20 / 24
最終話 夫婦善哉
しおりを挟む
あれから十二年。
私とレオンハルト様は卒業後すぐに結婚し、今では四人の子どもたちに恵まれました。
長男フリードリヒは十一歳。真面目で剣を握る姿は父そっくり。
次男カールは八歳。元気いっぱいで、よく私の手を引っ張って冒険ごっこをせがみます。
長女エリーゼは六歳。歌が好きで、家中に小鳥の声を響かせています。
末っ子のマティアスは三歳。やんちゃ盛りで、兄姉に甘やかされては、ころころ笑っています。
この小さな命たちと過ごす時間が、どれほど尊く、奇跡のような幸せか。
昔の私には想像すらできませんでした。
◇
卒業夜会で断罪された人々の姿は、私は一度も見ていません。
レオン様が気を遣って遠ざけてくださっているのか、あるいは更生が見られず王都に戻れないのか……それは私の知るところではありません。
ステラとリクローは何かを知っているようですが、私には教えないようにしているようだから…
私はただ、今日の家族の笑顔を守れたら、それで十分なのです。
◇
けれど、この幸せに辿り着くまでに――どうしても忘れられない記憶があります。
学園での、あのいじめ。
いえ、それだけではない。前世でも同じ痛みを味わっていたのです。
高校に進む時、私は寮に入ってあるスポーツに打ち込んでいました。
けれど、そこで私は「最下層」とされ、毎日のように嘲られ、時に暴力を受けた。
教科書を破られ、荷物を隠され、練習中に足を引っかけられる。
同級生たちの視線の冷たさは、刃より鋭かった。
それでも両親は気づいてくれました。試合会場に来て、私の異変を見抜いて。
「もうやめてもいい。逃げてもいい。生きていてくれたら、それでいい」と。
初めは、強がってしまった。
「地元に帰るのは恥ずかしい」と思ってしまった。
けれど――耐えきれなくなり、転校を選んだのです。
それでも、前の学校の連中には大会で何度も顔を合わせることになりました。
そのたびに言われた。
「負け犬」「逃げたんやなあ、恥ずかしい」「そんな高校で続けて恥ずないん?」
会うたびに心が削れていった。
試合会場で彼女たちの姿を見た瞬間、私は逃げ出すようになっていました。
……ある日。追いかけてくる声に背を向けて走り出し、石段で足を滑らせた。
ごろごろと転がり落ち、暗転――気がつけば、この世界に転生していたのです。
だからこそ、この世界では「逃げたくない」と思った。
何があっても戦う。二度と同じ思いをしたくない。
けれど……今ははっきり言えます。
逃げるのは恥じゃない。負けでもない。
むしろ「逃げる」ことこそ、自分の命と心を守る第一歩。
自分を守らずに、誰が守ってくれるのか。
自分を愛してくれる人を頼らずに、誰を頼るというのか。
だから、今ここで伝えたい。
どこかで「もう限界」と思っている誰かへ。
「逃げ場なんてない」と思い込んでいる誰かへ。
――どうか、逃げてください。
頑張らなくていい。とにかく、心と命を守ってください。
私はこの世界で、みんなに甘やかされ、守られて、ようやくそれを学びました。
だからこそ今、笑っていられる。
「あの時、逃げてよかった」
そう思える未来が、今、確かにあるのです。
◇
「ほんまに……逃げてよかったわあ」
思わず口からこぼれた独り言に、隣の人が反応した。
「ん? どうした、クラリス」
レオンハルト様が不思議そうに覗き込む。
「いえ、なんでもありませんの。ただ、ちょっと思い出してただけ」
「そうか……でも俺のことも思い出してくれてたか?」
「当たり前やん。レオンは、私の真ん中にいてくれたんやから」
そう答えると、彼は優しく笑い、私を抱き寄せた。
胸の音が心地よく響く。あの頃の震えは、もうここにはない。
◇
「レオン。おはようございます」
「クラリス? おはよう」
翌朝。
私は夫婦の部屋のバルコニーへ、二つの椀を運びました。
ヨシナから取り寄せた塗り椀に、ほかほかと湯気の立つ――ぜんざい。
「今日の善き日に、一番ふさわしいと思って」
「クラリスが作ったのか?」
「そう。今日は特別に美味しくできたんよ」
