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「ティーエ」
反対方向から呼ばれて振り向くと、ロッソとセラフィナが並んで立っていた。
背後の花壇には、薄黄色の小さな愛らしい花が咲き乱れている。
春の庭。ロッソに寄り添い、微笑むセラフィナの姿は幸福そのものだ。
「ありがとうティーエ。お前のおかげだ。お前がいたから、お前が背中を押してくれたから今のおれたちがあるんだ。それで姫が今度、お前も一緒にお茶どうかって言ってさ。あ、ほら、二人共魔法に携わる者同士だろ。互いに見識を深め合ういい機会でもあるんじゃないか?」
ロッソがティランに向かって手を差し伸べる。ティランはその手をじっと見つめていた。
背後では、叫び続ける男の声。
ロッソが言う。
「行こう、ティーエ」
「……ったのに」
「どうした、ほら」
促すロッソを、顔を上げて真っ直ぐ見て、ティランは言った。
泣きそうな顔で笑う。
鼻の奥がツンとして、声が僅かに震えた。胸がつっかえるようになって苦しい。
「そうなってたら、よかったのにな……でも現実は、そうやなかった……! これはおれが作り上げた都合のいい夢。甘い毒。偽りの幸福や」
わかっている。
現実を認めず、夢に浸り過ごすこと。狂気は幸福だ。
けれど気づいてしまったら、もうダメだった。
「ごめん」
今となっては届かない言葉だけれど。
涙で視界が揺れ、ロッソとセラフィナの姿は溶けるようにして消えた。
「どうにもならない後悔も、多分この先もずっと消えることのない傷も、忘れてしまいたくなるような嫌な記憶さえ、今のおれの一部なんや」
過去のティランは、多くを失った。守りたかったものを何一つ守ることができなかった。
それでも、現在のティランにも、また新たに守りたいものができた。
それらをなかったことにするなんてできない。
「ティラン!!」
声が枯れるのではないかと思うほど、何度も何度も呼ぶ声。
痛いほどに必死な声。
これが現実なのだと、切なく誇らしいような、そんな気持ちを噛みしめる。
ここはティランの意識の中だ。ティランの意思が全ての上位に立つ。ティランが思い、願うことですべてがそのように動く。
杖。なくても構わないが、あった方がなんだか落ち着く。手の中に現れる。ごつごつとした手触りの長い杖。
この世界は、この身体はティランのもの。支配者はティランであり、それ以外の者は必要ない。
「この身に宿る力は我、白銀の国の民人ティエンランのものであり、これに巣食う悪しき魂は即刻の退去を命ずる」
ティランの体の中から浮き上ってきた赤黒い靄が、煙のように立ち上る。
ルフスの姿のまま、水鏡が叫んだ。
「山吹!」
山吹が素早く印を結んで、口早に何かを唱えた。二本の指で宙に五芒星を描く。
それは、祓い屋が妖退治を行う際に使う術の一つだった。
強力な妖は札に封じ、札ごと始末する。
グルナの教えを、山吹はすぐに理解し、技を会得した。だがアンノウン相手では、札は使い物にならない。
だから山吹は、自身の体を札の代わりとすることにした。
山吹の足元から伸びた複数の蔦が束となり、靄を絡み取る。
抵抗し、逃れようとするアンノウンに山吹は言った。
「滅びましょう、私と共に」
意識を取り戻したティランの耳に、その声は届いていた。ふらつきながら起き上がり目にした光景は、絡み合う蔦に今にも呑まれそうになっている山吹の姿であった。
ティランはその瞬間、彼女の意図を察した。
その身に宿した呪いを利用して、アンノウンを葬ろうとしているのだと。
傍らでは、ルフスの姿をした水鏡が掌を山吹に向けていた。力を注ぎ、呪いの進行を速めているのだと知る。
「何を……!」
「これで、よいのです!」
愕然とするティランに、山吹が言った。
呪いの痣が胸から喉、下あごのあたりにまで伸びていた。呪いに蝕まれた体で、更に体の内に捕えたアンノウンを逃がさないよう力を行使するのは相当の痛みを伴っているはずだが、山吹は微笑んでいた。
「私は、英雄であるルフス殿の助けとなるために生み出されました。ですが、」
