退廃成人

阿弖流為

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幸福な生活

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 幸福だった。
 少なくとも、妻はそう思っていた。

 結婚して三年目。私は二十九歳、夫は三十一歳。夫はごく普通のサラリーマンで、そこそこの給料を稼ぎ、私はパートをしながら家を守っていた。子どもはまだいなかったが、それも「焦らなくてもいい」と夫は言っていたし、私もそう思っていた。

 夫は優しかった。少なくとも、結婚前はそう思っていた。

「お前といると落ち着くよ」
 夫はよくそう言った。何の変哲もない会話の流れで、ふと口にする。私はその言葉を信じていたし、そう言われることが嬉しかった。私自身、夫といると安心できたし、彼の穏やかな笑顔を見ていると、それだけで幸せだった。

 ただ、結婚して数年経つうちに、私は薄々気づき始めていた。
 夫は「落ち着く」という言葉の意味を、私とは違う解釈をしているのではないか、と。

 たとえば、夫は休日になると一日中、ソファに寝転がり、テレビをぼんやり眺める。私が話しかけても、うわの空で「うん」とか「そうだな」とか適当な相槌を打つだけ。仕事で疲れているのだろうと思い、私は黙って家事をこなした。それが「良い妻」なのだと信じていたから。

 けれど、ふとした拍子に思うのだ。
 この人は、私と一緒にいるから落ち着くのではなく、私が何も求めないから落ち着くのではないか、と。

 結婚前は、もっと違った。デートのときは話題を提供してくれたし、仕事の愚痴もこぼした。未来の話だってした。なのに、今はどうだろう。私が何か話しかけない限り、彼はただ黙っている。時々スマホを弄る。テレビを観る。酒を飲む。

 それでも、私は幸福だった。少なくとも、そう思い込もうとしていた。

***

 ある日、私は夫と夕食を囲んでいた。いつものように、私が料理をよそい、夫が無言でそれを食べる。食事の時間は、ほとんど会話がなかった。

「……ねえ、今日、会社で何かあった?」
 私はふと思い立って尋ねた。夫は箸を止め、少し間をおいてから答えた。

「別に。何も」

 それきりだった。まるで会話を終わらせるような口調だった。

 少し前までは、夫も会社の話をしてくれた。上司の愚痴、同僚とのトラブル、時には笑い話もあった。でも、いつの頃からか、彼は仕事の話をしなくなった。

「……そう」

 私はそれ以上何も言えなかった。夫の視線はもうテレビの方へ向いていた。私は自分の箸を握りしめながら、黙って味噌汁をすする。少し、冷めていた。

***

 夜、夫は私に背を向けて眠っていた。
 ベッドの上で、私はぼんやりと天井を見つめる。

 幸福とは何だろうか、と考える。

 私は夫といると落ち着く。だけど、それは愛情ゆえの安心感なのか、それとも単なる慣れなのか。夫が私といると落ち着くというのなら、それは私を愛しているからなのか、それとも私が何も求めないからなのか。

 考えても答えは出なかった。

 ただ、夫の寝息を聞きながら、私はぼんやりと思った。
 この平穏が、ずっと続けばいいのに、と。

 しかし、このときの私はまだ知らなかった。
 この「平穏」こそが、私たちの関係の緩やかな崩壊の始まりだったということを。
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