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第6話 最初に壊れたのは、数字だった
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第6話 最初に壊れたのは、数字だった
隣国に入って三日目の朝。
私は国境近くの街にある宿の一室で、窓を開けて外の様子を眺めていた。
石畳の通りを行き交う人々は忙しそうだが、王都のような張り詰めた空気はない。
商人は声を張り上げ、職人は工具を抱え、子どもたちは笑いながら走り回っている。
生きている街、という印象だった。
私は簡素な机に向かい、鞄から書類を取り出す。
王国を出る前に整理した控えの資料だ。
本来なら王宮に残してくるべきものだが、写しを取ること自体は禁じられていない。
もっとも、それが今後、どれほどの意味を持つかを、あの時点で誰も想像していなかっただろう。
「……やはり、数字は嘘をつきませんわね」
私は帳簿をめくりながら、静かに呟いた。
王国の財政は、表向きは安定していた。
だが実態は、綱渡りだった。
赤字部門を黒字部門で無理やり支え、問題が表に出ないよう調整していたにすぎない。
それを維持するために、私は毎月、細かな修正を重ねていた。
支出を削る場所。
先送りにできる計画。
逆に、今ここで投資しなければならない案件。
それらを把握し、ぎりぎりの均衡を保っていた。
つまり――
私が手を離した瞬間に、最初に崩れるのは、数字だった。
そして、その予感は、遠くないうちに現実になる。
その頃、王宮の財務局では、異様な緊張が漂っていた。
「……これは、おかしい」
財務局長が帳簿を睨みつけ、低く唸る。
「支出の増加幅が、想定を超えている。
しかも、どの部門も理由が説明できていない」
「各地の補助金が、予定より多く出ています」
「なぜだ。申請は通っていないはずだろう」
「形式上は……前年度と同じ扱いになっておりまして……」
言葉が途切れる。
それはつまり、誰も全体を把握していないということだった。
これまでは、最終段階で誰かが帳尻を合わせていた。
申請と実態のズレを調整し、無理が出ないよう微修正していた。
だが、その「誰か」は、もういない。
「エリシア様が……」
誰かが、言いかけて口を閉ざす。
財務局長は、重く息を吐いた。
「……彼女がやっていたのは、ここまでか」
その言葉に、誰も反論できなかった。
同じ頃、王太子レオナルトの執務室では、苛立ちが募っていた。
「だから、なぜこうなる!」
机を叩く音が響く。
「数字が合わないのは、そちらの管理が甘いからだろう!」
「殿下……以前は、最終調整が……」
「最終調整だと?
そんな曖昧なものに頼っていたのか!」
レオナルトは怒鳴りながらも、内心では違和感を覚えていた。
今まで、財務の話でここまで問題になったことはない。
多少のズレがあっても、会議が紛糾する前に解決していた。
それが、なぜ急に。
「……あの女がいなくなったからだと言いたいのか」
苛立ち混じりの呟きに、誰も答えない。
答えが、明白すぎたからだ。
一方、私は隣国の街で、別の帳簿を前にしていた。
宿の女将が持ってきた、街の商会の簡易収支表。
女将の弟が経営している商会が、最近、資金繰りに苦しんでいるという。
「少し、見てもよろしいですか」
「ええ、助言だけで構いませんから」
私は内容に目を通し、すぐに原因を見つけた。
「仕入れ先が一つに偏りすぎています。
価格交渉の余地がありません」
「……確かに」
「それから、この輸送費。
契約を見直せば、二割は削減できますわ」
女将は目を丸くした。
「そんなこと、考えたこともありませんでした」
「難しいことではありません。
数字を正しく見るだけです」
それだけの助言で、商会の未来は大きく変わる。
私は、改めて実感した。
自分がやってきたことは、特別な魔法ではない。
ただ、見て、考えて、整えていただけ。
それを理解し、評価してくれる場所でなら、私は役に立てる。
夕方、私は一通の返書を受け取った。
差出人は、カイル・ノルディック。
隣国の宰相補佐。
内容は簡潔だった。
「お会いしたい。
あなたの話を、直接聞きたい」
私は、静かに微笑んだ。
王宮では今、数字が合わず、責任の押し付け合いが始まっている。
それが、これから連鎖的に広がっていくことを、私は知っている。
だが、もう振り返らない。
