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崩壊
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夫婦というものは、何かが崩れる音を聞いた瞬間に初めて、自分たちが虚構の上に立っていたことを悟る。
その音は、ある者にとっては怒号の響きであり、ある者にとっては泣き崩れる声かもしれない。だが、私にとって、それはとても静かな音だった。
例えば、夫が食卓に座らなくなった時。
例えば、夫のスーツに見慣れぬ長い髪が一本ついていた時。
例えば、私が「おかえり」と言うのをやめた時。
それは決して劇的な音ではない。
だが、確かにそこに「崩壊の音」があった。
***
「今日も遅いの?」
何気なく、私は夫に尋ねた。
食卓には、簡素な夕食が並んでいる。夫が好んでいた料理はもう作らない。なぜなら、それを作る理由がないからだ。
「うん」
夫はスマホの画面を見つめたまま短く答える。
まるで、そこに私がいないかのように。
「最近、ずっとそうね」
「……そうか?」
夫は無関心な声で返す。私は微笑んだ。
「ええ、そうよ」
そのまま食器を片付ける。夫が箸をつけることはないとわかっていた。ならば、出しっぱなしにしておく意味もない。
「俺、風呂入るわ」
「あら、珍しい」
「何が?」
「あなたが私に言葉をかけるの、久しぶりだから」
夫は一瞬、顔をしかめた。だが、何も言わずにバスルームへと消えていった。
私は小さく息をつく。
会話とは、こうして少しずつ減っていくものなのかもしれない。
***
結婚とは、習慣になることだ。
愛はいつか薄まり、情に変わる。
情はやがて義務に変わり、義務は負担となる。
私は、夫の妻であるという「役割」にすっかり飽きてしまった。
きっと夫も同じだろう。
だが、私たちはまだその事実を認められずにいる。
なぜなら、認めてしまえば、あまりにも虚しくなるからだ。
***
「ねえ」
風呂から上がった夫に、私は声をかけた。
「何?」
「あなた、浮気してる?」
夫の動きが止まる。
水滴が頬を伝うまま、彼は私を見た。
「……なんで?」
「なんとなく。そうなんでしょ?」
夫は笑った。
「ああ、疑ってたのか」
「答えになってないわ」
「もし浮気してたら、どうする?」
私は肩をすくめた。
「何もしないわ」
夫は目を細める。
「怒らないのか?」
「怒ってほしいの?」
夫は何も言わなかった。
私は、再び微笑んだ。
「あなたが何をしていようと、もう私には関係のないことよ」
夫はタオルで髪を拭きながら、静かに息を吐いた。
「……そんな夫婦も、ありかもな」
「そうね」
私はグラスを手に取った。
「でも、そんな夫婦には、きっと愛はないわ」
***
夜が更けていく。
夫はリビングのソファに腰を下ろし、私はその隣でワインを飲む。
かつては同じ時間を過ごすことが、当たり前のように心地よかった。
だが今は、ただそこに二人の人間が座っているだけ。
夫婦という関係が、いかに脆く、曖昧なものなのかを痛感する。
私はグラスの中の赤をじっと見つめながら、ゆっくりと目を閉じた。
——この関係は、いつまで続くのだろう。
——それとも、すでに終わっているのだろうか。
静かな崩壊の音は、今もなお響き続けていた。
その音は、ある者にとっては怒号の響きであり、ある者にとっては泣き崩れる声かもしれない。だが、私にとって、それはとても静かな音だった。
例えば、夫が食卓に座らなくなった時。
例えば、夫のスーツに見慣れぬ長い髪が一本ついていた時。
例えば、私が「おかえり」と言うのをやめた時。
それは決して劇的な音ではない。
だが、確かにそこに「崩壊の音」があった。
***
「今日も遅いの?」
何気なく、私は夫に尋ねた。
食卓には、簡素な夕食が並んでいる。夫が好んでいた料理はもう作らない。なぜなら、それを作る理由がないからだ。
「うん」
夫はスマホの画面を見つめたまま短く答える。
まるで、そこに私がいないかのように。
「最近、ずっとそうね」
「……そうか?」
夫は無関心な声で返す。私は微笑んだ。
「ええ、そうよ」
そのまま食器を片付ける。夫が箸をつけることはないとわかっていた。ならば、出しっぱなしにしておく意味もない。
「俺、風呂入るわ」
「あら、珍しい」
「何が?」
「あなたが私に言葉をかけるの、久しぶりだから」
夫は一瞬、顔をしかめた。だが、何も言わずにバスルームへと消えていった。
私は小さく息をつく。
会話とは、こうして少しずつ減っていくものなのかもしれない。
***
結婚とは、習慣になることだ。
愛はいつか薄まり、情に変わる。
情はやがて義務に変わり、義務は負担となる。
私は、夫の妻であるという「役割」にすっかり飽きてしまった。
きっと夫も同じだろう。
だが、私たちはまだその事実を認められずにいる。
なぜなら、認めてしまえば、あまりにも虚しくなるからだ。
***
「ねえ」
風呂から上がった夫に、私は声をかけた。
「何?」
「あなた、浮気してる?」
夫の動きが止まる。
水滴が頬を伝うまま、彼は私を見た。
「……なんで?」
「なんとなく。そうなんでしょ?」
夫は笑った。
「ああ、疑ってたのか」
「答えになってないわ」
「もし浮気してたら、どうする?」
私は肩をすくめた。
「何もしないわ」
夫は目を細める。
「怒らないのか?」
「怒ってほしいの?」
夫は何も言わなかった。
私は、再び微笑んだ。
「あなたが何をしていようと、もう私には関係のないことよ」
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「……そんな夫婦も、ありかもな」
「そうね」
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「でも、そんな夫婦には、きっと愛はないわ」
***
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だが今は、ただそこに二人の人間が座っているだけ。
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私はグラスの中の赤をじっと見つめながら、ゆっくりと目を閉じた。
——この関係は、いつまで続くのだろう。
——それとも、すでに終わっているのだろうか。
静かな崩壊の音は、今もなお響き続けていた。
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