【完結・番外編更新中】断罪劇をぶち壊したのは、すみっこのメモ魔です 〜気付けばとんでもないことになっていた〜

桜野なつみ

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第74話 違和〜衛士バウワー

バウワーは詰所の隅に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。

(……危なかったな)

指先で額を押さえる。
ほんの少し前まで、自分がどこに立っていたのかを思い返し、苦く口の中で反芻する。

不倫――そんな大仰な言葉で括るほどのものではない。
実際の行為までは至っていない。
踏み越える一歩手前で、立ち止まっただけだ。

だが、それがどれほど危うい位置だったかは、今ならはっきり分かる。

(引き返せてよかった)

胸の奥で、小さく安堵が広がる。
もしあのまま進んでいれば、家庭も、職も、衛士として積み上げてきた信用も、すべて一度に失っていたかもしれない。

――気づかれる前に、終わらせた方が穏便だとは思います。

脳裏に浮かぶのは、あの静かな声だった。

命令でもなければ、脅しでもない。
説教ですらない。

ただ、事実を並べただけ。
そして、その事実をどう受け取るかは、自分に委ねられていた。

(……助かったのは、俺の方だ)

誰かに救われた、という実感が遅れて胸に落ちてくる。
それは誇れる形ではない。
だが、確かに“破滅を回避した”という感覚だった。

そこで、ふと――思考が別の方向へ滑る。

あの青年。
拘束されたまま、椅子に座り、眼鏡も紙も奪われた状態で。
それでも、声を荒げることなく、誰かを操ろうともせず、ただ淡々と話していた姿。

(脅しもしなかった)

(誘導もしなかった)

(……事実を述べただけだ)

それが、
「虚偽の報告を行い、国家を混乱に陥れた危険人物」?

どうしても、結びつかない。

国家を転覆させるような人間なら、もっと乱暴でいい。
もっと強引で、もっと分かりやすく、人を動かそうとするはずだ。

だが、あの男は違った。
人を“動かそう”とすらしていない。

(選ぶのは、相手だ)

そう言われた気がして、バウワーは小さく眉を寄せた。

――これは、勘だ。

理屈ではない。
証拠でもない。

だが、長く衛士として働き、
嘘をつく者も、追い詰められた者も、
そして本当に危険な人間も見てきた経験からくる、感覚。

(……おかしい)

胸の奥に残る、その違和感。

しかし、その違和感とは裏腹に、裁判は正式に決定してしまった。

一ヶ月後。
すでに日程は通達され、取り消される気配はない。

(結論だけが、先に置かれている)

その事実が、重くのしかかる。

バウワーは立ち上がり、詰所の中を見渡した。
いつもと変わらない光景。
同じ石床、同じ足音、同じ命令文。

――それなのに。

(俺たちは、本当に自分の意思で動いているのか)

その疑問が、初めてはっきりと形を持った。

(裁判まで、一ヶ月)

(……調べる時間は、ある)

報告書を整え、何事もなかったように職務に戻る。
だが胸の内では、すでに決めていた。

(勝手に流されるつもりはない)

アトラス・ショウイン。
あの男が何者なのか。

少なくとも――
今聞かされている“危険人物”という像が、真実だとは思えなかった。

バウワーは静かに歩き出す。
その背中には、もう一つの決意が乗っていた。

裁判まで、あと一ヶ月。
その間に、できることをやる。

それが、衛士としての矜持だった。



一週間。

裁判の日程が告示されてから、まだ七日しか経っていない。
だが、バウワーにとっては十分な時間だった。

衛士省の仕事は、調べることに慣れている。
命令がなくとも、疑問があれば記録に当たる。
それは職務というより、癖に近い。

(……妙に、少ない)

最初に感じたのは、それだった。

拘束理由に関する一次記録。
押収物の一覧。
問題となっている“メモ”の扱い。

どれもが、必要最低限しか残っていない。

(削られた、というより……初めから、置かれていない)

情報がないのではない。
「置かれていない」だけだ。

決裁の経路は綺麗だ。
書類の形式も整っている。
だが、肝心な部分だけが、意図的に薄い。

(虚偽だと断じるには、材料が足りない)

それなのに、裁判は進む。

(……結論が先にあって、理由が後から追いかけてる)

そんな案件は、過去にも見たことがある。
たいていは、触ると面倒な類いだ。

バウワーは、調査対象を広げなかった。
あえて、狭く、浅く。

アトラス・ショウイン本人ではない。
彼を“虚偽としたがる側”の動きだけを追った。

すると、いくつかの点が、線になり始めた。

(同じところを、避けている)

同じ部署。
同じ記録形式。
同じ報告経路。

偶然にしては、揃いすぎている。

(俺たちは……誘導されている)

そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。

命令は、確かに正規だ。
だが、その命令に至る過程を、誰も説明しない。

(説明できない、のか。
それとも……させない、のか)

七日目の夕方。

詰所で記録を閉じたとき、声をかけられた。

「調査、進んでますか」

聞き慣れない声。
だが、詰所に立つ姿は自然だった。

階級章は同じ。
装備も規定通り。
どこを見ても、違和感はない。

(……だからこそ、だ)

バウワーは、椅子から立ち上がらずに答えた。

「職務の範囲内だ」

「それは結構」

相手は一歩だけ近づき、声を落とした。

「裁判まで、まだ時間がありますからね」

その言い方に、引っかかりを覚える。

(なぜ、知っている)

「……誰だ」

問いかけると、相手は少しだけ口角を上げた。

「名乗るほどの者ではありません。
ただ……」

一拍も置かずに続ける。

「アトラス・ショウインの件、
“虚偽”という言葉が、やけに便利だと思いませんか」

その瞬間、確信した。

(こいつも、気づいている)

「どういう意味だ」

探るように返すと、相手は肩をすくめた。

「虚偽だと決めれば、内容を精査する必要がなくなる。
信頼できないと決めれば、過去の実績も切り捨てられる」

静かな声だった。

「――危険なのは、嘘ではなく、
覚えていることそのものです」

バウワーは、何も言わなかった。

言えば、線を越える。
だが、沈黙は否定ではない。

「ご自分で調べた方が、納得できるでしょう」

相手はそう言って、身を引いた。

「一週間で、ここまで辿り着いた方なら」

その言葉を残して、去っていく。

足音が遠ざかるのを聞きながら、バウワーは深く息を吐いた。

(……やはりだ)

違和感は、勘違いではなかった。

国家を混乱に陥れる虚偽。
その言葉の裏にあるのは、もっと単純な理由だ。

(残しておけない)

それだけだ。

バウワーは、再び記録棚に手を伸ばした。

もう、引き返すつもりはない。

裁判の日まで――
自分の目で見て、耳で聞いて、確かめる。

あの青年が始めた戦いに、自分が巻き込まれていることを、バウワーはもう、否定しなかった。
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