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第9話 広がる噂、静かな敵意
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第9話 広がる噂、静かな敵意
その日の夜、王宮はいつもと変わらぬ静けさに包まれていた――表向きは。
だが、実務棟の奥、貴族官僚たちが集う小広間では、ひそひそと低い声が交わされていた。
「聞いたか? あの元侯爵令嬢の話」 「ええ。南門の交易帳簿を一目で見抜いたとか」 「大げさだろう。女の勘、というやつではないのか?」
そう言って鼻で笑った男の声には、わずかな焦りが滲んでいた。
「だが、王太子殿下が直々に帳簿を預けたという話だ」 「……それが問題なのよ」
別の男が、杯を置いて低く呟く。
「あれは“花嫁候補”ではない。“使える頭脳”だ。
そして、そういう人間は――邪魔になる」
一方その頃、ルビーは与えられた私室で、静かに書類を整理していた。
机の上には、昼間に確認した帳簿の写しと、彼女自身が書き出した簡潔なメモ。
無駄はない。必要なことだけを、正確に。
(思ったよりも早いですわね)
今日一日で、王宮内の空気がわずかに変わったのを、彼女は肌で感じていた。
視線が増えた。
声が途切れる場面が増えた。
そして――“好奇心”とは別の感情が混じり始めている。
(嫉妬、警戒、恐れ……)
それらは、かつてベルヴェル王宮でも嫌というほど味わったものだ。
ルビーはペンを置き、静かに息を吐いた。
「……懐かしいですこと」
そう呟いた声には、皮肉よりも冷静さがあった。
そのとき、控えめなノックが響く。
「ルビー様、失礼いたします」
扉の向こうにいたのは、王妃付きの侍女だった。
「王妃様がお呼びです。今、お時間は――」 「ええ。すぐに参りますわ」
王妃カミラの私室は、柔らかな香りと落ち着いた光に満ちていた。
「今日の仕事、聞いているわ」
開口一番、王妃はそう言って微笑んだ。
「ずいぶんと思い切ったことをしたそうね」 「事実を申し上げただけですわ」 「それができる人間は、案外少ないものよ」
カミラは、紅茶を一口飲んでから続けた。
「すでに、宮廷の一部がざわつき始めているわ」 「……でしょうね」
ルビーは隠さず頷いた。
「怖くはない?」 「恐怖がないと言えば、嘘になります」
だが、と彼女ははっきりと言った。
「恐れて黙るほど、私はもう“守られる立場”ではありませんの」
王妃は、しばらくルビーを見つめていたが――やがて、満足そうに笑った。
「やはり、レオが見込んだ通りね」
その帰り道。
長い回廊を一人で歩いていると、前方から足音が聞こえた。
「……あなたが、ルビー・エルヴェール?」
声をかけてきたのは、華やかな衣装に身を包んだ若い令嬢だった。
その背後には、数人の取り巻き。
「ええ、そうですけれど」 「随分と、目立つことをなさっているようですわね」
微笑みは優雅だが、目は笑っていない。
「王宮という場所を、もう少しわきまえるべきではなくて?」 「ご忠告、ありがとうございます」
ルビーは立ち止まり、穏やかに微笑み返した。
「ですが、私――“わきまえた結果”、一度すべてを失っておりますの」
令嬢の表情が、一瞬だけ固まる。
「ですから今回は、わきまえませんわ」 「……っ」
「どうぞご安心なさって。
私は誰かの座を奪うために、ここにいるわけではありませんから」
そう言って、軽く一礼する。
「ただ、“求められた仕事”をしているだけですわ」
そして、何事もなかったかのように歩き去った。
その夜、王宮のあちこちで、同じ言葉が囁かれ始めていた。
――あの令嬢は、危険だ。
――だが、無視できない。
ルビー・エルヴェールは、まだ王妃候補でも、権力者でもない。
それでも――
王宮という盤上で、確かに“駒”ではなく“打ち手”として認識され始めていた。
そして、その変化を最も鋭く感じ取っていたのは――
「面白くなってきたな」
月明かりの差す執務室で、レオニードが静かに呟いた、その一言だった。
嵐の前触れは、すでに始まっている。
その日の夜、王宮はいつもと変わらぬ静けさに包まれていた――表向きは。
だが、実務棟の奥、貴族官僚たちが集う小広間では、ひそひそと低い声が交わされていた。
「聞いたか? あの元侯爵令嬢の話」 「ええ。南門の交易帳簿を一目で見抜いたとか」 「大げさだろう。女の勘、というやつではないのか?」
そう言って鼻で笑った男の声には、わずかな焦りが滲んでいた。
「だが、王太子殿下が直々に帳簿を預けたという話だ」 「……それが問題なのよ」
別の男が、杯を置いて低く呟く。
「あれは“花嫁候補”ではない。“使える頭脳”だ。
そして、そういう人間は――邪魔になる」
一方その頃、ルビーは与えられた私室で、静かに書類を整理していた。
机の上には、昼間に確認した帳簿の写しと、彼女自身が書き出した簡潔なメモ。
無駄はない。必要なことだけを、正確に。
(思ったよりも早いですわね)
今日一日で、王宮内の空気がわずかに変わったのを、彼女は肌で感じていた。
視線が増えた。
声が途切れる場面が増えた。
そして――“好奇心”とは別の感情が混じり始めている。
(嫉妬、警戒、恐れ……)
それらは、かつてベルヴェル王宮でも嫌というほど味わったものだ。
ルビーはペンを置き、静かに息を吐いた。
「……懐かしいですこと」
そう呟いた声には、皮肉よりも冷静さがあった。
そのとき、控えめなノックが響く。
「ルビー様、失礼いたします」
扉の向こうにいたのは、王妃付きの侍女だった。
「王妃様がお呼びです。今、お時間は――」 「ええ。すぐに参りますわ」
王妃カミラの私室は、柔らかな香りと落ち着いた光に満ちていた。
「今日の仕事、聞いているわ」
開口一番、王妃はそう言って微笑んだ。
「ずいぶんと思い切ったことをしたそうね」 「事実を申し上げただけですわ」 「それができる人間は、案外少ないものよ」
カミラは、紅茶を一口飲んでから続けた。
「すでに、宮廷の一部がざわつき始めているわ」 「……でしょうね」
ルビーは隠さず頷いた。
「怖くはない?」 「恐怖がないと言えば、嘘になります」
だが、と彼女ははっきりと言った。
「恐れて黙るほど、私はもう“守られる立場”ではありませんの」
王妃は、しばらくルビーを見つめていたが――やがて、満足そうに笑った。
「やはり、レオが見込んだ通りね」
その帰り道。
長い回廊を一人で歩いていると、前方から足音が聞こえた。
「……あなたが、ルビー・エルヴェール?」
声をかけてきたのは、華やかな衣装に身を包んだ若い令嬢だった。
その背後には、数人の取り巻き。
「ええ、そうですけれど」 「随分と、目立つことをなさっているようですわね」
微笑みは優雅だが、目は笑っていない。
「王宮という場所を、もう少しわきまえるべきではなくて?」 「ご忠告、ありがとうございます」
ルビーは立ち止まり、穏やかに微笑み返した。
「ですが、私――“わきまえた結果”、一度すべてを失っておりますの」
令嬢の表情が、一瞬だけ固まる。
「ですから今回は、わきまえませんわ」 「……っ」
「どうぞご安心なさって。
私は誰かの座を奪うために、ここにいるわけではありませんから」
そう言って、軽く一礼する。
「ただ、“求められた仕事”をしているだけですわ」
そして、何事もなかったかのように歩き去った。
その夜、王宮のあちこちで、同じ言葉が囁かれ始めていた。
――あの令嬢は、危険だ。
――だが、無視できない。
ルビー・エルヴェールは、まだ王妃候補でも、権力者でもない。
それでも――
王宮という盤上で、確かに“駒”ではなく“打ち手”として認識され始めていた。
そして、その変化を最も鋭く感じ取っていたのは――
「面白くなってきたな」
月明かりの差す執務室で、レオニードが静かに呟いた、その一言だった。
嵐の前触れは、すでに始まっている。
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