『婚約破棄?結構ですわ。わたくしは何もしないで生きていきます』

鷹 綾

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第三十二話 残された仕事

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第三十二話 残された仕事

 朝、王宮に運び込まれた書類の山は、昨日より少し少なかった。量の問題ではない。流れが整理され始めている。その事実に、ユリウスは気づいていた。

 判断の前に、担当者同士で一度すり合わせる。結論が出なくても、論点は明確にする。そうした手順が、いつの間にか根づきつつある。誰かが指示したわけではない。必要に迫られて、自然にそうなっただけだ。

 会合では、いつもより発言が多かった。慎重な意見も、率直な異論も並ぶ。ユリウスはそれを遮らず、最後まで聞いた上で結論を示した。

「この案で進める。期限は短く設定する。結果を見て、必要なら修正する」

 完璧を目指さない代わりに、止まらない。残された仕事を、残された人間で引き受ける。その姿勢が、場の前提になってきている。

 一方、王宮の外では、新しい婚約者が支援先から届いた報告書を確認していた。数字は安定している。問題点も想定内だ。特別な指示は出さない。

 彼女は報告書を閉じ、机の引き出しにしまった。やるべき仕事は、もう残っていない。残しておくべき仕事が、残っているだけだ。

 続けるための余白。手を出しすぎないための線引き。その線があるから、関係は長く保てる。

 ヴァイセル公爵家では、昼下がりの静けさの中で、リュシエンヌが古い資料を整理していた。政務に直接関わるものではない。家に残された過去の記録だ。

 読み進めるうちに、彼女は気づく。かつて、自分が担っていた役割の一部は、書類の端々に残っている。だが、それは未完の仕事ではない。終わらせる必要のない、引き継がれた仕事だ。

 机の上に、処理すべき案件はない。だが、見るべきものはある。関わるべきものと、関わらなくていいもの。その区別が、以前より明確だった。

 侍女が声をかける。

「お嬢様、何かお手伝いを?」

 リュシエンヌは首を横に振った。

「今は大丈夫。これは、私が一人でやります」

 急ぎではない。だが、残しておきたい時間だった。

 夕方、王宮では一件の報告が回った。以前なら、彼女の判断を仰いだであろう案件が、現場判断で処理されたという。結果は悪くない。

 ユリウスは報告書を読み、短く言った。

「それでいい」

 評価は簡潔で、付け足しはない。戻す必要がないと分かっているからだ。

 夜、リュシエンヌは窓を開け、外の空気を吸い込む。遠くで街が動いている。自分の手の届かない場所で、確かに仕事が進んでいる。

 残された仕事は、残された人がやる。
 手放した仕事は、戻ってこない。

 そのどちらも、失敗ではない。

 彼女は窓を閉め、灯りを落とす。今日もまた、大きな成果はない。だが、余計な仕事を抱え込まなかったという確かな感覚が残っていた。

 残された仕事と、残さなかった仕事。その区別ができるようになったこと自体が、静かな前進だった。
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