刻まれる時の音だけ。
第二王子マクシムは玉座の前に立ち、父である国王の正面に向き合いながら、その視界の端に立つ一人の男を見ていた。
――シグラス公爵。
衛士大臣。
王国の治安と諜報網を一手に握る男。
そして何より、第一王子シスタンの陣営に最も深く食い込んでいる貴族。
かつては娘を王太子妃にと願い、今は息子を王の側近として据えるために動く、徹底した現実主義者。
その男が、この場にいる。
それだけで、事態が“ただの捜査”ではないことを、マクシムは悟っていた。
「マクシム」
国王の低い声が、静まり返った空間に響く。
「これに、見覚えはあるか」
差し出されたのは、一枚の紙片だった。
血に濡れ、端はちぎれ、強く握られていた痕がそのまま残っている。
だが――
マクシムは、それを見た瞬間に息を詰めた。
(……アトラスの字だ)
癖のない筆跡。
均整の取れた文字の並び。
線の強さと間の取り方。
長く隣にいた者なら、一目でわかる。
これは、アトラス・ショウインの手によるものだった。
「……どこで、これを?」
問い返すと、国王はわずかに眉を寄せ、苦い声で答えた。
「今朝、王都の外れで見つかった遺体があってな。
グリザール共和国の暗殺者――例の脱獄囚だ。
その男が、これを手に握って死んでいた」
マクシムの背筋が、わずかに硬くなる。
その横で、シグラス公爵が静かに微笑んだ。
「実に興味深い話ですな」
愉悦すら感じさせる声音で続ける。
「敵国の暗殺者が、ショウイン侯爵家の三男の文字を握って死んでいる。
しかもこれは、ただの走り書きではない」
紙片を指で示す。
「日時、場所、人名。
実に要領よく整理されている。まるで――記録帳の切れ端のようだ」
(……この余裕)
マクシムは、シグラスの表情から目を離さなかった。
焦りも、迷いもない。
すべてを見通しているかのような、あまりにも落ち着きすぎた態度。
(何かを掴んでいる……だからこそ、ここまで余裕がある)
その確信が、胸の奥で冷たく形を持った。
「それは、アトラスの“記録”です」
マクシムは即座に言った。
「彼は、人の噂や出来事を、無意識のうちに整理して書き留める癖がある」
「ええ、存じております」
シグラスはあっさり頷く。
「だからこそ、厄介なのです」
国王の視線が、マクシムへと向く。
「マクシム。
私は、アトラスが敵国と通じていたとは思っていない」
その言葉に、マクシムの胸が一瞬だけ軽くなる。
だが――
「しかし」
国王は続けた。
「この紙が、脱獄囚の手にあったという事実は、動かせない」
その隙を待っていたかのように、シグラスが口を開く。
「もしアトラス殿が、自分に都合の良い形で事実を“編集して記録していた”のであれば――」
視線をマクシムに向け、静かに笑う。
「シスタン殿下の婚約破棄に関する一連の“証拠”も、
すべて無効になりますな」
その言葉は、刃のように鋭かった。
エヴァリーン。
サリーナ。
そしてマクシム自身。
彼らが掴んだ正当性は、すべてアトラスの記録の上に築かれていた。
「さらに言えば」
シグラスの声には、もはや隠す気もない愉悦が混じる。
「フォレスト公爵家、ショウイン侯爵家、第二王子派。
そのすべてが、敵国と通じていた疑いを持たれることになる」
王の間の空気が、凍りついた。
「ネロ帝国とグリザール共和国による、あのテロ未遂。
あれも、あなた方が裏で糸を引いていたと疑われても、不思議ではありませんな」
(やはりだ)
マクシムは歯を噛みしめる。
これは、偶然ではない。
これは――狙って仕掛けられたものだ。
アトラスの記録を使い、
アトラスを、エヴァリーンを、そして自分をまとめて沈めるための。
だが同時に、マクシムの中には揺るがぬ確信があった。
(アトラスが、このような形で敵国に関わるはずがない)
ならば、この紙は――
(誰かが、意図的に使った)
マクシムは、血に濡れた文字から目を離さず、静かに言った。
「……父上。
この紙は、確かにアトラスの字です」
シグラスが、満足げに目を細める。
「ほう」
「しかし」
マクシムは、はっきりと続けた。
「だからこそ、これは“罠”の証拠でもある」
国王の目が、わずかに細くなる。
「どういう意味だ」
マクシムは、まっすぐに父を見据えた。
「アトラスは、自分の記録がどれほどの力を持つかを理解していない。
だからこそ、その断片を敵が奪い、こうして“武器”にしたのです」
その言葉は、まだ証明にはならない。
だが――
王宮の中で、確かに戦いは始まっていた。
アトラスの“真実”を巡る、
静かで、そして最も危険な攻防が
=====
昨日は更新できず、申し訳ありません。
話が佳境に入りつつありー更新ペースが落ちております。
どうか、気長にお付き合いいただければ嬉しいです😅
高い天井に反響するのは、わずかな足音と、遠くで刻まれる時の音だけ。