ふたりで椀を手に取り、ひと口。
「ああ、美味しい!」
「ふふ、塩味が効いてるでしょう? 何度も試作したんよ」
にこにこと笑う私を見て、レオンは目を細める。
その視線に、また胸が熱くなる。
やがて香りにつられた子どもたちが、わいわいと雪崩れ込んできた。
「ずるーい! 僕たちも!」
「おかあさま、もっと!」
あっという間に、にぎやかな笑い声で朝が満ちる。
わいわいと子供たちが食卓を囲み、甘いぜんざいを頬張っている。
はしゃぐ声が部屋いっぱいに弾け、笑い声は窓の外にまで広がっていった。
その光景を見ながら、そっと私とレオン様は寄り添う。
手と手が重なり、ぬくもりが心の奥に沁みていく。
「幸せですわね」
「うん。これからも、な」
「いつか王と王妃の夫婦漫才、しましょか」
「メオトマンザイ?」
「そう、夫婦漫才!」
不思議そうに首をかしげるレオンの頬に、私は軽くキスを落とす。
子どもたちの笑い声。
愛しい人の体温。
――明日は、戴冠式。
今日も、明日も、明後日も。
きっと私たちは笑っている。
あの時、逃げてよかった。
そう思える未来が、今ここにある。
だからこそ、この瞬間を抱きしめて生きていくのだ。
耳の奥に、遠い声がした気がした。
「私は逃げた。負け犬だ。」――そう責めていた前世の私の声。
けれど今は、はっきり答えられる。
「逃げてもいい。守ってくれる人が必ずいるから。
自分の心と命を守ること――それこそが、本当に大切なことなんだから」
幸せは、こんなにもあたたかい。
こんなにも、尊い。
涙がにじむほどに愛おしい未来が、ここにある。
――ありがとう。
<完>
◇
クラリス文庫
『夫婦善哉』/織田作之助(日本)
戦後の大阪で、身分も財産もなく、それでも寄り添って生きる男女の物語。
世間から見れば“つましい暮らし”。けれど二人にとっては、何よりも大切な「夫婦のかたち」。
――中良きことは、美しきかな。
夫婦であることの喜びは、どんな逆境の中でも失われない。
私とレオンハルト様は卒業後すぐに結婚し、今では四人の子どもたちに恵まれました。
長男フリードリヒは十一歳。真面目で剣を握る姿は父そっくり。
次男カールは八歳。元気いっぱいで、よく私の手を引っ張って冒険ごっこをせがみます。
長女エリーゼは六歳。歌が好きで、家中に小鳥の声を響かせています。
末っ子のマティアスは三歳。やんちゃ盛りで、兄姉に甘やかされては、ころころ笑っています。
この小さな命たちと過ごす時間が、どれほど尊く、奇跡のような幸せか。
昔の私には想像すらできませんでした。
◇
卒業夜会で断罪された人々の姿は、私は一度も見ていません。
レオン様が気を遣って遠ざけてくださっているのか、あるいは更生が見られず王都に戻れないのか……それは私の知るところではありません。
ステラとリクローは何かを知っているようですが、私には教えないようにしているようだから…
私はただ、今日の家族の笑顔を守れたら、それで十分なのです。
◇
けれど、この幸せに辿り着くまでに――どうしても忘れられない記憶があります。
学園での、あのいじめ。
いえ、それだけではない。前世でも同じ痛みを味わっていたのです。
高校に進む時、私は寮に入ってあるスポーツに打ち込んでいました。
けれど、そこで私は「最下層」とされ、毎日のように嘲られ、時に暴力を受けた。
教科書を破られ、荷物を隠され、練習中に足を引っかけられる。
同級生たちの視線の冷たさは、刃より鋭かった。
それでも両親は気づいてくれました。試合会場に来て、私の異変を見抜いて。
「もうやめてもいい。逃げてもいい。生きていてくれたら、それでいい」と。
初めは、強がってしまった。
「地元に帰るのは恥ずかしい」と思ってしまった。
けれど――耐えきれなくなり、転校を選んだのです。
それでも、前の学校の連中には大会で何度も顔を合わせることになりました。
そのたびに言われた。
「負け犬」「逃げたんやなあ、恥ずかしい」「そんな高校で続けて恥ずないん?」
会うたびに心が削れていった。