私の前には、私を必要としてくれる場所がある。
最初に壊れたのは、数字だった。
それは、王国崩壊の、ほんの始まりにすぎない。
隣国に入って三日目の朝。
私は国境近くの街にある宿の一室で、窓を開けて外の様子を眺めていた。
石畳の通りを行き交う人々は忙しそうだが、王都のような張り詰めた空気はない。
商人は声を張り上げ、職人は工具を抱え、子どもたちは笑いながら走り回っている。
生きている街、という印象だった。
私は簡素な机に向かい、鞄から書類を取り出す。
王国を出る前に整理した控えの資料だ。
本来なら王宮に残してくるべきものだが、写しを取ること自体は禁じられていない。
もっとも、それが今後、どれほどの意味を持つかを、あの時点で誰も想像していなかっただろう。
「……やはり、数字は嘘をつきませんわね」
私は帳簿をめくりながら、静かに呟いた。
王国の財政は、表向きは安定していた。
だが実態は、綱渡りだった。
赤字部門を黒字部門で無理やり支え、問題が表に出ないよう調整していたにすぎない。
それを維持するために、私は毎月、細かな修正を重ねていた。
支出を削る場所。
先送りにできる計画。
逆に、今ここで投資しなければならない案件。
それらを把握し、ぎりぎりの均衡を保っていた。
つまり――
私が手を離した瞬間に、最初に崩れるのは、数字だった。
そして、その予感は、遠くないうちに現実になる。
その頃、王宮の財務局では、異様な緊張が漂っていた。
「……これは、おかしい」
財務局長が帳簿を睨みつけ、低く唸る。
「支出の増加幅が、想定を超えている。
しかも、どの部門も理由が説明できていない」
「各地の補助金が、予定より多く出ています」
「なぜだ。申請は通っていないはずだろう」
「形式上は……前年度と同じ扱いになっておりまして……」
言葉が途切れる。
それはつまり、誰も全体を把握していないということだった。
これまでは、最終段階で誰かが帳尻を合わせていた。
申請と実態のズレを調整し、無理が出ないよう微修正していた。
だが、その「誰か」は、もういない。
「エリシア様が……」
誰かが、言いかけて口を閉ざす。
財務局長は、重く息を吐いた。
「……彼女がやっていたのは、ここまでか」
その言葉に、誰も反論できなかった。
同じ頃、王太子レオナルトの執務室では、苛立ちが募っていた。
「だから、なぜこうなる!」
机を叩く音が響く。
「数字が合わないのは、そちらの管理が甘いからだろう!」
「殿下……以前は、最終調整が……」
「最終調整だと?
そんな曖昧なものに頼っていたのか!」
レオナルトは怒鳴りながらも、内心では違和感を覚えていた。
今まで、財務の話でここまで問題になったことはない。
多少のズレがあっても、会議が紛糾する前に解決していた。
それが、なぜ急に。
「……あの女がいなくなったからだと言いたいのか」
苛立ち混じりの呟きに、誰も答えない。
答えが、明白すぎたからだ。
一方、私は隣国の街で、別の帳簿を前にしていた。
宿の女将が持ってきた、街の商会の簡易収支表。
女将の弟が経営している商会が、最近、資金繰りに苦しんでいるという。
「少し、見てもよろしいですか」
「ええ、助言だけで構いませんから」
私は内容に目を通し、すぐに原因を見つけた。
「仕入れ先が一つに偏りすぎています。
価格交渉の余地がありません」
「……確かに」
「それから、この輸送費。
契約を見直せば、二割は削減できますわ」
女将は目を丸くした。
「そんなこと、考えたこともありませんでした」
「難しいことではありません。
数字を正しく見るだけです」
それだけの助言で、商会の未来は大きく変わる。
私は、改めて実感した。
自分がやってきたことは、特別な魔法ではない。
ただ、見て、考えて、整えていただけ。
それを理解し、評価してくれる場所でなら、私は役に立てる。
夕方、私は一通の返書を受け取った。
差出人は、カイル・ノルディック。
隣国の宰相補佐。
内容は簡潔だった。
「お会いしたい。
あなたの話を、直接聞きたい」
私は、静かに微笑んだ。
王宮では今、数字が合わず、責任の押し付け合いが始まっている。
それが、これから連鎖的に広がっていくことを、私は知っている。
だが、もう振り返らない。
私の前には、私を必要としてくれる場所がある。
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