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第八帖 綾姫、乱る
夜更け――
この刻になると、都の人々は戸を閉ざす。
灯りは落とされ、声は消え、通りはひっそりと静まり返る。
それは単に夜が深いからではない。
この時刻は――出るのだ。
名を持たぬものが。
人ならぬものが。
だから、人は外へ出ない。
いや――出てはならない。
その理を、都に生きる者は皆、知っている。
そんな中を、二人の男が歩いていた。
足音だけが、静かに夜に響く。
灯りも持たず、ためらいもなく。
まるで、この時間そのものに属しているかのように。
芦屋川朝光と、御影時継である。
朝光が、ふと口を開いた。
「今夜はどこへ」
御影は前を見たまま答える。
「中納言邸へ行けと」
朝光が、ふっと笑う。
「おお、綾姫か」
御影がわずかに視線を向ける。
「……お前は誰でも知っているな」
朝光は肩をすくめた。
「美しい姫君を知らぬ方がおかしいであろう」
軽い口調だったが、その言葉には妙な確信があった。
御影は小さく息をつく。
「そういうものか」
朝光は楽しげに続ける。
「西宮中納言の一人娘だぞ。噂くらいは嫌でも耳に入る」
「ほう」
「姿は見たことはないがな」
そう言って笑う。
「だが“都一”と言われるほどだ。まあ、期待はできるだろう」
御影は淡々と言った。
「見物に行くのではない」
朝光はすぐに返す。
「わかっているとも」
それでも口元には笑みが浮かんでいる。
「だが、どうせ行くなら美しい方がいいだろう」
御影はそれ以上は何も言わなかった。
ただ、静かに歩き続ける。
やがて――
都の音が、ふっと遠のいた。
人の気配が薄れ、夜そのものが濃くなる。
空気が変わる。
朝光が足を止めた。
「……妙だな」
御影が短く答える。
「ああ」
それだけで十分だった。
軽口の時間は、終わった。
二人はそのまま、西宮邸へと入る。
門の内には、異様な静けさが広がっていた。
人の気配はある。
だが、それがどこか遠い。
生きた気配ではない。
門の前には、怯えきった様子の使用人が待っていた。
「お待ちしておりました、芦屋川さま、御影さま」
声が震えている。
御影が問う。
「どこに」
「は、こちらにございます」
使用人はおぼつかない足取りで二人を案内する。
廊を進むにつれて、空気が重くなる。
冷たい。
湿ったような、まとわりつく気配。
御影の表情が、徐々に厳しくなっていった。
「……いやな気の者がおるな」
朝光もわずかに顔をしかめる。
「そうだなあ。俺もなんだか、ゾワゾワしてきたぞ」
御影は静かに言う。
「お前も気をつけろ」
朝光は軽く笑う。
「と言われてもなあ」
だが、その目はすでに笑っていなかった。
「こちらにございます、どうぞ」
障子が開かれる。
そこには――
美しい娘が座していた。
その両脇には、父母であろう男女。
室内は静まり返っている。
だが、その静けさは、どこか歪んでいた。
父親が深く頭を下げる。
「西宮中納言にございます。ご足労をおかけいたしました」
朝光が軽く手を振る。
「いや、帝よりの命であるし、気にするな」
御影が一歩進み出る。
「して、どのような」
中納言は震える声で答えた。
「はい……毎夜、毎夜、娘――綾姫が、気が触れたようになるのです」
御影の視線が、綾姫へと向けられる。
「ほう」
母親が涙ぐみながら言う。
「丑三の刻になると……人が変わったように」
御影は静かに言った。
「そうか。あと……半刻ほどか」
「左様でございます」
御影は頷く。
「ふむ。ではそれまで、待とう」
それから朝光を見る。
「朝光。お前は姫の横に」
朝光は頷いた。
「そうしよう」
そして綾姫の前に進み、柔らかく言う。
「姫、手を握らせていただいてよろしいか」
中納言が慌てて声を上げる。
「芦屋川さま、それは――」
朝光がすぐに返す。
「いや、邪な気持ちではないぞ」
御影が静かに口を挟む。
「中納言殿。この場合においては必要なことです」
朝光がぼやく。
「もう少し言い方があるだろう」
中納言は深く頭を下げる。
「左様でございますか……承知いたしました」
朝光は綾姫の隣に座り、その手を取る。
冷たい手だった。
静かな時間が流れる。
息を潜めるような、重たい沈黙。
やがて――
その時が来た。
御影と朝光が、同時に顔を上げる。
「来たか」
綾姫の指先が、ぴくりと動く。
次の瞬間。
その手が、ぎちり、と朝光の手を強く掴んだ。
爪が伸びる。
空気が歪む。
俯いていた顔が、ゆっくりと上がる。
目が、爛々と光っていた。
そして――
「お主ら」
低く、響く声。
「余計なものを呼んだな」
中納言夫妻が悲鳴を上げる。
御影は動かない。
「断れぬ方から頼まれてな。お前は何者ぞ」
「答える必要などないわ」
御影が言う。
「だろうな。……おい、朝光」
朝光が静かに頷く。
「ああ」
その手を、さらに強く握る。
その瞬間――
綾姫の身体が、ばたりと崩れ落ちた。
「姫!」
御影が言う。
「案ずるな。移した」
その直後。
朝光が叫ぶ。
「変なところに移しやがって!!」
声が変わっていた。
「ワシは女の方が良いのだ!女の方がうまいからな!!」
御影は静かに答える。
「しかし居心地が良いのは、こちらではないか?」
「良くないわ!戻るぞ!」
御影は一歩踏み出す。
その声は、揺るがなかった。