試合会場で彼女たちの姿を見た瞬間、私は逃げ出すようになっていました。
……ある日。追いかけてくる声に背を向けて走り出し、石段で足を滑らせた。
ごろごろと転がり落ち、暗転――気がつけば、この世界に転生していたのです。
だからこそ、この世界では「逃げたくない」と思った。
何があっても戦う。二度と同じ思いをしたくない。
けれど……今ははっきり言えます。
逃げるのは恥じゃない。負けでもない。
むしろ「逃げる」ことこそ、自分の命と心を守る第一歩。
自分を守らずに、誰が守ってくれるのか。
自分を愛してくれる人を頼らずに、誰を頼るというのか。
だから、今ここで伝えたい。
どこかで「もう限界」と思っている誰かへ。
「逃げ場なんてない」と思い込んでいる誰かへ。
――どうか、逃げてください。
頑張らなくていい。とにかく、心と命を守ってください。
私はこの世界で、みんなに甘やかされ、守られて、ようやくそれを学びました。
だからこそ今、笑っていられる。
「あの時、逃げてよかった」
そう思える未来が、今、確かにあるのです。
◇
「ほんまに……逃げてよかったわあ」
思わず口からこぼれた独り言に、隣の人が反応した。
「ん? どうした、クラリス」
レオンハルト様が不思議そうに覗き込む。
「いえ、なんでもありませんの。ただ、ちょっと思い出してただけ」
「そうか……でも俺のことも思い出してくれてたか?」
「当たり前やん。レオンは、私の真ん中にいてくれたんやから」
そう答えると、彼は優しく笑い、私を抱き寄せた。
胸の音が心地よく響く。あの頃の震えは、もうここにはない。
◇
「レオン。おはようございます」
「クラリス? おはよう」
翌朝。
私は夫婦の部屋のバルコニーへ、二つの椀を運びました。
ヨシナから取り寄せた塗り椀に、ほかほかと湯気の立つ――ぜんざい。
「今日の善き日に、一番ふさわしいと思って」
「クラリスが作ったのか?」
「そう。今日は特別に美味しくできたんよ」
ふたりで椀を手に取り、ひと口。
「ああ、美味しい!」
「ふふ、塩味が効いてるでしょう? 何度も試作したんよ」
にこにこと笑う私を見て、レオンは目を細める。
その視線に、また胸が熱くなる。
やがて香りにつられた子どもたちが、わいわいと雪崩れ込んできた。
「ずるーい! 僕たちも!」
「おかあさま、もっと!」
あっという間に、にぎやかな笑い声で朝が満ちる。
わいわいと子供たちが食卓を囲み、甘いぜんざいを頬張っている。
はしゃぐ声が部屋いっぱいに弾け、笑い声は窓の外にまで広がっていった。
その光景を見ながら、そっと私とレオン様は寄り添う。
手と手が重なり、ぬくもりが心の奥に沁みていく。
「幸せですわね」
「うん。これからも、な」
「いつか王と王妃の夫婦漫才、しましょか」
「メオトマンザイ?」
「そう、夫婦漫才!」
不思議そうに首をかしげるレオンの頬に、私は軽くキスを落とす。
子どもたちの笑い声。
愛しい人の体温。
――明日は、戴冠式。
今日も、明日も、明後日も。
きっと私たちは笑っている。
あの時、逃げてよかった。
そう思える未来が、今ここにある。
だからこそ、この瞬間を抱きしめて生きていくのだ。
耳の奥に、遠い声がした気がした。
「私は逃げた。負け犬だ。」――そう責めていた前世の私の声。
けれど今は、はっきり答えられる。
「逃げてもいい。守ってくれる人が必ずいるから。
自分の心と命を守ること――それこそが、本当に大切なことなんだから」
幸せは、こんなにもあたたかい。
こんなにも、尊い。
涙がにじむほどに愛おしい未来が、ここにある。
――ありがとう。
<完>
◇
クラリス文庫
『夫婦善哉』/織田作之助(日本)
戦後の大阪で、身分も財産もなく、それでも寄り添って生きる男女の物語。
世間から見れば“つましい暮らし”。けれど二人にとっては、何よりも大切な「夫婦のかたち」。
――中良きことは、美しきかな。
夫婦であることの喜びは、どんな逆境の中でも失われない。
289
あなたにおすすめの小説
私は愛する人と結婚できなくなったのに、あなたが結婚できると思うの?