言い切る前に、蔦の緑に阻まれ、山吹の姿は消えた。
いくつもの思いと考えが、ティランの中を一気に駆け巡る。
だめだ。
またおれは、何もできないまま事態が進むのを、ただ黙って見ているのか。また後悔するつもりか。
嫌だ。
そんなのはもう二度としないと、今度こそはと決めたばかりではないか。
山吹の呪いは多分、これはティランの予想でしかないが、対象となった魂を屠るまで消滅しないのだ。だから山吹は呪いを己の体に移した。
だとしたら。
考えろ。
すぐにだ。
今すぐにできる手だてを。今度こそ、最善だと思える方法を。
自分にあるのは魔法の力。ただし、手元に杖はないから物質世界に戻った今は使えない。
肝心な時に役に立たないことを苛立ちながら、思考は止めない。今使える武器は、ティランにはもう考えることだけだ。状況を整理し、使えるものが何がないか探して、策を練ることだけだ。
今ここにあるのは、水鏡の妖としての力とそして、
「ルフス!!」
ティランが叫んで、どこか近くにいるのだろうルフスを探した。
すぐ後ろで、白い人型の靄が立ち尽くしていた。術に疎いから恐らく、今何が起きているのかを理解していないに違いない。しかし只ならぬ事態に驚愕しているのが、表情は見えずともわかった。
そのルフスを見て、ティランはハッとする。
「行けルフス! 山吹を、あいつの魂だけを、解放せえ!!」
説明している時間はなく、端的に指示を出す。
それでもルフスが相手であれば、それで十分だと思った。確信めいた思いだった。
瞬間、ゆらりと白い靄の輪郭が炎のごとく揺らいで、そこにルフスの姿が浮かび上がったように、ティランの目には映った。
ルフスは剣を握り、蔦の塊に向かって飛び、吸い込まれるようにして消えた。
駆ける。
風になる。
密集する蔦の森を潜り抜ける。
物質が実体のないルフスを遮ることはない。
やがて白く発光するものが見えた。ルフスは迷わず光に飛び込み、光はルフスを迎え入れた。
光が去ると、目前に黒い巨大な柱が現れた。
表面の黒色が蠢いた気がして、よく見ると、それは単一のものではなく、何か小さく細かなものの集まりであることが分かる。黒い小さなものはまるで虫のように飛来してきて、柱はどんどんと膨れ上がる。
これこそが呪いの正体であり、魂を捕える鎖であるとルフスは思って、その中心に二つの気配を感じ取る。
ひとつはアンノウンと、そしてもうひとつ。
「山吹」
剣の柄を両手で握り、柱の前に立つ。
おれは世界を救えるような、そんな偉大で立派な人間じゃないけど。
でもせめて、傍にいる大切な人間、手の届く範囲だけはせめて。
掲げた剣を振り下ろし、できた裂け目の中に白く丸い小さな球を見つける。
腕を伸ばす。掴む。
壊れないように、そっと。
片側の手に持つ剣が唸った。
呪いの中に残るもう一つの気配に反応しているのだ。ルフスは剣を静かに窘め、諫める。白い球を大切に抱え、元の世界に戻るべく踵を返す。
背後から声が響いた。
「どうした斬らないのかい、英雄様」
からかうようなアンノウンの声。
ルフスは背を向けたまま言った。
「お前は放っておいても、呪いによって滅びる」
「自らの手で始末すればいいじゃないか。俺ぁ、お前の大事な人間の人生を滅茶苦茶にした憎き仇なんだろう?」
「この呪いは誰かの命を屠るまで消滅しないんじゃないか?」
今になって知った。
山吹が己の身に呪いを移していたこと。
力のある彼女が、そうした理由は一つしか考えられない。
あの時、ルフスの体内から取り出した呪いの種。捨て去ることもできたはずだ。それをしなかったのは、他の誰かがその犠牲になることを防ぐためだ。誰の魂も犠牲にならなければ、世界そのものが犠牲になっていたのかもしれない。
「だったらお前が犠牲となれ、アンノウン」
「なんと! なんと非道な人間だろうな。我一人を世界の贄にしようというのか! お前のような男が英雄だなんて笑わせる!」
挑発的なアンノウンの言葉にも、ルフスの心は静かだった。
「おれは英雄なんかじゃない」
大切なものがある。
広い世界のなかでそれは、ほんの一握りだ。
