水端ノ獣ノ物語

冴木黒

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脅威

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 黒き怪物は塵芥と化し、足場を失ったラムダは海へと落下する。
 海面に叩きつけられ漏れ出た呻きは、気泡となって水中に散じる。
 体は落ちた勢いのまま、深く深く沈み込んだ。
 一面青色の世界。差し込んできた光が窓際のカーテンのごとく揺らめいている。
 優しい夢を漂うような心地良さに、ラムダはうっとりと身をゆだねる。
 ああいっそ、このまま……。

 ―――バカ、お前また……!

 服の内側でするりと皮膚を這う感じがあって、白く揺らめく影が光を遮った。
 腕を強く引かれる。
 その手の滑らかで冷たい感触も、指の形も、ラムダがよく知るものだった。

 激しく咳き込み、気管に入った水を吐き出す。潮の香りを含む風と陽光の熱に、今自分が海上にあることを知る。
 開いた瞼の隙間から見える顔。
 すっきりした細面も、長い髪も、身に纏う衣も―――初めて見た時は、全てが真っ白で驚いた。目だけが血のように赤く印象的で、彼がヘビだとすぐにわかった。
 切れ長の目がじろりと見下ろしてくる。

「ったくテメェは何度も何度も」
「ヘビ……」

 ごめん、と。
 零れた呟きに、ヘビは偉そうに鼻を鳴らす。

「忘れるなよ、テメェは妹を助けるンだろう? いいな? 今は余計なこと考えるンじゃねぇ。テメェはテメェの目的を達成すルことだけ考えて生きてろ」
「そう、そうだ、うん。僕がテラを、助けなきゃ……」
「ったくイつまでも手ノかかるガキだよ」

 ヘビは水面を歩いて渡り、陸まで来るとラムダを下ろして、元の白蛇の姿に戻った。

「ひトつだけ言っとく。真実を告げルのが正しイこととは限らねェよ……」

 ヘビが言った。
 視線の先には、膝をついて項垂れるオトと、その傍らにフラウがいた。
 オトは父親が海に沈んだと思いこんでいる。
 それならば、そう思わせておけと、あの化獣の正体が父親であるということは伏せておけと言っているのだ。
 化獣となり死ぬのも、海に落ちて死ぬのも、結果だけで言えば同じだ。オトの父親はもうこの世にいない。助けることができなかった。
 なのにヘビがそんなことを言ったのは、多分、オトに恨みを抱かせないためだ。
 父親にとどめを刺したラムダを憎ませないため。
 化獣の正体がオトの父親だと知っていて、罪悪感がないわけがなかった。躊躇った。迷いもした。
 その上でラムダは選択した。
 化獣になった者を元に戻すことはできない。他にどうしようもなかった。殺さなければ、こちらがやられていた。だから……殺した。
 だが消える寸前に聞こえてきた声、あれは空耳なんかじゃなかった。娘に対する、父親の深い愛情。それはつまり自我を完全には失っていなかったという証拠だ。遠く砂浜に娘の姿を見つけ、最後の最後まであがき続け思いの欠片を残したのだろう。
 もしも本当のことを言えば、オトは自分を責めるだろうか。言ってしまいたい衝動に駆られる。
 だがそれはオトの為ではない。
 責められて楽になりたいという、エゴイズムにすぎない。

「シロタエ様、ラムダ殿」

 いつからそこにいたのか、ニシキが隣に立っていた。

「あちらに墓らしきものが二つありました。あれは恐らくオト殿の母君と……」

 ニシキが示したのはオトの父親が飛び降りた崖の麓だ。
 その崖が突然崩れた。強烈な風に砂が巻き上げられ、地面が揺れる。
 何が起こったのか理解できないまま、砂風が過ぎ去るのを待つ。しばらくして恐る恐る目を開く。未だ景色は砂塵に霞んでいるものの、その中にぼんやりと人影が見えた。

「フラウ! オト! 大丈、ぐっ」

 地面から足が離れた。
 喉を掴まれ、持ち上げられる。
 声どころか、息さえまともにできない。
 喉を掴む手にかきつき引き剝がそうとするが、引っ掻き傷を作るばかり。
 歪む視界で、殺意に満ちた目がこちらを睨みつけるのを見た。
 白い外套に身を包んだ男だった。短く刈られた黒髪に、雀斑の浮いた顔。四角い縁の眼鏡をかけている。

「ラムダ!」

 駆けつけたフラウが蹴りを見舞おうとするが、空いた手に軽く受け止められて流される。体が傾いだところに、更に強い衝撃があり、投げられたラムダのごと砂の上を滑った。
 驚異的な力だった。
 背後から振り下ろされたニシキの刃をも容易にあしらっている。

「おじいちゃん!」

 吹き飛んだニシキの元にオトが駆け寄る。
 雀斑顔の男の爪先がそちらに向くのを見て、ラムダは可能な限りの声で叫んだ。

「逃げて、オト!」

 立ち上がろうとして、再び柔らかな砂に沈む。足の骨か筋をやられたらしい。
 フラウは気絶しているのか、全く動かない。

「あっ……」

 仰いだオトの顔に、黒く影が被さった。オトはニシキを庇うように、雀斑顔の男の前に出て腕を広げる。
 男はそんな少女の姿を冷たく見下ろし、

「君は……ああ、あの時の忌み子の子だったか」

 にこりと笑った。
 先程までの殺気が、初めからなかったかのように一瞬の内に消え失せていた。

「そうか、無事だったか。よく生きていたな」

 声は労りに満ちていた。
 男はオトの頭を優しく撫でると、その手を差し伸べる。

「一緒に行こう。君も、この世界が憎いだろう?」
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