89 / 102
第80話 表の盤面
王立高等裁判所は、凍りついたように静まり返っていた。
先ほどまで証言台で胸を張っていたルーリーの声だけが、まだ高い天井の奥に残っているかのように感じられる。
「……あんたのノート、焼けたって聞いたわよ!」
その言葉が落ちた瞬間、傍聴席の空気が目に見えぬまま重く沈んだ。
誰も騒がない。誰も声を上げない。
それでも、法廷にいる全員が、何かが変わったことを悟る。
被告席のアトラスは、顔色ひとつ動かしていなかった。
ただ、その瞳だけがわずかに焦点を深くする。
「……焼けた?」
落ち着いた声。
「僕の記録が、ですか」
問い返すだけ。
否定もしない。肯定もしない。
ルーリーは勝ち誇ったように顎を上げた。
涙の跡はまだ頬に残っているのに、声には妙な張りが戻っている。
「そうよ。だって聞いたもの」
彼女は勢いよく指を伸ばす。
「あの子が言ってたの。掃除の時に小耳に挟んだって言ってたわ!」
その指先が向いたのは――
ショウイン家の席、長男ガイアスの背後に座る、青ざめた少女。
少女の肩が小さく跳ねる。
裁判長が低く告げる。
「今の発言は看過できない。証人、どの“あの子”を指しているのか、明確にしなさい」
「そこにいる子よ。ほら、大きい黒髪の人の後ろにいるでしょう?」
ルーリーは迷いなく言い切る。
ためらいはない。計算もない。
彼女にとっては、勝利を補強する証拠のひとつにすぎない。
裁判長の視線が移る。
「その者を前へ」
衛士が動こうとした、その瞬間。
「裁判長!」
鋭く割って入ったのは、衛士長官シグラス公爵だった。
「証言は本件から逸脱しております。本件の争点はアトラス・ショウインの記録の正当性にあります。関係の薄い者を――」
「薄いかどうかは、こちらが判断する」
裁判長の声は低く、揺らがない。
「少女を前へ」
命令は撤回されない。
少女は立ち上がる。
青ざめたまま、それでも逃げずに証言台へと歩み出る。
深く一礼した。
◇
裁判長が問う。
「あなたは先ほど、母が焼いたと述べましたね」
「はい」
震えてはいるが、声は逃げない。
「母は、アトラス様の記録が保管されていた書棚に放火しました」
空気が揺れる。
裁判長は続ける。
「それを、あなたはどのように知ったのですか」
少女は息を整え、答える。
「とある方を介して、母からの手紙を受け取りました。その手紙に、ショウイン侯爵家に酷いことをしてしまったと書かれていました」
ルーリーの瞳が瞬く。
シグラスの視線が鋭く細くなる。
少女は続ける。
「母は、命じられたからだとも書いていました」
空気の質が変わる。
「誰に命じられたと書かれていましたか」
「名はありませんでした。ただ、逆らえなかったと。私がこの屋敷にいるからだと」
その言葉が、重く落ちる。
ルーリーが声を上げる。
「だから私は逃げなさいって言ったのよ!」
全員の視線が彼女へ向く。
「だって可哀想じゃない。自分がいるせいでお母さんが悪いことをさせられてるなんて、そんなの嫌でしょう。ヒロインなら助けるに決まってるじゃない」
その無邪気さは、刃のように鋭い。
シグラスの指が机を強く握る。
アトラスが口を開く。
「裁判長。その証人の母を、証言台へ」
傍聴席の一角から、フードを深く被った女性が立ち上がる。
目立たぬ席に座っていたその人物が、ゆっくりと歩き出す。
顔色は悪い。
だが足取りは逃げない。
◇
証言台に立った女は、静かに名を名乗った。
「……ポーラ・ハリスと申します。かつては男爵家に連なる身でしたが、爵位は既に手放しております」
裁判長が確認する。
「あなたはショウイン侯爵家に仕えていた。そしてアトラス・ショウインの記録を焼いた。間違いありませんね」
「はい」
はっきりと。
「私が命じられて火を放ちました」
視線は伏せない。
「娘を取られておりました。逆らえば娘の安全は保証しないと言われ、指定した棚のみを自然発火に見せかけて燃やせと命じられました」
裁判長の声が落ちる。
「誰に命じられたのですか」
ポーラは首を横に振る。
「名は存じ上げません。ただ……今、この法廷にいらっしゃいます」
視線が動く。
「どこにいますか」
ポーラは震える指を持ち上げる。
被告席ではない。
貴族席でもない。
法廷の壁際。
警備に立つひとりの衛士を指さす。
「……あの方です」
誰もすぐには動けない。
指された衛士は表情を変えない。
だが、その目の奥に緊張が走る。
「名を確認せよ」
衛士が名乗る。
「衛士省所属、第三隊副官――」
