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第一話 優しい姉は、何も言わない
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第一話 優しい姉は、何も言わない
「リュシエンヌ様、こちらの帳簿ですが……」
「ありがとう。こちらに置いてちょうだい」
静かな執務室に、紙の擦れる音が落ちる。
公爵家アルヴェールの屋敷は今日も華やかだ。
庭では次の舞踏会に向けた準備が進み、廊下には新しい花が飾られている。
――けれど、その中心にわたくしが立つことはない。
リュシエンヌ・アルヴェール。
公爵家の長女。王太子カイル殿下の婚約者。
そう呼ばれているけれど、わたくしがいるのはいつも“裏”だ。
「お姉様!」
ぱたぱたと軽い足音が響く。
振り向くまでもなくわかる。
義妹、セシリアだ。
淡い桃色のドレスに、きらきらと光る髪飾り。
笑えば周囲が明るくなるような、そんな子。
「お姉様、今度の舞踏会、カイル様と踊ってもよろしいかしら?」
無邪気な声。
「もちろんよ。殿下がお望みなら」
「本当? やっぱりお姉様は優しいわ!」
ぎゅっと腕に抱きつかれる。
その視線の奥に、ほんの一瞬だけ、勝ち誇った光が見えた気がした。
気のせい、よね。
「お姉様は地味ですもの。わたくしが少し華を添えて差し上げないと」
くすくすと笑う。
悪気はない。
……きっと。
「ええ、お願いするわ」
わたくしは微笑む。
いつものように。
---
その夜。
晩餐の席で、父と継母マルティナが楽しげに語っている。
「セシリアは社交界で評判だぞ」
「まあ、本当? さすが私の娘ね」
わたくしの話題は出ない。
慣れている。
「リュシエンヌ、お前ももう少し明るく振る舞え」
父が言う。
「はい」
返事は短く。
それだけ。
カイル殿下は華やかな女性が好きだと、何度も聞かされた。
「王太子妃に必要なのは、存在感だ」
殿下の言葉が思い出される。
存在感。
わたくしには、ないらしい。
---
数日後。
王宮の庭園。
「リュシエンヌ、君は本当に変わらないな」
カイルが言う。
金色の髪が陽光に輝いている。
「それは、良い意味でしょうか?」
「……悪くはない」
曖昧な笑み。
視線はわたくしではなく、少し離れた場所へ向いている。
そこにはセシリアがいる。
侍女たちと楽しげに笑い合い、風に揺れるドレスの裾を押さえている。
「殿下、セシリアが何か?」
「いや……ああいう明るさは悪くないと思ってな」
胸の奥が、わずかにきしむ。
でも顔には出さない。
「そうですか」
「君は真面目すぎる。王太子妃はもう少し華やかであってもいい」
「努力いたします」
そう言いながら、わかっている。
努力で変えられるものではないことを。
---
その日の帰り際。
廊下の影で、セシリアの声が聞こえた。
「カイル様、本当に素敵でしたわ」
甘えるような声。
「君は可愛いな、セシリア」
わたくしは立ち止まる。
足が、動かない。
「お姉様は……少し冷たいでしょう?」
「……そうだな。何を考えているのかわからない」
胸が、ひどく静かになる。
怒りも涙も出ない。
ただ、理解する。
ああ、そういうことなのだと。
わたくしは便利だった。
穏やかで、文句を言わず、家を支え、婚約者として問題も起こさない。
けれど――心は、選ばれていなかった。
---
夜。
机の上に広げられた帳簿。
取引先の一覧。
支払い予定。
公爵家の実務のほとんどは、わたくしが管理している。
父は知らない。
セシリアも知らない。
カイル殿下も、きっと知らない。
「地味、ですものね」
小さく呟く。
わたくしは華やかではない。
目立ちもしない。
けれど。
この家が滞りなく回っているのは、誰のおかげなのか。
その事実を、わたくしだけは知っている。
ペンを置く。
鏡に映る自分を見る。
「わたくしは、大丈夫」
そう言い聞かせる。
優しい姉でいればいい。
波風を立てなければいい。
それで、皆が幸せなら。
――本当に?
