婚約破棄されるはずでしたが、王太子の目の前で皇帝に攫われました』

鷹 綾

文字の大きさ
29 / 30

第29話 失われた選択肢

しおりを挟む
第29話 失われた選択肢

 人は、
 失ってからようやく気づく。

 ――自分には、もう何も残っていないのだと。

 王太子ケーニグセグは、
 その事実を、
 まだ完全には理解できていなかった。

 王城の執務室。
 かつては側近と書類で溢れていた机は、
 今や、
 驚くほど空いている。

 提出されるべき報告書は、来ない。
 助言も、忠告も、ない。

(……皆、忙しいだけだ)

 そう思おうとした。
 そう思わなければ、
 正気を保てなかった。

 扉がノックされる。

「……入れ」

 入ってきたのは、
 若い書記官だった。

 かつてなら、
 近づくことすら許されなかった存在。

「殿下。
 本日の予定について、ご報告を」

 淡々とした口調。

 書記官は、
 書類を読み上げる。

「北方鉱山領改革案、
 本日より第一段階を開始」

 ケーニグセグは、眉をひそめた。

「……なぜ、
 私に事前説明がない」

「説明は、
 必要とされておりません」

 その言葉が、
 胸に刺さる。

「……どういう意味だ」

 書記官は、
 一瞬だけ迷い、
 だが正確に答えた。

「本件は、
 皇帝陛下直轄案件です」

 それだけだった。

 かつては、
 “王太子案件”と呼ばれた改革。

 今は、
 彼の名前が、どこにもない。

「……もういい、下がれ」

 書記官は、
 一礼して去る。

 扉が閉まる音が、
 やけに大きく響いた。

(……無視されている?)

 いや、
 違う。

(……除外されている)

 その言葉が、
 ようやく、
 頭に浮かぶ。

 午後。

 ケーニグセグは、
 王城の回廊を歩いていた。

 すれ違う官僚たちは、
 礼はする。

 だが、
 それ以上でも、それ以下でもない。

 声をかけてこない。
 相談もしない。

 それは、
 敬意ではない。

 ――距離だ。

 回廊の先で、
 数人の貴族が話しているのが見えた。

 聞き覚えのある名前が、
 風に乗って届く。

「……制度監査補佐官がな」

「……ビアンキーナ様か」

 足が、止まる。

 無意識に、
 物陰に身を寄せていた。

「派閥に属さず、
 皇帝直結……
 怖い立場だ」

「敵に回す意味がない」

「……昔は、
 婚約者だったそうだが」

 軽く、
 乾いた笑い。

「今となっては、
 信じられんな」

 それ以上は、
 聞く必要がなかった。

(……名前すら、
 並べてもらえない)

 かつて、
 自分が切り捨てようとした相手。

 今は、
 触れてはいけない存在。

 部屋に戻ると、
 一通の書簡が届いていた。

 封は、
 王家のもの。

 差出人は、
 皇帝。

 手が、震えた。

(……呼び出し?
 それとも……)

 恐る恐る、開封する。

 中身は、
 短い。

 ――王太子権限の一部を、
 即時、凍結する。

 理由は、書かれていない。

 だが、
 十分すぎた。

「……っ!」

 書簡を、
 机に叩きつける。

(なぜだ!
 私は何もしていない!)

 そう叫びたかった。

 だが、
 心の奥で、
 別の声が囁く。

(……“何もしなかった”)

 舞踏会の日。

 悲鳴。

 ――王太子殿下以外の誰かー!
 助けてー!

 その声に、
 自分はどう応えた?

(……あの、くそ女)

 吐き捨てた言葉が、
 今になって、
 鮮明に蘇る。

(……違う、
 あれは……)

 言い訳は、
 すぐに崩れた。

 自分は、
 助けなかった。

 理由を考える前に、
 感情で切り捨てた。

 それだけのこと。

 夜。

 ケーニグセグは、
 一人で酒を飲んでいた。

 かつては、
 誰かが止めた。

 今は、
 誰もいない。

「……まだ、
 取り返せるはずだ」

 そう呟き、
 思いついたのは――
 一つだけの選択肢。

 ビアンキーナ。

(……謝罪だ)