「戻すわけないであろう」
この刻になると、都の人々は戸を閉ざす。
灯りは落とされ、声は消え、通りはひっそりと静まり返る。
それは単に夜が深いからではない。
この時刻は――出るのだ。
名を持たぬものが。
人ならぬものが。
だから、人は外へ出ない。
いや――出てはならない。
その理を、都に生きる者は皆、知っている。
そんな中を、二人の男が歩いていた。
足音だけが、静かに夜に響く。
灯りも持たず、ためらいもなく。
まるで、この時間そのものに属しているかのように。
芦屋川朝光と、御影時継である。
朝光が、ふと口を開いた。
「今夜はどこへ」
御影は前を見たまま答える。
「中納言邸へ行けと」
朝光が、ふっと笑う。
「おお、綾姫か」
御影がわずかに視線を向ける。
「……お前は誰でも知っているな」
朝光は肩をすくめた。
「美しい姫君を知らぬ方がおかしいであろう」
軽い口調だったが、その言葉には妙な確信があった。
御影は小さく息をつく。
「そういうものか」
朝光は楽しげに続ける。
「西宮中納言の一人娘だぞ。噂くらいは嫌でも耳に入る」
「ほう」
「姿は見たことはないがな」
そう言って笑う。
「だが“都一”と言われるほどだ。まあ、期待はできるだろう」
御影は淡々と言った。
「見物に行くのではない」
朝光はすぐに返す。
「わかっているとも」
それでも口元には笑みが浮かんでいる。
「だが、どうせ行くなら美しい方がいいだろう」
御影はそれ以上は何も言わなかった。
ただ、静かに歩き続ける。
やがて――
都の音が、ふっと遠のいた。
人の気配が薄れ、夜そのものが濃くなる。
空気が変わる。
朝光が足を止めた。
「……妙だな」
御影が短く答える。
「ああ」
それだけで十分だった。
軽口の時間は、終わった。
二人はそのまま、西宮邸へと入る。
門の内には、異様な静けさが広がっていた。
人の気配はある。
だが、それがどこか遠い。
生きた気配ではない。
門の前には、怯えきった様子の使用人が待っていた。
「お待ちしておりました、芦屋川さま、御影さま」
声が震えている。
御影が問う。
「どこに」
「は、こちらにございます」
使用人はおぼつかない足取りで二人を案内する。
廊を進むにつれて、空気が重くなる。
冷たい。
湿ったような、まとわりつく気配。
御影の表情が、徐々に厳しくなっていった。
「……いやな気の者がおるな」
朝光もわずかに顔をしかめる。
「そうだなあ。俺もなんだか、ゾワゾワしてきたぞ」
御影は静かに言う。
「お前も気をつけろ」
朝光は軽く笑う。
「と言われてもなあ」
だが、その目はすでに笑っていなかった。
「こちらにございます、どうぞ」
障子が開かれる。
そこには――
美しい娘が座していた。
その両脇には、父母であろう男女。
室内は静まり返っている。
だが、その静けさは、どこか歪んでいた。
父親が深く頭を下げる。
「西宮中納言にございます。ご足労をおかけいたしました」
朝光が軽く手を振る。
「いや、帝よりの命であるし、気にするな」
御影が一歩進み出る。
「して、どのような」
中納言は震える声で答えた。
「はい……毎夜、毎夜、娘――綾姫が、気が触れたようになるのです」
御影の視線が、綾姫へと向けられる。
「ほう」
母親が涙ぐみながら言う。
「丑三の刻になると……人が変わったように」
御影は静かに言った。
「そうか。あと……半刻ほどか」
「左様でございます」
御影は頷く。
「ふむ。ではそれまで、待とう」
それから朝光を見る。
「朝光。お前は姫の横に」
朝光は頷いた。
「そうしよう」
そして綾姫の前に進み、柔らかく言う。
「姫、手を握らせていただいてよろしいか」
中納言が慌てて声を上げる。
「芦屋川さま、それは――」
朝光がすぐに返す。
「いや、邪な気持ちではないぞ」
御影が静かに口を挟む。
「中納言殿。この場合においては必要なことです」
朝光がぼやく。
「もう少し言い方があるだろう」
中納言は深く頭を下げる。
「左様でございますか……承知いたしました」
朝光は綾姫の隣に座り、その手を取る。
冷たい手だった。
静かな時間が流れる。
息を潜めるような、重たい沈黙。
やがて――
その時が来た。
御影と朝光が、同時に顔を上げる。
「来たか」
綾姫の指先が、ぴくりと動く。
次の瞬間。
その手が、ぎちり、と朝光の手を強く掴んだ。
爪が伸びる。
空気が歪む。
俯いていた顔が、ゆっくりと上がる。
目が、爛々と光っていた。
そして――
「お主ら」
低く、響く声。
「余計なものを呼んだな」
中納言夫妻が悲鳴を上げる。
御影は動かない。
「断れぬ方から頼まれてな。お前は何者ぞ」
「答える必要などないわ」
御影が言う。
「だろうな。……おい、朝光」
朝光が静かに頷く。
「ああ」
その手を、さらに強く握る。
その瞬間――
綾姫の身体が、ばたりと崩れ落ちた。
「姫!」
御影が言う。
「案ずるな。移した」
その直後。
朝光が叫ぶ。
「変なところに移しやがって!!」
声が変わっていた。
「ワシは女の方が良いのだ!女の方がうまいからな!!」
御影は静かに答える。
「しかし居心地が良いのは、こちらではないか?」
「良くないわ!戻るぞ!」
御影は一歩踏み出す。
その声は、揺るがなかった。
「戻すわけないであろう」
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