16 / 20
脅威
しおりを挟む
黒き怪物は塵芥と化し、足場を失ったラムダは海へと落下する。
海面に叩きつけられ漏れ出た呻きは、気泡となって水中に散じる。
体は落ちた勢いのまま、深く深く沈み込んだ。
一面青色の世界。差し込んできた光が窓際のカーテンのごとく揺らめいている。
優しい夢を漂うような心地良さに、ラムダはうっとりと身をゆだねる。
ああいっそ、このまま……。
―――バカ、お前また……!
服の内側でするりと皮膚を這う感じがあって、白く揺らめく影が光を遮った。
腕を強く引かれる。
その手の滑らかで冷たい感触も、指の形も、ラムダがよく知るものだった。
激しく咳き込み、気管に入った水を吐き出す。潮の香りを含む風と陽光の熱に、今自分が海上にあることを知る。
開いた瞼の隙間から見える顔。
すっきりした細面も、長い髪も、身に纏う衣も―――初めて見た時は、全てが真っ白で驚いた。目だけが血のように赤く印象的で、彼がヘビだとすぐにわかった。
切れ長の目がじろりと見下ろしてくる。
「ったくテメェは何度も何度も」
「ヘビ……」
ごめん、と。
零れた呟きに、ヘビは偉そうに鼻を鳴らす。
「忘れるなよ、テメェは妹を助けるンだろう? いいな? 今は余計なこと考えるンじゃねぇ。テメェはテメェの目的を達成すルことだけ考えて生きてろ」
「そう、そうだ、うん。僕がテラを、助けなきゃ……」
「ったくイつまでも手ノかかるガキだよ」
ヘビは水面を歩いて渡り、陸まで来るとラムダを下ろして、元の白蛇の姿に戻った。
「ひトつだけ言っとく。真実を告げルのが正しイこととは限らねェよ……」
ヘビが言った。
視線の先には、膝をついて項垂れるオトと、その傍らにフラウがいた。
オトは父親が海に沈んだと思いこんでいる。
それならば、そう思わせておけと、あの化獣の正体が父親であるということは伏せておけと言っているのだ。
化獣となり死ぬのも、海に落ちて死ぬのも、結果だけで言えば同じだ。オトの父親はもうこの世にいない。助けることができなかった。
なのにヘビがそんなことを言ったのは、多分、オトに恨みを抱かせないためだ。
父親にとどめを刺したラムダを憎ませないため。
化獣の正体がオトの父親だと知っていて、罪悪感がないわけがなかった。躊躇った。迷いもした。
その上でラムダは選択した。
化獣になった者を元に戻すことはできない。他にどうしようもなかった。殺さなければ、こちらがやられていた。だから……殺した。
だが消える寸前に聞こえてきた声、あれは空耳なんかじゃなかった。娘に対する、父親の深い愛情。それはつまり自我を完全には失っていなかったという証拠だ。遠く砂浜に娘の姿を見つけ、最後の最後まであがき続け思いの欠片を残したのだろう。
もしも本当のことを言えば、オトは自分を責めるだろうか。言ってしまいたい衝動に駆られる。
だがそれはオトの為ではない。
責められて楽になりたいという、エゴイズムにすぎない。
「シロタエ様、ラムダ殿」
いつからそこにいたのか、ニシキが隣に立っていた。
「あちらに墓らしきものが二つありました。あれは恐らくオト殿の母君と……」
ニシキが示したのはオトの父親が飛び降りた崖の麓だ。
その崖が突然崩れた。強烈な風に砂が巻き上げられ、地面が揺れる。
何が起こったのか理解できないまま、砂風が過ぎ去るのを待つ。しばらくして恐る恐る目を開く。未だ景色は砂塵に霞んでいるものの、その中にぼんやりと人影が見えた。
「フラウ! オト! 大丈、ぐっ」
地面から足が離れた。
喉を掴まれ、持ち上げられる。
声どころか、息さえまともにできない。
喉を掴む手にかきつき引き剝がそうとするが、引っ掻き傷を作るばかり。
歪む視界で、殺意に満ちた目がこちらを睨みつけるのを見た。
白い外套に身を包んだ男だった。短く刈られた黒髪に、雀斑の浮いた顔。四角い縁の眼鏡をかけている。
「ラムダ!」
駆けつけたフラウが蹴りを見舞おうとするが、空いた手に軽く受け止められて流される。体が傾いだところに、更に強い衝撃があり、投げられたラムダのごと砂の上を滑った。
驚異的な力だった。
背後から振り下ろされたニシキの刃をも容易にあしらっている。
「おじいちゃん!」
吹き飛んだニシキの元にオトが駆け寄る。
雀斑顔の男の爪先がそちらに向くのを見て、ラムダは可能な限りの声で叫んだ。