それらを守る為なら、他のそうじゃないものたちを見捨てても、自分はそのひと握りを選ぶだろう。
未熟で弱く、醜い。
自分はそんな人間だ。
英雄と呼ばれるような器じゃない。
歩き出す。
―――でも、
透き通った、労わりのある声が聞こえた気がした。
―――目の前に助けを求める人があれば、きっと飛び出していく。過酷な状況にあってもできることを探し、向かっていこうとする。あなた様はそんなお方でしょう。
―――それこそが英雄と呼ぶにふさわしい器であると、私はそう思います。
歩む先に、またあの光が見えた。
光を抜けた先に待っていたのは、ティランと水鏡だった。大量の蔦は消え去り、山吹の姿もそこにはなかった。ただ壊れた鈴が一つ落ちていた。
ルフスに実体が戻され、水鏡は半透明の本来の姿になっていた。
ルフスは膝をつき鈴を拾って、背を向けたままティランに問いかけた。
「ティランは、知ってたのか? 山吹のこと」
少しの沈黙があって、ティランが答えた。
「……ああ」
「そっか……」
水鏡が珍しく疲れたような吐息を漏らして言った。
「いつまでこんな胸糞悪い場所にいる気だ。というかこの空間を作った術者がいなくなった今、間もなく崩壊するだろうから、巻き込まれる前にさっさと出るぞ」
返事を待たずに、水鏡はルフスとティランを転送させた。
ホオシンの、床が板張りでそこに直接布団が敷かれた、宿の部屋だった。ティランが書き物をしていた座卓と、散らばった紙がそのまま残っていたが、書き込んでいた文字や図形は全て消えていた。座卓の近くに置いていた鞄もそのままになっていた。
「ルフス……」
「……」
「黙ってて、すまんかった」
ルフスは割れた鈴から目を逸らさずに首を振る。
なんだか今は、ティランの顔を見たくなかった。でもそれは、ティランだからじゃない。
誰とも会いたくなかった。
一人になりたかった。
「ごめんティラン……今はなんか…………」
「ああ……」
張りのない、短い声が返ってきて、扉が滑る音がし、ティランが言った。
「ゆっくり休めよ」
扉が閉まる。
一人だ。外の、風の音だけが微かに聞こえるだけの、静けさがそこには満ちていた。
ルフスは無力な自分を嘆き、それから気が付くと眠っていた。眠りは深く長く続いて、目覚めたのは次の日の朝だった。
ティランは姿を消していた。
村のどこにもいなくて、荷物と杖も一緒になくなっていた。
宿の主人が、夜明け前にティランが出て行くのを見かけたらしいが、その後どこに向かったのかは知らないと言っていた。
「どうするの、これから。故郷に帰るの?」
「ティランを、探そうと思って……」
見送りに来たグルナの問いに、ルフスは馬上から答えを寄越した。
ルフスはちょっと寂しげに笑う。
「まだちゃんと話せてないんだ」
言いたいこと、一言も言えていない。
ちゃんと話さなくちゃ。
もう一度会って、怒って、喧嘩して、謝って、仲直りして。
それから、いつか話した故郷の春を、美しい季節を見せてやるんだ。
馬が歩き出し、ルフスはその背の上で揺られながら空を見上げる。
大丈夫。だって、同じこの空の下のどこかにいるんだから。
きっといつかどこかで会える。
なあ、そうだよな。
ティラン。
世界の意思。
大いなる魔力の源。
空を切り裂く白き閃光。
様々な呼び名を持つ魔族の王を、青く輝く魔法陣の外からティランは地面に這いつくばりながら見上げる。足りない素材を補填する為、自らの魔力を余分に捧げて、目を開けているだけでも精一杯だった。
白く長い髪と髭を持つ老人姿の魔王は宙に浮いたまま、ティランを一瞥して呟く。
「やれ、人間というのは無茶をするのが趣味なのか?」
その一息で、ティランの体が楽になる。
起き上がったティランは片膝をつき左手の拳を右手で覆って、深く頭を垂れる。
「不足の多い歓待の儀であったにも関わらず、我が願いを聞き入れ、お越しいただき恐悦至極にございます。魔王陛下」
「微かに知っている気配を感じた、お主は、あの時の異界の魔族の……まあ良い。それでお主の望みは?」
「我が友の復活を」