 今なら、
 まだ間に合うかもしれない。

 そう思いたかった。

 だが、
 その考え自体が、
 遅すぎる。

 机の上に、
 新たな通達が置かれる。

 ――制度監査補佐官との、
 直接接触を禁ず。

 例外なし。

「……は?」

 声が、
 かすれる。

 つまり――
 会うことすら、許されない。

 その瞬間、
 ようやく理解した。

 自分は、
 もう選べない。

 選択肢は、
 他人に委ねられた。

 それは、
 罰ではない。

 ただの――
 結果だ。

 ケーニグセグは、
 椅子に深く沈み込んだ。

 怒りも、
 悔しさも、
 今は、意味がない。

 残っているのは、
 静かな空白。

 かつて、
 自分が軽んじた沈黙。

 それが今、
 彼自身を包んでいた。

 失われた選択肢は、
 戻らない。

 それを失った理由を、
 誰かに押し付けることも、
 もうできなかった。

 夜は、
 何も言わずに更けていく。


---

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~

由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。 両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。 そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。 王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。 ――彼が愛する女性を連れてくるまでは。

誰も愛してくれないと言ったのは、あなたでしょう?〜冷徹家臣と偽りの妻契約〜

山田空
恋愛
王国有数の名家に生まれたエルナは、 幼い頃から“家の役目”を果たすためだけに生きてきた。 父に褒められたことは一度もなく、 婚約者には「君に愛情などない」と言われ、 社交界では「冷たい令嬢」と噂され続けた。 ——ある夜。 唯一の味方だった侍女が「あなたのせいで」と呟いて去っていく。 心が折れかけていたその時、 父の側近であり冷徹で有名な青年・レオンが 淡々と告げた。 「エルナ様、家を出ましょう。  あなたはもう、これ以上傷つく必要がない」 突然の“駆け落ち”に見える提案。 だがその実態は—— 『他家からの縁談に対抗するための“偽装夫婦契約”。 期間は一年、互いに干渉しないこと』 はずだった。 しかし共に暮らし始めてすぐ、 レオンの態度は“契約の冷たさ”とは程遠くなる。 「……触れていいですか」 「無理をしないで。泣きたいなら泣きなさい」 「あなたを愛さないなど、できるはずがない」 彼の優しさは偽りか、それとも——。 一年後、契約の終わりが迫る頃、 エルナの前に姿を見せたのは かつて彼女を切り捨てた婚約者だった。 「戻ってきてくれ。  本当に愛していたのは……君だ」 愛を知らずに生きてきた令嬢が人生で初めて“選ぶ”物語。

【完結】気付けばいつも傍に貴方がいる

kana
恋愛
ベルティアーナ・ウォール公爵令嬢はレフタルド王国のラシード第一王子の婚約者候補だった。 いつも令嬢を隣に侍らす王子から『声も聞きたくない、顔も見たくない』と拒絶されるが、これ幸いと大喜びで婚約者候補を辞退した。 実はこれは二回目の人生だ。 回帰前のベルティアーナは第一王子の婚約者で、大人しく控えめ。常に貼り付けた笑みを浮かべて人の言いなりだった。 彼女は王太子になった第一王子の妃になってからも、弟のウィルダー以外の誰からも気にかけてもらえることなく公務と執務をするだけの都合のいいお飾りの妃だった。 そして白い結婚のまま約一年後に自ら命を絶った。 その理由と原因を知った人物が自分の命と引き換えにやり直しを望んだ結果、ベルティアーナの置かれていた環境が変わりることで彼女の性格までいい意味で変わることに⋯⋯ そんな彼女は家族全員で海を隔てた他国に移住する。 ※ 投稿する前に確認していますが誤字脱字の多い作者ですがよろしくお願いいたします。 ※ 設定ゆるゆるです。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

私のことを愛していなかった貴方へ

矢野りと
恋愛
婚約者の心には愛する女性がいた。 でも貴族の婚姻とは家と家を繋ぐのが目的だからそれも仕方がないことだと承知して婚姻を結んだ。私だって彼を愛して婚姻を結んだ訳ではないのだから。 でも穏やかな結婚生活が私と彼の間に愛を芽生えさせ、いつしか永遠の愛を誓うようになる。 だがそんな幸せな生活は突然終わりを告げてしまう。 夫のかつての想い人が現れてから私は彼の本心を知ってしまい…。 *設定はゆるいです。

【完結】好きでもない私とは婚約解消してください

里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。 そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。 婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。

処理中です...