「逃げて、オト!」
立ち上がろうとして、再び柔らかな砂に沈む。足の骨か筋をやられたらしい。
フラウは気絶しているのか、全く動かない。
「あっ……」
仰いだオトの顔に、黒く影が被さった。オトはニシキを庇うように、雀斑顔の男の前に出て腕を広げる。
男はそんな少女の姿を冷たく見下ろし、
「君は……ああ、あの時の忌み子の子だったか」
にこりと笑った。
先程までの殺気が、初めからなかったかのように一瞬の内に消え失せていた。
「そうか、無事だったか。よく生きていたな」
声は労りに満ちていた。
男はオトの頭を優しく撫でると、その手を差し伸べる。
「一緒に行こう。君も、この世界が憎いだろう?」
海面に叩きつけられ漏れ出た呻きは、気泡となって水中に散じる。
体は落ちた勢いのまま、深く深く沈み込んだ。
一面青色の世界。差し込んできた光が窓際のカーテンのごとく揺らめいている。
優しい夢を漂うような心地良さに、ラムダはうっとりと身をゆだねる。
ああいっそ、このまま……。
―――バカ、お前また……!
服の内側でするりと皮膚を這う感じがあって、白く揺らめく影が光を遮った。
腕を強く引かれる。
その手の滑らかで冷たい感触も、指の形も、ラムダがよく知るものだった。
激しく咳き込み、気管に入った水を吐き出す。潮の香りを含む風と陽光の熱に、今自分が海上にあることを知る。
開いた瞼の隙間から見える顔。
すっきりした細面も、長い髪も、身に纏う衣も―――初めて見た時は、全てが真っ白で驚いた。目だけが血のように赤く印象的で、彼がヘビだとすぐにわかった。
切れ長の目がじろりと見下ろしてくる。
「ったくテメェは何度も何度も」
「ヘビ……」
ごめん、と。
零れた呟きに、ヘビは偉そうに鼻を鳴らす。
「忘れるなよ、テメェは妹を助けるンだろう? いいな? 今は余計なこと考えるンじゃねぇ。テメェはテメェの目的を達成すルことだけ考えて生きてろ」
「そう、そうだ、うん。僕がテラを、助けなきゃ……」
「ったくイつまでも手ノかかるガキだよ」
ヘビは水面を歩いて渡り、陸まで来るとラムダを下ろして、元の白蛇の姿に戻った。
「ひトつだけ言っとく。真実を告げルのが正しイこととは限らねェよ……」
ヘビが言った。
視線の先には、膝をついて項垂れるオトと、その傍らにフラウがいた。
オトは父親が海に沈んだと思いこんでいる。
それならば、そう思わせておけと、あの化獣の正体が父親であるということは伏せておけと言っているのだ。
化獣となり死ぬのも、海に落ちて死ぬのも、結果だけで言えば同じだ。オトの父親はもうこの世にいない。助けることができなかった。
なのにヘビがそんなことを言ったのは、多分、オトに恨みを抱かせないためだ。
父親にとどめを刺したラムダを憎ませないため。
化獣の正体がオトの父親だと知っていて、罪悪感がないわけがなかった。躊躇った。迷いもした。
その上でラムダは選択した。
化獣になった者を元に戻すことはできない。他にどうしようもなかった。殺さなければ、こちらがやられていた。だから……殺した。
だが消える寸前に聞こえてきた声、あれは空耳なんかじゃなかった。娘に対する、父親の深い愛情。それはつまり自我を完全には失っていなかったという証拠だ。遠く砂浜に娘の姿を見つけ、最後の最後まであがき続け思いの欠片を残したのだろう。
もしも本当のことを言えば、オトは自分を責めるだろうか。言ってしまいたい衝動に駆られる。
だがそれはオトの為ではない。
責められて楽になりたいという、エゴイズムにすぎない。
「シロタエ様、ラムダ殿」
いつからそこにいたのか、ニシキが隣に立っていた。
「あちらに墓らしきものが二つありました。あれは恐らくオト殿の母君と……」
ニシキが示したのはオトの父親が飛び降りた崖の麓だ。
その崖が突然崩れた。強烈な風に砂が巻き上げられ、地面が揺れる。
何が起こったのか理解できないまま、砂風が過ぎ去るのを待つ。しばらくして恐る恐る目を開く。未だ景色は砂塵に霞んでいるものの、その中にぼんやりと人影が見えた。
「フラウ! オト! 大丈、ぐっ」
地面から足が離れた。
喉を掴まれ、持ち上げられる。
声どころか、息さえまともにできない。
喉を掴む手にかきつき引き剝がそうとするが、引っ掻き傷を作るばかり。