魔王は長い眉をぴくりと動かす。
「蘇生は世の理に反する。聞けん望みである」
「願うのは蘇生ではございません。偉大なる記憶の受け皿であらせられる御方であれば、山吹という名に覚えがございましょう」
「山吹?」
ふむと顎に蓄えた髭を撫でて考え、小さな黒目で斜め上方向を仰いでから、魔王が言う。
「ああ、鈴ノ宮の……」
ティランは壊れた鈴と、ガラス瓶を魔王の前に捧げ持つ。瓶の中には白く発光する小さな球体が収められている。
鈴ノ宮が自身の持つ鈴から生み出した存在。人間の英雄の補佐するために。
「対になった鈴の片割れだったか。もう片方は鈴ノ宮が持っておるから、確かにそれにこの魂を再び与えることはできるだろうが……」
死した魂は、あの世で役目を与えられる。役目を終えた魂は再び地上にて生を受ける。
それが、この世とあの世における定め事だ。
「それを覆すとなると」
「代償が必要であればこの命を」
切に願うティランの揺るぎのない言葉と眼差しを受けとめ、魔王は無情とも思える条件を提示する。
「代償はお主の存在。それでも、なお願うか?」
存在そのものを消すこと。
それはつまり、世界の記録からティランという存在が消えることを意味する。当然人々の記憶から、関わってきた全ての出来事からティランの存在が失われることだ。あったはずのことがなかったことにされる。
誰もが躊躇いを抱くはずの決断だ。
だがティランは既に迷いを捨てていた。
ルフス、お前のことだからたぶん、責任を感じてるんだろう。
元は自分にかけられた呪いだと。
けど違う。
元凶はおれや。
おれの魔力が利用された。
おれがこの時代にいたから。無駄に生きていたから。
あの時。五百年前のあの日におれは死を選ぶべきだった。
それが最善だったのに。
どうせ本来この時代に生きていなかったはずの命だ。
ティランを知る者は、今のこの時代に数えるほどしかいない。
それならば。
ティランは微笑みを浮かべて言った。
「このおれの全てをかけて請う。どうか山吹をこの世に帰し、再びルフスの元へ」
反対方向から呼ばれて振り向くと、ロッソとセラフィナが並んで立っていた。
背後の花壇には、薄黄色の小さな愛らしい花が咲き乱れている。
春の庭。ロッソに寄り添い、微笑むセラフィナの姿は幸福そのものだ。
「ありがとうティーエ。お前のおかげだ。お前がいたから、お前が背中を押してくれたから今のおれたちがあるんだ。それで姫が今度、お前も一緒にお茶どうかって言ってさ。あ、ほら、二人共魔法に携わる者同士だろ。互いに見識を深め合ういい機会でもあるんじゃないか?」
ロッソがティランに向かって手を差し伸べる。ティランはその手をじっと見つめていた。
背後では、叫び続ける男の声。
ロッソが言う。
「行こう、ティーエ」
「……ったのに」
「どうした、ほら」
促すロッソを、顔を上げて真っ直ぐ見て、ティランは言った。
泣きそうな顔で笑う。
鼻の奥がツンとして、声が僅かに震えた。胸がつっかえるようになって苦しい。
「そうなってたら、よかったのにな……でも現実は、そうやなかった……! これはおれが作り上げた都合のいい夢。甘い毒。偽りの幸福や」
わかっている。
現実を認めず、夢に浸り過ごすこと。狂気は幸福だ。
けれど気づいてしまったら、もうダメだった。
「ごめん」
今となっては届かない言葉だけれど。
涙で視界が揺れ、ロッソとセラフィナの姿は溶けるようにして消えた。
「どうにもならない後悔も、多分この先もずっと消えることのない傷も、忘れてしまいたくなるような嫌な記憶さえ、今のおれの一部なんや」
過去のティランは、多くを失った。守りたかったものを何一つ守ることができなかった。
それでも、現在のティランにも、また新たに守りたいものができた。
それらをなかったことにするなんてできない。
「ティラン!!」
声が枯れるのではないかと思うほど、何度も何度も呼ぶ声。
痛いほどに必死な声。
これが現実なのだと、切なく誇らしいような、そんな気持ちを噛みしめる。
ここはティランの意識の中だ。ティランの意思が全ての上位に立つ。ティランが思い、願うことですべてがそのように動く。
