【完結・番外編更新中】断罪劇をぶち壊したのは、すみっこのメモ魔です 〜気付けばとんでもないことになっていた〜

桜野なつみ

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第80話 表の盤面

王立高等裁判所は、凍りついたように静まり返っていた。
先ほどまで証言台で胸を張っていたルーリーの声だけが、まだ高い天井の奥に残っているかのように感じられる。

「……あんたのノート、焼けたって聞いたわよ!」

その言葉が落ちた瞬間、傍聴席の空気が目に見えぬまま重く沈んだ。
誰も騒がない。誰も声を上げない。
それでも、法廷にいる全員が、何かが変わったことを悟る。

被告席のアトラスは、顔色ひとつ動かしていなかった。
ただ、その瞳だけがわずかに焦点を深くする。

「……焼けた?」

落ち着いた声。

「僕の記録が、ですか」

問い返すだけ。
否定もしない。肯定もしない。

ルーリーは勝ち誇ったように顎を上げた。
涙の跡はまだ頬に残っているのに、声には妙な張りが戻っている。

「そうよ。だって聞いたもの」

彼女は勢いよく指を伸ばす。

「あの子が言ってたの。掃除の時に小耳に挟んだって言ってたわ!」

その指先が向いたのは――
ショウイン家の席、長男ガイアスの背後に座る、青ざめた少女。

少女の肩が小さく跳ねる。

裁判長が低く告げる。

「今の発言は看過できない。証人、どの“あの子”を指しているのか、明確にしなさい」

「そこにいる子よ。ほら、大きい黒髪の人の後ろにいるでしょう?」

ルーリーは迷いなく言い切る。
ためらいはない。計算もない。
彼女にとっては、勝利を補強する証拠のひとつにすぎない。

裁判長の視線が移る。

「その者を前へ」

衛士が動こうとした、その瞬間。

「裁判長!」

鋭く割って入ったのは、衛士長官シグラス公爵だった。

「証言は本件から逸脱しております。本件の争点はアトラス・ショウインの記録の正当性にあります。関係の薄い者を――」

「薄いかどうかは、こちらが判断する」

裁判長の声は低く、揺らがない。

「少女を前へ」

命令は撤回されない。

少女は立ち上がる。
青ざめたまま、それでも逃げずに証言台へと歩み出る。
深く一礼した。



裁判長が問う。

「あなたは先ほど、母が焼いたと述べましたね」

「はい」

震えてはいるが、声は逃げない。

「母は、アトラス様の記録が保管されていた書棚に放火しました」

空気が揺れる。

裁判長は続ける。

「それを、あなたはどのように知ったのですか」

少女は息を整え、答える。

「とある方を介して、母からの手紙を受け取りました。その手紙に、ショウイン侯爵家に酷いことをしてしまったと書かれていました」

ルーリーの瞳が瞬く。

シグラスの視線が鋭く細くなる。

少女は続ける。

「母は、命じられたからだとも書いていました」

空気の質が変わる。

「誰に命じられたと書かれていましたか」

「名はありませんでした。ただ、逆らえなかったと。私がこの屋敷にいるからだと」

その言葉が、重く落ちる。

ルーリーが声を上げる。

「だから私は逃げなさいって言ったのよ!」

全員の視線が彼女へ向く。

「だって可哀想じゃない。自分がいるせいでお母さんが悪いことをさせられてるなんて、そんなの嫌でしょう。ヒロインなら助けるに決まってるじゃない」

その無邪気さは、刃のように鋭い。

シグラスの指が机を強く握る。

アトラスが口を開く。

「裁判長。その証人の母を、証言台へ」

傍聴席の一角から、フードを深く被った女性が立ち上がる。
目立たぬ席に座っていたその人物が、ゆっくりと歩き出す。

顔色は悪い。
だが足取りは逃げない。



証言台に立った女は、静かに名を名乗った。

「……ポーラ・ハリスと申します。かつては男爵家に連なる身でしたが、爵位は既に手放しております」

裁判長が確認する。

「あなたはショウイン侯爵家に仕えていた。そしてアトラス・ショウインの記録を焼いた。間違いありませんね」

「はい」

はっきりと。

「私が命じられて火を放ちました」

視線は伏せない。

「娘を取られておりました。逆らえば娘の安全は保証しないと言われ、指定した棚のみを自然発火に見せかけて燃やせと命じられました」

裁判長の声が落ちる。

「誰に命じられたのですか」

ポーラは首を横に振る。

「名は存じ上げません。ただ……今、この法廷にいらっしゃいます」

視線が動く。

「どこにいますか」

ポーラは震える指を持ち上げる。

被告席ではない。
貴族席でもない。

法廷の壁際。
警備に立つひとりの衛士を指さす。

「……あの方です」

誰もすぐには動けない。

指された衛士は表情を変えない。
だが、その目の奥に緊張が走る。

「名を確認せよ」

衛士が名乗る。

「衛士省所属、第三隊副官――」

その名が法廷に落ちる。

波紋が広がる。

シグラスの手が止まる。
表情は崩れない。
しかし瞳の奥が凍りつく。

ポーラは続ける。

「棚の位置も、燃やす範囲も、自然発火に見せかける方法も、すべてその方から指示を受けました」

裁判長が問う。

「その者が誰の指示で動いているか、あなたは知っていますか」

「いいえ。ただ、娘の居場所も、私の動きも、すべて把握していました。私が断れば娘は無事では済まないと」

声は震えながらも、途切れない。

アトラスが穏やかに言う。

「裁判長。その衛士の所属は衛士省で間違いありませんね」

答えは明白。

衛士省。

その頂点に立つのは――シグラス公爵。

法廷の空気が、重く張り詰める。

ルーリーは、まだ理解していない。

自分が放った言葉が、どの線と線を繋げてしまったのかを。

彼女はただ、自分が物語を進めたと信じている。

だが盤面は既に中央へ戻っている。

そして今、誰に王手がかかっているのかを理解している者は、ほんのわずかだった。
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