歪む視界で、殺意に満ちた目がこちらを睨みつけるのを見た。
白い外套に身を包んだ男だった。短く刈られた黒髪に、雀斑の浮いた顔。四角い縁の眼鏡をかけている。
「ラムダ!」
駆けつけたフラウが蹴りを見舞おうとするが、空いた手に軽く受け止められて流される。体が傾いだところに、更に強い衝撃があり、投げられたラムダのごと砂の上を滑った。
驚異的な力だった。
背後から振り下ろされたニシキの刃をも容易にあしらっている。
「おじいちゃん!」
吹き飛んだニシキの元にオトが駆け寄る。
雀斑顔の男の爪先がそちらに向くのを見て、ラムダは可能な限りの声で叫んだ。
「逃げて、オト!」
立ち上がろうとして、再び柔らかな砂に沈む。足の骨か筋をやられたらしい。
フラウは気絶しているのか、全く動かない。
「あっ……」
仰いだオトの顔に、黒く影が被さった。オトはニシキを庇うように、雀斑顔の男の前に出て腕を広げる。
男はそんな少女の姿を冷たく見下ろし、
「君は……ああ、あの時の忌み子の子だったか」
にこりと笑った。
先程までの殺気が、初めからなかったかのように一瞬の内に消え失せていた。
「そうか、無事だったか。よく生きていたな」
声は労りに満ちていた。
男はオトの頭を優しく撫でると、その手を差し伸べる。
「一緒に行こう。君も、この世界が憎いだろう?」
0
あなたにおすすめの小説
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
二度目だから容赦なし!元聖女のやり直し冒険記
ゆう
ファンタジー
金曜の夜。仕事を終えた私は、最寄り駅から自宅までの道を歩いていた。
今日も残業。クタクタだ。
だけど、コンビニで買った缶ビールがカバンに入っていると思うと、それだけで足取りが少し軽くなる。
(あー早く帰ってシャワー浴びて、ぐいっといきたい……!)
そんなことを考えながら信号を渡ろうとした時だった。
よくある召喚ものです。
カクヨム様で柊ゆうり名義で公開していたものをリメイクしつつ公開します。
完結していないので、完結は同じとこに落ち着く予定ですが中は修正しつつ公開します。
恋愛…になかなかならない、、むしろ冒険ものに、、、
ファンタジーに変えました(涙)
どうぞよろしくお願いします。
※本作は、他投稿サイト(カクヨム様/小説家になろう様)にも掲載しています。
他サイトでは一部表現や構成を調整した改稿版を公開しています。
使い捨て聖女の反乱
あんど もあ
ファンタジー
聖女のアネットは、王子の婚約者となり、瘴気の浄化に忙しい日々だ。 やっと浄化を終えると、案の定アネットは聖女の地位をはく奪されて王都から出ていくよう命じられるが…。 ※タイトルが大げさですがコメディです。
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
背徳の恋のあとで
ひかり芽衣
恋愛
『愛人を作ることは、家族を維持するために必要なことなのかもしれない』
恋愛小説が好きで純愛を夢見ていた男爵家の一人娘アリーナは、いつの間にかそう考えるようになっていた。
自分が子供を産むまでは……
物心ついた時から愛人に現を抜かす父にかわり、父の仕事までこなす母。母のことを尊敬し真っ直ぐに育ったアリーナは、完璧な母にも唯一弱音を吐ける人物がいることを知る。
母の恋に衝撃を受ける中、予期せぬ相手とのアリーナの初恋。
そして、ずっとアリーナのよき相談相手である図書館管理者との距離も次第に近づいていき……
不倫が身近な存在の今、結婚を、夫婦を、子どもの存在を……あなたはどう考えていますか?
※アリーナの幸せを一緒に見届けて下さると嬉しいです。
【完結】どくはく
春風由実
恋愛
捨てたつもりが捨てられてしまった家族たちは語る。
あなたのためだったの。
そんなつもりはなかった。
だってみんながそう言うから。
言ってくれたら良かったのに。
話せば分かる。
あなたも覚えているでしょう?
好き勝手なことを言うのね。
それなら私も語るわ。
私も語っていいだろうか?
君が大好きだ。
※2025.09.22完結
※小説家になろうにも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる