婚約破棄されるはずでしたが、王太子の目の前で皇帝に攫われました』

鷹 綾

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第1話 婚約破棄宣言、その直前

第1話 婚約破棄宣言、その直前

 王城の大広間は、今宵も非の打ちどころのない華やかさに満ちていた。
 天井から吊るされた幾重ものシャンデリアが光を落とし、磨き上げられた大理石の床には、色とりどりのドレスと礼装が映り込んでいる。

 ――舞踏会。

 名目は、王太子主催の親睦の宴。
 けれど、この場に集められた貴族たちの多くは、別の目的を察していた。

 私は、ビアンキーナ・アヴェンタドール。
 五大公爵家のひとつ、アヴェンタドール家の令嬢であり――この国の王太子、ケーニグセグ殿下の婚約者だ。

(……来るわね)

 胸の奥で、静かにそう思う。
 ここ数か月、彼の態度は驚くほど分かりやすく変わっていた。

 視線を合わせない。
 会話を避ける。
 必要以上に距離を取る。

 まるで、私という存在そのものが、邪魔になったかのように。

 それでも私は、何事もないかのように微笑みを保っていた。
 公爵令嬢として、王太子の婚約者として――そう振る舞うことが「正解」だと、ずっと教えられてきたから。

 音楽が一区切りつき、会場の中央に人の輪ができる。
 その中心に立ったのは、ケーニグセグ王太子だった。

 金髪に整った容姿。
 王家の紋章をあしらった正装。
 誰の目にも、未来の王にふさわしい姿に映るだろう。

 周囲が静まり返る。

「皆、今宵は集まってくれて感謝する」

 よく通る声。
 人前に立つことに慣れた者の声音だった。

 私は彼の少し後ろ、半歩控えた位置に立つ。
 視線を伏せ、淑女らしく両手を前で組みながら、心の中で小さく息を吐いた。

(……この空気。やっぱり、そうよね)

 貴族たちの視線が、私に集まっている。
 好奇心、同情、そして――期待。

 婚約破棄。

 今夜、この場でそれが告げられる。
 そんな噂が、すでに社交界を巡っていることを、私は知っていた。

 ケーニグセグ殿下が、私の方へと向き直る。

「ビアンキーナ」

 名を呼ばれ、顔を上げる。
 完璧な微笑みを浮かべたまま、彼を見つめ返した。

「私は――」

 その言葉が、続くことはなかった。

 ――ざわり。

 会場の空気が、揺れた。

 音楽とは違う、奇妙なざわめき。
 誰かが息を呑み、誰かが小さく叫ぶ。

(……?)

 視線を巡らせた先、大広間の一角に――いつの間にか、一人の人物が立っていた。

 黒い仮面。
 濃色の外套。
 騎士の装い。

「なっ……誰だ、あれは!」

「どうやって潜り込んだ!?」

 警備の騎士たちが動こうとするが、判断が追いつかない。
 仮面の騎士は、混乱する会場を一切気に留めず、まっすぐこちらを見ていた。

 ――正確には、私を。

 その視線は冷静で、迷いがない。

(……え?)

 次の瞬間、仮面の騎士は人の輪を一息に抜け、私の前に立った。

「失礼」

 低い声。
 そして、ためらいなく伸ばされた腕。

「えっ――!?」

 気づいた時には、私は抱き上げられていた。
 床が遠ざかり、視界が揺れる。

「ビアンキーナ!」

 ケーニグセグ殿下の声が聞こえた。
 けれど――その声に、切迫した響きはなかった。

 仮面の騎士は踵を返し、出口へ向かう。

「止めろ!」
「何をしている!」

 叫び声が飛ぶ。
 けれど、誰も決定的に動けない。

 私は、反射的に叫んでいた。

「王太子殿下以外の誰かー! 助けてー!」

 大広間に、悲鳴が響き渡る。

 その声は、確かに彼の耳にも届いていたはずだった。
 だが――

 ケーニグセグ王太子は、一歩も動かなかった。

 ただ、歯を噛みしめ、吐き捨てるように呟く。

「……あの、くそ女」

 低く濁った声。
 そこに、婚約者を案じる色は一切なかった。

 その瞬間、
 彼は――すべてを失った。

 私は、そのまま会場から連れ去られた。
 呆然と立ち尽くす貴族たち。
 間抜けな沈黙。

 そして、何もできずにその場に残された王太子。

(……婚約破棄の言葉)

 最後まで聞かずに済んだことだけは、
 ほんの少しだけ、救いだったのかもしれない。


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