根本 九ツ

文字の大きさ
1 / 1

しおりを挟む
 あの時、僕は不覚にも恋に落ちてしまったのだった。

 二時限目の現国の授業が終わって、授業の間の十分間の短い休憩時間のことだった。休憩時間が開始して三十秒ほど経過した時。数週間前に行われた席替えにて、籤引によって僕から見て右隣の席になった片桐さんが、ボールペンを机から落とした。教科書やノートを片づけていた僕はボールペンが床に落ちた音を聞いて反射的にそちらに目をやった。その時、片桐さんは咄嗟に椅子から立ち上がり、机に右手をつくようにして、ボールペンをつかもうと左手を伸ばしていたようだ。当然ながら自由落下を始めたボールペンに反射で追いつくことができるはずもなく、彼女の左手は空を切っていた。

 少し話は逸れるが、席替えがあったその日、隣の席の彼女が左利きであることに気が付いた。クラスメイトの利き腕など気にしたことはなかったのだが、席替えの後の授業、担任の先生が教える数学の授業にて、彼女は教科書を忘れ、僕の教科書を見せてほしいと頼まれた時、机を近づけ、授業を受けた際に、右利きの僕と左利きの彼女はお互いの肘をぶつけ、顔を見合わせ苦笑したのだ。その時は特段彼女のことを異性として意識してはいなかった。

 閑話休題。その時に実際に僕が見たのは、机から落としたボールペンを空中で掴むチャレンジに失敗したであろう姿勢の片桐さんだ。彼女は少し悲しげに眉間に皺を寄せた。目撃者である僕に気付いた彼女は少し顔を向け、先日のように小さく苦笑いを浮かべた。僕も相槌を打つように苦笑した。

 またも余談だが、ここで少し僕という人物像をもう少し明確にしよう。一つの教室に押し込められた三十人の中でも無個性で目立たず、いじめなどせず、いじめられたりもせず、これといった困りごともなく過ごしている。人と会話をするときの距離感がわからない捩じくれた気質をした僕は、これまでの人生での経験や人の心理を教えてくれる本の情報を基に、自分が他人と関わる際にとるべきな不即不離の距離感を仮定して過ごしていた。必然、仲良しの友達グループがあるというわけでもなく、クラスメイトとの関わりは薄く、これまで自らの中に恋愛感情というものを体感したことがなかった。クラスにとって不可欠ではない、凡庸で没交渉な構成員でしかない僕は、いわゆる高校生活を送るためというよりも、「今後の人生のため」や「最低限は高校や大学を卒業して」という言葉を盾に、モラトリアムの一環として高校に通っていた。将来なりたいものや、夢も持っていない。人との関わりも苦手。哲学的ゾンビといっても差支えないのかもしれない。それが僕だ。
 僕は彼女に苦笑いを返した。これまでの人生で身に着けた技術の一つ。ミラーリングだ。相手の仕草や行動を鏡のようにマネをする。心理学によると好意的に受け取られやすい。裏を返すと敵対しにくい。僕は誰に対してもなんとなく敵対しないようにする。例外はない。両親や教師。クラスメイト。男性女性。一切の違いはない。
 
 それはさておき、落ちたボールペンの話だ。いや僕が恋に落ちた話か。お互いに苦笑した僕と片桐さん。時間にすると一秒未満の出来事だろうか。彼女はボールペンを拾うために、つい先刻まで彼女が座っていた椅子をひざの裏で押し下げる。その時、彼女のさらに右隣の席の男子生徒であるところの滝村くんが颯爽と彼女の席の前に現れる。滝村君は特別焦ったり急いだりする様子もなく、さも当然のことのようにボールペンを拾い上げ、「はい、ペン。」と片桐さんに差し出し、片桐さんに微笑みかけた。片桐さんは滝村君のほうに向き直った。ボールペンが落ちて三秒以内の出来事だ。片桐さんが滝村くんの微笑みを認識した時。その瞬間、一瞬だ。片桐さんは、筆舌に尽くしがたい表情をした。あえて文章で表現するならば、希望や夢といったような燦然と光り輝く概念を前にしたような表情を浮かべたのだ。僕はその瞬間の彼女の横顔に息をのんだ。
 
 またも脱線するのだが、片桐さんは普通の女子生徒だ。いや普通の女子というのが僕には難しい。彼女は同年代のクラスメイトと比較するとおとなしい傾向に分類されるだろう。高校ともなると化粧をしている女子も多い。校則では化粧は禁止されているが、実際問題守られていないし、守らなくても誰も注意しない有名無実なものとなっている中、彼女は化粧っ気がなく、素朴、地味な雰囲気だ。
 
 本筋に戻ろう。そんな彼女が見せた一瞬の表情に僕は心を奪われた。と、同時に自らの脳裏に浮かぶ「恋」「一目惚れ」といった言葉に心底動揺した。今まで体験したことのない初めての感情に。無論彼女とは初対面ではない。だがこれは一目惚れというものだろう。言葉としては知っている。ただ、本当の意味では理解できていなかったのだろう。今まで片桐さんとの間にあった出来事。決して多くはない。いずれも多少の言葉を交わし苦笑いしただけだ。そこから作り上げられた、僕の中にある片桐さんという人物像が、一瞬の彼女の表情で鮮烈に彩られる。彼女を好きだと認識する。僕の目は彼女に釘付けになる。
 
 片桐さんは滝村くんに微笑みを返した。「ありがと。」片桐さんは滝村くんに礼をいった。ボールペンが落ちてからここまで五秒ほどだろうか。僕の胸はひどく痛んだ。ミラーリング。僕は意識的にしている。ただこれは人間が相手に好意を持たれたいとき無意識的に、本能的にする反応でもある。片桐さんは滝村くんのことが。僕の空想に過ぎない。わかっているがあの微笑みが僕に向けられていない事が、辛かった。
 
 残りの休憩時間、片桐さんは自席に戻った滝村くんと談笑していた。
 
 僕は嫉妬も理解した。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

もうあなた達を愛する心はありません

❤️ 賢人 蓮 涼介 ❤️
恋愛
セラフィーナ・リヒテンベルクは、公爵家の長女として王立学園の寮で生活している。ある午後、届いた手紙が彼女の世界を揺るがす。 差出人は兄ジョージで、内容は母イリスが兄の妻エレーヌをいびっているというものだった。最初は信じられなかったが、手紙の中で兄は母の嫉妬に苦しむエレーヌを心配し、セラフィーナに助けを求めていた。 理知的で優しい公爵夫人の母が信じられなかったが、兄の必死な頼みに胸が痛む。 セラフィーナは、一年ぶりに実家に帰ると、母が物置に閉じ込められていた。幸せだった家族の日常が壊れていく。魔法やファンタジー異世界系は、途中からあるかもしれません。

冷徹公爵の誤解された花嫁

柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。 冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。 一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

行き場を失った恋の終わらせ方

当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」  自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。  避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。    しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……  恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...