あんど もあ
ファンタジー
妹の画策で、第一王子との婚約を解消することになったレイア。
理由は姉への嫌がらせだとしても、妹は王子の結婚を妨害したのだ。
レイアは妹への処罰を伝える。
「あなたも婚約解消しなさい」
本当に現実を生きていないのは?
朝樹 四季
恋愛
ある日、ヒロインと悪役令嬢が言い争っている場面を見た。ヒロインによる攻略はもう随分と進んでいるらしい。
だけど、その言い争いを見ている攻略対象者である王子の顔を見て、俺はヒロインの攻略をぶち壊す暗躍をすることを決意した。
だって、ここは現実だ。
※番外編はリクエスト頂いたものです。もしかしたらまたひょっこり増えるかもしれません。
悪役令嬢の取り巻き令嬢(モブ)だけど実は影で暗躍してたなんて意外でしょ?
無味無臭(不定期更新)
恋愛
無能な悪役令嬢に変わってシナリオ通り進めていたがある日悪役令嬢にハブられたルル。
「いいんですか?その態度」
魅了魔法…?それで相思相愛ならいいんじゃないんですか。
iBuKi
恋愛
サフィリーン・ル・オルペウスである私がこの世界に誕生した瞬間から決まっていた既定路線。
クロード・レイ・インフェリア、大国インフェリア皇国の第一皇子といずれ婚約が結ばれること。
皇妃で将来の皇后でなんて、めっちゃくちゃ荷が重い。
こういう幼い頃に結ばれた物語にありがちなトラブル……ありそう。
私のこと気に入らないとか……ありそう?
ところが、完璧な皇子様に婚約者に決定した瞬間から溺愛され続け、蜂蜜漬けにされていたけれど――
絆されていたのに。
ミイラ取りはミイラなの? 気付いたら、皇子の隣には子爵令嬢が居て。
――魅了魔法ですか…。
国家転覆とか、王権強奪とか、大変な事は絡んでないんですよね?
いろいろ探ってましたけど、どうなったのでしょう。
――考えることに、何だか疲れちゃったサフィリーン。
第一皇子とその方が相思相愛なら、魅了でも何でもいいんじゃないんですか?
サクッと婚約解消のち、私はしばらく領地で静養しておきますね。
✂----------------------------
不定期更新です。
他サイトさまでも投稿しています。
10/09 あらすじを書き直し、付け足し?しました。
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
悪役令嬢は永眠しました
詩海猫(8/29書籍発売)
ファンタジー
「お前のような女との婚約は破棄だっ、ロザリンダ・ラクシエル!だがお前のような女でも使い道はある、ジルデ公との縁談を調えてやった!感謝して公との間に沢山の子を産むがいい!」
長年の婚約者であった王太子のこの言葉に気を失った公爵令嬢・ロザリンダ。
だが、次に目覚めた時のロザリンダの魂は別人だった。
ロザリンダとして目覚めた木の葉サツキは、ロザリンダの意識がショックのあまり永遠の眠りについてしまったことを知り、「なぜロザリンダはこんなに努力してるのに周りはクズばっかりなの?まかせてロザリンダ!きっちりお返ししてあげるからね!」
*思いつきでプロットなしで書き始めましたが結末は決めています。暗い展開の話を書いているとメンタルにもろに影響して生活に支障が出ることに気付きました。定期的に強気主人公を暴れさせないと(?)書き続けるのは不可能なようなのでメンタル状態に合わせて書けるものから書いていくことにします、ご了承下さいm(_ _)m
一体何のことですか?【意外なオチシリーズ第1弾】
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【あの……身に覚えが無いのですけど】
私は由緒正しい伯爵家の娘で、学園内ではクールビューティーと呼ばれている。基本的に群れるのは嫌いで、1人の時間をこよなく愛している。ある日、私は見慣れない女子生徒に「彼に手を出さないで!」と言いがかりをつけられる。その話、全く身に覚えが無いのですけど……?
*短編です。あっさり終わります
*他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる