婚約破棄されるはずでしたが、王太子の目の前で皇帝に攫われました』

鷹 綾

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第8話「信じてほしい」と言われても

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第8話「信じてほしい」と言われても

 ルイーゼ・ハルヴァンは、鏡の前に立ち、胸元の飾りをそっと指で整えた。

 淡い色のドレス。
 派手さはないが、伯爵令嬢としては十分に整った装いだ。

(……これで、本当にいいのかしら)

 鏡に映る自分に問いかけても、答えは返ってこない。

 数日前、王太子ケーニグセグから正式に「婚約を前提にしたお付き合い」を打診された。
 それは、伯爵家にとっては身に余るほどの話だった。

 父は喜び、母は涙を浮かべた。
 親族も、使用人も、皆が口をそろえて言った。

「名誉なことだわ」
「あなたは運がいい」

 ――本当に、そうなのだろうか。

 胸に残る小さな違和感を、ルイーゼは振り払えずにいた。

 王城の回廊を歩きながら、彼女は周囲の視線を感じていた。
 好奇の目。
 探るような視線。
 そして、同情。

(……同情?)

 それが何より、胸に引っかかる。

 控えめな茶会の席で、令嬢たちのささやき声が耳に入る。

「……あの方が、新しい婚約者候補?」
「大丈夫なのかしら」
「だって、前の方を――」

 言葉は途中で切れたが、意味は十分すぎるほど伝わった。

 ルイーゼは、そっとカップを置く。

(皆、知っているのね)

 舞踏会で起きた出来事。
 婚約者だった公爵令嬢が、目の前で攫われたこと。
 そして――王太子が、助けようとしなかったこと。

 いや、それだけではない。

(……罵った、って)

 最初は、噂だと思っていた。
 悪意ある脚色だと。

 だが、同じ内容を、別々の場所で、別々の人間が口にする。

 それはもう、噂ではない。

 茶会が終わり、庭園を歩いていると、背後から声をかけられた。

「ルイーゼ嬢」

 振り返ると、ケーニグセグ王太子が立っていた。
 整った顔立ち。
 完璧な身なり。

 だが、どこか疲れたような目をしている。

「少し、話をしないか」

「……はい」

 断る理由はなかった。
 むしろ、聞きたいことがあった。

 人目の少ない回廊で、二人は向かい合う。

「最近、周囲が騒がしくてね」

 王太子は、苦笑いを浮かべた。

「君も、落ち着かないだろう」

「……少し、はい」

 正直な答えだった。

 王太子は、ルイーゼを見つめる。

「誤解されていることが多い」

 その言葉に、胸がざわついた。

「私は、冷酷な人間ではない」
「責任を放棄した覚えもない」

(……でも)

 ルイーゼは、言葉を飲み込む。

「君には、同じ思いをさせない」

 断言するように言われ、彼女は思わず問い返した。

「……殿下」

 声が、わずかに震える。

「“同じ思い”とは、どういう意味でしょうか」

 王太子の表情が、一瞬だけ硬くなった。

「……あの件は、特殊な状況だった」

 歯切れの悪い答え。

「予想外だった」
「判断が遅れただけだ」

 ルイーゼは、静かに首を振った。

「失礼ですが……」

 勇気を振り絞る。

「予想外の状況は、誰にでも起こると思います」

 王太子は、黙って聞いている。

「その時に、どう行動するかが……
 その人を表すのではありませんか?」

 空気が、張り詰めた。

 ルイーゼは、自分でも驚くほど冷静だった。

「もし、私が同じ立場に置かれたら」

 一呼吸置く。

「殿下は……私を守ってくださいますか?」

 王太子は、即答できなかった。

 ほんの数秒。
 だが、その沈黙は、十分すぎる答えだった。

(……やっぱり)

 胸の奥で、何かが静かに崩れる音がした。

「……信じてほしい」

 ようやく出てきた言葉。

 だが、それは――。

(根拠が、ない)

 ルイーゼは、ゆっくりと一歩下がった。

「殿下」

 声は、はっきりとしていた。

「申し訳ありません」

 王太子の目が、見開かれる。

「私は……
 あなたを信じることが、できません」

 その瞬間、王太子の顔から血の気が引いた。

「なぜだ……?」

 掠れた声。

 ルイーゼは、まっすぐに答えた。

「あなたは、“守れなかった”のではありません」

 そして、静かに言い切る。

「“守ろうとしなかった”」

 それは、責める口調ではなかった。
 ただの、事実の確認だった。

「……それ以上、お話しすることはありません」

 深く一礼し、ルイーゼは踵を返す。

 背後から、呼び止める声はなかった。

 回廊を歩きながら、彼女は静かに涙を拭った。

(……怖かった)

 けれど、同時に、安堵もしていた。

 自分の直感を、信じてよかったと。

 その夜、王城ではひそやかに噂が広がる。

 ――王太子、再び婚約失敗か。

 それは、もはや嘲笑ではなかった。

 ただの、評価だった。

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