第二王子マクシムは玉座の前に立ち、父である国王の正面に向き合いながら、その視界の端に立つ一人の男を見ていた。
――シグラス公爵。
衛士大臣。
王国の治安と諜報網を一手に握る男。
そして何より、第一王子シスタンの陣営に最も深く食い込んでいる貴族。
かつては娘を王太子妃にと願い、今は息子を王の側近として据えるために動く、徹底した現実主義者。
その男が、この場にいる。
それだけで、事態が“ただの捜査”ではないことを、マクシムは悟っていた。
「マクシム」
国王の低い声が、静まり返った空間に響く。
「これに、見覚えはあるか」
差し出されたのは、一枚の紙片だった。
血に濡れ、端はちぎれ、強く握られていた痕がそのまま残っている。
だが――
マクシムは、それを見た瞬間に息を詰めた。
(……アトラスの字だ)
癖のない筆跡。
均整の取れた文字の並び。
線の強さと間の取り方。
長く隣にいた者なら、一目でわかる。
これは、アトラス・ショウインの手によるものだった。
「……どこで、これを?」
問い返すと、国王はわずかに眉を寄せ、苦い声で答えた。
「今朝、王都の外れで見つかった遺体があってな。
グリザール共和国の暗殺者――例の脱獄囚だ。
その男が、これを手に握って死んでいた」
マクシムの背筋が、わずかに硬くなる。
その横で、シグラス公爵が静かに微笑んだ。
「実に興味深い話ですな」
愉悦すら感じさせる声音で続ける。
「敵国の暗殺者が、ショウイン侯爵家の三男の文字を握って死んでいる。
しかもこれは、ただの走り書きではない」
紙片を指で示す。
「日時、場所、人名。
実に要領よく整理されている。まるで――記録帳の切れ端のようだ」
(……この余裕)
マクシムは、シグラスの表情から目を離さなかった。
焦りも、迷いもない。
すべてを見通しているかのような、あまりにも落ち着きすぎた態度。
(何かを掴んでいる……だからこそ、ここまで余裕がある)
その確信が、胸の奥で冷たく形を持った。
「それは、アトラスの“記録”です」
マクシムは即座に言った。
「彼は、人の噂や出来事を、無意識のうちに整理して書き留める癖がある」
「ええ、存じております」
シグラスはあっさり頷く。
「だからこそ、厄介なのです」
国王の視線が、マクシムへと向く。
「マクシム。
私は、アトラスが敵国と通じていたとは思っていない」
その言葉に、マクシムの胸が一瞬だけ軽くなる。
だが――
「しかし」
国王は続けた。
「この紙が、脱獄囚の手にあったという事実は、動かせない」
その隙を待っていたかのように、シグラスが口を開く。
「もしアトラス殿が、自分に都合の良い形で事実を“編集して記録していた”のであれば――」
視線をマクシムに向け、静かに笑う。
「シスタン殿下の婚約破棄に関する一連の“証拠”も、
すべて無効になりますな」
その言葉は、刃のように鋭かった。
エヴァリーン。
サリーナ。
そしてマクシム自身。
彼らが掴んだ正当性は、すべてアトラスの記録の上に築かれていた。
「さらに言えば」
シグラスの声には、もはや隠す気もない愉悦が混じる。
「フォレスト公爵家、ショウイン侯爵家、第二王子派。
そのすべてが、敵国と通じていた疑いを持たれることになる」
王の間の空気が、凍りついた。
「ネロ帝国とグリザール共和国による、あのテロ未遂。
あれも、あなた方が裏で糸を引いていたと疑われても、不思議ではありませんな」
(やはりだ)
マクシムは歯を噛みしめる。
これは、偶然ではない。
これは――狙って仕掛けられたものだ。
アトラスの記録を使い、
アトラスを、エヴァリーンを、そして自分をまとめて沈めるための。
だが同時に、マクシムの中には揺るがぬ確信があった。
(アトラスが、このような形で敵国に関わるはずがない)
ならば、この紙は――
(誰かが、意図的に使った)
マクシムは、血に濡れた文字から目を離さず、静かに言った。
「……父上。
この紙は、確かにアトラスの字です」
シグラスが、満足げに目を細める。
「ほう」
「しかし」
マクシムは、はっきりと続けた。
「だからこそ、これは“罠”の証拠でもある」
国王の目が、わずかに細くなる。
「どういう意味だ」
マクシムは、まっすぐに父を見据えた。
「アトラスは、自分の記録がどれほどの力を持つかを理解していない。
だからこそ、その断片を敵が奪い、こうして“武器”にしたのです」
その言葉は、まだ証明にはならない。
だが――
王宮の中で、確かに戦いは始まっていた。
アトラスの“真実”を巡る、
静かで、そして最も危険な攻防が
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昨日は更新できず、申し訳ありません。
話が佳境に入りつつありー更新ペースが落ちております。
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