胸の奥に、初めて小さな違和感が芽生える。
もしも。
もしも、この優しさが踏みにじられたなら。
そのとき、わたくしはどうするのだろう。
窓の外で、風が鳴る。
嵐の前触れのように。
まだ誰も知らない。
この静かな夜が、
終わりの始まりであることを。
そしてわたくしが、
いつまでも“優しい姉”ではいられないことを。
「リュシエンヌ様、こちらの帳簿ですが……」
「ありがとう。こちらに置いてちょうだい」
静かな執務室に、紙の擦れる音が落ちる。
公爵家アルヴェールの屋敷は今日も華やかだ。
庭では次の舞踏会に向けた準備が進み、廊下には新しい花が飾られている。
――けれど、その中心にわたくしが立つことはない。
リュシエンヌ・アルヴェール。
公爵家の長女。王太子カイル殿下の婚約者。
そう呼ばれているけれど、わたくしがいるのはいつも“裏”だ。
「お姉様!」
ぱたぱたと軽い足音が響く。
振り向くまでもなくわかる。
義妹、セシリアだ。
淡い桃色のドレスに、きらきらと光る髪飾り。
笑えば周囲が明るくなるような、そんな子。
「お姉様、今度の舞踏会、カイル様と踊ってもよろしいかしら?」
無邪気な声。
「もちろんよ。殿下がお望みなら」
「本当? やっぱりお姉様は優しいわ!」
ぎゅっと腕に抱きつかれる。
その視線の奥に、ほんの一瞬だけ、勝ち誇った光が見えた気がした。
気のせい、よね。
「お姉様は地味ですもの。わたくしが少し華を添えて差し上げないと」
くすくすと笑う。
悪気はない。
……きっと。
「ええ、お願いするわ」
わたくしは微笑む。
いつものように。
---
その夜。
晩餐の席で、父と継母マルティナが楽しげに語っている。
「セシリアは社交界で評判だぞ」
「まあ、本当? さすが私の娘ね」
わたくしの話題は出ない。
慣れている。
「リュシエンヌ、お前ももう少し明るく振る舞え」
父が言う。
「はい」
返事は短く。
それだけ。
カイル殿下は華やかな女性が好きだと、何度も聞かされた。
「王太子妃に必要なのは、存在感だ」
殿下の言葉が思い出される。
存在感。
わたくしには、ないらしい。
---
数日後。
王宮の庭園。
「リュシエンヌ、君は本当に変わらないな」
カイルが言う。
金色の髪が陽光に輝いている。
「それは、良い意味でしょうか?」
「……悪くはない」
曖昧な笑み。
視線はわたくしではなく、少し離れた場所へ向いている。
そこにはセシリアがいる。
侍女たちと楽しげに笑い合い、風に揺れるドレスの裾を押さえている。
「殿下、セシリアが何か?」
「いや……ああいう明るさは悪くないと思ってな」
胸の奥が、わずかにきしむ。
でも顔には出さない。
「そうですか」
「君は真面目すぎる。王太子妃はもう少し華やかであってもいい」
「努力いたします」
そう言いながら、わかっている。
努力で変えられるものではないことを。
---
その日の帰り際。
廊下の影で、セシリアの声が聞こえた。
「カイル様、本当に素敵でしたわ」
甘えるような声。
「君は可愛いな、セシリア」
わたくしは立ち止まる。
足が、動かない。
「お姉様は……少し冷たいでしょう?」
「……そうだな。何を考えているのかわからない」
胸が、ひどく静かになる。
怒りも涙も出ない。
ただ、理解する。
ああ、そういうことなのだと。
わたくしは便利だった。
穏やかで、文句を言わず、家を支え、婚約者として問題も起こさない。
けれど――心は、選ばれていなかった。
---
夜。
机の上に広げられた帳簿。
取引先の一覧。
支払い予定。
公爵家の実務のほとんどは、わたくしが管理している。
父は知らない。
セシリアも知らない。
カイル殿下も、きっと知らない。
「地味、ですものね」
小さく呟く。
わたくしは華やかではない。
目立ちもしない。
けれど。
この家が滞りなく回っているのは、誰のおかげなのか。
その事実を、わたくしだけは知っている。
ペンを置く。
鏡に映る自分を見る。
「わたくしは、大丈夫」
そう言い聞かせる。
優しい姉でいればいい。
波風を立てなければいい。
それで、皆が幸せなら。
――本当に?
胸の奥に、初めて小さな違和感が芽生える。
もしも。
もしも、この優しさが踏みにじられたなら。
そのとき、わたくしはどうするのだろう。
窓の外で、風が鳴る。
嵐の前触れのように。
まだ誰も知らない。
この静かな夜が、
終わりの始まりであることを。
そしてわたくしが、
いつまでも“優しい姉”ではいられないことを。
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