杖。なくても構わないが、あった方がなんだか落ち着く。手の中に現れる。ごつごつとした手触りの長い杖。
この世界は、この身体はティランのもの。支配者はティランであり、それ以外の者は必要ない。
「この身に宿る力は我、白銀の国の民人ティエンランのものであり、これに巣食う悪しき魂は即刻の退去を命ずる」
ティランの体の中から浮き上ってきた赤黒い靄が、煙のように立ち上る。
ルフスの姿のまま、水鏡が叫んだ。
「山吹!」
山吹が素早く印を結んで、口早に何かを唱えた。二本の指で宙に五芒星を描く。
それは、祓い屋が妖退治を行う際に使う術の一つだった。
強力な妖は札に封じ、札ごと始末する。
グルナの教えを、山吹はすぐに理解し、技を会得した。だがアンノウン相手では、札は使い物にならない。
だから山吹は、自身の体を札の代わりとすることにした。
山吹の足元から伸びた複数の蔦が束となり、靄を絡み取る。
抵抗し、逃れようとするアンノウンに山吹は言った。
「滅びましょう、私と共に」
意識を取り戻したティランの耳に、その声は届いていた。ふらつきながら起き上がり目にした光景は、絡み合う蔦に今にも呑まれそうになっている山吹の姿であった。
ティランはその瞬間、彼女の意図を察した。
その身に宿した呪いを利用して、アンノウンを葬ろうとしているのだと。
傍らでは、ルフスの姿をした水鏡が掌を山吹に向けていた。力を注ぎ、呪いの進行を速めているのだと知る。
「何を……!」
「これで、よいのです!」
愕然とするティランに、山吹が言った。
呪いの痣が胸から喉、下あごのあたりにまで伸びていた。呪いに蝕まれた体で、更に体の内に捕えたアンノウンを逃がさないよう力を行使するのは相当の痛みを伴っているはずだが、山吹は微笑んでいた。
「私は、英雄であるルフス殿の助けとなるために生み出されました。ですが、」
言い切る前に、蔦の緑に阻まれ、山吹の姿は消えた。
いくつもの思いと考えが、ティランの中を一気に駆け巡る。
だめだ。
またおれは、何もできないまま事態が進むのを、ただ黙って見ているのか。また後悔するつもりか。
嫌だ。
そんなのはもう二度としないと、今度こそはと決めたばかりではないか。
山吹の呪いは多分、これはティランの予想でしかないが、対象となった魂を屠るまで消滅しないのだ。だから山吹は呪いを己の体に移した。
だとしたら。
考えろ。
すぐにだ。
今すぐにできる手だてを。今度こそ、最善だと思える方法を。
自分にあるのは魔法の力。ただし、手元に杖はないから物質世界に戻った今は使えない。
肝心な時に役に立たないことを苛立ちながら、思考は止めない。今使える武器は、ティランにはもう考えることだけだ。状況を整理し、使えるものが何がないか探して、策を練ることだけだ。
今ここにあるのは、水鏡の妖としての力とそして、
「ルフス!!」
ティランが叫んで、どこか近くにいるのだろうルフスを探した。
すぐ後ろで、白い人型の靄が立ち尽くしていた。術に疎いから恐らく、今何が起きているのかを理解していないに違いない。しかし只ならぬ事態に驚愕しているのが、表情は見えずともわかった。
そのルフスを見て、ティランはハッとする。
「行けルフス! 山吹を、あいつの魂だけを、解放せえ!!」
説明している時間はなく、端的に指示を出す。
それでもルフスが相手であれば、それで十分だと思った。確信めいた思いだった。
瞬間、ゆらりと白い靄の輪郭が炎のごとく揺らいで、そこにルフスの姿が浮かび上がったように、ティランの目には映った。
ルフスは剣を握り、蔦の塊に向かって飛び、吸い込まれるようにして消えた。
駆ける。
風になる。
密集する蔦の森を潜り抜ける。
物質が実体のないルフスを遮ることはない。
やがて白く発光するものが見えた。ルフスは迷わず光に飛び込み、光はルフスを迎え入れた。
光が去ると、目前に黒い巨大な柱が現れた。
表面の黒色が蠢いた気がして、よく見ると、それは単一のものではなく、何か小さく細かなものの集まりであることが分かる。黒い小さなものはまるで虫のように飛来してきて、柱はどんどんと膨れ上がる。
