【完結・番外編更新中】異世界令嬢生活は、思ったよりもしんどいです。

桜野なつみ

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最終話 夫婦善哉

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あれから十二年。
私とレオンハルト様は卒業後すぐに結婚し、今では四人の子どもたちに恵まれました。

長男フリードリヒは十一歳。真面目で剣を握る姿は父そっくり。
次男カールは八歳。元気いっぱいで、よく私の手を引っ張って冒険ごっこをせがみます。
長女エリーゼは六歳。歌が好きで、家中に小鳥の声を響かせています。
末っ子のマティアスは三歳。やんちゃ盛りで、兄姉に甘やかされては、ころころ笑っています。

この小さな命たちと過ごす時間が、どれほど尊く、奇跡のような幸せか。
昔の私には想像すらできませんでした。



卒業夜会で断罪された人々の姿は、私は一度も見ていません。
レオン様が気を遣って遠ざけてくださっているのか、あるいは更生が見られず王都に戻れないのか……それは私の知るところではありません。
ステラとリクローは何かを知っているようですが、私には教えないようにしているようだから…

私はただ、今日の家族の笑顔を守れたら、それで十分なのです。



けれど、この幸せに辿り着くまでに――どうしても忘れられない記憶があります。

学園での、あのいじめ。
いえ、それだけではない。前世でも同じ痛みを味わっていたのです。

高校に進む時、私は寮に入ってあるスポーツに打ち込んでいました。
けれど、そこで私は「最下層」とされ、毎日のように嘲られ、時に暴力を受けた。
教科書を破られ、荷物を隠され、練習中に足を引っかけられる。
同級生たちの視線の冷たさは、刃より鋭かった。

それでも両親は気づいてくれました。試合会場に来て、私の異変を見抜いて。
「もうやめてもいい。逃げてもいい。生きていてくれたら、それでいい」と。
初めは、強がってしまった。
「地元に帰るのは恥ずかしい」と思ってしまった。

けれど――耐えきれなくなり、転校を選んだのです。

それでも、前の学校の連中には大会で何度も顔を合わせることになりました。
そのたびに言われた。
「負け犬」「逃げたんやなあ、恥ずかしい」「そんな高校で続けて恥ずないん?」

会うたびに心が削れていった。
試合会場で彼女たちの姿を見た瞬間、私は逃げ出すようになっていました。
……ある日。追いかけてくる声に背を向けて走り出し、石段で足を滑らせた。
ごろごろと転がり落ち、暗転――気がつけば、この世界に転生していたのです。

だからこそ、この世界では「逃げたくない」と思った。
何があっても戦う。二度と同じ思いをしたくない。

けれど……今ははっきり言えます。

逃げるのは恥じゃない。負けでもない。
むしろ「逃げる」ことこそ、自分の命と心を守る第一歩。

自分を守らずに、誰が守ってくれるのか。
自分を愛してくれる人を頼らずに、誰を頼るというのか。

だから、今ここで伝えたい。
どこかで「もう限界」と思っている誰かへ。
「逃げ場なんてない」と思い込んでいる誰かへ。

――どうか、逃げてください。
頑張らなくていい。とにかく、心と命を守ってください。

私はこの世界で、みんなに甘やかされ、守られて、ようやくそれを学びました。
だからこそ今、笑っていられる。

「あの時、逃げてよかった」
そう思える未来が、今、確かにあるのです。



「ほんまに……逃げてよかったわあ」
思わず口からこぼれた独り言に、隣の人が反応した。

「ん? どうした、クラリス」
レオンハルト様が不思議そうに覗き込む。

「いえ、なんでもありませんの。ただ、ちょっと思い出してただけ」

「そうか……でも俺のことも思い出してくれてたか?」

「当たり前やん。レオンは、私の真ん中にいてくれたんやから」

そう答えると、彼は優しく笑い、私を抱き寄せた。
胸の音が心地よく響く。あの頃の震えは、もうここにはない。



「レオン。おはようございます」

「クラリス? おはよう」

翌朝。
私は夫婦の部屋のバルコニーへ、二つの椀を運びました。
ヨシナから取り寄せた塗り椀に、ほかほかと湯気の立つ――ぜんざい。

「今日の善き日に、一番ふさわしいと思って」

「クラリスが作ったのか?」

「そう。今日は特別に美味しくできたんよ」

ふたりで椀を手に取り、ひと口。

「ああ、美味しい!」

「ふふ、塩味が効いてるでしょう? 何度も試作したんよ」

にこにこと笑う私を見て、レオンは目を細める。
その視線に、また胸が熱くなる。

やがて香りにつられた子どもたちが、わいわいと雪崩れ込んできた。
「ずるーい! 僕たちも!」
「おかあさま、もっと!」
あっという間に、にぎやかな笑い声で朝が満ちる。

わいわいと子供たちが食卓を囲み、甘いぜんざいを頬張っている。
はしゃぐ声が部屋いっぱいに弾け、笑い声は窓の外にまで広がっていった。

その光景を見ながら、そっと私とレオン様は寄り添う。
手と手が重なり、ぬくもりが心の奥に沁みていく。

「幸せですわね」

「うん。これからも、な」

「いつか王と王妃の夫婦漫才、しましょか」

「メオトマンザイ?」

「そう、夫婦漫才!」

不思議そうに首をかしげるレオンの頬に、私は軽くキスを落とす。
子どもたちの笑い声。
愛しい人の体温。

――明日は、戴冠式。
今日も、明日も、明後日も。
きっと私たちは笑っている。

あの時、逃げてよかった。
そう思える未来が、今ここにある。
だからこそ、この瞬間を抱きしめて生きていくのだ。

耳の奥に、遠い声がした気がした。
「私は逃げた。負け犬だ。」――そう責めていた前世の私の声。
けれど今は、はっきり答えられる。

「逃げてもいい。守ってくれる人が必ずいるから。
自分の心と命を守ること――それこそが、本当に大切なことなんだから」

幸せは、こんなにもあたたかい。
こんなにも、尊い。
涙がにじむほどに愛おしい未来が、ここにある。

――ありがとう。


<完>



クラリス文庫

『夫婦善哉』/織田作之助(日本)

戦後の大阪で、身分も財産もなく、それでも寄り添って生きる男女の物語。
世間から見れば“つましい暮らし”。けれど二人にとっては、何よりも大切な「夫婦のかたち」。

――中良きことは、美しきかな。
夫婦であることの喜びは、どんな逆境の中でも失われない。


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