その名が法廷に落ちる。
波紋が広がる。
シグラスの手が止まる。
表情は崩れない。
しかし瞳の奥が凍りつく。
ポーラは続ける。
「棚の位置も、燃やす範囲も、自然発火に見せかける方法も、すべてその方から指示を受けました」
裁判長が問う。
「その者が誰の指示で動いているか、あなたは知っていますか」
「いいえ。ただ、娘の居場所も、私の動きも、すべて把握していました。私が断れば娘は無事では済まないと」
声は震えながらも、途切れない。
アトラスが穏やかに言う。
「裁判長。その衛士の所属は衛士省で間違いありませんね」
答えは明白。
衛士省。
その頂点に立つのは――シグラス公爵。
法廷の空気が、重く張り詰める。
ルーリーは、まだ理解していない。
自分が放った言葉が、どの線と線を繋げてしまったのかを。
彼女はただ、自分が物語を進めたと信じている。
だが盤面は既に中央へ戻っている。
そして今、誰に王手がかかっているのかを理解している者は、ほんのわずかだった。
先ほどまで証言台で胸を張っていたルーリーの声だけが、まだ高い天井の奥に残っているかのように感じられる。
「……あんたのノート、焼けたって聞いたわよ!」
その言葉が落ちた瞬間、傍聴席の空気が目に見えぬまま重く沈んだ。
誰も騒がない。誰も声を上げない。
それでも、法廷にいる全員が、何かが変わったことを悟る。
被告席のアトラスは、顔色ひとつ動かしていなかった。
ただ、その瞳だけがわずかに焦点を深くする。
「……焼けた?」
落ち着いた声。
「僕の記録が、ですか」
問い返すだけ。
否定もしない。肯定もしない。
ルーリーは勝ち誇ったように顎を上げた。
涙の跡はまだ頬に残っているのに、声には妙な張りが戻っている。
「そうよ。だって聞いたもの」
彼女は勢いよく指を伸ばす。
「あの子が言ってたの。掃除の時に小耳に挟んだって言ってたわ!」
その指先が向いたのは――
ショウイン家の席、長男ガイアスの背後に座る、青ざめた少女。
少女の肩が小さく跳ねる。
裁判長が低く告げる。
「今の発言は看過できない。証人、どの“あの子”を指しているのか、明確にしなさい」
「そこにいる子よ。ほら、大きい黒髪の人の後ろにいるでしょう?」
ルーリーは迷いなく言い切る。
ためらいはない。計算もない。
彼女にとっては、勝利を補強する証拠のひとつにすぎない。
裁判長の視線が移る。
「その者を前へ」
衛士が動こうとした、その瞬間。
「裁判長!」
鋭く割って入ったのは、衛士長官シグラス公爵だった。
「証言は本件から逸脱しております。本件の争点はアトラス・ショウインの記録の正当性にあります。関係の薄い者を――」
「薄いかどうかは、こちらが判断する」
裁判長の声は低く、揺らがない。
「少女を前へ」
命令は撤回されない。
少女は立ち上がる。
青ざめたまま、それでも逃げずに証言台へと歩み出る。
深く一礼した。
◇
裁判長が問う。
「あなたは先ほど、母が焼いたと述べましたね」
「はい」
震えてはいるが、声は逃げない。
「母は、アトラス様の記録が保管されていた書棚に放火しました」
空気が揺れる。
裁判長は続ける。
「それを、あなたはどのように知ったのですか」
少女は息を整え、答える。
「とある方を介して、母からの手紙を受け取りました。その手紙に、ショウイン侯爵家に酷いことをしてしまったと書かれていました」
ルーリーの瞳が瞬く。
シグラスの視線が鋭く細くなる。
少女は続ける。
「母は、命じられたからだとも書いていました」
空気の質が変わる。
「誰に命じられたと書かれていましたか」
「名はありませんでした。ただ、逆らえなかったと。私がこの屋敷にいるからだと」
その言葉が、重く落ちる。
ルーリーが声を上げる。
「だから私は逃げなさいって言ったのよ!」
全員の視線が彼女へ向く。
「だって可哀想じゃない。自分がいるせいでお母さんが悪いことをさせられてるなんて、そんなの嫌でしょう。ヒロインなら助けるに決まってるじゃない」
その無邪気さは、刃のように鋭い。
シグラスの指が机を強く握る。
アトラスが口を開く。
「裁判長。その証人の母を、証言台へ」
傍聴席の一角から、フードを深く被った女性が立ち上がる。
目立たぬ席に座っていたその人物が、ゆっくりと歩き出す。
顔色は悪い。
だが足取りは逃げない。
◇
証言台に立った女は、静かに名を名乗った。
「……ポーラ・ハリスと申します。かつては男爵家に連なる身でしたが、爵位は既に手放しております」
裁判長が確認する。
「あなたはショウイン侯爵家に仕えていた。そしてアトラス・ショウインの記録を焼いた。間違いありませんね」
「はい」
はっきりと。
「私が命じられて火を放ちました」
視線は伏せない。
「娘を取られておりました。逆らえば娘の安全は保証しないと言われ、指定した棚のみを自然発火に見せかけて燃やせと命じられました」
裁判長の声が落ちる。
「誰に命じられたのですか」
ポーラは首を横に振る。
「名は存じ上げません。ただ……今、この法廷にいらっしゃいます」
視線が動く。
「どこにいますか」
ポーラは震える指を持ち上げる。
被告席ではない。
貴族席でもない。
法廷の壁際。
警備に立つひとりの衛士を指さす。
「……あの方です」
誰もすぐには動けない。
指された衛士は表情を変えない。
だが、その目の奥に緊張が走る。
「名を確認せよ」
衛士が名乗る。
「衛士省所属、第三隊副官――」
その名が法廷に落ちる。
波紋が広がる。
シグラスの手が止まる。
表情は崩れない。
しかし瞳の奥が凍りつく。
ポーラは続ける。
「棚の位置も、燃やす範囲も、自然発火に見せかける方法も、すべてその方から指示を受けました」
裁判長が問う。
「その者が誰の指示で動いているか、あなたは知っていますか」
「いいえ。ただ、娘の居場所も、私の動きも、すべて把握していました。私が断れば娘は無事では済まないと」
声は震えながらも、途切れない。
アトラスが穏やかに言う。
「裁判長。その衛士の所属は衛士省で間違いありませんね」
答えは明白。
衛士省。
その頂点に立つのは――シグラス公爵。
法廷の空気が、重く張り詰める。
ルーリーは、まだ理解していない。
自分が放った言葉が、どの線と線を繋げてしまったのかを。
彼女はただ、自分が物語を進めたと信じている。
だが盤面は既に中央へ戻っている。
そして今、誰に王手がかかっているのかを理解している者は、ほんのわずかだった。
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。
結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です
柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。
そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。
真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。
けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。
「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」
彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。
アンリは実は、亡き国王の婚外子。
皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。
「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった
歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。
だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」
追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。
一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。
誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。
「その言葉は、もう翻訳できません」
「仲睦まじい夫婦」であるはずのわたしの夫は、わたしの葬儀で本性をあらわした
ぽんた
恋愛
サヤ・ラドフォード侯爵夫人が死んだ。その葬儀で、マッケイン王国でも「仲睦まじい夫婦」であるはずの彼女の夫が、妻を冒涜した。その聞くに堪えない本音。そんな夫の横には、夫が従妹だというレディが寄り添っている。サヤ・ラドフォードの棺の前で、夫とその従妹はサヤを断罪する。サヤは、ほんとうに彼らがいうような悪女だったのか?
※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。
真実の愛の裏側
藍田ひびき
恋愛
アレックス・ロートン侯爵令息の第一夫人シェリルが療養のため領地へ居を移した。それは療養とは名ばかりの放逐。
男爵家出身でありながら侯爵令息に見初められ、「真実の愛」と持て囃された彼女の身に何があったのか。その裏に隠された事情とは――?
※ 他サイトにも投稿しています。
「お前がいると息が詰まる」と追放された令嬢——翌週から公爵家の予定が全て狂った
歩人
ファンタジー
クラリッサは公爵家の日程管理を一手に担う令嬢。前世の社畜経験を活かし、行事計画、来客対応、予算管理まで完璧にこなしていた。
だが婚約者ヴィクトルは言った。「お前がいると息が詰まる。もっと華やかな女がいい」
追放されたクラリッサが去った翌週、公爵家の予定が全て狂い始める。
舞踏会の招待状は届かず、外交晩餐会の料理は手配されず、決算書類は行方不明。
一方クラリッサは、若き領主の元で「定時退社」という夢を叶えていた。
「もう、残業はしません」
文句を言わない婚約者は、俺の愛する幼馴染みを許していなかった【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
幼馴染を優先しても、婚約者アウローラは何も言わない。だから、これからも幼馴染みとイチャイチャできる──
侯爵令息トリスタンは、そんな甘い幻想を信じていた。
だが婿入りした瞬間、彼の“軽んじた態度”はすべて清算される。
アウローラは冷徹に、トリスタンの傲慢と欲望を1つずつ暴き、労働と屈辱を与える。
そして最後に残ったのは、誰にも必要とされない現実だけ。
「どうして……俺は、こんなにも愚かだったんだ」
これは愛を勘違いし、身分を過信し、自分の価値を見誤った男の終焉を描くダークドラマ。
⚠️ 本作は AI の生成した文章を一部に使っています。過激ざまぁタグあります。
4/1「エステルに対する殺意」の内容を一部変更しました。
十六歳の妹の誕生日、私はこの世を去る。
あいみ
恋愛
碌に手入れもされていない赤毛の伯爵令嬢、スカーレット。
宝石のように澄んだ青い髪をした伯爵令嬢、ルビア。
対極のような二人は姉妹。母親の違う。
お世辞にも美しいと言えない前妻の子供であるスカーレットは誰からも愛されない。
そばかすだらけで、笑顔が苦手な醜い姉。
天使のように愛らしく、誰からも好かれる可愛い妹。
生まれつき体の弱いルビアは長くは生きられないと宣告されていた。
両親の必死に看病や、“婚約者の献身的なサポート”のおかげで、日常生活が送れるようになるまで回復した。
だが……。運命とは残酷である。
ルビアの元に死神から知らせが届く。
十六歳の誕生日、ルビアの魂は天に還る、と。
美しい愛しているルビア。
失いたくない。殺されてなるものか。
それぞれのルビアを大切に思う想いが、一つの選択をさせた。
生まれてくる価値のなかった、醜いスカーレットを代わりに殺そう、と。
これは彼女が死ぬ前と死んだ後の、少しの物語。