これこそが呪いの正体であり、魂を捕える鎖であるとルフスは思って、その中心に二つの気配を感じ取る。
ひとつはアンノウンと、そしてもうひとつ。
「山吹」
剣の柄を両手で握り、柱の前に立つ。
おれは世界を救えるような、そんな偉大で立派な人間じゃないけど。
でもせめて、傍にいる大切な人間、手の届く範囲だけはせめて。
掲げた剣を振り下ろし、できた裂け目の中に白く丸い小さな球を見つける。
腕を伸ばす。掴む。
壊れないように、そっと。
片側の手に持つ剣が唸った。
呪いの中に残るもう一つの気配に反応しているのだ。ルフスは剣を静かに窘め、諫める。白い球を大切に抱え、元の世界に戻るべく踵を返す。
背後から声が響いた。
「どうした斬らないのかい、英雄様」
からかうようなアンノウンの声。
ルフスは背を向けたまま言った。
「お前は放っておいても、呪いによって滅びる」
「自らの手で始末すればいいじゃないか。俺ぁ、お前の大事な人間の人生を滅茶苦茶にした憎き仇なんだろう?」
「この呪いは誰かの命を屠るまで消滅しないんじゃないか?」
今になって知った。
山吹が己の身に呪いを移していたこと。
力のある彼女が、そうした理由は一つしか考えられない。
あの時、ルフスの体内から取り出した呪いの種。捨て去ることもできたはずだ。それをしなかったのは、他の誰かがその犠牲になることを防ぐためだ。誰の魂も犠牲にならなければ、世界そのものが犠牲になっていたのかもしれない。
「だったらお前が犠牲となれ、アンノウン」
「なんと! なんと非道な人間だろうな。我一人を世界の贄にしようというのか! お前のような男が英雄だなんて笑わせる!」
挑発的なアンノウンの言葉にも、ルフスの心は静かだった。
「おれは英雄なんかじゃない」
大切なものがある。
広い世界のなかでそれは、ほんの一握りだ。
それらを守る為なら、他のそうじゃないものたちを見捨てても、自分はそのひと握りを選ぶだろう。
未熟で弱く、醜い。
自分はそんな人間だ。
英雄と呼ばれるような器じゃない。
歩き出す。
―――でも、
透き通った、労わりのある声が聞こえた気がした。
―――目の前に助けを求める人があれば、きっと飛び出していく。過酷な状況にあってもできることを探し、向かっていこうとする。あなた様はそんなお方でしょう。
―――それこそが英雄と呼ぶにふさわしい器であると、私はそう思います。
歩む先に、またあの光が見えた。
光を抜けた先に待っていたのは、ティランと水鏡だった。大量の蔦は消え去り、山吹の姿もそこにはなかった。ただ壊れた鈴が一つ落ちていた。
ルフスに実体が戻され、水鏡は半透明の本来の姿になっていた。
ルフスは膝をつき鈴を拾って、背を向けたままティランに問いかけた。
「ティランは、知ってたのか? 山吹のこと」
少しの沈黙があって、ティランが答えた。
「……ああ」
「そっか……」
水鏡が珍しく疲れたような吐息を漏らして言った。
「いつまでこんな胸糞悪い場所にいる気だ。というかこの空間を作った術者がいなくなった今、間もなく崩壊するだろうから、巻き込まれる前にさっさと出るぞ」
返事を待たずに、水鏡はルフスとティランを転送させた。
ホオシンの、床が板張りでそこに直接布団が敷かれた、宿の部屋だった。ティランが書き物をしていた座卓と、散らばった紙がそのまま残っていたが、書き込んでいた文字や図形は全て消えていた。座卓の近くに置いていた鞄もそのままになっていた。
「ルフス……」
「……」
「黙ってて、すまんかった」
ルフスは割れた鈴から目を逸らさずに首を振る。
なんだか今は、ティランの顔を見たくなかった。でもそれは、ティランだからじゃない。
誰とも会いたくなかった。
一人になりたかった。
「ごめんティラン……今はなんか…………」
「ああ……」
張りのない、短い声が返ってきて、扉が滑る音がし、ティランが言った。
「ゆっくり休めよ」
扉が閉まる。
一人だ。外の、風の音だけが微かに聞こえるだけの、静けさがそこには満ちていた。
ルフスは無力な自分を嘆き、それから気が付くと眠っていた。眠りは深く長く続いて、目覚めたのは次の日の朝だった。
ティランは姿を消していた。
村のどこにもいなくて、荷物と杖も一緒になくなっていた。
宿の主人が、夜明け前にティランが出て行くのを見かけたらしいが、その後どこに向かったのかは知らないと言っていた。
「どうするの、これから。故郷に帰るの?」
「ティランを、探そうと思って……」
見送りに来たグルナの問いに、ルフスは馬上から答えを寄越した。
ルフスはちょっと寂しげに笑う。
「まだちゃんと話せてないんだ」
言いたいこと、一言も言えていない。
ちゃんと話さなくちゃ。
もう一度会って、怒って、喧嘩して、謝って、仲直りして。
それから、いつか話した故郷の春を、美しい季節を見せてやるんだ。
馬が歩き出し、ルフスはその背の上で揺られながら空を見上げる。
大丈夫。だって、同じこの空の下のどこかにいるんだから。
きっといつかどこかで会える。
なあ、そうだよな。
ティラン。
世界の意思。
大いなる魔力の源。
空を切り裂く白き閃光。
様々な呼び名を持つ魔族の王を、青く輝く魔法陣の外からティランは地面に這いつくばりながら見上げる。足りない素材を補填する為、自らの魔力を余分に捧げて、目を開けているだけでも精一杯だった。
白く長い髪と髭を持つ老人姿の魔王は宙に浮いたまま、ティランを一瞥して呟く。
「やれ、人間というのは無茶をするのが趣味なのか?」
その一息で、ティランの体が楽になる。
起き上がったティランは片膝をつき左手の拳を右手で覆って、深く頭を垂れる。
「不足の多い歓待の儀であったにも関わらず、我が願いを聞き入れ、お越しいただき恐悦至極にございます。魔王陛下」
「微かに知っている気配を感じた、お主は、あの時の異界の魔族の……まあ良い。それでお主の望みは?」
「我が友の復活を」
魔王は長い眉をぴくりと動かす。
「蘇生は世の理に反する。聞けん望みである」
「願うのは蘇生ではございません。偉大なる記憶の受け皿であらせられる御方であれば、山吹という名に覚えがございましょう」
「山吹?」
ふむと顎に蓄えた髭を撫でて考え、小さな黒目で斜め上方向を仰いでから、魔王が言う。
「ああ、鈴ノ宮の……」
ティランは壊れた鈴と、ガラス瓶を魔王の前に捧げ持つ。瓶の中には白く発光する小さな球体が収められている。
鈴ノ宮が自身の持つ鈴から生み出した存在。人間の英雄の補佐するために。
「対になった鈴の片割れだったか。もう片方は鈴ノ宮が持っておるから、確かにそれにこの魂を再び与えることはできるだろうが……」
死した魂は、あの世で役目を与えられる。役目を終えた魂は再び地上にて生を受ける。
それが、この世とあの世における定め事だ。
「それを覆すとなると」
「代償が必要であればこの命を」
切に願うティランの揺るぎのない言葉と眼差しを受けとめ、魔王は無情とも思える条件を提示する。
「代償はお主の存在。それでも、なお願うか?」
存在そのものを消すこと。
それはつまり、世界の記録からティランという存在が消えることを意味する。当然人々の記憶から、関わってきた全ての出来事からティランの存在が失われることだ。あったはずのことがなかったことにされる。
誰もが躊躇いを抱くはずの決断だ。
だがティランは既に迷いを捨てていた。
ルフス、お前のことだからたぶん、責任を感じてるんだろう。
元は自分にかけられた呪いだと。
けど違う。
元凶はおれや。
おれの魔力が利用された。
おれがこの時代にいたから。無駄に生きていたから。
あの時。五百年前のあの日におれは死を選ぶべきだった。
それが最善だったのに。
どうせ本来この時代に生きていなかったはずの命だ。
ティランを知る者は、今のこの時代に数えるほどしかいない。
それならば。
ティランは微笑みを浮かべて言った。
「このおれの全てをかけて請う。どうか山吹をこの世に帰し、再びルフスの元へ」
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